引揚者

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引揚証明書

引揚者(ひきあげしゃ)とは、1945年昭和20年)8月15日日本大東亜戦争太平洋戦争および日中戦争)で連合国に降伏したことを受け、日本の外地[注釈 1]占領地[注釈 2]または内地ソ連軍被占領地[注釈 3]居住ないし移住していた民間日本人のうち、日本の本土内地)へ帰還(引き揚げ)した者を指す[1][注釈 4]。「引揚者」に該当する者の範囲は引揚者給付金等支給法(第2条第1項)や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(第2条第1項)によって規定され、「引揚者」に認定された者はこれら法律に基づく給付行政の対象とされた。

敗戦時点で海外に在住する日本人は軍人民間人の総計で660万人以上に上り、引揚げした日本人は1946年末までに500万人にのぼった。だが、残留日本人の詳細な数や実態については現在も不明である[2]

米軍占領下地域[編集]

大竹引揚援護局

GHQ/SCAPダグラス・マッカーサー総司令官は人道的立場から引き揚げを早期に終了させるつもりでおり、GHQ指令で厚生省引揚援護庁を設置し、行政事務を行った。1945年11月24日、厚生省は佐世保、博多、鹿児島、唐津、仙崎、宇品、舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置するよう告示した[2]東南アジア台湾、中国、朝鮮半島南部(北緯38度線以南)などからの引き揚げは、ソ連軍占領下地域の満洲・朝鮮北部(北緯38度線以北)などと比較するとスムーズであり、1946年には9割以上達成された。また在外父兄救出学生同盟は朝鮮に渡航し、金日成に直訴した。

1948年には引揚者団体全国連合会が発足した。引揚者や復員者の就労のために戦後開拓事業がなされた。

持込制限

GHQは外地からの内地への資産持ち込みによるインフレーションを懸念し、引揚者が持ち込んだ通貨証券類の多くを税関などで預託させる持込制限措置を行った。税関は1953年より預託品の返還を行っているが、50年以上経った現在でも持ち主が現れない現金、証券類が保管されている。

沖縄[編集]

アメリカ軍の軍政下に置かれた沖縄への正式な引き揚げ事業は本土よりも後れて1946年に開始されたが、それ以前に民間船による密航で自力帰国した者が多い。1945年(昭和20年)11月1日、台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡する栄丸遭難事件が発生した。

ソ連軍占領下地域[編集]

1945年昭和20年)8月9日から樺太満洲朝鮮半島へのソ連侵攻がはじまり、1945年8月15日ポツダム宣言受諾により日本軍が武装解除した終戦の日以後もソ連軍は進攻を続けた。

樺太[編集]

日本のポツダム宣言受諾後も樺太では戦闘が続き、樺太庁は高齢者・年少者を優先して日本本土に引揚させていた。8月22日に樺太からの引揚船小笠原丸第二号新興丸泰東丸などが北海道留萌沖で国籍不明の潜水艦に攻撃され沈没、1700名以上が死亡する三船殉難事件が発生した。国籍不明の潜水艦はのちにソ連軍のL-19、L-12でほぼ間違いないことが判明している。なおソ連軍の潜水艦のうちL-19も原因不明だが沈没している。

満洲、朝鮮北部[編集]

祖国(内地)を目前に斃れた引揚者の葬儀

満洲や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満洲からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。日本から多数の入植者が送られていた満洲においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は現地住民らの敵意にさらされたり、困難を極め、食糧事情や衛生面、治安の著しい悪化、また、1945年中は日本本土での食糧不足を懸念する日本政府の意向や1946年半ばからは中国国共内戦の激化等もあって、帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる。

朝鮮半島の北緯38度線以北にいた日本人は、引揚事業の費用負担をソ連のどの省が負うのか責任の先送りの間に栄養失調や飢えや病気で約5万人以上が死亡した。また、米ソ冷戦の顕在化のあおりで北緯38度線で交通が封鎖されるといったこともあった。しかし、20万人が自力で北緯38度線を越え釜山経由で日本へ帰国した。

