11PM

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WIDE SHOW 11PM
ジャンル ワイドショー
放送時間 下記参照
放送期間 1965年11月8日
- 1990年3月30日
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ(月・水・金曜)
読売テレビ(火・木曜)
企画 井原高忠
プロデューサー 後藤達彦
出演者 山崎英祐
藤本義一
小島正雄
大橋巨泉
三木鮎郎
愛川欽也
江本孟紀
村野武憲
吉田照美
三枝成彰
高田純次
所ジョージ
斎藤晴彦
由利徹
関根勤
出演者を参照)
オープニング 三保敬太郎「11PM のテーマ」
エンディング 同上

特記事項:
一時期、名古屋テレビ中京テレビ制作で土曜日にも放送されていた。(#エピソード参照)
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11PM』(イレブン・ピーエム)は、日本テレビ読売テレビ(当時は「よみうりテレビ」表記)の交互制作で1965年11月8日から1990年3月30日まで約24年半に渡って放送されていた深夜番組であり、日本初の深夜のワイドショーでもある。

正式名称は『WIDE SHOW 11PM』(ワイド・ショー - )、略称は「イレブン」。「イレピー」とも。開始当初は午後のことを「PM」(Post Meridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「11P・M」と記載されていた。

番組概要[編集]

それまで視聴率不毛の時間帯と言われた深夜の時間帯の開拓に乗り出し、『モーニングショー』(NET、現・テレビ朝日)同様、アメリカの夜の情報番組をヒントに企画された。現在では"お色気番組の元祖"的なイメージが持たれるが、初期は週刊読売編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べる日本テレビ報道局制作の硬派番組だった。しかし、視聴率が全く獲れなかったことから方針を転換、放送開始からわずか半年で報道局が総撤退して制作局に当番組の制作を移管するというテコ入れを施した結果視聴率も上昇し、深夜の時間が定着する。

毎週月曜・水曜・金曜は日本テレビが、火曜・木曜は読売テレビが制作。日本テレビでは大橋巨泉愛川欽也、読売テレビは藤本義一(作家)が主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。中でも木曜は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を、また金曜には週末情報の色合いを強め、釣り麻雀のコーナーを放送していた。

当初は月-木曜日はタイトル通り午後11時丁度のスタートで、金曜日のみ『日本プロレス中継』または『金曜夜席』の放送があったため、午後11時15分スタート。1954年10月に既に開始されていた、NNN最終版ニュース『きょうの出来事』を挿入した。後に『きょうの出来事』は午後11時丁度に放送時間が移動して再び独立し、『きょうの出来事』の放送時間の拡大が進むにつれ、『11PM』は放送時間が午後11時15分→11時10分→再び11時15分→11時20分→11時30分(金曜は『TVムック・謎学の旅』が入ったため午後11時45分)というように放送時間が繰り下がり、変化が進んでいく。いちばん遅いのが末期の頃で、午後11時55分スタートとなり、タイトルにもふさわしくなくなってきた。プロ野球中継(巨人戦)の時間延長やゴールデンタイムの特別番組の影響で午前0時台にスタートしてしまうことも少なくない。最も遅く始まった回は、1988年7月26日放送の火曜イレブンで、日本テレビが中継したプロ野球オールスターゲームの放送が1時間延長されたため午前0時55分からスタートした。また、午後11時15分スタートの時代にはタイトルロゴに「+15」が、午後11時20分スタートの時代には「+20」が付加されていた。

基本的に本番組は生放送だったが、状況によって収録の場合もあったとされ、例えば末期の金曜レギュラーの吉田照美が『日刊ゲンダイ』の短期連載で記したところでは、本番数時間前の夕方に"疑似生放送"形式(いわゆる撮って出し)で収録することが多かったとのことである[1]

放送時間の変遷[編集]

