大田昌秀
大田 昌秀 おおた まさひで | |
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生年月日 | 1925年6月12日 |
出生地 |
![]() (現:久米島町) |
没年月日 | 2017年6月12日(92歳没) |
死没地 |
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出身校 |
早稲田大学教育学部 シラキュース大学大学院 |
前職 | 琉球大学教授 |
所属政党 |
(無所属→) 社会民主党 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2001年7月30日 - 2007年7月29日 |
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当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1990年12月10日 - 1998年12月9日 |
大田 昌秀(おおた まさひで、1925年6月12日 - 2017年6月12日[1][2] [3])は、日本、沖縄の政治家、社会学者。元沖縄県知事[2]、元社会民主党参議院議員。琉球大学名誉教授。特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。
目次
来歴[編集]
生い立ち[編集]
母校の小学校の用務員などを経て、東京の工学院へ特待生で進学する予定であったが、親戚の伝手で 沖縄師範学校に進学、在学中の1945年3月に鉄血勤皇隊に動員され、情報宣伝隊の「千早隊」に配属された。沖縄戦の中、九死に一生を得るが多くの学友を失う(同期125人中生存は大田を含めて37人)[4]。敗残兵から「スパイ」として射殺されかかる体験もしている[5]。また、6月19日に摩文仁の司令部壕に伝令として赴いた際、参謀たちが民間人に扮する場面に遭遇したという[6]。
敗戦後、米軍捕虜となり、軍施設で働きながら、日本とアメリカの留学試験に合格し、早稲田大学教育学部へ進学。在学中に英語部(WESA)を創立する。在学中に渡米し、シラキュース大学に留学、帰国後、琉球大学学長秘書となり、琉大タイムスを発刊する。
研究者として[編集]
琉球大学教授時代はメディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究等に従事。また、沖縄戦の歴史的研究にも取り組み、『総史沖縄戦』(1982年、岩波書店)をはじめとする著作を刊行した。この研究の過程で、アメリカで発見・収集した写真の一つが「白旗の少女」である[7]。
政治家として[編集]
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沖縄県知事在職中には沖縄における米軍基地問題と沖縄戦の記憶継承事業に積極的に取り組んだ。
1995年9月4日、米兵の少女暴行事件が発生した。知事として県民総決起大会に参加し、米軍基地の整理・縮小と、主権性を侵害し米軍特権で犯罪捜査と処罰を困難なものにする日米地位協定の改定を訴えた。そのうえで、9月28日、米軍用地の未契約地主に対する強制使用の代行手続きを拒否し、これがのちに引き続くことになる国と沖縄県の最初の裁判に発展した(沖縄代理署名訴訟)。[8]
県知事選挙では表舞台に出ることを避けながら、自分に代わる「名護市移転反対・県外移設」候補の擁立をすることもなく、矛盾を抱えたまま1998年沖縄県知事選挙に立候補した。しかし、経済の停滞や度重なる公約違反により知花昌一ら大田支持層からも反目され、[要出典]稲嶺恵一に敗れ落選した。稲嶺は、米軍基地問題を争点から避け、失業率の高さから「県政不況」を徹底して争点にしたのが功を奏した。全国的には、これまで革新陣営に与してきた公明党が表向き自主投票を表明したが、実際には稲嶺を支援。翌年の自自公連立政権への布石の一つとなった。[要出典]
参議院議員転身の際、社民党から比例区で立候補したため、知事時代支持・支援していた沖縄社会大衆党や日本共産党からは強い反発があった。2007年夏の参院選以後も議員を続ける意思を強めていたが、本部より公認を外されたため、立候補できず政界を引退した。[要出典]後継は元読谷村長・沖縄県出納長の山内徳信が務めた。
晩年[編集]
政界引退後も沖縄戦の研究や基地問題への発言を続けていた。最後の著書(編著)となった『沖縄鉄血勤皇隊』は死去した月に刊行されている[5]。2017年4月にはノーベル平和賞の候補としてノミネートされたと推薦団体が発表していた[9]。2017年春より体調が悪化、満92歳の誕生日でもあった6月12日に呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去[10]。看取った関係者によると、家族や看護師がバースデーソングを歌うのを聞き終えてから亡くなったという[11]。
死去に際して、県議時代は対立する立場でもあった現職知事の翁長雄志は「これからも沖縄の歴史や沖縄戦の実相を後世に伝えて頂けると思っていたが、かなわぬことになって残念だ」「大田元知事と流れるものは一つだと感じている」と述べ[12]、大田に知事選挙で勝利した稲嶺恵一は「父の友人で、私もかわいがってもらった。知事選で対決し、非常に複雑な思いだった」とコメントした[11]。