日本人住民への略奪・強姦・虐殺行為[編集]

ソ連軍占領下の地域では、ソ連兵や中国共産党軍朝鮮人民義勇軍朝鮮保安隊、および暴徒化した現地在住の満州人、漢人、朝鮮人による日本人住民への暴虐行為や拉致があった。

元衆議院議員の米田建三は、雑誌『正論』で婦女子の強姦は有史以来、戦争には付き物とされるも、先の大戦での満洲・朝鮮における日本人婦女子の強姦は度を越して凄まじいものであったと主張。朝鮮人・朝鮮保安隊のレイプは残虐を極め、強姦・婦人の要求は「報い」として甘受できる被害とはとうてい言えるものではなく、ベルリン等ドイツ全土では200万人のドイツ女性がレイプされたと推定されるが、朝鮮人、朝鮮人の保安隊に犯される様はベルリン同様と述べている[3]

ここまで日本人が憎まれたのは、日本人が単に事実上の占領者であったというだけでなく、満州進攻以来の多くの一般住民も巻添えにした過酷なゲリラ討伐、労務者狩りと多くの死亡者を出したタコ部屋労働、日本人開拓団のための不当な廉価での現地住民土地の取上げ、日本軍の麻薬売買による収入体制の構築、一部に伝えられる日本人軍人・武装開拓団員らによる現地住民らに対する強姦・略奪行為、太平洋戦争の戦況悪化により物資とりわけ繊維・衣類等が不足し貧困層は衣服すら購入できなくなったこと等が挙げられる。

ソ連兵は規律が緩く、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為をおこなったと言われており[4]、妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている(ただし、これらは”不法妊娠"とされていて、当時の不法妊娠は広く婚外子全てを含むものであり、全てが強姦とは限らない。また、根こそぎ動員等で夫と離れていた女性らが引揚中に同行の日本人男性と事実婚状態になった場合にはそれを隠さねばならなかったというケースも多いとみられる。)[5]。夫の前でソ連兵にレイプされ、青酸カリで自殺した婦人もいた[6]興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」とわめき、女性を発見すると暴行した[6]。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った[6]。 また一部の満蒙開拓団では、未婚女性らを性接待係としてソ連兵に差し出すことで、ソ連への庇護を求めた[7][8][9]

また、中国共産党軍朝鮮人民義勇軍は在留日本人に資産接収や強制的な労務奉仕を課したため、国民党と結んで資産保全を図ろうとする者もいて、1946年2月3日通化事件のような蜂起とその後の日本人虐殺などが起きた。引揚列車に乗車後、乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた[10]

シベリア抑留[編集]

ソ連占領地からの引き揚げの遅れは、ソ連が日本人捕虜をシベリア開発に利用しようとしていたこと、満洲地区が国共内戦で政情不安定だったということ、などが影響したと見られている。関東軍の軍人とともに民間人の一部もシベリア抑留の対象となり、強制労働に従事させられた。

在満朝鮮人の引揚げ[編集]

1945年6月時点で在満朝鮮人人口は2,163,115人とされ、また実際には230万人いたともいわれる[11]。終戦後、在満朝鮮人は引き揚げを開始し、1946年まで714,842人が、1947年までには80万人以上が朝鮮へ帰還した[11]

終戦前に引揚げた朝鮮人もおり、その引揚げの理由について国民党の袁常恩は「ある韓僑(朝鮮人)は一貫して悪い行為をして国人(中国人)の報復を恐れ、ある韓僑は資産がかなりあって治安の未回復を心配し、ことに祖国の光復を憧憬」したためと述べている[11]

