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浅野賢澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あさの よしずみ
浅野 賢澄
生誕 (1916-04-19) 1916年4月19日
岐阜県
死没 (1997-07-31) 1997年7月31日(81歳没)
東京都
死因 肺炎
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学法学部
職業 官僚実業家
家族 弟:浅野喜起
栄誉 勲六等瑞宝章(1946年)、勲一等瑞宝章(1988年)[1]
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浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年大正5年〉4月19日 - 1997年平成9年〉7月31日)は、日本官僚実業家郵政事務次官フジテレビジョン社長、日本民間放送連盟第5代会長を務めた。岐阜県出身[1]

来歴・人物

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京都帝国大学法学部卒業後、逓信省入省。経理局に配属される[2]短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、1940年(昭和15年)9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。工作艦明石に配属され、以後、海南警備府司令部付副官事務、舞鶴海軍航空隊主計長兼副官、第31航空廠会計科長、第三南遣艦隊司令部付、第33警備隊主計長兼副官を歴任。ミンダナオ島の戦いで辛酸をなめた。1945年(昭和20年)5月、主計少佐に進む。終戦後、タクロバン収容所に捕虜として収容され、1946年(昭和21年)3月に復員(解員)した[3]

郵政大臣官房文書課長電波管理局長等を歴任し、1967年(昭和42年)郵政事務次官に就任する。

佐藤政権下の67年から69年にかけて、元逓信官僚の郵政相小林武治と事務次官の浅野が、35局のテレビ局予備免許を与えるという第二次大量免許を主導した[4]。もっとも、権益を守りたい既存のテレビ局と新規参入側との利害が錯綜するだけに、政治的にまとめるには田中角栄の腕力が必要だった[4]。浅野は郵政相時代の田中に側で仕えて第一次大量免許に道を拓き、田中が電波行政に通暁するとともに官僚トップの事務次官に駆け上がったとされる[4]。35局のうちフジテレビの番組供給率が50%以上の局が14を占め、フジテレビは一挙に全国ネットワーク構築に成功した[4]

次官退任後、1971年(昭和46年)の参議院選挙岐阜県選挙区から自民党公認で出馬するが、中村波男日本社会党)に1万票余りの差で敗れ落選した。

フジテレビ社長

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1971年11月、フジテレビに社長含みの副社長で天下る[4]。1973年、社長であった鹿内信隆発案をもとに幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』が始まるが[5]、番組タイトルの「ひらけ」は、説話『アリババと40人の盗賊』に登場するセリフ「ひらけゴマ」、英語で「オープン・セサミ」から取られ、ポンキッキのほうは、浅野が執筆した小説に出てくる「ポンキッキ博士」の名から付けられた[5]

1974年(昭和49年)11月、社長に昇進し、自主制作番組のカラー映像化を推進する。1980年5月、「創立以来の最大の危機」と訴える会長の信隆は、「松下幸之助の故事にならい、自身が会長のまま強化本部長を兼務して第一線の指揮をとる」と役員会で電撃的に決め、長男の鹿内春雄が代表取締役副社長に就任することになった[6]。浅野は社長に留まったが、民放連の会長職に専念することが申し渡される[6]。1982年4月、会長に就き、サンケイスカラシップ理事長なども務めた。

1997年7月31日、肺炎で死去[1]。81歳没。

経歴

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その他役職

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映画作品

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家系

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先祖は浅野長政の弟で、賢澄は17代目[3]

脚注

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  1. ^ a b c 『産経新聞』1997年8月1日 第1社会面
  2. ^ 『日本官僚制総合事典』p.331.
  3. ^ a b 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』49、399-400頁。
  4. ^ a b c d e 中川 2019, p. 96.
  5. ^ a b 日本懐かしテレビ大全 2021, p. 142.
  6. ^ a b メディアの支配者 下 2009, p. 118.

参考文献

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  • 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月。ISBN 978-4130301213
  • 中川一徳『メディアの支配者 下』講談社文庫、2009年6月。ISBN 978-4062763844 
  • 中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社、2019年12月。ISBN 978-4065180877 
  • 『日本懐かしテレビ大全』辰巳出版、2021年12月。ISBN 978-4777828425