平尾誠二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年昭和38年)1月21日 - 2016年平成28年)10月20日)は、日本ラグビー選手。日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任した。

卓越したプレーと端正な顔立ちからラグビー界を超えた人物となり、ついにはミスター・ラグビーとまで呼ばれるようになった[1]

プロフィール[編集]

略歴[編集]

伏見工業高校同志社大学商学部商学科卒業。同志社大学大学院政策科学総合研究科(修士課程)修了。

小学校の時は野球をやっていたが、陶化中入学と同時にラグビーを始める。理由は「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。そこでラグビー部を見たら、12、3人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから。」[2] 中学時代、父親にラグビースパイクが欲しいと伝えた時、無理だろうと思っていたのに買ってくれたことが「ラグビー人生で一番嬉しかったこと」と『徹子の部屋』にゲスト出演した際に語っている。

伏見工業高校への入学のきっかけは山口良治。平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口がそのプレーにほれ込み平尾の自宅を訪ねた。その時、平尾は特待生(授業料免除)で名門花園高への入学が決まりかけていたという。当時は伏見工はワルの集まりだったため両親は反対。しかし平尾はそれを振り切り伏見工業高校に入学する。[3]

1982年に史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出。同志社大学ラグビー部在籍時代にはセンターとして史上初の大学選手権3連覇に貢献。

1985年、英国リッチモンドにラグビー留学した。そもそも大学卒業後の進路として平尾は、強豪ラグビーチームを有する多くの企業から誘いを受けるも、「大学卒業後はラグビーはしません」と公言しており、外国で事業や起業をしたいと考えていたことがその動機であった。イギリスを選んだ理由には、以前より望んでいたデザインの勉強ができることだけでなく、自分のラグビーのレベルが世界ではどの程度か知りたいと考えたこともあったという。イギリスではリッチモンドに所属し試合に出場しながら、イギリスのデザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組んでいた。しかし、ファッション誌にモデルで登場したことが当時のアマチュア規定に抵触したとの理由により、日本代表候補選手から除外された[4]。平尾の下宿に協会から連絡が入り、留学直前に受けたファッション誌の取材記事がアマチュア規定に反すること、アマチュア資格の停止のことを知らされた。違反を犯していた認識がなかったため寝耳に水だったが、日本ではもうラグビーをしないと考えていたため深刻に考えなかったという。しかしアマチュア資格の停止は国際的なもの(日本以外でも試合に出られない)と知らされ、弁明のため一時帰国。汚名を挽回したければ日本の一流チームで成績を出せ、と言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることとなる。事件後はそれまでが嘘のように企業からの連絡はなくなっていた。そんな折、偶然イギリス出張に来ていた以前より顔見知りであった神戸製鋼の当時専務であった亀高素吉と食事に行く機会を持つ。そこで企業を探していることを相談、すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決める。「神戸は遠足で行って以来、好きな街でしたし」とも語っている[5][6]

1986年神戸製鋼に入社。社会人時代は、日本選手権で7連覇を達成(初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を務めた)。また、国内チーム相手でゲームキャプテンを務めた試合では負けた事が一度だけ(同志社大学時代の日本選手権対新日鐵釜石戦)と言う抜群のキャプテンシーを発揮。平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めた。平尾は「ノックオンは犯罪的行為」とまで言い切り「ボールが一番大事」という意識を徹底的にチームに植え付けた[7]

ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利の原動力として活躍した。その後一度は代表を退いたが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場した。

1998年1月、現役を引退。その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任。

2000年4月、スポーツと地域社会の振興を図るため、NPO「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を旗揚げ。

2008年7月12日には日本サッカー協会理事に、同協会犬飼基昭会長の推薦で、クルム伊達公子(プロテニス選手)とともにサッカー界以外から就任したが、1期のみで退任している。

2011年には文部科学省の中央教育審議会委員に就任した。

2016年10月20日午前7時16分、京都市内の病院で死去。53歳だった[8]。 病名などの死因については当初は遺族の意向によって非公表となっていたが、その後遺族からの発表にて前年秋から胆管細胞癌の闘病中であったことが明らかになった[9]

著書[編集]

  • 『勝者のシステム:勝ち負けの前に何をなすべきか』講談社、1996年。のち講談社+α文庫
  • 『「知」のスピードが壁を破る:進化しつづける組織の創造』PHP研究所、1999年。のち文庫
  • 『人は誰もがリーダーである』PHP新書、2006年
  • 『理不尽に勝つ』PHP研究所、2012年。
  • 『求心力 第三のリーダーシップ』PHP新書、2015年。

共著[編集]

関連著書[編集]

出演[編集]

広告[編集]

  • 柳屋本店「4711 ポーチュガル」(2015年5月 - )

エピソード[編集]

  • テーピングの際は「絶対にテープが見えないようにしてくれ」と要求していたことがあった。弱みを見せず強さを際立たせる意図があったのではとの意見もある。[10]

関連人物[編集]

  • 山口良治
  • 大八木淳史
  • 岡仁詩
  • 林敏之
  • 小島伸幸 - 同志社大出身で同時代に活躍し髭がトレードマークという共通点があった。
  • 河瀬泰治 - 日本代表で平尾とチームメートに。米国に遠征した際、顔面骨折した時に同じ部屋だった平尾に一晩中アイシングしてもらい「本当に優しい人だった思い出」と語った。[11]
  • 和泉修 - 大学時代の同級生。平尾の進言により吉本興業入りを決め芸人の道へ[12]
  • 亀高素吉 - 平尾が神戸製鋼所に入社したときの副社長。後に社長及び会長。自ら平尾を勧誘[13]

脚注[編集]

外部リンク[編集]