サンアントニオ交響楽団

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サンアントニオ交響楽団、2007年9月

サンアントニオ交響楽団(San Antonio Symphony)は、テキサス州サンアントニオに本拠を置くオーケストラ。 毎年9月下旬から6月上旬までの周期で活動する。

活動の本拠は、サンアントニオのトービン・パフォーミング・アーツ・センターである。

サンアントニオ交響楽団の一部のメンバーは、との壮大なパフォーマンスの前にウォームアップサラ・チャンマジェスティック、2009年3月で。

サンアントニオにオーケストラの文化がもたらされたのは、1887年にドイツから移住してきたカール・ベックが、故郷で行われていた歌謡祭を現地で行おうと、49人編成のオーケストラを結成して4回のコンサートを開いたのが端緒である。 これらのコンサートで演奏されたフェリックス・メンデルスゾーン交響曲第4番は、テキサス州演奏された初めての交響曲の最初のものだった。 1896年に歌謡祭がサンアントニオに戻ったとき、ベックは再びオーケストラを指揮した。ベックは、サンアントニオのベートーヴェン男声合唱団の指揮を引き受け、1904年頃にはカール・ハーンに引き継がれた。 ハーンは、地元のパトロンだったアンナ・グッドマン・ヘルツバーグと協力してサンアントニオ交響楽団を設立し、1905年5月18日に最初のコンサートを行った。ただ、設立後しばらくは活動が低迷し、1914年にアーサー・クラッセンが指揮者として就任した際にサンアントニオ・フィルハーモニー管弦楽団(San Antonio Philharmonic)として再出発している。しかし1916年には、元のサンアントニオ交響楽団に名称を戻した。1918年にはジュリアン・ポール・ブリッツが音楽監督を務め、1920年代まで演奏活動をつづけたが、以降は低迷した。

1939年にサンアントニオ交響楽団は再結成され、音楽監督にはイタリア系ドイツ人のマックス・ライターが就任。前述の前任者から独立した現在のサンアントニオ交響楽団は、1939年にドイツ 人とイタリア人の移民であるマックス・ライターが最初の音楽監督になりました。結成時にはヤッシャ・ハイフェッツをゲスト・ソリストに呼んでいる。1943年までにオーケストラは75人のプロのミュージシャンを雇い、1944 – 1945年のシーズンに組織の予算は10万ドルを超え、テキサス州唯一のオーケストラ、アメリカ国内でも19の主要オーケストラの一角を担うまでになった。1950年にはオペラ・フェスティヴァルも開催し、アメリカ全土にその高い音楽的品質を世に知らしめるまでになった。

1950年末にライターが没すると、ヴィクター・アレッサンドロが後を継いだ。アレッサンドロは従来のコンサートに加え、ヤング・ピープルズ・コンサートの企画も立ち上げている。1969年からパフォーミング・アーツ・シアター(後にライラ・コックレル劇場に改名)を活動の本拠とした。

1987 から翌年にかけて、オーケストラは経済的困難に直面して多くの演奏会をキャンセルしている。2003年には経営破綻により、同様に演奏会のキャンセルが相次いだ。

1990年代には全米芸術基金、アメリカ交響楽団リーグ、米国作曲家作詞家出版者協会やナイト基金などから表彰される栄華を味わった。

度重なる経済的困難をきっかけに、演奏会の回数や楽員を減らして演奏活動を継続しているが、芸術的評価は落ちていない。

2006年から2007年のシーズンのはじめに、CEOのデヴィッド・グリーンと執行委員会は、翌シーズン以降、音楽監督のラリー・ラクレフとの契約を打ち切る決定を下した。この決定は団員や支持者の反対にあったが、暫定的にクリストファー・シーマンを音楽監督と同様の権限を持つ音楽顧問に任命して問題打開した。 [1] セバスチャン・ラング・レッシングは、2010年10月2日のコンサートで71年でオーケストラの8番目の音楽監督になった。

1939年から2017年まで、サンアントニオ交響楽協会はサンアントニオ交響楽団の運営を管理していた。 2017年、非営利団体であるシンフォニック・ミュージック・フォー・サンアントニオ(SMSA)に業務が移管された。 [2] [3] SMSAは、2017年12月にこの契約を撤回し、組織を劣悪な立場に置き、2018年1月に、交響曲の残りの2017-18シーズンの大半がキャンセルされると発表した。 [4] キャスリーン・ウィアー・ヴェイルが率いる資金調達活動の助けを借りて、2017-18シーズンの残りは救われ、サンアントニオ交響楽協会が再び運営を管理することとなった。 [5]

歴代音楽監督[編集]

1939–1950 マックス・ライター (1905年10月20日 トリエステ1950年12月13日 サンアントニオ)
1950–1976 ヴィクター・アレッサンドロ (1915年11月27日 ウェーコ1978年11月27日 サンアントニオ)
1978–1980 フランソワ・ユイブレシュト (1946年6月15日 – )
1980–1985 ローレンス・レイトン・スミス (1936年4月8日 オレゴン州ポートランド2013年10月25日 コロラドスプリングズ)
1992–2000 クリストファー・ウィルキンス (born 28 May 1957 – ) — ウィルキンスは1990年から「音楽監督内定」のタイトルで1992年まで指揮台に立ち、1992年以降のウィルキンスの音楽監督時代には、レジデンス・イン・コンポザーとしてロバート・クサヴァー・ロドリゲスを任命していた。
2004–2008 ラリー・ラクレフ (1955年2月25日 – ) — 元々は打楽器専攻。コネチカット大学で打楽器を学び、1978年に打楽器の修士号を取得。さらにミシガン大学に行き、1979年に指揮法の修士号も取得した。その後は、ライス大学、オバーリン音楽院、テキサス大学、USCソーントン音楽学校等で教鞭をとった。[6][7][8]
2010–present セバスチャン・ラング=レッシング (1966年 – )
Notes: シクステン・エールリンク (1918年4月3日 マルメ2005年2月13日 ニューヨーク市) and クリストファー・シーマン (1942年3月7日 フェイバーシャム) が音楽顧問、 ズデニェク・マーカル (1936年1月8日 ブルノ) が芸術監督及び首席指揮者ろして在任した時期がある。

[編集]

  1. ^ "S.A. Symphony taps New York conductor" by Jennifer Roolf Laster, San Antonio Express-News, 24 January 2008 (link [リンク切れ]).
  2. ^ H-E-B helps found new nonprofit to take over San Antonio Symphony by David Hendricks. San Antonio Express-News, 19 Jul 2017. Retrieved 2017-07-19.
  3. ^ Former Express-News Publisher to Head New Symphony Organization. Rivard Report, 7 Aug 2017. Retrieved 2017-11-17.
  4. ^ SA Symphony to Suspend Remainder of Season After This Weekend’s Concerts by Nicholas Frank. Rivard Report, 3 Jan 2018, Retrieved 2018-01-04.
  5. ^ Kathleen Weir Vale by Jasmina Wellinghoff. San Antonio Woman, Sept/Oct 18. Retrieved 2018-09-24.
  6. ^ Rachleff Mixes Conducting And Teaching Career, The Day (New London), March 29, 1998, pg. A6
  7. ^ International Who's Who in Music and Musicians' Directory (10th ed.) ("Rachleff, Larry"), Ernest Kay (ed.), International Who's Who in Music (1984); ISSN 0307-2894
  8. ^ "Larry Rachleff," Marquis Who's Who; OCLC 4779711360

参考資料[編集]

外部リンク[編集]