大橋巨泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
おおはし きょせん
大橋 巨泉
本名 大橋 克巳[注 1]
別名義 池間 仙也[3]
生年月日 1934年3月22日
没年月日 2016年7月12日(満82歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市本所区両国
(現・東京都墨田区両国)
千葉県育ち)[注 2]
死没地 日本の旗 日本千葉県
身長 178cm[1]
血液型 B型[1]
職業 タレントラジオパーソナリティ放送作家馬主など
ジャンル バラエティ番組
活動期間 1960年代 - 2016年
公式サイト KYOSEN.COM
主な作品
クイズダービー
11PM
巨泉×前武ゲバゲバ90分!
お笑い頭の体操
世界まるごとHOWマッチ
日本の旗 日本の政治家
大橋 巨泉
おおはし きょせん
生年月日 1934年3月22日
出生地 日本の旗 日本東京府東京市本所区
(現・東京都墨田区
出身校 早稲田大学第一政治経済学部新聞学科中退
所属政党 民主党横路グループ)→)
無所属
配偶者 マーサ三宅(1956年 - 1964年)
浅野順子(1969年 - 2016年)

選挙区 比例区
当選回数 1回
在任期間 2001年7月29日 - 2002年1月31日
テンプレートを表示

大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年昭和9年)3月22日[1] - 2016年平成28年)7月12日)は、日本タレントテレビ番組司会者ラジオパーソナリティ)、放送作家エッセイスト評論家競馬評論家音楽評論家、時事評論家)、馬主政治家参議院議員)、実業家・芸能プロモーター(オーケープロダクション=旧:大橋巨泉事務所創業者・元取締役会長兼エグゼグティブタレント、オーケーギフトショップグループ取締役社長[4])。オーケーエンタープライズ所属。

本名:大橋 克巳(おおはし かつみ)[注 1]。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。多くの芸能人や関係者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。MBSTBS世界まるごとHOWマッチ』では「巨ちゃん」と呼ばれたことがある。また、フジテレビクイズ!ヘキサゴンII』にゲスト出演した際には「キョンキョン」と呼ばれたこともある。

プロフィール[編集]

ジャズ司会者[編集]

東京府東京市本所区(現:東京都墨田区両国生まれ[注 2]千葉県に育つ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松岐阜県出身)[5]。実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と巨泉はその当時からの知り合いである[6]。巨泉の実家製作のカメラ「ロールライト」の現存する2機は萩本とすぎやまこういちが所有している、とも語っていた[6]。本所区立江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)を経て、1943年7月から千葉県山武郡横芝町に疎開、横芝国民学校4年に編入。敗戦直後、横芝の自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。1946年千葉県立成東中学校 (旧制)に入学。1947年、東京両国に引き揚げる。

アメリカへ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネフランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという[7]。大学卒業を諦めた理由は、当時の大学は1年次から2年次にかけて教養課程があり、人文科学系や社会科学系に加えて自然科学系科目も必修だったのだが、苦手な理数系科目での単位取得が望めなかったためである。後に「早稲田大学を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりとなった。早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活躍していた。

なお、早稲田大学在学中に俳人としての活動もしており、「巨泉」という芸名はこの時期に付けた俳号で、戦前の郷土玩具画家である川崎巨泉とは関係ない。アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」となった。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。また1956年頃には、主にラジオ・テレビの音楽番組評論をする時のペンネームとして「池間 仙也」の名前も使っていた[3]

芸能界へ[編集]

最初の妻マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤め始めるも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のマルチタレントとして人気を得る。この方面では、やはり放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、この2人で日本テレビ巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。

放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にもかかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった[8]

11PM・クイズダービーなど司会者で活躍[編集]

1960年代から1980年代にかけ、テレビデビューとなった日本テレビ『11PM[注 3]や、TBS『クイズダービー』、MBS・TBS『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬野球麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。その後、1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのすべてのレギュラー番組を降板し、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。

特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。また2015年5月に放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」内の、クイズダービー復活版(巨泉の生前最後の同番組特番司会)でも、当時既に61歳となっていた竹下に対して「けいこちゃん」と呼んでいた。

番組共演者にニックネームを付けるのを得意としていた。『クイズダービー』では、黒鉄ヒロシには「裏切りたぬき」、篠沢秀夫には「教授」、はらたいらには「宇宙人」、竹下景子には「三択の女王」、常連ゲストの松崎しげるには「クイズの帝王」とそれぞれ付けた。また『世界まるごとHOWマッチ』では、石坂浩二には「兵ちゃん」(本名の武藤兵吉に因む)、ケント・ギルバートには「ネギルバート」(「値切る」と「ギルバート」の語呂合わせ)、チャック・ウィルソンには「ケチャック」(「ケチ」と「チャック」の語呂合わせ)とそれぞれ付けた。このようによく出演者にニックネームを付けて呼ぶというやり方は、前田武彦に倣ったものであった[9]

また「11PM」ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた記念すべき第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。

