フランツ・コンヴィチュニー

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フランツ・コンヴィチュニー
Franz Konwitschny
Bundesarchiv Bild 183-41810-0001, Franz Konwitschny.jpg
基本情報
出生 1901年8月14日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国
フルネク英語版ドイツ語版チェコ語版
死没 1962年7月28日(満60歳没)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ベオグラード
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者ヴィオリスト
担当楽器 ヴィオラ

フランツ・コンヴィチュニーFranz Konwitschny, 1901年8月14日フルネク英語版ドイツ語版チェコ語版 - 1962年7月28日 ベオグラード)は、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のモラヴィア北部のフルネクに生まれ、ドイツザクセンバーデン)、冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動した指揮者。著名なオペラ演出家ベルリン芸術アカデミー会員のペーター・コンヴィチュニー英語版ドイツ語版は息子である。ペーターはドイツの伝統的な響きを守った父とは逆に、ブレヒト異化効果の理論の影響を受けた挑発的な演出で知られる。2歳のとき父フランツに無理やり歌劇場に連れられて、それ以降オペラに親しみ、家にはダヴィッド・オイストラフらも遊びきたので父の跡を継ぎ指揮者になることを望んだが、周囲に反対され、物理学を学んだあと演出の道に進んだという。スコアの隅々まで熟知していて、身振り手振り豊かに、場合によってタクトをもって演技指導する演出家としても知られている。

略歴[編集]

音楽家の一家に生まれる。チェコスロバキア共和国時代の1920年から1923年までブルノの楽友協会音楽院でヴァイオリンのレッスンを受け、1923年から1925年までライプツィヒ音楽院に在学した。この時代、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ヴィオラ奏者として活動を開始した。

フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、コンヴィチュニーはいつしか自らも指揮者になることを決意する。1927年シュトゥットガルト歌劇場に加わり、練習指揮者を始める。3年後には首席指揮者となる。その後、ヴロツワフフランクフルトなどの各地の歌劇場を歴任する。

戦後、1949年から没年まで、ゲヴァントハウス管弦楽団に戻って首席指揮者を務めた。1953年から1955年までシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務し、1955年以降はベルリン国立歌劇場の首席指揮者も務めた。

1961年4月にゲヴァントハウス管弦楽団が初来日した時の指揮者でもある。大阪市フェスティバルホール大阪国際フェスティバルに参加)、東京都日比谷公会堂のそれぞれでベートーヴェン交響曲全曲演奏(チクルス)そのほかの演奏を行っている。二大都市ばかりでなく福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)の八幡市民会館愛知県名古屋市名古屋市公会堂福島県郡山市の郡山市民会館でベートーヴェンの交響曲第5番第6番などの演奏を行っている。

1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。なお、東ドイツ政府は飛行機で帰国した偉大なマエストロの亡骸を国葬でもって弔った。ザクセン地方ではカトリックは少数派であるが、彼は信心深いカトリック教徒であったといわれている。

コンヴィチュニーは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)として長期にわたり終生、楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。彼の棒裁きは、彼が師と仰ぎ間近で接したフルトヴェングラー同様、正確なリズムを刻むことを嫌い、そこから解き放たれた曲の本質を表した身振りで団員の主体性を引き出すものであったといわれ[要出典]、このことは残された数少ない、短時間の動画像からも窺い知れる[1]


レパートリー[編集]

得意とするレパートリーは、ベートーヴェンシューマンブルックナー交響曲のほか、リヒャルト・シュトラウスマックス・レーガー管弦楽曲ワーグナーオペラであった。なかでもベートーヴェンやシューマン、レーガーの録音は、現在でも評価が高い。

逸話[編集]

  • 過度の飲酒癖から「コン・ウィスキー」という渾名を付けられた[2]。緊張する質で、コンサートの前に軽く飲んでから指揮に臨むこともよくあったと伝えられている。もっとも渾名の付いたきっかけは『トリスタンとイゾルデ』の公演に、シャンペンを6瓶も飲み干してから臨んだときからであって、ウイスキーではなくワインである。
  • ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフとの相性が良い。双方ともヴィオラ奏者から転じたためであるといわれている。息子ペーター・コンヴィチュニーにいわせるとオイストラフとは家族ぐるみの親交があった。
  • レナード・バーンスタインニューヨーク・フィルハーモニックもまた1961年4月に来日しており、4月26日、4月27日はどちらも東京で公演を行っている。なお、コンヴィチュニー/LGOの東京公演は社会主義国のオケの朝日新聞社主催公演だったこともあって、公演失敗を画策した右翼団体が席を買い占め、ホールは閑散としていたという説もあるが、一方で、コンヴィチュニー/LGO人気の煽りでバーンスタイン/NYPに空席が目立ったという説もあり、実情はいまやはっきりしない。[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 大阪公演のYouTube画像
  2. ^ Why conducting is a health hazard - The Lebrecht Report