青島健太

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青島 健太
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 新潟県新潟市(現・西区小針(同西蒲原郡内野町、現・新潟市西区内野山手で生まれたとする説もあり。詳細は本文参照。)
生年月日 (1958-04-07) 1958年4月7日(59歳)
身長
体重
182 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手遊撃手二塁手
プロ入り 1984年 ドラフト外
初出場 1985年5月11日
最終出場 1987年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
青島 健太
誕生 (1958-04-07) 1958年4月7日(59歳)
日本の旗 日本・新潟県新潟市西区小針、または同西蒲原郡内野町内野(現・新潟市西区内野山手)
職業 プロ野球選手スポーツライターテレビキャスター大学客員教授
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
活動期間 1992年頃 -
ジャンル スポーツ全般
配偶者 あり
子供 2人
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青島 健太
生誕 (1958-04-07) 1958年4月7日(59歳)
日本の旗 日本・新潟県新潟市西区小針または同西蒲原内野町内野(現・新潟市西区内野山手)
国籍 日本の旗 日本
教育 慶應義塾大学法学部政治学科
職業 元プロ野球選手、スポーツジャーナリスト
活動期間 1985年 -
配偶者 あり
子供 2人
家族 両親、妹1人、妻、長女、長男

青島 健太(あおしま けんた、1958年4月7日 - )は、日本の元プロ野球選手(元ヤクルトスワローズ内野手)。スポーツライタースポーツキャスター鹿屋体育大学客員教授[1]流通経済大学客員教授、日本医療科学大学客員教授。

来歴[編集]

誕生~ヤクルト入団まで[編集]

新潟県[2]新潟市[3]出身。

ただし、母親が同西蒲原郡内野町(現・新潟市西区内野山手)にある本間医院の院長の娘だった事[4]から実際は同医院で生まれた可能性が高い。

父親の仕事の関係で5歳まで新潟市(現・西区)小針で過ごす。[5][6]

その後家族(両親と妹[7])と共に埼玉県草加市にあった草加松原団地に転居。[8][9]

1965年草加市立北谷小学校入学。同校4年生の時に少年野球チームに入った。

1970年7月草加市立花栗小学校に転校。同校在籍中に初代児童会長を務めた。

1971年、花栗小学校卒業、草加市立栄中学校入学。中学から野球部に入る。監督は理科の先生で、甲子園出場経験があった。[8]

1974年、栄中学校卒業、埼玉県立春日部高等学校入学。同年、秋季埼玉県高校野球大会ベスト8。その際、埼玉県立川越工業高等学校に4対1で勝利した記事が埼玉新聞に掲載された。[10]

1975年、秋季埼玉県高校野球大会優勝、秋季関東地区高等学校野球大会では神奈川県保土ヶ谷球場栃木県立小山高等学校に敗れ準決勝で敗退しベスト4。[11][12]

1976年第48回選抜高等学校野球大会補欠校に選ばれるも出場できなかった。同年、春季埼玉県高校野球大会ベスト8。

1977年、春日部高校卒業、慶應義塾大学法学部政治学科へ進学。当初、国公立大学を受験して教員を目指す予定だった。[11]

なお、慶大進学の経緯については、高校3年当時の担任の先生が慶応出身で、進路相談の際にその担任に同大学の魅力についてたくさん聞かされたからと言う説[13]と、関東大会に進んだ際、青島のプレーぶりを見た慶応野球部OBの方から、慶応に行かないかと誘われたからと言う説[8][11]がある。

東京六大学リーグでは優勝に届かなかったが、主に三塁手としてチームの中軸を打ち、1979年秋季リーグ戦ではシーズン6本塁打(当時1位タイ)、22打点(現在もリーグ記録)を挙げて脚光を浴びる。リーグ通算74試合に出場し260打数79安打、10本塁打、52打点、打率.304。大学同期には玉川寿(日本石油)、千賀儀雄(東邦ガス)らがいた。

卒業後は東芝に進む。[14]1981年から4年連続で都市対抗に出場。1981年の大会ではルーキーながら七番打者として活躍、決勝に進むが電電東京に惜敗[15]1982年の第27回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出され、銀メダルを獲得。1983年都市対抗では四番打者を任され、エース黒紙義弘池田親興[16]らの好投もあって、決勝で新日鐵名古屋を破り優勝を飾った[15]。同年の日本選手権は決勝で住友金属に敗れ準優勝にとどまるも、大会優秀選手(三塁手部門)の一人に選ばれた。

1984年ロサンゼルスオリンピックで日本代表メンバーに選ばれ地区予選には出場したが、松永怜一日本代表監督の方針で本選には出場できなかった。[17]

ヤクルト在籍時代[編集]

同年ドラフト外ヤクルトスワローズに入団。[18]1985年茨城県つくば市で開催を控えていた国際科学技術博覧会の東芝館パビリオン担当を断ってまでの入団だった。[19]

1985年5月11日の対阪神戦(神宮)で、工藤一彦からプロ野球史上20人目、セ・リーグ8人目[20]、ヤクルト初となる公式戦初打席初本塁打を放つ[21]。同年は三塁手として9試合に先発出場を果たした。しかし木製バットへの順応が遅れた上、故障も相次ぐなどして一軍と二軍を行き来する日々が続いた。1987年には一軍に定着し自己最高の58試合に出場するが、打撃面では低迷。その後は出場機会がなく1989年を最後に現役引退。[22]

プロ引退後[編集]

1990年オーストラリアビクトリア州ケラングで日本語教師を受け持つ。翌1991年に日本に帰国後はスポーツジャーナリストに転向。1992年頃に「Number」(文藝春秋)に掲載された「プロ野球をめざす少年たちよ、和式トイレを使え」でスポーツライターとしてデビューした。[23] その後、執筆業の傍らTBSテレビ2000年代中期まで)・TBSラジオJ SPORTSで解説を務めるほか、スポーツニュースや早朝の情報番組のキャスターを務めた経験も持つ。また、スポーツ選手のトークショーやシンポジウムなどのMCを務めることも多い。

