アントン・ブルックナー

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アントン・ブルックナー
Anton Bruckner
Anton Bruckner.jpg
基本情報
生誕 1824年9月4日
出身地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 アンスフェルデンドイツ語版英語版
死没 (1896-10-11) 1896年10月11日(72歳没)
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家

ヨーゼフ・アントン・ブルックナーJoseph[1] Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリア作曲家オルガニスト交響曲宗教音楽の大家として知られる。

人物・経歴[編集]

1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村アンスフェルデンドイツ語版英語版で生まれた。この年はベートーヴェン交響曲第9番を、シューベルト弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』を書いた年である。しかしながら同じオーストリア帝国とはいえ、アンスフェルデンのブルックナー少年の生活は首都ウィーンの華やかな音楽史とは無関係なものであった。幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。11歳になる1835年の春にブルックナーの名付け親で、同じくリンツ近郊の村であるヘルシングのオルガニストだったヨハン・バプティスト・ヴァイス(Johann Baptist Weiß)のもとに預けられ、ここで本格的な音楽教育を受け、通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。またこの時期にハイドンの『天地創造』『四季』、モーツァルトのミサ曲などを聴く機会を持つ[2]。12歳で父を亡くしたブルックナーは、ザンクト・フローリアン修道院ドイツ語版英語版の聖歌隊に入った。オーストリアの豊かな自然と、荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは、音楽家としてのブルックナーの心の故郷になった[2]

1840年、16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通った。小学校の補助教員免許を取得すると、翌1841年10月、ヴィントハークドイツ語版英語版というボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。ここでは授業のほかに、教会でのオルガニストや、畑仕事を手伝うかたわら、農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏するなどしていた。またこの時期バッハの『フーガの技法』を研究した。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる[2]。その後ジーモン・ゼヒター和声法対位法を、オットー・キッツラードイツ語版に管弦楽法を学んだ。

1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒し、研究するようになる。さらに1866年ウィーンで聴いたベートーヴェンの『交響曲第9番』にも強い影響を受けた。この時期のブルックナーの習作は、「キッツラーの練習帳」にまとめられている。

1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院教授に就任。以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品には『ヘ短調交響曲』(1863年)『交響曲第0番』(1869年)『交響曲第1番ハ短調』(1866年)『交響曲第2番ハ短調』(1872年)がある。

ブルックナーは1873年にリヒャルト・ワーグナーと会見する機会を得た。この際に『交響曲第3番ニ短調』を献呈し、ワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、批判を浴びせられ続けることになった。この時期に『交響曲第4番変ホ長調』(1874年)『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)を作曲する。

1875年からウィーン大学で音楽理論の講義を始めた。1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席し、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意。いわゆる「第1次改訂の波」が起こり、交響曲第1〜5番が大幅に改訂された。しかし1877年の交響曲第3番の初演は失敗し、ブルックナーは落胆した。またこの頃、若きマーラーがウィーン大学のブルックナーの講義に訪れている。

1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作には『交響曲第6番イ長調』(1881年)『交響曲第7番ホ長調』(1883年)『テ・デウム』(1881年)『弦楽五重奏曲ヘ長調』(1879年)がある。なかでも『交響曲第7番』と『テ・デウム』は成功し、一気にブルックナーの名を知らしめることになった。

1884年からは交響曲第8番ハ短調の作曲に集中する。1887年に一旦完成し、芸術上の父と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が来た。弟子たちもこの作品を理解できず、落胆したブルックナーは再び自らの作品を改訂する。いわゆる「第2次改訂の波」である。これにより交響曲第1、2、3、4、8番が改訂された。結局、1892年の第8番の初演は成功した。

晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。この時期には『交響曲第9番ニ短調』(未完成)や『ヘルゴラント』(1893年)、詩篇150篇(1892年)が作曲されている。ブルックナーは1896年10月11日、ウィーンで72年の生涯を閉じた。生涯を通じて非常に敬虔なローマ・カトリック教徒であった。また、晩年に至るまで多くの女性に求婚したが、結婚することはなかった。

ザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下にブルックナーの棺が安置されている。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿の敷地内にある宮殿脇の平家は、晩年に皇帝から賜与されて居住し、『交響曲第9番』を作曲し死去した家であり、現在は記念碑がある。

余談だが、1950年に発行された1000オーストリア・シリング紙幣と1962年に発行された25オーストリア・シリング硬貨に肖像が使用されていた。

作品[編集]

ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。また、作品カタログがレナート・グラスベルガーによって編集されている。

主要作品[編集]

交響曲と合唱曲が特に力を注いだ分野であり、その他の分野でも『弦楽五重奏曲』が傑作として知られる。さらにそれ以外のジャンルの曲もいくつかある。

交響曲[編集]

ヘ短調交響曲はブルックナーが第1番から始まる通し番号を与えなかった作品。交響曲第0番は後年に破棄するにしのびないと感じた彼が故意に「第0番」としたもので、実際は第1番の作曲後に手がけられている。交響曲第9番は未完成作品である。

以上の他に、1869年に着手したものの完成されなかった交響曲変ロ長調の存在が確認されている。スケッチの断片のみ残されており、こちらのサイト[1]で楽譜と音源が紹介されている。

合唱曲[編集]

ブルックナーは敬虔なカトリック教徒であり、多くの宗教曲を残している。この中には『ミサ曲第1番ニ短調英語版』『第2番ホ短調』『ミサ曲第3番ヘ短調英語版』、『ミサ・ソレムニス変ロ長調』や『レクイエムニ短調』、『テ・デウム』などの管弦楽を伴う大規模なものも含まれ、とりわけ『テ・デウム』は古今の宗教音楽作品の中でも、傑作の1つとされている。また、いくつかの詩篇にも作曲を施している。

モテットには『アヴェ・マリア』『これこそ大祭司なり』『この場所は神が作り給いぬ』『エサイの枝は芽を出し』『王の御旗は翻る』などが残されており、ドイツのプロやアマチュア合唱団などでは頻繁に歌われ、ポザウネンコアへの編曲まで教会でも盛んに演奏されている。

またブルックナーは若い頃から、男声カルテットを組織するほどの男声合唱好きであり、晩年までに40曲ほどの男声重唱および合唱曲を残した。男声合唱と金管楽器のための『ゲルマン人の行進』は、彼の最初の出版作品であり、また、最後の完成作品となった『ヘルゴラント』も、男声合唱とオーケストラのための作品である。

室内楽[編集]

室内楽の分野では、『弦楽五重奏曲ヘ長調』が傑作として知られる。1906年には、習作としての『弦楽四重奏曲ハ短調』が発見された。

このほか、トロンボーンアンサンブルのために『エクアール』と題する短い作品が残されており、この楽器のレパートリーとして重宝されている。

管弦楽曲・吹奏楽曲[編集]

交響曲以外の管弦楽曲として、『序曲ト短調』『3つの管弦楽小品』『行進曲ニ短調』があり、吹奏楽曲として、『行進曲変ホ長調』がある。このほか、『アポロ行進曲』がブルックナーの作品として扱われたこともあった(現在では、他人の作品が取り違えられたものと断定されている)。

その他[編集]

以上のほか、オルガン独奏曲、ピアノ独奏曲、若干の歌曲が残されている。オペラ作品が残されていないのが、この作曲家の質の一つを反映している。

音楽の特徴・傾向[編集]

管弦楽編成[編集]

交響曲におけるオーケストラの編成は、ヘ短調から第7番までは一般的な2管編成を基本として書かれている。ただし第3番以降はトランペットが3本になり、第5番以降(第4番第2稿含む)にはチューバが加わり、第7番にはさらに4本のワーグナー・チューバが加わる。第8番は交響曲の中で唯一ハープを用い、第1稿では1〜3楽章まで2管編成、第4楽章のみ3管編成、ホルン4、ワーグナー・チューバ4だったが、第2稿への改訂の際に全楽章が3管編成、ホルン8(このうち4本はワーグナー・チューバ持ち替え)となった。未完の9番においても、(ハープは用いていないが)3管編成を踏襲している。