OKギフトショップ[編集]

1973年カナダバンクーバーに日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し実業家に転進。その後、バンフナイアガラオーストラリアゴールドコーストケアンズニュージーランドオークランドクライストチャーチ(2011年にクイーンズタウンへ移転)にも店舗を開店し、幾多の倒産の危機を乗り越え、7店舗まで事業を拡大した。湾岸戦争アメリカ同時多発テロ事件クライストチャーチ地震などの影響があったものの、同店舗のみ取り扱う限定商品の販売、大手旅行代理店とのタイアップ(来店粗品や割引が効くクーポン券の配布)、日本語の通じる店員が常駐するなどの面で評判が良く商売は軌道に乗っている。

オーケーギフトショップは、カナダ以外にもニュージーランドとオーストラリアに進出している。これはカナダとは季節が逆の南半球に出店することで、観光客が激減する冬季の売上を補う必要があったためだという。一方で、隣国アメリカには地元からの強い要望があったにもかかわらず出店していない。巨泉はその理由として「アメリカは銃犯罪などの治安がものすごく悪化していたため、自分の店の中でお客様、従業員に銃口が向けられるのをひどく恐れたためである」と述べている。

なお、「オーケー」の名は大橋巨泉および創設以来の協力者の名前からとられており[10]、日本のスーパーマーケット「OKストア」とは関係がない。

競馬評論家[編集]

競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」[11]にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツや、1980年代後半まで「巨泉でバッチリ」のタイトルで競馬エイトの競馬予想のコーナーで執筆していたほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『日曜競馬ニッポン[注 4]ニッポン放送)に出演していた。

また、巨泉は当時、競馬ファンに最も影響力を持つ論客としても知られていた。ファン目線での評論が多く、しばしば競馬界全体を批判することもあった。その最たる例は第1回ジャパンカップヨーロッパの馬を招待しなかったことに対して、「何故、イギリスフランスなどヨーロッパ先進国から呼ばないのか?」と日本中央競馬会(JRA)の機関誌『優駿』やサンケイスポーツで批判したことである。[12]

府中の千八、展開要らず[13]、「競馬は所詮いい加減なもの」いう競馬格言は、巨泉が作ったものとされている。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年ダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2000円、対抗1000円、穴・大穴・枠流し500円」で巨泉の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.83%であった(谷岡一郎『ツキの法則』)。これでは負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった巨泉の予想を優れたものと結論づけている。

また中央競馬馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬ロックプリンス東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。

シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、ロンシャン競馬場フランスパリ)へ両者と行動を共にした。

また、ダービーに出走する競走馬を登録するために馬主が支払う登録料の増額を実現させたのも巨泉である。かつて登録料の上限が1万円だった頃、「1万円だったらまあいいや、みたいなダメもと出走が出て来てレベルが下がる」と苦言を呈し、レースのレベルを高め、本当に勝ちたい馬だけが出走できるように仕向けて競馬法の改正、登録料増額につなげた[14]

1988年に競馬評論から引退した。引退のきっかけとなったのは、1988年の天皇賞(秋)の「オグリキャップタマモクロスの一騎打ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている」といった内容を巨泉が当日のラジオの中継で話したことが発端であった。それに対し、同競走にレジェンドテイオーを出走させていた美浦田村駿仁[注 5]調教師(当時。後に勇退)が『週刊競馬通信』(競馬通信社)に「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し掲載された。それに対し巨泉がサンケイスポーツのコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争にまで発展した。

そうしたやりとりの中で巨泉は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、サンケイスポーツ紙上にて休筆を宣言。やがて競馬評論家をセミリタイアするに至った。

セミリタイア後、2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに「シンザンスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。

2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及し、「三連単はギャンブラー射幸心を煽る」と反対、否定的な考えを示した。また「マフィアボスは三連単は買わない」とも言及した。また、三連複馬券や、馬単馬券についても同様に反対、否定的な見解を示した。

ディープインパクトの引退が発表された際、ファン、記者などのマスコミとも「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、巨泉はただ一人「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した。その他、藤田伸二騎手の著書「騎手の一分」の感想を週刊現代の自身のコーナー「今週の遺言」(2013年7月8日発売号)で述べたりもしていた。

セミリタイア[編集]

「セミリタイア」は巨泉が出演中の『ギミア・ぶれいく』以外の全番組を降板する際の記者会見で使った表現で、完全に芸能界・放送界と縁を切る「リタイア」ではないことを強調したものである[15]

なお巨泉は50歳には「セミリタイア」をする人生設計を描いていたが、各方面からの慰留、また49歳の時に司会を始めた『世界まるごとHOWマッチ』に本人の意向で起用した石坂浩二ビートたけしとの絡みが楽しかったこともあり、56歳まで仕事を継続した。