2005年日本野球連盟に加盟した硬式野球のクラブチーム「ウェルネス魚沼」(新潟県魚沼市)の監督に就任(その後、総監督に就任)。オーストラリア出身の選手を主体とするチーム編成で注目を集めたものの、春の都市対抗野球県予選で敗退して豪選手は全員帰国し、チームは事実上解散。同年7月、チームの運営方針を巡る意見の相違から総監督を辞任した。

しかし、辞任直後の8月にセガサミーホールディングスが硬式野球部を立ち上げることが決まり、監督として白羽の矢が立った。同年発足したセガサミー硬式野球部の監督に就任。翌2006年から公式戦に参戦した。同年は都市対抗野球大会東京都2次予選の第1代表決定戦に進出したもののそこから5連敗を喫して「初参戦初出場」の偉業は達成できなかったが、翌2007年第78回都市対抗野球大会には東京都第3代表で初出場を決めた。同年10月のJABA千葉市長杯争奪野球大会でセガサミー初タイトル獲得を置き土産に退任した。

人物[編集]

  • 家族は両親、妹[7]、妻、長女、長男。[24]
  • 母方は佐渡の守護代(鎌倉時代)から続く本間家の血筋と言われているが、[25]「本間」姓は新潟県内では多く見かける名字である為、真相は不明。
  • 前述の通り母親が本間医院の院長の娘だった事と親類に医師が多かった事から青島も両親(特に母親)から医師になるように育てられた。
  • 母親については親戚等を含めて講演会やインタビュー等で度々語っているが、父親については身長が172cmである事と、[26]大学で化学を専攻していた事[27]以外明らかになっていない。
  • プロ入りする前には青年海外協力隊に応募したものの、2次試験に来なかった。[28]
  • 広島の神宮での1986年優勝時のヤクルトの最後の打者だった。
  • 取得資格は中学・高校社会科教員免許、普通車自動車免許、自動二輪大型免許、社交ダンス3級(モダン)。
  • DREAMS COME TRUEの大ファン。
  • 情報番組のキャスターを務めた頃にはたびたび駄洒落を披露する事があった。
  • 大学時代の4年間は横浜・日吉にある野球部の寮で過ごした。[29]
  • 血液型O型
  • 日本プロ野球OBクラブ会員。[30]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 ヤクルト 24 44 40 6 9 3 0 1 15 1 0 0 0 0 3 0 1 13 0 .225 .295 .375 .670
1986 14 8 8 1 1 0 0 0 1 1 0 1 0 0 0 0 0 3 0 .125 .125 .125 .250
1987 58 39 34 6 5 0 0 1 8 3 0 0 0 0 5 2 0 12 1 .147 .256 .235 .492
通算:3年 96 91 82 13 15 3 0 2 24 5 0 1 0 0 8 2 1 28 1 .183 .264 .293 .556

記録[編集]

  • 初出場:1985年5月11日、対阪神タイガース4回戦(明治神宮野球場)、6回裏に大川章の代打として出場
  • 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、6回裏に工藤一彦からソロ ※史上20人目の初打席初本塁打
  • 初先発出場:1985年5月12日、対阪神タイガース5回戦(明治神宮野球場)、1番・三塁手として先発出場

背番号[編集]

  • 4 (1985年 - 1989年)

関連情報[編集]

CM[編集]

映画[編集]

現在の出演番組[編集]

テレビ
  • SG競艇LIVE(準優勝戦から司会担当となる事が多い)
ラジオ

過去の出演番組[編集]

テレビ
ラジオ
ポッドキャスト

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 朝日新聞ホークス、ただ強ければいいのか? 青島健太さんに聞く」(2016年2月19日掲載)には非常勤講師と記載されている。
  2. ^ 青島 健太 | 『野球つく!!』プレイヤーズサイト | SEGA
  3. ^ 青島健太プロフィール 講演依頼.com|講演会の講師紹介
  4. ^ [1]
  5. ^ [2]
  6. ^ 青島健太さん:新潟で1日区長いもジェンヌPR 毎日新聞新潟版2016年1月14日掲載
  7. ^ a b [3]
  8. ^ a b c [4]
  9. ^ なお、どう言う経緯で転居したかについては不明。
  10. ^ [5]
  11. ^ a b c [6]
  12. ^ [7]
  13. ^ [8]
  14. ^ 東芝では広告部に配属された。
  15. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  16. ^ 日産自動車から補強。
  17. ^ 最終的には日本代表は金メダルを獲得した。
  18. ^ この年の同球団ドラフト1位はロス五輪本選に出場した広澤克実(当時明治大学4年)だった。
  19. ^ [9]
  20. ^ [10]
  21. ^ “日めくりプロ野球5月:【5月11日】1985年(昭60) プロ初打席が一番輝いた、脱サラルーキー青島健太”. スポーツニッポン. (2008年5月8日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_may/KFullNormal20080508130.html 2013年8月27日閲覧。 
  22. ^ なお、元同僚だった若松勉も同時期に現役を引退した。
  23. ^ [11]
  24. ^ [12]
  25. ^ [13]
  26. ^ [14]
  27. ^ [15]
  28. ^ [16]
  29. ^ [17]
  30. ^ [18]
  31. ^ 東京国立近代美術館フィルムセンター 上映会情報 日本・ウズベキスタン国交樹立15周年記念 ウズベキスタン映画祭
  32. ^ ESPNスポーツセンター」を再編集した上での放送だった。
  33. ^ [19]

外部リンク[編集]