書法[編集]

特に交響曲において、以下のような書法が特徴として指摘されている。

  • ブルックナー開始
    第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られる。
  • ブルックナー休止
    楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法。
  • ブルックナー・ユニゾン
    オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる
  • ブルックナー・リズム
    (2+3) によるリズム[サンプルmidiファイル]。第4、6番で特徴的である。(3+2) [サンプルmidiファイル]になることもある。初期の稿では5連符として書かれていたものが、改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられている例も見られ、金子建志はこれを演奏を容易にするための改変だったのではないかとしている[3]
  • ブルックナー・ゼクエンツ
    ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られる。
  • コーダと終止
    コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。
  • 和声
    ブルックナーの和声法で、響きが濁るので従来多くの作曲家が避けた技法。例えば根音Gとした場合、根音Gに対して、属9の和音以上に現れる9の音のA♭が半音違いで鳴ること、属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、13の和音においてDとE♭が半音違いで鳴ること。もう一つは対位法の場面で現れ、対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。従って和声学上の対斜とは意味が異なるが、バルトークブルーノート風の半音のぶつかりも「対斜」とされているので、ここでは「ブルックナー対斜」と読んでも差し支えない。
    またワーグナートリスタン和音がそのまま使われていることがある。和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多い。和音の機能をはっきりさせるために同楽器の密集配置がほとんどで、これが後期ロマン派の香りを引き立たせる大きな要因である。

音楽史の中の位置づけ[編集]

一般的には後期ロマン派に位置づけられる。作曲技法的にはベートーヴェンシューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではワーグナーの影響を受けていると言われる。そしてグスタフ・マーラーフランツ・シュミットなどに影響を与えたほか、ハンス・ロットの才能をいち早く見出した。

一方、後期ロマン派の中での特異性も指摘されている。一つは、オペラ文学との接点の少なさであり、これは彼の作品にオペラが残されていないことや、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』に対する無理解にもとづく感想(「何故ブリュンヒルデが焼き殺されたのか?」と述べたと伝えられている。実際の内容は、身を守るために周囲を炎で覆わせるのであり、焼き殺される訳ではない)からも推察されるものである。もう一つは、作曲書法の随所でオルガン奏者の発想を感じさせることである。

ブルックナーの音楽はオーストリア的であり、大ドイツ主義の範疇でのドイツ的なローカル性を持っている。ブルックナー指揮者のカール・ベームも、著書でブルックナーの交響曲に必要な「オルガン的発想」と「オーストリア情緒」を指摘している。そのため、20世紀前半まではドイツ語圏でしか評価されなかった。

同時代の作曲家の中では、ドイツ語圏以外の諸国でも早くから受け入れられたヨハネス・ブラームスと対立する存在としばしば捉えられる。

交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点でマーラーとしばしば比較される。

版問題について[編集]

ブルックナーの作品、特に交響曲においては、同じ作品に複数の異なる版・稿が存在する。これを「版問題」と総称することがある。

背景[編集]

一つめの背景は、ブルックナー自身による改訂である。ブルックナーは作品を完成させてからも、さまざまな理由で手を加えることが多かった。ここには、小規模な加筆もあれば、大規模な変更もある。

二つ目の背景は、弟子の関与である。ブルックナーの作品は出版されるに際し、弟子たちの手が加わることも多かった。その規模は楽曲によって異なり、細かな校訂レベルのものから、大きなものまである。のちに校訂・出版される「原典版」において、弟子たちの関与部分が明らかにされ、除かれてきた。

三つ目の背景は、国際ブルックナー協会による原典版校訂作業を、当初ハースが行っていたが、戦後ノヴァークに変わったことである。ノヴァークはハースの校訂態度を一部批判し、校訂をすべてやり直した。このため、「ハース版」「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することになった。

