人類館事件

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人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ台湾高砂族(生蕃)・沖縄県琉球人)・朝鮮大韓帝国)・支那清国)・インドジャワバルガリーベンガル)・トルコアフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。

博覧会 - 帝国主義の視線 -[編集]

19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。

人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、1889年パリ万国博覧会である。欧米での万博では日本人を展示品とした日本人村もあった。パリ万博では展示役を務めた芸者に一目惚れした青年がプロポーズを申し出たり、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあり、日本においては人種差別意識より純粋な民族文化の展示と受け取られた。

大阪博覧会[編集]

明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると富国強兵の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供、およびそれら産業への投資を募集する産業振興が目的であった。

大阪博覧会において、「人間の展示」は民間業者主催の学術人類館というパビリオンでなされた[1]。当時の資料によれば学術人類館は以下のようなものであった。

■『風俗画報』269号(1903年)

内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり(以降、大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」とほぼ同じ内容)

■大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)

○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる/\自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。

一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。

反発と積極的参加[編集]

当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進されたことで、全国から多くの人々が博覧会を観覧しに来るようになっていた。さらに、日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などから来日した多くの人々が来場するようになった。彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、明治維新の成果を認めた。しかし学術人類館の生きた展示に支那、沖縄が反発し、外交問題化した。反対に、後述のアイヌのように積極的に参加する場合もあった。

沖縄県[編集]

沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示されていることに対し、地元では抗議の声があがった。たとえば当時の『琉球新報』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり(私たちをアイヌなんかと一緒にするな)」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開された。特に、沖縄県出身の言論人太田朝敷が、

陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷[2]事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや

であると抗議し、沖縄県全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。

当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。

清国[編集]

清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。その学術人類館に「展示」される予定だったのは、阿片吸引の男性と纏足の女性であった。清国人の展示が中止された後、今度は人類館に出演している台湾女性が実際には中国湖南省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられた。しかし、その留学生が自分で確かめたところ、台湾女性は本当に台湾出身であることが判明し、一件落着となった。

アイヌ[編集]

アイヌはむしろこれを好機と捉え、来場者にアイヌの待遇改善をアピールした。

反発の構造 - 「誤解」と「野蛮」 -[編集]

「展示」された諸地域の反発は誤解に基づく部分が多く、日本側には差別意識は無かった。事実、同じ博覧会において「薩摩の裸踊り」も展示されていた。これは当時権勢を誇った薩摩(鹿児島)の大勢の若者が、褌姿で民族舞踊を踊るというものであり、生きた展示が人種差別ではなかった状況証拠となっている。また、博覧会本来の目的以外の子供向けアトラクションなどを当時は「余興」と呼称し、現代の遊園地のようにウォータースライダーなどの体感型遊具も設置され、特に「余興動物園」はアジアゾウ、ライオン、マレーバクなど、当時としては珍しかった動物が、外国産を中心に60種類ほど飼育され、子供たちに人気を博した[3]

しかし沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない。たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している。

また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『浙江潮』第2号、1903年)と悲憤慷慨しているように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであった[4]

脚注[編集]

  1. ^ 学術人類館は日本人類学の祖坪井正五郎の発案による。また台湾館は後藤新平の強力な要請による。
  2. ^ 六ヶ敷=むつかし(い)。「六借」「難」とも書く。難しいと同義。
  3. ^ 第五回内国勧業博覧会記念 余興動物園飼養動物
  4. ^ 『浙江潮』は当時東京において、中国浙江省出身者が中心となって発行していた漢語雑誌。中国革命への支持拡大に大きな力を果たした。

参考文献[編集]

刊行年順

  • 厳安生 『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』 岩波書店、1991年、ISBN 400001689X
  • 吉見俊哉 『博覧会の政治学』 中央公論社〈中公新書〉、1992年、ISBN 4121010906
  • 松田京子 『帝国の視線―博覧会と異文化表象』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642037578
  • 坂元ひろ子 『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』 岩波書店、2004年、ISBN 400023823X
  • 演劇「人類館」上演を実現させたい会編著 『人類館・封印された扉』 アットワークス、2005年、ISBN 4939042111
  • Frank Dikotter: The Discourse of Race in Modern China, C. Hurst & Co,1994, ISBN 1850653003.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]