死去から約1か月半後の7月26日に宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで県民葬が営まれ、内閣総理大臣の安倍晋三はじめ2000人が参列し、翁長雄志知事(当時)が弔辞を読んだ[13]。
同年8月12日、ベテランズ・フォー・ピースより、ハワード・ジン功労賞を授与される[14]。
略歴[編集]
- 1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
- 1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
- 1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
- 1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
- 1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
- 1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
- 1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
- 1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
- 1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
- 1991年(平成3年) - 大田平和総合研究所(2013年1月に沖縄国際平和研究所へ改称)を立ち上げる
- 1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
- 1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
- 2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
- 2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に立候補せず政界を引退。
- 2017年(平成29年)- 6月12日、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去[1]。92歳没[1]。
批判[編集]
1995年の「米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名」の拒否以降から、多くの中傷やデマが流されるようになった。平和の礎について、元文藝春秋記者の眞神博は、アメリカの戦史研究家であるロジャー・ピノー等が1990年6月に会見して発表した「沖縄戦メモリアル構想」がその発端で、建設地として名乗りを上げた当時の具志頭村の村長が大田と面談したのち、大田がそのアイディアを剽窃したと村の関係者が述べていた旨主張している[15]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『沖縄の民衆意識』弘文堂新社 1967年 のち新泉社
- 『醜い日本人 日本の沖縄意識』サイマル出版会 1969年 のち岩波現代文庫
- 『拒絶する沖縄 日本復帰と沖縄の心』サイマル出版会 1971年
- 『沖縄のこころ 沖縄戦と私』岩波新書 1972年
- 『近代沖縄の政治構造』勁草書房 1972年
- 『沖縄崩壊 「沖縄の心」の変容』ひるぎ社 1976年
- 『鉄血勤皇隊』ひるぎ社 1977年
- 『戦争と子ども 父より戦争を知らない子たちへ』那覇出版社 1980年
- 『沖縄の帝王高等弁務官』久米書房 1984年 のち朝日文庫
- 『那覇10.10大空襲 日米資料で明かす全容』久米書房 1984年
- 『The Battle of Okinawa』久米書房 1984年
- 『沖縄戦戦没者を祀る慰霊の塔』那覇出版社 1985年
- 『沖縄戦とは何か』久米書房 1985年
- 『沖縄の挑戦』恒文社 1990年
- 『検証昭和の沖縄 国策にほんろうされ続けた悲惨な歩み』那覇出版社 1990年
- 『人間が人間でなくなるとき 写真記録』沖縄タイムス社 1991年
- 『見える昭和と「見えない昭和」 大田昌秀沖縄論集』那覇出版社 1994年
- 『沖縄 戦争と平和』朝日文庫 1996年
- 『沖縄平和の礎』岩波新書 1996年
- 『沖縄は訴える』かもがわ出版 1996年
- 『沖縄は主張する』岩波ブックレット 1996年
- 『拒絶する沖縄 日本復帰と沖縄の心』近代文芸社 1996年
- 『ひたすらに平和の創造に向けて』近代文芸社 1997年
- 『沖縄、基地なき島への道標』集英社新書 2000年
- 『沖縄の決断』朝日新聞社 2000年
- 『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社 2002年
- 『沖縄差別と平和憲法 日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ』BOC出版 2004年
- 『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店 2004年