その後「セミリタイア」は、早くから蓄財しておき仕事が好調の内に辞め、悠々自適に過ごしながら余裕のある時に仕事もする、という意味合いの言葉として定着している[16]が、これに勿論巨泉の、絶頂にも係わらず仕事をすっぱりと終わらせたことと、以後の生活スタイルが源泉である(なお、同じような形で芸能活動の一線からのリタイアをした司会者としては上岡龍太郎芳村真理らがいる。いずれも巨泉と同じく司会者の大御所として絶頂を極めていた50代でリタイアを宣言している)。

政界進出[編集]

2001年に、当時民主党幹事長・菅直人が出馬を依頼。これを受け、最大野党民主党から第19回参議院議員選挙比例代表候補として立候補した。当時、既に外国暮らしをしていて「選挙運動のために帰国するつもりはない。党の方で選挙運動をして、私を当選させておいてくれ。」と言っていたが、さすがに反発が強く、帰国して選挙運動をして、党内第1位で当選(小泉フィーバー自民党圧勝)。当選後すぐにアメリカ同時多発テロ事件が起き、これをきっかけに安全保障問題をめぐっての当時民主党代表鳩山由紀夫ら当時の党執行部との考えの違いが鮮明になる。

アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている[17]

こうした党との意見の違いによりわずか6か月で辞職。これに伴い、ツルネン・マルテイ繰り上げ当選した。辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見の時には、旧社会党系の民主党議員や社会民主党の女性議員が「巨泉さん辞めないでください!」と辞職する巨泉を止めようと説得する場面があった(この時は、福島瑞穂辻元清美などの議員もいた)。この時巨泉は「僕は辞めると言ってはいないんです。辞めたのです」と説得する女性議員に向かって述べた。比例代表で当選した議員がその党の路線への不満を理由に辞職することについて各方面から批判された。当時官房長官の福田康夫は会見で「職場放棄だ」と批判した[注 6]

後に巨泉が語ったところによると、中村敦夫らが結成したみどりの会議への移籍を一時真剣に考えたという(みどりの会議は選挙時に存在しなかったため、比例選出の議員でも移籍は可能だった)。また、当時党内で巨泉と意見が近く、鳩山らの執行部とも度々対立していた横路孝弘赤松広隆生方幸夫横路グループがもしも離党、新党結成へと踏み切っていたなら共に参加しただろうとも述べている。

議員辞職後は、民主党を強く批判するスタンスを取っていたが、その後再び民主党に歩み寄る姿勢を見せ、民主党政権の誕生を望んでいるような発言もしていた時期もあった(後に民主党は政権を握ることになった)。

ただし、一方で民主党が保守に寄り過ぎているという認識は同じで、民主党が自民党化することに警鐘を鳴らしている。そのため、2009年第45回衆議院議員総選挙では、民主党の“勝ち過ぎ”を警戒し、社会主義的な理念を持つ政党が一定の影響力を持つことが必要として、比例区では社民党日本共産党に投票するよう勧めている。

2000年代中期以降[編集]

11月から翌年4月までオーストラリアニュージーランドに、6月から9月までカナダに滞在し、経営するギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなどの生活を送っている。この太陽の動きに合わせ居住地を移動する生活形式をひまわり生活と呼んでいる。日本に帰国するのは5月と9月から10月末までの約3ヶ月間だけで、この期間はバラエティ番組にゲスト出演している。外国がとても好きなようだが、以前、TBS『ベストタイム』に出演した折、寿司を食べてビールを飲んでご満悦の様子で「日本人でよかった」とコメントした。

海外移住先をハワイではなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにした理由について、井原高忠がハワイに移住したがハワイは物価が高く、ゴルフ場料金も高いため老後の移住先として不適格と判断したため。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの順で永住権(永住資格)を取得している。

バラエティ生放送じゃなきゃ駄目。今の番組はすぐにスタッフの意向でハサミを入れる(カットする)から、出演者の面白さが全部切り取られている」「映画は監督のもの、テレビはホストのもの」が口癖[注 7]。なお、本人も日本に帰ってきた際、オファーがあれば収録番組にも出演するが、実際自身が視聴する番組は生放送の番組だけだという。

メジャーリーグベースボール(MLB)評論家としても知られ、日本のMLB通タレントでもあり、メジャー30球団の選手名鑑を発売する程精通している。また、アメリカンフットボールにも造詣が深く、参議院選挙出馬前は、NHK BS1NFL中継の解説を担当したこともある。サンフランシスコ・フォーティナイナーズのファンを公言していた。

2005年5月9日、『笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」に出演。

2009年2月12日、同年4月にオーケープロダクションが設立40周年になるのを期に、オーケープロダクションがイーストの完全子会社となり、それと同時に巨泉自身もオーケープロダクションの取締役会長を退任した。

2013年10月13日、次女の豊田チカと共に横浜ジャズプロムナードに出演。

闘病・晩年[編集]

2005年5月、胃癌を患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。

2013年11月、中咽頭癌を発症し摘出手術を受ける[18]

2014年11月、肺と食道の間にある「縦隔」のリンパ節に腫瘍が見つかり、放射線治療を受ける[19]