放送期間 放送時間(JST
月曜 - 木曜 金曜
1965年11月 - 1966年9月 23:00 - 翌0:00(60分) 23:15 - 翌0:00(45分)
1966年10月 - 1969年3月 23:15 - 翌0:15(60分)
1969年4月 - 1972年3月 23:10 - 翌0:20(70分)
1972年4月 - 1974年3月 23:15 - 翌0:23(68分)
1974年4月 - 1980年3月 23:15 - 翌0:21(66分)
1980年4月 - 1985年3月 23:20 - 翌0:25(65分)
1985年4月 - 1988年3月 23:30 - 翌0:35(65分) 23:45 - 翌0:50(65分)
1988年4月 - 1990年3月 23:55 - 翌0:55(60分)

テーマ音楽について[編集]

シルエットのラインダンサーが踊るアニメーションをバックにしたスキャットによるオープニングテーマ、エンディングテーマは共に三保敬太郎の即興作曲によるもの。正式なタイトルは「11PMのテーマ」。

録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので「パー!サバダバ」ではなく、「イー!サバダバ」と歌っている。「パー!サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートは伊集加代による。

1982年、3人の女性グループ「あらん・どろん」が「ウィ!シャバダバ」のタイトルでカバーしたことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。あらん・どろんは金曜の大橋巨泉司会時代に顔出しをしてテーマ音楽を担当していた時期がある。通常のテーマ曲の後、別の歌詞での歌が入る。

2000年には「パー!サバダバ」バージョンによるオープニング、エンディングテーマ(各21秒)に加え、新たな編集によるロングバージョン(1分9秒)を加えたCDが発売された(バップ 規格品番:VPCD-82136)。「イー!サバダバ」のスキャットが含まれたオープニングテーマは1966年に日本ビクターから発売された「ミュージック・フォー・11P.M.」にて音盤化(演奏は猪俣猛オールスターズ。歌手名は表記なし)。2001年に発売されたCD「60'sTVヒッツ・コレクション」(テイチク規格品番:TECD-25463)に収録されている。

2009年、NHK-BS2の司会者を特集する番組でOPが放送され、徳光和夫が「まさかNHKでこの曲が流れるとは思わなかった」と感想を述べた。

番組内の挿入歌としては、クロディーヌ・ロンジェの「Hurry On Down」が、CM前に映されるカバーガールのバックで数秒流された[2]

テーマバックアニメーション[編集]

  • オープニングでは時計が6時ちょうどから11時ちょうどを差し、時計の真ん中の丸が地球になり、地球から電波が発信し、地球が塗りつぶしの丸(切れ目がある)になり左右に動き、ラインダンサーが踊る姿、女性の裸体が描かれ、11PMの文字をかたどった星座が出て最後には"WIDE SHOW 11PM"となって登場する。
  • テーマ音楽、テーマバックアニメーション共に第1回から番組終了まで使われた。だが番組初期のアニメーションではラインダンサーの数は3人ではなく15人以上であり、また乳首を露出して横たわる女性の裸体は登場していない。またこの時期のテーマ音楽のラストは「ドゥワー」は無かった。
  • エンディングでは地球が現れ、地球から電波が発信し、その後逆になり、地球が爆発する。次に女性の裸体が描かれラインダンサーが踊る姿の後11PMの文字をかたどった星座が出て"WIDE SHOW 11PM"となり、最後に"The End"の文字がズームアウトしていく。

その他特記事項[編集]