土匪による襲撃
満洲土匪は1945年11月に国民党軍が同地へ進出して以降、1946年5月にソ連軍が撤収するまで「朝鮮人は日本鬼子の共犯」として虐殺を行った[11]
1945年8月22日、大連付近の村では日本人とともに朝鮮人も襲撃され、1945年11月には汪清県羅子溝でも朝鮮人が虐殺された[11]
国共内戦
国共内戦が再開すると1946年、長春を占領した中国共産党東北局および朝鮮人部隊(東北民主連軍吉遼軍区第一旅団第一団、兵力2000)と国民党軍が戦闘、中共軍は撤退すると、1946年5月23日に長春で朝鮮人兵士らが虐殺された[11]
1946年5月にソ連軍が撤収を開始すると、東安(現黒竜江省密山市)の郭興典土匪部隊5月14日、東鮮、東明、東興の朝鮮人村を殲滅させ、5月26日には東安城で「朝鮮人の種を無くす」といいながら数百人の朝鮮人が大量虐殺された[11]。北満洲の牡丹江の朝鮮人村オハリムでは朝鮮人は「二等公民」として全滅させられた[11]5月28日には吉林省で国民党軍が「高麗人は皆共産党で八路軍」であるとして朝鮮人に強制労働を強いたり婦女暴行を行った[11]
1946年12月に中共軍の周保中は「延辺朝鮮民族問題」という演説で「中国人は三等国民だったから、解放当時、一般的に報復心理が存在した」と述べた[11]
残留朝鮮人
中国共産党は1946年から1948年にかけて在満朝鮮人を満洲に定着させるために帰農運動を展開し、土地配分などを行い、残留した朝鮮人も多く、また朝鮮人日本兵として出征していた子の帰還を待つため残留した朝鮮人もいた[11]。1951年時点で中国朝鮮族は1,068,839人となった[11]
在満台湾人
また、満洲国政府には多くの台湾人官吏として採用されていたため(新京市長は台湾人)彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本では殆ど語られていない。

中国国民党政権による送還[編集]

中国国民党は1946年5月から日本人送還を開始した。

1946年12月には米軍と国民党によって在満朝鮮人2483人が南朝鮮に帰還した[11]

中国からの引揚げは1953年3月23日に再開され、「興安丸」「高砂丸」が3,968人を乗せて舞鶴に入港した。

台湾からの引揚[編集]

終戦時における在台湾日本人は、軍人が16万6000人あまりを含めて48万8000人あまりであった。国民党政権は「台湾官兵善後連絡部」を設け、安藤総督が部長、須田農商務局長が副部長に任命された。実際の業務は副部長があたった。引揚は軍人から始められ1946年2月に完了した。一般人については、日本国内における食糧難をはじめとする混乱を恐れたこと、台湾の生活になじんでいること、台湾人からの報復もなかったことから、約20万人が台湾にとどまることを希望した。しかし、国民党政権は、インフレ等の社会問題の発生もあり、大量の日本人が台湾に残留することを望まなかった。一般人の引揚は1946年4月20日に完了した。引揚者一人あたり現金1000円、途中の食糧、リュックサック2つ分の必需品の持ち出しのみ許された。台湾からの引揚者は46万人弱であった。国民党政権が必要だとして2万2000人弱の技術者や教師が「抑留者」として一時台湾に残された[12]

引揚者が上陸した主な港[編集]

引揚者住宅[編集]

国は、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)にかけて、全国各地に引揚者用の住宅として約7万9000戸を建設、または旧軍関連宿舎などから転用した。その後、引揚者住宅は居住者に払い下げられたり、地方公共団体の所有、管理となった[13][14]

21世紀まで残った引揚者住宅[編集]

2012年以降、関西地区で自治体が管理する最後の引揚者住宅をめぐり、住民の退去を望む貝塚市と住み続けたい意向を持つ住民との間の軋轢が表面化。最終的に貝塚市は訴訟を通じて明け渡しを求めた。2020年(令和2年)10月30日、大阪地方裁判所は住民に対し、建物の明け渡しを命じた[15]

影響[編集]

引揚事業が一段落してからは在外財産補償問題がおこった。

中国残留日本人[編集]

また戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。

食文化[編集]