2015年5月18日、肺癌の手術を受け、右肺の約3分の1を摘出[20]

2015年10月14日、縦隔のリンパ節に2か所発見された腫瘍の除去手術を受ける[21]。手術から5日後の10月19日にはゲストとして『徹子の部屋』の収録を行った(11月2日放送分)[22]

2015年11月3日腸閉塞の疑いで入院[23]。13日にいったん退院した後、27日に再び入院、30日に開腹手術を受けた。軽い腸閉塞で、がんの転移もなく、手術は成功した[24]12月9日に退院[25]。21日放送のTBSラジオ六輔七転八倒九十分』へのゲスト出演が予定されていたが、リンパ節除去手術の影響で声がかすれることから出演を見送った[26]。その後、2016年2月4日放送分の『徹子の部屋』に永六輔とともにゲスト出演している[27]

2016年2月には左鼻腔内に新たな癌が見つかり、外科手術を避け、抗がん剤および放射線による治療を行った[28]

その後も闘病しながら活動を続けていたが、体力の低下を感じて2016年3月27日に入院、4月5日に一旦退院して在宅介護に切りかえたものの、在宅介護の医療機関によるモルヒネ鎮痛剤の誤投与により極端な体力減退に陥って4月11日に都内の病院に緊急入院し[29]、5月下旬には集中治療室に入っていた。週刊現代で連載していたコラムも6月27日発行号掲載分で容態悪化を説明し「気力も体力もない」と連載を終了[30]

2016年7月12日午後9時29分、急性呼吸不全のため、入院先の千葉県の病院で死去した。82歳没[31][32]法名は、「巨泉院釈克導」(きょせんいんしゃくこくどう)[33]。通夜と葬儀は親族のみで済ませ、9月5日に「大橋巨泉を偲ぶ会」を開催された[29]。2月に『徹子の部屋』で共演した親友・永六輔7月7日に他界。公表されたのは巨泉の死の前日の11日であった。巨泉の訃報に際し急遽7月20日放送の『徹子の部屋』では、2月4日放送の永六輔と出演した放送分を放送した。

巨泉の訃報を受け、芸能界では追悼のコメントが多く寄せられた。『クイズダービー』のレギュラー解答者として巨泉と共演した篠沢秀夫は「巨泉さんは大物で真の天才です」、竹下景子は「私のコンサートや舞台、ドラマにもよくダメ出ししてくれた」とそれぞれコメントした[34]。また『世界まるごとHOWマッチ』で共演した石坂浩二は「たくさんの巨泉さんの姿と言葉が頭の中を巡っています」とコメントし[35]ビートたけしは「長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんがジャイアンツの全盛期だとしたら、テレビの全盛期は大橋巨泉じゃないかって」と7月23日放送の『新・情報7days ニュースキャスター』で語った[36]

お別れの会は2016年9月5日に「大橋巨泉さんを偲ぶ会」と題して東京都港区グランドプリンスホテル新高輪で営まれた。偲ぶ会には黒柳徹子王貞治、石坂浩二、ビートたけし、タモリ関口宏、竹下景子、小倉智昭菅直人ら芸能・スポーツ・政財界から約600人が参列し、弔辞は黒柳、王、関口が読み上げた。偲ぶ会が行われた会場には、「思い出コーナー」と題した、巨泉が司会を務めた看板番組『クイズダービー』と『世界まるごとHOWマッチ』の番組セットが復刻展示された。

主張[編集]

  • 選択的夫婦別姓制度導入について賛同する。「たとえ多数が現状に満足していても、不利を蒙る少数派のために法律は変更すべき」「頑なに同姓以外認めないのは、世界中で日本国だけになってしまった」と述べる[37]

その他[編集]