  • 企画段階では月曜から金曜まで全て日本テレビが制作する予定だったが、当時の日テレ内部では社員の労働超過が問題になっており、労働組合が猛反発。会社側が「日本テレビ制作は月・水・金曜の週3日とし、火曜と木曜は読売テレビに制作を委託する」という妥協案を出し、これを組合側が受け入れて番組が制作された。
  • 当初は評論家竹村健一がキャスターの候補に上がっていたが、週刊読売の編集長だった山崎英祐が初代キャスターに起用された。
  • 当初は時事ネタ主体のワイドショーで、途中に月曜から金曜までの全曜日で放送されるミニコーナーを挿入するというスタイルだったが全く視聴率が獲れなかった。その後、テコ入れが行われ各曜日が独立した形式に変化するが、概ね東京はマガジン形式を採っていたのに対して、大阪はトークショーとドキュメンタリー主体だった。また、大阪担当の木曜は時折ネット局各社との共同制作となり、藤本等司会者が日本各地に出張して放送された。内容は大抵が「○○県の風俗」となっていたが、ここで言う「風俗」とはどちらかといえば「民俗」に近い、真面目な物が多かった。テコ入れ策として横田岳夫ディレクターから「どうしたらいい?」と相談を受けた大橋巨泉が「今まで扱ってこなかった“遊び”の要素を取り上げたら?深夜だから大丈夫だろう」と提案。横田もそれに乗ったがいっそのこと巨泉、自分で喋っちゃったら?」と頼まれたため、「巨泉のなんでもコーナー」という名前で巨泉自らコーナー司会を務めることになった[3]
  • 巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。1999年の復活特番の際は、この年のプロ野球日本一がダイエーホークスだったため「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」、「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。
  • 由美かおるは1966年、大阪イレブンのショーコーナーに15歳でレギュラー出演し一躍有名になった。このコーナーを見た石原裕次郎が自身の映画に由美を出演させたのは有名なエピソードである。[要出典]
  • 基本的にはローカルセールス枠だったが、サントリートヨタ自動車資生堂などの生コマーシャルも挿入されていた(後述)。
  • 新聞などの番組欄にはその放送時期の大半の時期にサブタイトルがついていた。その直前の時間帯の『きょうの出来事』は企画ニュース枠が常設されていなかったことなどから、当時サブタイトルがなかった。内容は性的なものを連想させる惹句が多かった。お色気番組の元祖とも呼ばれるが、時には性的なものとほど遠い内容のこともあり、大橋巨泉が担当した金曜イレブンと所ジョージが担当した水曜イレブンはいずれもお色気色が一切無かった。
  • 1979年には水曜イレブン枠で、赤塚不二夫タモリをメインとした特集番組『赤塚不二夫のギャグ・テレビ』が放送された[4]
  • 最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48パーセント超だった[5]
  • 当時から「ワースト番組」「俗悪番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTAや世間から批判や抗議は多かった。1975年には日本共産党中央委員会幹部会委員長(当時)の宮本顕治から「ポルノ番組だ」と非難された。一方、寺山修司山本直純などの文化人からは評判が良く、作家の井上ひさしは1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した[6]
  • 明石家さんまのテレビデビューは当番組であり「落語家の成人式」という副題で「SEXの四十八手以外に知っている技は?」という質問に「逆さ十文字落としでぇーす!!!!」と答えて司会の藤本義一から叱責された事を後年語っている。
  • 1968年10月17日に、人気フォークバンドのザ・フォーク・クルセダーズが当番組の出演を最後に解散。
  • 節目ごとに「○○周年記念祭」のスペシャルがあり、巨泉・愛川・藤本の3人やレギュラー出演者が一堂に会した。過去に、8周年・10周年・15周年・20周年に行われた。司会は徳光和夫で『11回忌法要スペシャル』でも会場の司会進行をしている。
  • 稀に月曜・金曜のプロ野球・巨人戦ナイター中継が、月曜は公開生放送の『NTV紅白歌のベストテン』、『ザ・トップテン』、金曜は『太陽にほえろ!』が優先されたため編成都合上ゴールデン枠での生中継が出来ないことがあったこと、また1980年代に開催された北海道遠征は平日のデーゲームで開催されたことから、その場合『11PMナイター』と称して録画ダイジェスト中継が行われた。また、日本プロゴルフ選手権大会の開催日にも予選ラウンド2日間を録画中継したことがある。これは後継番組の『EXテレビ』でも同様だった。
  • 1972年から1975年まで全日本女子プロレスの録画中継も年4回の割合で行った。全女の中継はフジテレビの『全日本女子プロレス中継』が有名だが、当時の看板レスラーだった赤城マリ子がきっかけとなり彼女をメインエベンターとして独占的に放送していた。また全日本女子プロレスの後楽園ホール初進出も1973年5月30日放送分であった。
  • 2012年1月、ホームドラマチャンネルで、愛川欽也が司会を担当した水曜日のみ「愛川欽也セレクション」として1978年、1982年、1983年の放送分から6本が再放送された(権利関係により一部の音楽の使用部分をカット)。スカパー!で同番組が再放送されるのは初めてのことである。番組の始めと終わりに、愛川欽也と朝倉匠子の二人が当時の思い出を語る数分のトークが追加された。
  • 大ニュースが起きた際は、NNN報道特別番組に差し替えられることもあった(時間枠は同じ)。例えば1986年2月エドゥサ革命のときなど。
  • また、1972年5月15日の「沖縄の本土復帰」[7]1977年7月27日の「ロッキード事件・田中前首相逮捕」の時はそれぞれに関連した内容を放送したほか、1988年9月20日の「昭和天皇吐血」の時は、「11PM」の題を残しながら、急遽内容を変更した。
  • 1974年には第一次オイルショックによる電力節減の一環として放送終了時間の繰り上げ措置が行われていた。日本テレビでは1月7日から午前0時25分終了としたためこの番組への影響は少なかったが、1月14日からその措置がとられた読売テレビでは在阪民放4局[8]の社長会の取り決めで午前0時終了となったため、読売テレビでは放送途中の午前0時で放送終了となり、また同局が制作していた火曜・木曜分は0時以降はネット局への裏送りになった。その後オイルショックの状態が緩和されたことにより在阪4局の取り決めが解消されたため、5月6日より読売テレビの放送終了時間が午前0時25分となり、同日から通常の放送に戻った[9]
  • 2014年2月から、衛星劇場の「ミッドナイトアワー」枠で、土曜イレブン(『11PM』の土曜版)や末期の日本テレビ制作の『11PM』が月1本のペースで再放送されている。現在の放送基準により、ヌードになるモデルの顔や裸にはボカシが施されたり、一部内容をカットした配慮を加えた放送内容となっている。