- 『死者たちは、いまだ眠れず 「慰霊」の意味を問う』新泉社 2006年
- 『沖縄戦を生きた子どもたち』クリエイティブ21 2007年
- 『沖縄の「慰霊の塔」 沖縄戦の教訓と慰霊』那覇出版社 2007年
- 『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題-最善・最短の解決策』同時代社 2010年
- 『二人の「少女」の物語 沖縄戦の子どもたち』新星出版 2011年
- 『人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄 鉄血勤皇隊』高文研 2017年
共著[編集]
- 『沖縄健児隊』外間守善共編 日本出版協同 1953年
- 『沖縄の言論 新聞と放送』辻村明共著 至誠堂 1966年
- 『これが沖縄戦だ 写真記録』編著 琉球新報社 1977年 のち那覇出版社
- 『総史沖縄戦 写真記録』編著 岩波書店 1982年
- 『まーかいがウチナー どこへ行く沖縄』上原康助,照屋林賢対談 大田講演 日本社会党機関紙局 社会新報ブックレット 1994年
- 『代理署名拒否の理由』沖縄県基地対策室共著 ひとなるブックレット 1996年
- 『沖縄からはじまる』池澤夏樹共著 集英社 1998年
- 『ウチナーンチュは何処へ 沖縄大論争』太田武二、高村文子、大山朝常共著 実践社 2000年
- 『徹底討論沖縄の未来』佐藤優共著 芙蓉書房出版 沖縄大学地域研究所叢書 2010年
- 『沖縄の自立と日本 「復帰」40年の問いかけ』新川明,稲嶺惠一,新崎盛暉共著 岩波書店 2013年
- 『写真記録沖縄戦 決定版 国内唯一の"戦場"から"基地の島"へ』沖縄国際平和研究所共編著 高文研 2014年
記念論文集[編集]
- 『沖縄を考える 大田昌秀教授退官記念論文集』東江平之ほか編 大田昌秀先生退官記念事業会 1990年
インタビュー[編集]
- 『歴史群像No51大田昌秀インタビュー 』学習研究社、2002年
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d “大田昌秀氏が死去 沖縄県知事、参院議員など歴任 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース”. 琉球新報. (2017年6月12日). オリジナルの2017年6月12日時点によるアーカイブ。 2019年1月20日閲覧。
- ^ a b 福島申二 (2017年7月15日). “惜別 大田昌秀さん 元沖縄県知事”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 夕刊 2面
- ^ “米軍基地問題訴え続けた大田昌秀さん死去 元沖縄県知事”. 朝日新聞社 (2017年6月12日). 2017年6月12日閲覧。
- ^ “訃報 元沖縄知事の大田昌秀さん92歳 米軍基地問題尽力”. 毎日新聞. (2017年6月13日)
- ^ a b “大田昌秀さん死去 沖縄戦が原点「軍隊は民間人守らない」”. 毎日新聞(朝刊): p. 29. (2017年6月13日) 2019年1月20日閲覧。
- ^ “(沖縄戦再録:10)現れた白旗の少女、機関銃の音やむ”. 朝日新聞. (2016年6月23日) 2017年6月13日閲覧。
- ^ 仲程昌徳「沖縄戦をめぐる言説 - 「白い旗」の少女をめぐって (PDF) 」 『日本東洋文化論集 No.15』、琉球大学、2009年3月、 9-39頁。
- ^ “米軍用地手続きで提訴 代理署名拒否を振り返る | 沖縄タイムス+プラス ニュース” (日本語). 沖縄タイムス+プラス. 2019年6月14日閲覧。
- ^ “大田元知事、ノーベル平和賞候補に”. 琉球新報. (2017年4月4日). オリジナルの2017年6月16日時点によるアーカイブ。 2017年6月13日閲覧。
- ^ “大田昌秀氏死去 元知事、全国に基地問う”. 琉球新報. (2017年6月13日). オリジナルの2017年10月23日時点によるアーカイブ。 2017年6月13日閲覧。
- ^ a b “大田昌秀さん死去 平和願う心、最後まで 相次ぐ惜しむ声”. (2017年6月13日) 2017年6月13日閲覧。
- ^ “かつては激論も 翁長知事「残念」”. 毎日新聞. (2017年6月13日) 2017年6月13日閲覧。
- ^ “大田昌秀さん死去 沖縄県民葬、安倍首相ら2000人参列”. 毎日新聞. (2017年7月27日) 2017年8月1日閲覧。
- ^ 故・大田昌秀元知事にハワード・ジン功労賞 米退役軍人のVFP沖縄タイムス+プラス ニュース
- ^ 眞神博「大田昌秀 ある反戦政治家の正体」『文藝春秋』1996年10月号、103-104頁
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
名誉職 | ||
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先代: 坂野重信 |
最年長参議院議員 2002年4月 - 2003年4月 |
次代: 田英夫 |
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