  • 1969年に放映されたパイロット万年筆のCMで譜面台の上で万年筆を走らせながらしゃべった「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」という台詞が当時の流行語となる。この台詞は巨泉のアドリブだったといわれているが[38]、一時は巨泉のものまねを演じる際に枕詞のように用いられることも多かった。この台詞は後に昭和万葉集(1980年発刊)に短歌として収録されている。
    • 巨泉の著書「巨泉 人生の選択」によると、当時パイロットは経営危機に陥っており約800名ものの大量解雇を決断せざるを得ない瀬戸際に追い込まれていたのが巨泉起用のきっかけで、当初はまったく別内容の台本が用意されていたものの「ありきたりのメッセージで、面白くも何ともない」と巨泉がクレームを付けたことから自らアドリブで演じたのが「ハッパふみふみ」だったという。CMはこのアドリブものと台本ものを両方収録しパイロット側に見せて決定することになり、アドリブものが採用に決まった(結果は見事大成功で、経営危機を脱して大量解雇も回避できた)。また巨泉は同書でこの台詞について「(自身の二大趣味であった)俳句の韻律とジャズのアドリブ・リズムが結び付いて生まれたもの」「言葉にとくに意味はなく、なんとなく“短くて書き良い万年筆”というイメージが浮かべば良かった」「収録後に“台本のを放映したら、この会社はダメだな”と、マネジャーに言った」「放映から数ヶ月後に会社のパーティーに招かれ、社長と労組委員長の双方から感謝された(通常、労使双方からこのように好意的に受け入れられることは皆無である)」と語っている。
  • タレントを呼び捨てにしたり、馴れ馴れしく呼ぶ司会者は当時としては珍しかった。タレントを呼び捨てで呼ぶのは、巨泉にとって早大・ジャズ業界・司会業の先輩にあたる小島正雄の「ステージの上にいるものはギャラをもらって商売してるんだ。下で見ている人たちは金を払ってきているお客様だ。売っている人間同士が買ってくださるお客に対して「さん付け」で紹介するなんて、それこそ失礼だと思わないか」という教えを守ったためである[39]。一部の女性タレントに対しては「ちゃん」付けで呼ぶこともあった。
  • テレビ出演の時にかけている黒縁の眼鏡伊達眼鏡(俗に言う巨泉メガネ)である。極度の近視のため視力が悪く、テレビ出演時に眼鏡をかけるとレンズが光を反射し視聴者はテレビを見難くなるとの理由からコンタクトレンズを着用していたが、「眼鏡を外すと誰だかわからない」との指摘を受けコンタクトレンズをつけ、レンズの入っていないフレームのみの眼鏡を着用しテレビ出演をしている[40]。これは後に、天野ひろゆき久保田雅人などに影響を与えることになった。近視と加齢でこれまでに加齢性網膜剥離緑内障加齢黄斑変性を発症している。
  • 良性腫瘍で手術の必要がなくても医師には切るように依頼している。これは、巨泉の母親が、子宮筋腫を放置し早くに亡くなっており(戦後の医療事情から子宮癌を誤診したのではないかと語っている)、早く治療することが「おふくろに対するせめてもの孝行」だという[41]
  • 1969年に再婚した際、それまで年齢を4歳多く偽っていたことを明らかにした(通常、年齢を偽る際に多く偽るケースは少ない)。これは大学時代に定期券を購入するため申込書に「昭和九年」と書いたところ雨で滲んでしまい、係員が「昭和五年」と読み違えてしまったことがきっかけ。しかし当時ジャズ評論家として活動していた巨泉にとっては「十代では馬鹿にされてしまう」「大学に高校時代の同級生は一人もいない」と好都合だったことから結局直さないことにしたという。
  • 愛川欽也財津一郎玉置宏藤村俊二前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人らと「昭和九年会」を結成した。前田は巨泉が司会を務める番組のテーマ曲を多く手掛けてた。
  • 巨泉が総合司会を務めていた『ギミア・ぶれいく』の1コーナーのアニメ『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造役の声優・大平透とは50年来の大の親友であった。喪黒福造のモデルは巨泉自身である。巨泉は大平の逝去からちょうど3ヶ月後に世を去った。
  • 『クイズダービー』の司会を巨泉から引き継いだ徳光和夫は、自身の『クイズダービー』初収録の時に1時間弱かかった時に番組スタッフから「巨泉さんは(クイズダービーの)収録を毎回35分くらいで済ませていた」と聞かされ、「『(巨泉さんは)司会の天才だ』と、改めて自分との能力差に愕然とした」ことを語っている[42]
  • ケント・ギルバートは「巨泉の話す英語は上手い」と発言している。
  • ピンク・レディーキャンディーズAKB48マイケル・ジャクソンは認めていない。「歌は歌。踊りは踊りで勝負しろ。歌と踊りは両立出来ない」と述べていた。週刊現代のコラムでは日本のアイドルを評し「若い娘集団にいい年をしたおじさんが夢中になるのは日本くらいだろう。」とAKB48について評している。
  • 九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めた[43]
  • 神奈川県保険医協会を事務局とする「医療費の窓口負担『ゼロの会』」の賛同者である[44]
  • ゴルフに対する造詣も深く、「巨泉インビテーション→巨泉招待→巨泉ゴルフトーナメント」を企画・主催し、大会会長を務めた。
  • 好感度ナンバーワンタレントというタイトルは一番要らないと公言し「そうなったらその時点で辞めようと思っていた」と言っていた。「自分は黙ってたってスターだから、自分の周りの共演者たちをスターにすることを、司会業をする上で心がけていた。それが全部自分に帰ってくるから。でもヨイショするのは嫌だし」といった持論を展開していた[45]

家族[編集]

1956年にはジャズ歌手のマーサ三宅と結婚。2女をもうけたが、1964年に離婚。1969年、14歳年下で当時アイドルであった浅野順子(デビュー当初の芸名および本名(当時)は、浅野寿々子)と結婚(巨泉は2度目で浅野は初婚)。巨泉35歳、浅野21歳での結婚は“少女誘拐”とマスメディアに騒がれた。ジャズ歌手の大橋美加(長女)とチカ・シンガー(次女)は、マーサ三宅との間の娘。浅野順子との間には子はいない。