代表的な企画[編集]

巨泉・考えるシリーズ
巨泉時代の月曜イレブンはお色気企画が多かったが、硬派な社会問題も特集した。1972年5月15日、沖縄返還前の「沖縄で君は何を見たか」(1972年3月13日放送)、沖縄返還当日の「棄てられた沖縄の証言 〜返還後の沖縄の防衛を考える」(1972年5月15日放送)、1985年に起きた11歳の少年投身自殺事件(「マー先のばか」と書かれた遺書)や、政治・事件・事故など数々の社会問題を取り上げ、1972年5月9日に第9回ギャラクシー賞・放送批評家賞を受賞した[10]
24時間テレビ 「愛は地球を救う」』はこのシリーズの「世界の福祉特集」が発展し誕生したもので、同番組スタッフが、アメリカ合衆国で毎年開催されている「MDAレイバー・デー・テレソン」を取材した時、これを参考として企画され、大河チャリティーキャンペーンとなった。
久里洋二のミニミニアニメーション
1966年から1982年まで、月曜イレブンのコーナーとして800本近いショートテレビアニメが放送されていた。
裸の報告書シリーズ
ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」のテーマ曲で始まる月曜イレブンのお色気企画。主にいそのえいたろう(風俗ライター)やカルーセル麻紀がリポーターを務め、トルコ風呂(現・ソープランド)などの性風俗産業の取材を行い、裏文化の仕掛け人の紹介をした。
UFO超能力特集
1970年代中盤以降、月曜イレブンにて年に数回、UFOや超能力に関する特集が組まれた。
TIME GANG(タイム・ギャング)(読売テレビ制作)
1980年代半ばの火曜イレブンでは、構成に東京同様のマガジン形式を採り入れ、特に「TIME GANG」のサブタイトルを付けて放送した。司会進行は羽川英樹(当時・読売テレビアナウンサー)とタージンが務め、藤本義一はまとめ役に回った。ただし、バーテンダー役の野村頻紹との掛け合い生CMは引き続き放送した。後述する「秘湯の旅」はこの「TIME GANG」の一コーナーである。
裸のヨガ(読売テレビ制作)
火曜イレブンの企画。文字どおり、海岸で女性モデルが全裸(前が映る時はトップレス)でヨガのポーズを披露していた。
秘湯の旅(読売テレビ制作)
火曜イレブンの企画。「うさぎちゃん」と呼ばれた女性リポーターが全裸に近い状態で、数々の温泉を紹介した。「効能」という言葉もこのコーナーから広まった。
イレブンルーレット
1986年4月から9月まで、所ジョージが担当した水曜イレブンで放送。番組のセット自体が巨大なルーレットとなっており、電話による視聴者参加形式でルーレットゲームを行った。
趣味企画
1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになり1985年に降板するまで続いた。ゴルフ、ボウリングなどあらゆる娯楽を紹介していた。
イレブンフィッシング
金曜イレブン冒頭の趣味企画。釣り名人・服部善郎(読売映画社(当時)プロデューサー)が主に海釣りをレポートしていた。聞き手は横田岳夫ディレクターが担当した。また釣りが趣味の巨泉も率先してロケに参加していた。
麻雀実践教室
金曜イレブンの趣味企画の一環として放送され、麻雀番組の走りとなっていた。
イレブンクッキング
ハウス食品[11]とのタイアップによる料理コーナー。必ずハウス食品の調味料を使用して料理を行っていた。
CAR GUIDANCE
