福本潤一
福本潤一 ふくもと じゅんいち | |
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生年月日 | 1949年3月23日(73歳) |
出生地 | 広島県広島市[1] |
出身校 | 東京大学大学院[1] |
前職 |
愛媛大学教授 公明党四国方面副議長 |
所属政党 |
(新進党→) (黎明クラブ→) (公明→) (公明党→) 無所属 |
称号 |
旭日重光章 農学博士 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1995年7月23日 - 2007年7月28日 |
福本 潤一(ふくもと じゅんいち、1949年3月23日 - )は、日本の政治家、農学者。
参議院議員(2期)、参議院災害対策特別委員長、農林水産大臣政務官(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)を務めた。
来歴[編集]
広島県広島市南区に生まれる。広島市立宇品東小学校、広島市立翠町中学校、修道高等学校、東京大学農学部を卒業する。東京大学大学院を修了し農学博士号を取得する。専門分野は地域環境工学であり、愛媛大学農学部に助手として赴任し、助教授にまで至る。途中、情報処理センター農学部分室長、連合大学院教官を務める。
政界入り[編集]
1995年の第17回参議院議員通常選挙の比例区で新進党から初当選。その後新進党解党に伴い、公明党に移る。当選2回。主に、農業や環境分野を得意とし、『水利の風土性と近代化』などの著作がある。新進党愛媛県連会長、参議院災害対策特別委員長、農林水産大臣政務官を歴任する。参議院農林水産委員会、行政監視委員会に所属していた。公明党を離党する直前は、党役職として党副幹事長、党四国方面副議長、党愛媛県本部顧問等を務めていた。
公明党離党[編集]
2007年7月29日に行われる第21回参議院議員通常選挙において、公明党は福本を体調不良を理由に公認しないことを表明しており、選挙には立候補せず引退することが決まっていたが、6月15日、国会内での記者会見において、自身の引退について納得していないことと離党届を提出したことを表明する。席上、公明党について「全体主義的な体制だ」「ヒューマニズムを標榜していても、アンチ・ヒューマニズムの政党ではないか」などと批判を展開し、自公連立についても「妥協している面がすごく大きい」などと批判した。これに対して幹事長の北側一雄は「極めて言語道断。党員や支持者への裏切り行為で断じて許すことはできない」などと激しく非難した[1][2]。6月18日、公明党は福本の離党届を受理せず、党規違反を理由に除名処分とすることを決定した。
この参議院議員選挙について当初は野党の比例区からの立候補を模索していたが、福本と数回接触した民主党幹部らも難色を示したので、福本は7月9日、故郷である広島県選挙区(改選数2)から無所属で立候補することを表明。自公連立政権を批判し、与野党の逆転が争点だと訴えたが候補者6人中最下位で落選した。
2007年10月16日、参議院予算委員会で石井一(民主党)が福本の証言を元にして、福本の参考人招致を要求。12月4日、民主党役員会において福本を参議院で参考人招致する方針を固めた[3]。
2019年5月21日発令の春の叙勲で、旭日重光章を受章[4]。
発言[編集]
2005年5月20日の参議院予算委員会で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を巡り、「例えばヒトラーの墓に参拝するドイツ首相というような形が起こった場合、ユダヤ人、ドイツ人がどういう感覚を持つか考えてほしい」などと小泉に質問した。これを受け、「軽率な発言で不適切だ」として党幹事長の冬柴鐵三より口頭注意を受けた[5]。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c “"公明に離党届提出した福本氏、野党から比例選に出馬へ"”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2007年6月15日) 2018年12月21日閲覧。
- ^ “公明離党の福本議員、野党から出馬の意向 民主は否定的”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2007年6月15日). オリジナルの2007年6月18日時点におけるアーカイブ。 2018年12月21日閲覧。
- ^ 民主、公明前議員の参考人招致要求で揺さぶり『朝日新聞』2007年12月11日
- ^ 『官報』号外第14号11P、令和元年5月21日
- ^ “ヒトラー墓参り発言を注意/公明幹事長が福本議員に”. 四国新聞社. (2005年5月26日) 2020年8月24日閲覧。
外部リンク[編集]
ウィキニュースに関連記事があります。公明党・福本参議院議員が離党へ
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