村上光一

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 むらかみ こういち

 村上 光一
生誕 (1940-03-02) 1940年3月2日(84歳)
台湾
出身校 東京外国語大学外国語学部スペイン語学科
職業 実業家
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村上 光一(むらかみ こういち、1940年(昭和15年)3月2日 - )は、日本実業家フジテレビジョン社長、日本映画放送社長などを務めた。

来歴・人物[編集]

台湾で生まれ、終戦後、東京都引き揚げて育つ。東京都立新宿高等学校東京外国語大学外国語学部スペイン語学科を卒業。俳優中村敦夫は高校・大学の同級生。

1962年にフジテレビ入社。同期入社に横澤彪、松本みどりがいて、横澤が亡くなった際には葬儀委員長を務めた[1]

入社以来、編成や制作畑を中心に活躍。現場の制作担当者だったころは、「ドラマをやるとあたらない」と言われ、打ち切り番組もあった[2]。「不本意だったが」が、バラエティでは奮起して挽回する[2]1978年の『白い巨塔』ではエキストラとして出演、また1985年日航機墜落事故ではスクープ映像放送に大きく貢献した。

編成局編成部長を経て、1988年7月に編成局長、1991年6月に取締役に選任、1995年6月に常務取締役編成担当、1999年6月に専務取締役業務推進本部長(番組審議室担当)に昇進する。

2000年2月、フジテレビ等が出資し設立した日本映画衛星放送の初代社長を兼務し、2001年6月にフジテレビ社長となる。そろって6月末に社長に就任した日本テレビ萩原敏雄は、かつて編成局長どうしで視聴率競争を繰り広げた好敵手でもあった[2]。社長時代には、ライブドア騒動や系列の関西テレビ制作の『発掘!あるある大事典2』のデータ捏造問題が起きた一方、"視聴率3冠"を奪還するなど業績回復を果たし[3]2007年6月に相談役に退く。

2009年9月より東京外国語大学の理事を務めた。

オペラ好きで[2]、若い頃に無断で長期休暇を取り、ヨーロッパにオペラ鑑賞に行った事がある。

親族[編集]

夫人は、脚本家内舘牧子と高校の同級生である[4]

携わった映画[編集]

製作[編集]

製作総指揮[編集]

企画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日新聞』夕刊 2011年2月26日 8頁
  2. ^ a b c d 「フジテレビジョン 村上光一氏 視聴率首位奪還へ意欲(新社長)」『朝日新聞』2001年8月14日 6頁
  3. ^ 「フジ新社長に豊田常務昇格 村上氏、引責を否定」『朝日新聞』2007年5月17日 33頁
  4. ^ 「女の友情 脚本家内館牧子氏(交遊抄)」『日本経済新聞』1991年8月17日 36頁