1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになり1985年に降板するまで続いた長寿コーナー。当初は巨泉が担当していたが、後に、番組内で「悪役」と呼ばれたレギュラー出演者の小林昭男や女性リポーターが新型車をメーカーを問わず紹介し、週によっては輸入車も取り上げることもあった。
イレブンダービー
競馬に見立てた双六ゲーム。一般視聴者が電話で参加し1対1で競われた。いろは順のイ - ヌ×1 - 10の数字に構成されたパネル100枚の中から交互に1枚ずつ選び、書かれた数字分だけ進む。ただし、マイナスも隠れており、選んでしまった場合は数字分だけ戻らなくてはならない。また、「落馬」というものもあり、この場合はその時点で失格となる。先にゴールした視聴者が勝ちとなった。巨泉時代の金曜イレブンで放送された。『スーパークイズスペシャル』に巨泉がゲストで出演したとき、巨泉の司会で、番組出場者が参加する形にしてこの企画の復活版が行われたことがある。マス目を示すボードには「イレンダービー」と記載してあった。
臨時ニュースの挿入
1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故の挿入ニュースが愛川欽也担当の水曜の生放送で伝えられた。ワイドショーの特性を生かしたニュース性も強かった。
海外ロケ
当初は小島や巨泉があまり知られていない海外(主にヨーロッパ)を旅して紹介するものだったが、かたせや秋川などの女性アシスタントのグラビアシーンも取り入れられた。また、ロケ地の夕陽の映像を必ず撮影していき、そのシーンを紹介したコーナーもあった。
異色対談
違う世界の大物著名人に、予備知識なしで対談するという企画。林家三平オノ・ヨーコ輪島功一金子光晴竹村健一五味康祐など様々な対談があった。
紅白ストリップ合戦
全国から人気ストリップ嬢が集合し紅白形式に分かれ、"艶技"を披露する年末恒例企画。1974年12月30日には番組史上最高視聴率をマークした。
夜のレコード大賞(読売テレビ制作)
年末企画。有線放送のデータをもとに審査され、大賞等が決定される。後に独立して『全日本有線放送大賞』と改称され、現在は『ベストヒット歌謡祭』として放送されている。
各界名士のど自慢
年内最後の放送の年末企画。政治家、社長、文化人などが歌を披露した。終了後も独立した特番として1993年頃まで続いた。
上方お笑い芸人紅白歌合戦(読売テレビ制作)
大阪発の年内最後の放送の関西芸人たちによる年末企画。司会は羽川英樹(当時、読売テレビアナウンサー)で藤本は審査員だった。
生コマーシャル
番組中盤でコマーシャルに入る前にサントリーの生コマーシャルを司会者が勤めていた。なお、読売テレビ制作分では必ずバーテンダー役の野村頻紹が登場し、藤本義一に「今日のお酒はこれです」とサントリーのウイスキーを持ってきていた。藤本はこれを受けて一言コメント(蘊蓄が多かった)を発し、商品の紹介に繋げた。ちなみに、後期に村野武憲吉田照美が司会を担当した日本テレビ制作の金曜イレブンでは、当時全日本プロレス引退して間も無い頃の大仁田厚が大阪の野村同様のバーテンダー役(パロディー)をやっていたことがある。
アイキャッチ
カバーガールがポーズを取っていた。なお一部のアイキャッチで、カバーガールがトヨタ自動車の車に寄り添いポーズを決めていた(セットには車種名を明記していた)。また、晩年は協賛スポンサーがトヨタから日産自動車にかわり、発売されたばかりの「エスカルゴ」や「セフィーロ」などが登場した。