初版群[編集]

はじめて出版された譜面を「初版」と総称している。総じて弟子(シャルク兄弟フェルディナント・レーヴェなど)の校訂または改訂が加わっており、「改訂版」とも称される。特にブルックナーの没後に出版された交響曲第5番・第9番が大きく改訂されている。近年では、これまでの除去に対する見直しや、再評価の動きもある。

第1次全集版(ハース版など)[編集]

初版に含まれる弟子たちの関与を除くために、国際ブルックナー協会は、ロベルト・ハースなどにより、譜面を校訂、「原典版」として出版し続け、一定の成果をあげた。これらを「第1次全集版」または「ハース版」と称している。

しかし第2次世界大戦後、ハースはナチス・ドイツとの協力関係から、国際ブルックナー協会を追放された。この時点で、校訂されていない曲も多数残った。特に交響曲第3番はハース版が未出版のまま終わっている。後にハースの意志を継いだ弟子たちの手によってエーザー版が出版された。ノヴァーク版が出版されるまで、交響曲第3番ではこのエーザー版を使用することが一般的だった。

第2次全集版(ノヴァーク版など)[編集]

第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせた。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指したとされる。ハースが既に校訂した曲もすべて校訂をやりなおし、あらためて出版した。これらを「第2次全集版」または「ノヴァーク版」と称している。交響曲第3番、第4番、第8番については早くから、改訂前後の譜面が別々に校訂・出版されており(第3番は3種)、その部分においてはハース版の問題点は解消されている。これらは区別のために「第1稿」「第2稿」あるいは「〜年稿」などと呼ばれる。

ノヴァークに少し遅れてハンス・フーベルト・シェーンツェラー(Hans-Hubert Schönzeler)が第5番と第9番の校訂版をオイレンブルク社から出したが、全集にはなっていない。

ノーヴァクの作業は1990年以降は次の世代にあたるウィリアム・キャラガンベンヤミン=グンナー・コールス英語版ドイツ語版、ベンヤミン・コーストヴェット(Benjamin Korstvedt)などに引き継がれ、現在に至るまで、校訂譜や異稿が出版されている。

国際ブルックナー協会による譜面はウィーンMusikwissenschaftlichen Verlagから出版されている。

ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者[編集]

ブルックナーの交響曲は欧米、特にドイツ圏で人気が高く、若い指揮者が積極的に演奏会・録音に取り上げることが多い。一方で、過去の名指揮者による演奏も繰り返しCDとして発売され、広く聴かれている。日本でもブルックナーのファンは多く、演奏機会には比較的恵まれている。ちなみにブルックナーはウィーンのオーケストラの響きを前提に作曲しており、ウィーン・フィルなどの演奏こそが最もオリジナルとも言われている。ただし、ゲオルク・ティントナーが登場するまではウィーン出身指揮者によるブルックナー録音は稀少で(クリップス、ラインスドルフが僅かなライブ録音を残している)、むしろそれまではオイゲン・ヨッフムクルト・アイヒホルンヴォルフガング・サヴァリッシュらミュンヘン出身者が目立っていた。また、ウィーン・フィルは2018年に至るまで単独指揮者によるブルックナー交響曲全集を録音していない。

古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーハンス・クナッパーツブッシュなどが録音しており、これらのCDは今なお広く聴かれている。とりわけ原典版出版後も改訂版を使用し続けたクナッパーツブッシュの録音は、第一級の指揮者・オーケストラによる改訂版の演奏記録としても貴重なものである。

ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、このうちの第4番と第5番が1936年カール・ベームによって世界初録音された。