中華料理
引揚者達がもたらしたとされる食文化にはシナそば屋(ラーメン)店・ラーメン屋台餃子屋(主に焼き餃子)がある。それまで中華料理屋といえば、本格的な高級中華料理店、しかも広東・四川・北京・上海のものが主流であり、中国東北部地方の料理はあまり知られていなかった。関東地方ではタンメンが定着、北海道空知地方では含多湯(ガタタン)が定着した(いずれも全国区化は果たしていない)。福岡県では朝鮮半島からの引揚者によって辛子明太子が定着した(現在は全国区)。
ロシア料理
ピロシキボルシチなどロシア料理ももたらされた。なお、日本のピロシキに春雨が入っているのは中国東北部の影響。

引揚者だった著名人[編集]

ここでは五十音順に一部のみ示す。「関連する作品」節などで登場した人物は除外した。

記念館・資料館[編集]

関連する作品[編集]

体験記、小説
  • 流れる星は生きている」 - 藤原ていの1949年の自伝小説。藤原ていが3人の子供を抱えて、夫・新田次郎と離れ離れになりながらも日本に引き揚げるまでのいきさつを綴り、後に映画・テレビドラマにもなった。当時新田は満洲の気象台の職員であり、引き揚げ後は気象庁に帰属。富士山レーダー設置に関わり、退職後妻の後を追い小説家に転身した。
  • 「卡子(チャーズ) 出口なき大地 1948年満州の夜と霧」 - 遠藤誉作。1984年、読売新聞社。
  • 武蔵正道『アジアの曙―死線を越えて 』(自由社、2000年)
小説
  • 竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記(ヨーコ物語)」- 著者である日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズ自身は、日本語版の「あとがき」で、あくまで自伝的小説に過ぎないとしている。1986年にアメリカで出版され、戦争の悲惨さを訴える資料としてアメリカでは優良図書として中学校用の教材として多くの学校で使用されたこともあるが、ボストン、ニューヨークでは韓国系アメリカ人の運動家らがこの本には韓国人が日本人を虐殺したりレイプする描写があり、「誤った歴史認識を持ってしまう可能性」があるとして抗議、また、作者の経歴や内容の真偽に数々の疑問があり、真実とかけ離れた創作ではないかと、推薦図書から除外する運動が行われた[16]。2005年に韓国でも『요코 이야기(ヨーコ物語)』として訳出されたが後に発売中止となった。日本語版はこれらの問題もあって永らく出版されていなかったが2013年、ハート出版より出版された。
  • ペトロフ事件』 - 鮎川哲也の1949年の推理小説。
  • アカシヤの大連』 - 清岡卓行の1969年の小説。外地の日本人社会を一種のディアスポラとして描いた。
  • 『デラシネの旗』 - 五木寛之の1969年の小説。敗戦によりその社会を失ったことによる故国喪失感を描いた。
  • 『砲撃のあとで』 - 三木卓の1973年の作品。満洲引き揚げを題材にした作品で、芥川賞受賞作
  • お星さまのレール』 - 小林千登勢平壌からの引き揚げ体験をもとに描いた児童文学、1984年。
  • 赤い月』 - なかにし礼の1999年から2000年にかけて発表された小説。引き揚げの過程で子供たちを守り抜いた母親をモデルにした。後に映画テレビドラマ
映画
音楽
映像
  • TBSドキュメンタリー「引揚港・博多湾」「引揚港・水子のうた」1977年[2]
  • NHKスペシャル「引揚げはこうして実現した~旧満州・葫蘆島への道」2008年12月8日放送[31]
  • NHKスペシャル「知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~」[32]2013年8月12日放送
  • NHK ETV特集「忘れられた引揚者~終戦直後・北朝鮮の日本人~」2013年12月14日放送
  • NHK BS1スペシャル「満州 難民感染都市 知られざる悲劇/祖国への脱出」(2021年3月28日、NHK-BS)[33]
  • 湾生回家

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 台湾朝鮮関東州及び南洋諸島
  2. ^ 満洲(法律上は外国)及びその他日本軍の占領地。
  3. ^ 南樺太及び千島列島
  4. ^ 「引揚者」の呼称は非戦闘員に対してのみ用いられる。外地・外国に出征し、その後帰還した日本軍の軍人軍属は「復員兵」または「復員者」と呼ばれた。