出演者[編集]

月・水・金曜日(日本テレビ制作)[編集]

司会者・アシスタント
期間 司会者 アシスタント
月曜日 水曜日1 金曜日 月曜日 水曜日 金曜日
1965年11月8日 - 1966年4月 山崎英祐 高原良子
1966年4月 - 1967年12月 小島正雄 大橋巨泉 (不在) 朝丘雪路2
1967年12月 - 1968年2月 應蘭芳4
1968年2月 - 1968年3月 大橋巨泉3 堤妙子3
1968年4月 - 1968年6月 沢知美 (不在)
1968年7月 - 1968年8月 朝丘雪路5
1968年9月 - 1969年3月 三木鮎郎 ジューン・
アダムス
1969年4月 - 1971年9月 松岡きっこ
1971年10月 - 1973年12月 ジュディ・
アントン
1974年1月 - 1977年12月 愛川欽也 秋川リサ6
1978年1月 - 1981年12月 かたせ梨乃
1982年1月 - 1982年5月 朝倉匠子
1982年6月 - 1983年5月 梓みちよ
1983年6月 - 1985年3月 高樹澪
1985年4月 - 1985年9月 江本孟紀 秋野暢子
1985年10月 - 1986年3月 村野武憲
吉田照美
戸川京子
1986年4月 - 1986年9月 三枝成彰
高田純次
所ジョージ
斎藤晴彦
由利徹
村上里佳子3 (不在)
1986年10月 - 1987年6月 斉藤晴彦
由利徹
松金よね子
浅田美代子
1987年7月 - 1988年3月 斉藤晴彦
関根勤
冴木杏奈
1988年4月 - 1988年12月 三枝成彰
吉田照美
高田純次
関根勤
中川比佐子 井森美幸
財前直見
1989年1月 - 1989年3月 井森美幸
鷲尾いさ子
1989年4月 - 1990年3月30日 高田純次
吉田照美
鷲尾いさ子 井森美幸
  1. 一時期、今野雄二が水曜日のサブ司会を務めたが、担当期間は不明。
  2. 巨泉の金曜司会就任当初、パートナーは週替りのゲスト制を採っていたが、5週目のゲストパートナーとして朝丘がゲスト出演した際の両者の掛け合いが好評であったことから1966年5月より正式にレギュラーに起用された。
  3. 小島の急死(1968年1月17日に急逝)に伴うもので、小島急逝後の1ヶ月間は水曜も含めて巨泉がピンチヒッターという形で務めていた(同2月中旬以降、水曜は堤と交代、月曜は正式に後任となった)。
  4. 朝丘の結婚・妊娠休業に伴う代役として出演。
  5. 1974年1月〜3月までは妊娠休業のためゲストパートナー制を採用。 
  6. カバーガール担当期間を含むが、アシスタント着任時期は不明。
カバーガール

火・木曜日(読売テレビ制作)[編集]