タレントの大谷瑠奈は孫(美加の娘)である。なお、彼女を含めて5人の孫がいる。姪には大橋ひろみがおり、フジテレビ『クイズ!知ッテレQ』のレポーター、日本テレビ『クイズ笑って許して!』の2枠解答者として出演した他、1984年秋には伯父の巨泉と「CFカード」のCMにも出演した。また、実弟の大橋哲也はオーケープロダクションの社長を務めた(現在は同社相談役)。

著書[編集]

  • 『巨泉人生教室』コダマプレス、1966 
  • 『巨泉・遊びの実戦教室』桃源社 ポピュラー・ブックス 1967
  • 『巨泉の誘惑術入門 イキでスマートに遊ぶ法』実業之日本社 ホリデー新書 1968
  • 『巨泉の麻雀 君の打ち方では勝てない』日刊スポーツ出版社 1971
  • 『巨泉の真言勝負 大橋巨泉対談集』朝日新聞社、1973
  • 『巨泉の考える競馬 調教タイムを見る前に』日刊スポーツ出版社 1974
  • 『巨泉の勝つ馬券』講談社 1976
  • 『巨泉の勝つ馬券 part2』講談社 1976
  • 『巨泉・競馬界を斬る~君の馬券評価に矛盾あり!~』日刊スポーツ出版社 1977
  • 『巨泉流飛車落定跡 プロを攻略する』講談社 1977
  • 『わがシングルへの道』講談社、1977 のち文庫
  • 『巨泉・競馬界を斬る2~日本の競馬は滅亡する~』日刊スポーツ出版社 1982
  • 『ボクは鍋奉行?-巨泉のおいしいおいしいエッセイ』主婦の友社 1983
  • 『巨泉のこんなモノいらない!?』全3巻 日本テレビ放送網 1989-90 
  • 『巨泉の使える英語 学校では絶対に教えない英会話革命』ワニブックス 1990 のち講談社文庫 
  • 『競馬解体新書 サラブレッドとファンのために』ミデアム出版社 1990
  • 『巨泉の重賞競走予想全書』ミデアム出版社 1992
  • 『巨泉の使えない英語 完全保存版』朝日放送編 ワニブックス 1993
  • 『巨泉の使いこなす英語』ワニブックス 1994
  • 『愚直』講談社 1996
  • 『こんな民主主義いらない』講談社 1997
  • 『異見のすすめ』講談社 1998
  • 『生意気--東京下町青春記』三天書房 1999 - 青春期の日記
  • 『巨泉--人生の選択』講談社 2000 のち文庫 自伝
  • 『巨泉日記』講談社 2000 のち文庫 
  • 『出発点』講談社文庫、2001
  • 『「国会議員」失格』講談社、2002 
  • 『大橋巨泉のこうすりゃよくなる、日本のスポーツ』朝日新聞社、2002
  • 『岐路』講談社文庫、2002 
  • 『巨泉 2』講談社、2003 「巨泉流成功!海外ステイ術」文庫 
  • 『巨泉流メジャー・リーグを楽しむ法』講談社、2003 
  • 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』講談社、2004 
  • 『パリ・マドリード二都物語--名画とグルメとワインの旅』講談社、2005 
  • 『がん--大橋巨泉の場合』講談社、2005 
  • 『どうせ生きるなら』角川oneテーマ21 2006 
  • 『大橋巨泉の超シロウト的美術鑑賞ノート』ダイヤモンド社 2008
  • 『大橋巨泉の美術鑑賞ノート 2 目からウロコの絵画の見かた カラヴァッジョからフェルメールまで』ダイヤモンド社 2008
  • 『やめたら』角川oneテーマ21 2009 ISBN 4047101761
  • 『大橋巨泉の美術鑑賞ノート 3 誰も知らなかった絵画の見かた ゴヤターナードラクロワをどう見るか』ダイヤモンド社 2010 ISBN 978-4-478-01328-1
  • 『大橋巨泉の美術鑑賞ノート 4 印象派こんな見かたがあったのか マネドガルノワール真の印象派は誰だ』ダイヤモンド社 2011 ISBN 978-4-478-01572-8
  • 『日本人メジャーリーガー一流の条件』ベスト新書 2011
  • 『大橋巨泉の美術鑑賞ノート 5 人生が楽しくなる絵画の見かた ゴッホ以後の100年をどう見るか』ダイヤモンド社 2012
  • 『大橋巨泉「第二の人生」これが正解! 人生80年時代「後半生」を楽しく生きるための10の選択』小学館 2013
  • 『366日命の言葉』ベスト新書 2013
  • 『知識ゼロからの印象派絵画入門』幻冬舎 2013
  • 『巨泉の遺言撤回 「今回の人生では○○しない」』講談社 2014
  • 『それでも僕は前を向く』集英社新書 2014