出典[編集]

  1. ^ 『岩波日本史辞典』1999
  2. ^ a b c 阿部安成加藤聖文引揚げという歴史の問い方(上)」『彦根論叢』第348号,2004年
  3. ^ 正論』2005年11月号238~248ページ
  4. ^ 『正論』2005年11月号
  5. ^ 上坪隆『水子の譜』社会思想社現代教養文庫p.183「昭和21年6月10日付 二日市保養所報告書(報告対象期間=昭和21年3月25日~21年6月5日) "地域別と加害者" 不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、 南鮮14、満洲4、北支3ノ順序ニシテ鮮_人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ 」
  6. ^ a b c 戦後…博多港引き揚げ者らの体験読売新聞
  7. ^ 松田澄子「満洲へ渡った女性たちの役割と性暴力被害」『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第45巻、山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所、2018年3月15日、21-36頁。 
  8. ^ 平井美帆 (2017年8月23日). “ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白 - 満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える”. 現代ビジネス. 講談社. 2019年7月7日閲覧。
  9. ^ あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き -~開拓団「乙女の碑」は訴える【後編】”. 現代ビジネス. 講談社 (2017年8月24日). 2019年7月7日閲覧。
  10. ^ 第008回国会 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号”. 衆議院. 国立国会図書館 (1950年10月31日). 2010年9月29日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m 李海燕「第二次世界大戦における中国東北地区居住朝鮮人の引揚げの実態について」『一橋研究』第27巻第2号、一橋研究編集委員会、2002年7月30日、39-64頁、doi:10.15057/5625ISSN 0286-861X 
  12. ^ 伊藤潔著、中公新書『台湾‐四百年の歴史と展望』134ページ
  13. ^ 【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後”. NEWSつくば (2019年8月14日). 2023年11月11日閲覧。
  14. ^ 貝塚市の「引揚者住宅」立ち退き問題、解決の糸口見えず”. 産経新聞 (2014年11月17日). 2023年11月11日閲覧。
  15. ^ 引き揚げ者住宅、住人に退去命令 大阪・貝塚、自治会長の男性”. 千葉日報 (2020年10月30日). 2023年11月11日閲覧。
  16. ^ 第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推薦図書採択に韓人が反発中央日報2007年01月11日
  17. ^ a b 《速報》サザン桑田の父、死去 テレビ朝日
  18. ^ 原由子、硬軟自在に30年 ベスト盤「ハラッド」,朝日新聞デジタル, 2010年6月28日
  19. ^ TOKYO FM桑田佳祐のやさしい夜遊び」2020年7月25日放送分より。
  20. ^ TOKYO FM桑田佳祐のやさしい夜遊び」2012年10月27日放送分より。
  21. ^ TOKYO FM桑田佳祐のやさしい夜遊び」2018年7月28日放送分より。
  22. ^ “【エンタがビタミン♪】桑田佳祐 “人生で影響を受けた人物”や意外な“本籍地”明かす(1/2)”. Techinsight (メディアプロダクツジャパン). (2017年8月24日). https://japan.techinsight.jp/2017/08/maki08231947.html 2017年8月25日閲覧。 
  23. ^ “【エンタがビタミン♪】桑田佳祐 “人生で影響を受けた人物”や意外な“本籍地”明かす(2/2)”. Techinsight (メディアプロダクツジャパン). (2017年8月24日). https://japan.techinsight.jp/2017/08/maki08231947.html/2 2017年8月25日閲覧。 
  24. ^ a b About us | grill KONOMI | グリル木の実
  25. ^ みなみマート(茅ヶ崎駅前分譲)建替 46年の歴史に幕タウンニュース
  26. ^ 桑田佳祐「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」(1984年、新潮社、P11)
  27. ^ 平凡 1979年6月号内の記事「本誌独占! 桑田佳祐の母親・実家を大公開! 我が家のスターが帰って来る日・・・」より。
  28. ^ 桑田佳祐『やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』P55、新潮社、2012年
  29. ^ アテネに届け…こちらサザンは初の五輪応援歌!サンスポ
  30. ^ SWITCH Vol.33 No.4 Southern All Stars [我が名はサザン] p26より。
  31. ^ 引き揚げはこうして実現した 〜旧満州・葫蘆(ころ) 島への道〜”. NHK (2008年12月8日). 2021年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月15日閲覧。
  32. ^ NHKスペシャル 知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~ - NHK放送史
  33. ^ 満州 難民感染都市 知られざる悲劇/祖国への脱出”. テムジン (2021年3月28日). 2021年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月16日閲覧。