司会者・アシスタント
期間 司会者 アシスタント
火曜日 木曜日 火曜日 木曜日
1965年11月9日 - 1969年8月 藤本義一 安藤孝子
1969年9月 - 1970年8月 市川靖子
1970年9月 - 1971年8月 笹田泉
1971年9月 - 1976年10月 真理アンヌ
1976年11月 - 1977年10月 岸じゅんこ
1977年11月 - 1978年5月 多田千香
1978年6月 - 1978年12月 東てる美
1979年1月 - 1979年7月 横山エミリー
1979年8月 - 1980年5月 テレサ野田
1980年6月 - 1981年3月 秋本圭子
1981年4月 - 1985年3月 松居一代
1985年4月 - 1988年4月 吉田由紀
1988年4月 - 1988年9月 藤本義一
桂べかこ1
藤本義一 (不在) 遙洋子
1988年10月 - 1989年3月 池田裕子
1989年4月 - 1990年3月30日 浦島三和子
  • 藤本は全曜日中唯一の皆勤出演
  • 1. サブ司会として出演。
カバーガール

土曜日(読売テレビ制作)[編集]

土曜日(名古屋テレビ制作)[編集]

土曜日(日本テレビ制作)[編集]

  • 1973年4月 - 1974年3月:佐藤允
    • アシスタント:奈美悦子(1973年4月 - 8月)→風間千代子(1973年9月 - 12月)→鶴間エリ(1974年1月 - 3月)

ネット局[編集]

『11PM』はNNN系列外の局でも放送された一方で、オイルショックの影響や内容の過激さ、他系列ネットなどを理由に打ち切った系列局も多かった。そのため1990年3月の終了時にフルネットで放送していた局はNNNマストバイ14局とNNN非マストバイ2局、他系列とのクロスネット局2局の18局にまで減少していた[12]。ここでは各地区での放送状況を取り上げた。

なお、後番組が『スポーツワイドプロ野球ニュース』(FNNFNS系)扱いとなる局には★を付けている。『プロ野球ニュース』の系列外ネットは1994年3月で終了[13][14]

放送対象地域 放送局 放送期間 放送状況・備考
関東広域圏 日本テレビ 月・水・金曜制作局
近畿広域圏 読売テレビ 火・木曜制作局
北海道 札幌テレビ フルネット[15]
青森県 青森放送 1967年11月1日 - 1977年9月30日[16] NNN加盟局で最初に打ち切った。[要出典]
北東北・北海道地区では最初にネットを打ち切った[17]
岩手県 テレビ岩手 1969年12月 - 1990年3月 フルネット[15]
宮城県 仙台放送 1970年9月打ち切り
ミヤギテレビ 1970年10月 - 1990年3月 フルネット[15]
秋田県 秋田放送 1982年頃打ち切り[16]
山形県 山形放送 1966年6月1日 - 1978年3月31日[16]
福島県 福島中央テレビ 1971年10月 - 1990年3月 フルネット。
山梨県 山梨放送 フルネット。
新潟県 新潟総合テレビ 1973年4月 - 1981年3月 日本テレビ系新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。
テレビ新潟 1981年4月 - 1990年3月 フルネット[15]
長野県 信越放送 1975年4月 - 1980年9月 月曜・金曜のみ。
テレビ信州 1980年10月 - 1990年3月 フルネット[15]
静岡県 テレビ静岡 1972年4月 - 1976年3月
静岡けんみんテレビ
(現:静岡朝日テレビ
1978年7月 - 1979年6月 日本テレビ系新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。
静岡第一テレビ 1979年7月 - 1990年3月 フルネット[15]
富山県 北日本放送 1988年3月打ち切り[16] ネット開始当初はフルネット。
1970年代中頃以降は月曜・水曜・金曜のみ。
石川県 北陸放送 1976年10月 - 1978年3月 水曜・金曜のみ。
金曜は1977年3月打ち切り。
テレビ金沢 1990年3月打ち切り サービス放送時のみ。
『11回忌法要スペシャル』はネット。
福井県 福井放送 フルネット。
1989年4月からはテレビ朝日系とのクロスネット局。
中京広域圏 名古屋テレビ 1973年3月打ち切り 変則クロスネット解消に伴う打ち切り。
中京テレビ 1973年4月 - 1990年3月 フルネット[15]
鳥取県島根県 日本海テレビ フルネット。
当初は鳥取県のみで放送、1972年9月の島根県への相互乗り入れで島根県でも放送開始。
岡山県香川県 西日本放送 フルネット。
当初は香川県のみで放送、1983年4月の岡山県への相互乗り入れで岡山県でも放送開始。
広島県 広島テレビ 1966年4月 - 1990年3月 フルネット。
年度により、ゴールデンタイムの差し替えが困難な9月下旬から10月頃は、ローカル版の『11PMナイター』として広島東洋カープ主催ゲームの録画中継に差し替える事があった。
山口県 山口放送 1978年3月打ち切り[16]
徳島県 四国放送 1983年頃打ち切り[16]
愛媛県 南海放送 1985年4月 - 1990年3月[18] フルネット。
高知県 高知放送 1980年代に打ち切り[16]
福岡県 福岡放送 1969年4月 - 1990年3月 フルネット。
長崎県 テレビ長崎 1969年4月 - 1982年3月
『11回忌法要スペシャル』は長崎国際テレビがネット。
熊本県 テレビ熊本 1969年4月 - 1981年12月
くまもと県民テレビ 1982年4月 - 1990年3月[15] フルネット。
大分県 テレビ大分 1970年4月 - 1990年3月[15] 金曜版は1985年9月打ち切り。
宮崎県 テレビ宮崎 1970年4月 - 1981年9月[16]
鹿児島県 鹿児島テレビ 1969年4月 - 1990年3月 金曜版は1985年3月打ち切り。
『11回忌法要スペシャル』は鹿児島讀賣テレビがネット。
沖縄県 琉球放送 1975年4月 - 1983年3月 1977年4月 - 1979年9月の間はフルネット。
当初は月 - 木曜のみ放送。金曜深夜に放送されていた『新・必殺仕置人』を5話で打ち切りにした上でフルネットを開始。
『11回忌法要スペシャル』は沖縄県では未ネット。