共著[編集]

翻訳[編集]

  • ビリー・ホリデイ著 ウィリアム・ダフティ監修『黒い肌』油井正一共訳 清和書院 1957
  • レジナルド・スマイズ『アンディキャップブックス』全6巻 奥山侊伸共訳 ツル・コミック社 1970
  • 『奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝』油井正一共訳 晶文社 1971
  • ドン・ウェイド『ゴルフが嫌いになる本 これを読んでも好きならあなたは本物のゴルファー』ジャパンタイムズ 1992
  • ボッブ・チャイジャー,パット・サリヴァン『ゴルフ狂に捧げる本 眠られぬゴルファーのために』編訳 飛鳥新社 1992

出演番組[編集]

1960年代後半から1970年代初めにかけては、多くのレギュラーを抱えていたが、OKギフトショップを開業した頃から、主要なものを除き司会番組をセーブするようになった。

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

アニメ[編集]

音楽作品[編集]

巨泉は歌手ではないものの、レコードを出すなど音楽活動は行っていた。

  • 『おれは天下の百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平、1969年7月5日発売、『巨泉のスター百面相』(フジテレビ)主題歌)
  • 『こりゃまたみなさん百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平、おれは天下の百面相のB面曲)
  • 『さすがわかってらっしゃる』(作詞:大橋巨泉、作曲:森田公一、1973年5月5日発売、当時巨泉が出演していたサントリー「純生」コマーシャルソングとしてこの曲の替え歌『ご当地、ビールは?』が使用された。非売品ソノシートが存在する。2003年9月29日にEMIミュージック・ジャパンから発売されたコンピレーションアルバムCD『笑タイム』の第11トラックにも収録)
  • 『大橋巨泉 プレイボーイ入門』(ナレーションを収録。演奏:八城一夫とオールスターズ)
  • 石原裕次郎『嵐を呼ぶ男』(作詞は名義上井上梅次になっているが、巨泉が補作している[46]

連載[編集]

主に競馬関連のコラムをスポーツ新聞各紙の中央競馬面に執筆していた。

主な所有馬[編集]