参考文献・資料[編集]

  • 厚生省引揚援護院編『引揚援護の記録』1947年(クレス出版, 2000年)
  • 満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』河出書房新社, 1962年
  • 森田芳夫『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と 日本人の引揚』 巌南堂書店, 1964年
  • 丸山邦雄『なぜコロ島を開いたか―在満邦人の引揚げ秘録』 永田書房、1970年
  • 森田芳夫・長田かな子編 『朝鮮終戦の記録 資料編』
    • 第1巻 日本統治の終焉, 巌南堂書店, 1979年
    • 第2巻 南朝鮮地域の引揚と日本人世話会の活動, 巌南堂書店, 1980年
    • 第3巻 北朝鮮地域日本人の引揚, 巌南堂書店, 1980年
  • 森川哲郎『満州の暴れ者(もん) 敵中突破五千キロ』(徳間書店、1972年)
  • 上坪隆『水子の譜 引揚孤児と犯された女たちの記録』現代史出版会、1979年(社会思想社現代教養文庫, 1993年)
  • 若槻泰雄『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社, 1995年
  • 木村英亮「ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録」『横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学』第42巻、横浜国立大学、1996年、19-39頁、ISSN 05135621NAID 110005858471 
  • 半藤一利 『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋, 1999年/文春文庫, 2002年)
  • 『海外引揚関係史料集成  国内編』全16巻, ゆまに書房, 2001年
  • 『海外引揚関係史料集成  国外編・補遺編』全21巻, ゆまに書房, 2002年
  • 阿部安成, 加藤聖文「「引揚げ」という歴史の問い方(上)」『彦根論叢』第348号、滋賀大学経済学会、2004年5月、129-154頁、ISSN 03875989NAID 110004473796 
  • 阿部安成, 加藤聖文「「引揚げ」という歴史の問い方(下)」『彦根論叢』第349号、滋賀大学経済学会、2004年7月、51-68頁、ISSN 0387-5989NAID 120001414428 
  • 阿部安成、加藤聖文「引揚げという歴史の問い方(下)」『彦根論叢』第349号, 2004年
  • 読売新聞「戦後…博多港引き揚げ者らの体験」2006年
    • <1>ソ連が来る 息潜めた」読売新聞2006年7月20日。
    • 「<2>医師らひそかに中絶手術」読売新聞2006年7月27日。
    • 「<3>麻酔なしの中絶手術」読売新聞2006年8月3日。
    • 「<4>日誌につづられた悲劇」読売新聞2006年8月10日。
    • 「<5>孤児収容所愛情の記憶」読売新聞2006年8月17日。
    • 「<6>孤児の女性が保母に」読売新聞2006年8月24日。
    • 「<7>子どもの心潤した食事と行事」読売新聞2006年8月31日。
  • 阿部安成、江竜美子「満州引揚スタディーズの試み」滋賀大学, 2007年
  • 半藤一利監修『敗戦国ニッポンの記録 昭和20年〜27年 米国国立公文書館所蔵写真集』アーカイブス出版, 2007年
  • 加藤聖文『「大日本帝国」崩壊-東アジアの1945年』中公新書, 2009年
  • 尹輝鐸『満州国:植民地的想像が生んだ複合民族国家(植民地的 想像이 잉태한 複合民族國家)』2013年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]