ブルックナーの交響曲の最初の全集録音は、1953年、フォルクマール・アンドレーエ指揮、ウィーン交響楽団によるものだった[4]。ステレオ録音による全集は国際ブルックナー協会の会長も務めたオイゲン・ヨッフムが最初である(演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及びバイエルン放送交響楽団)。ヨッフムはのちにシュターツカペレ・ドレスデンとも別の全集録音を行っている。ヘルベルト・フォン・カラヤンゲオルク・ショルティベルナルト・ハイティンクなどの指揮者も全集を完成させている。ただし、ヨッフムを始めとして第0番を録音していない指揮者も多い。また、初期の習作は収録している全集のほうが少ない。

近年の指揮者の中では、ゲオルク・ティントナーフランツ・シャルクを通じてブルックナーの孫弟子だった)、カール・ベーム、フランツ・コンヴィチュニー、オイゲン・ヨッフム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァントセルジュ・チェリビダッケスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテットエリアフ・インバルニコラウス・アーノンクールカルロ・マリア・ジュリーニダニエル・バレンボイムクリスティアン・ティーレマンフランツ・ウェルザー=メスト朝比奈隆などが多く演奏・録音を行っている。

全集録音を行った指揮者の中には、版・稿の問題にこだわった指揮者もいる。たとえばエリアフ・インバルは、ノヴァーク版の第1稿にもとづく第3、第4、第8交響曲を世界初録音している。ゲオルク・ティントナーは、第1番の未出版の1866年稿をいちはやく紹介したほか、第2番・第3番・第8番の第1稿を録音した。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(旧ソビエト連邦)はかつて、すべての稿の網羅を目指した全集を録音しており、これは同じ番号の交響曲の複数の稿を、一人の指揮者・一つのオーケストラで聴き比べることの出来る初の試みだった。この中で、グスタフ・マーラーが編曲した交響曲第4番も録音され、特に注目を集めた。しかしソビエト連邦崩壊などの事情により、当時出版されていた稿の内、第8番の第1稿が録音されないまま、この試みは中断した。

日本においてはクラウス・プリングスハイムの指揮により東京音楽学校にて1936年2月15日交響曲第9番の日本初演が行われたが、当時はまだ広く演奏し親しまれていたわけではない。金子建志によると、1959年にカラヤン=ウィーン・フィルの来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、「『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でモーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった」という逸話もあったという[5]。その後、日本人指揮者では朝比奈隆が1970年代にブルックナー交響曲全集を録音した他、その後もブルックナーを数多く指揮した。

ブルックナーの交響曲をオルガン独奏に編曲する試みもいくつかなされている。エルンスト=エーリヒ・シュテンダー(独語版)(交響曲第3番・第7番)、トーマス・シュメーグナー(Thomas Schmögner)(第4番)、クラウス・ウーヴェ・ルートヴィヒ(独語版)(第7番)、リオネル・ロッグ(英語版)(第8番)などの録音がある。

脚注[編集]

  1. ^ Viktor Müller: Anton Bruckner, das verkannte Genie: Biographie, p.15, Verlag Denkmayr, 1996.
  2. ^ a b c 「作曲家別名曲解説ライブラリー(5)ブルックナー」音楽之友社(1993年3月10日)
  3. ^ 金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析・ブルックナーの交響曲』音楽之友社、1994年、ISBN 4-276-13071-9 125頁。
  4. ^ HMV ONLINEの商品紹介ページ
  5. ^ 金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析・ブルックナーの交響曲』音楽之友社、1994年、169頁。

メディア[編集]

参考文献[編集]

  • ブルックナーのミサ曲・宗教音楽・管弦楽曲・器楽曲・交響曲全集のスコア(初版、ハース版、ノヴァーク版)とピアノ譜(2手版、4手版)。
  • エルネ・レンドヴァイ 『バルトークの作曲技法』 谷本一之訳、全音楽譜出版社、1978年。ISBN 4-11-800080-6
  • 「作曲家別名曲解説ライブラリー 5 ブルックナー」 音楽之友社、1993年。 ISBN 4276010454
  • ポケットスコア ブルックナー交響曲第1〜9番 音楽友之社(一部廃刊)
  • 金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析・ブルックナーの交響曲』音楽之友社、1994年。ISBN 4-276-13071-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]