勝負服は緑、白一本輪、赤袖。当初は本名の大橋克巳名義、1987年頃からオーケー商事名義を使用した。所有馬には音楽関係の名前を付けることが多かった。晩年は中央競馬所属の所有馬はいなかった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ a b 参考[1]。「大橋 克己」と誤記する場合あり[2]
  2. ^ a b 出身地「東京都(本所両国)」[1]とする資料あり。
  3. ^ 『11PM』の司会は他にも愛川欽也が担当していた。
  4. ^ 当初は『巨泉の日曜競馬ニッポン』。1980年代になって『巨泉の責任プロデュース・日曜競馬ニッポン』と改められる。
  5. ^ 田村康仁調教師の父。
  6. ^ 巨泉は『爆笑問題の日曜サンデー』(2008年9月14日)に出演した際、この発言を引き合いに出し、当時首相であった福田が唐突に辞意を表明したことについて逆に批判している。
  7. ^ 巨泉が司会を務めていた番組はほとんど収録番組であったが、全て放送時間と同じ時間で収録を行っており、極力カットもしない「撮って出し」の方式を採用。2010年代時点において、このスタイルを取り入れている日本のテレビ番組テレビ朝日徹子の部屋』、フジテレビ『ライオンのごきげんよう』など数本しかない。
  8. ^ 社台レースホースの持ち馬であり、巨泉自身も一口馬主として権利を所有していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e オーケーエンタープライズ公式サイト内プロフィール(外部リンク)を参照。
  2. ^ 戸籍名は克巳だが、本名をたまに書く時はどうしても克己と書いてしまう、と『ゲバゲバ70年!』p.18にある。
  3. ^ a b 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.107
  4. ^ オーケーギフトオンラインショップサイト内社長ご挨拶 - 2007年4月付掲載
  5. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.19
  6. ^ a b 写楽小学館)1986年1月号「すぎやまこういちの珍品ためいき写真館」
  7. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.79 - 80
  8. ^ 「30代の軌跡 大橋巨泉」 光文社『DIAS』(2002年2月7日号)小山唯史
  9. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.357
  10. ^ “OKギフトショップ、バンクーバーに誕生から40年-大橋巨泉さん「OKギフトは僕の分身」”. バンクーバー経済新聞. (2013年1月3日). http://vancouver.keizai.biz/column/22/ 2016年9月26日閲覧。 
  11. ^ 『巨泉の重賞競走予想全書』p.13
  12. ^ 『ミスター・ジャパンカップと呼ばれた男』p.92-93
  13. ^ 「ボクの作った格言」(『巨泉の重賞競走予想全書』、p.1539)
  14. ^ 朝日新聞 2016年7月22日夕刊 13面「有吉正徳の競馬ウイークリー」
  15. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.495
  16. ^ 追悼 大橋巨泉とビートたけしと仲間たちの爆笑秘話(2)
  17. ^ 朝日新聞 2001年8月7日朝刊
  18. ^ “大橋巨泉 中咽頭がん手術”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2013年11月26日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131126-1223201.html 2015年10月26日閲覧。 
  19. ^ “大橋巨泉、3度目がん!肺と食道の間のリンパ”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2014年12月1日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20141201-OHT1T50045.html 2015年10月26日閲覧。 
  20. ^ “肺がん摘出の大橋巨泉が退院「ご声援を感謝します」”. SANSPO.COM (株式会社 産経デジタル). (2015年5月23日). http://www.sanspo.com/geino/news/20150523/geo15052305000007-n1.html 2015年10月26日閲覧。 
  21. ^ “大橋巨泉、14日に手術していた…4度目がん転移”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2015年10月26日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151025-OHT1T50237.html 2015年10月26日閲覧。 
  22. ^ “大橋巨泉、徹子の部屋で生還報告”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2015年11月2日). http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/11/02/0008532326.shtml 2015年11月2日閲覧。 
  23. ^ “大橋巨泉が腸閉塞で緊急入院も食欲あり大丈夫”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2015年11月25日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1571007.html 2015年12月15日閲覧。 
  24. ^ “大橋巨泉が腸閉塞手術 退院は1週間から10日ほど”. SANSPO.COM (株式会社 産経デジタル). (2015年12月1日). http://www.sanspo.com/geino/news/20151201/geo15120105000016-n1.html 2015年12月15日閲覧。 
  25. ^ “大橋巨泉、腸閉塞の手術から退院”. スポーツ報知 (株式会社報知新聞社). (2015年12月15日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151214-OHT1T50206.html 2015年12月15日閲覧。 
  26. ^ “大橋巨泉 ラジオのゲスト出演見送り 手術の影響で声かすれ…”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2015年12月22日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/12/22/kiji/K20151222011729380.html 2015年12月22日閲覧。 
  27. ^ “大橋巨泉が永六輔とテレビ出演”. デイリースポーツ. (2016年2月4日). http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2016/02/04/0008777585.shtml 2016年2月4日閲覧。 
  28. ^ “巨泉 新たながん 体重47キロに”. デイリースポーツ online. (2016年3月25日). http://www.daily.co.jp/gossip/illness/2016/03/25/0008925071.shtml 2016年7月20日閲覧。 
  29. ^ a b “タレント大橋巨泉さん死去 急性呼吸不全 82歳”. ORICON STYLE (オリコン). (2016年7月20日). http://www.oricon.co.jp/news/2075381/full/ 2016年7月20日閲覧。 
  30. ^ 大橋巨泉さんが死去 12日、急性呼吸不全 82歳,日刊スポーツ,2016年7月20日
  31. ^ タレントの大橋巨泉さん 死去,NHK NEWS WEB,2016年7月20日
  32. ^ 大橋巨泉さん死去Yahoo!ニュース(時事通信社),2016年7月20日
  33. ^ “巨泉さんの戒名は「巨泉院釈克導」 小倉氏がとくダネ!で明かす”. デイリースポーツ. (2016年7月20日). http://www.daily.co.jp/gossip/2016/07/20/0009301956.shtml 2016年7月20日閲覧。 
  34. ^ 「クイズダービー」出演者も巨泉さん追悼 篠沢教授「真の天才」”. スポーツニッポン (2016年7月21日). 2016年7月24日閲覧。
  35. ^ 石坂浩二「姿と言葉が頭の中を巡る」/巨泉さん悼む”. 日刊スポーツ (2016年7月20日). 2016年7月24日閲覧。
  36. ^ たけし 大橋巨泉さんに最大級の賛辞「テレビの全盛期」”. スポーツニッポン (2016年7月24日). 2016年7月24日閲覧。
  37. ^ 「今週の遺言」、週刊現代、2015年3月14日号
  38. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.216
  39. ^ 『ゲバゲバ70年!』の記述を、南沱楼綾繁『「11PM」人物列伝1 小島正雄(『昭和・平成 お色気番組グラフィティ』河出書房新社 2014年 ISBN 978430927524 P27)』より孫引き
  40. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.175
  41. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.90 - 97
  42. ^ [hhttp://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/07/21/kiji/K20160721013006220.html “共演者ら追悼 萩本欽一「今のテレビは巨泉さんが開拓した道継承」”]. スポーツニッポン. (2016年7月21日). hhttp://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/07/21/kiji/K20160721013006220.html 2016年7月21日閲覧。 
  43. ^ マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)
  44. ^ 大橋巨泉さんが賛同 「ゼロの会」憲法の精神を守る運動!医療費の窓口負担「ゼロの会」 公式サイト
  45. ^ 中居正広 遠慮がちに聞いた質問 巨泉さん「一番要らないと思ったのは好感度」”. スポーツニッポン (2016年7月22日). 2016年7月24日閲覧。
  46. ^ 『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』p.111 - 113

外部リンク[編集]