主なスタッフOB[編集]

  • 井原高忠 - 『11PM』の企画者。1965年当時アメリカで放送されていた情報番組を参考に立ち上げた。第一制作局次長を最後に退職。
  • 後藤達彦 - 初代プロデューサー。報道局からの参加で井原とともに番組立ち上げに尽力。テコ入れ後もただ一人報道局から番組に残り、井原が去った後は『11PM』を支える存在に。スポーツ局次長などを経て、制作局長を最後に退職[19]。                                         
  • 横田岳夫 - 裏方だった大橋巨泉を司会に抜擢。金曜イレブンで釣り・ゴルフ・麻雀など遊びを番組に取り入れた。巨泉からは「よこちん」と呼ばれた。
  • 石川一彦 - 2代目プロデューサー。当番組での自由な発想を礎に『木曜スペシャル』を開始。のちに、常務取締役になる。
  • 高橋進 - 愛川欽也司会時の水曜イレブンのディレクター・プロデューサー。音楽・映画などの最新の流行情報を番組に取り入れた。番組後期は制作[20]を担当。その後は制作局長、読売テレビ専務取締役を歴任。
  • 菅原正豊 - 制作会社ハウフルス社長。『マジカル頭脳パワー!!』『THE夜もヒッパレ』などヒット作品多数。
  • 赤尾健一 - 制作会社日企会長。『うわさのチャンネル』『お笑いスター誕生!!』などを演出。
  • 景山民夫 - 放送作家として参加。
  • 矢追純一 - UFO研究家。最初にUFOを取り上げたのは11PMディレクター時代。
  • 都築忠彦 - 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の生みの親。社会派名企画「巨泉・考えるシリーズ」を担当。
  • 白岩久弥 - 『11PM』担当時は藤本義一にその演出スタイルを絶賛された。当枠の後番組でプロデューサーを担当した『EXテレビ』(大阪版)や、『パペポTV』などでTVの新機軸を開いた。
  • 神戸文彦 - 中後期の東京イレブンのエースディレクターで、当枠の後番組『EXテレビ』(東京版)のプロデューサーも担当した。今も『仮装大賞』などをてがける現役ディレクター。
  • 諏訪道彦 - ディレクターとして参加。その後、東京制作局へ異動。『シティーハンター』『名探偵コナン』などのアニメ番組のプロデューサーとして活動中。

パロディーなど[編集]

11PM 11回忌法要スペシャル[編集]

1999年(平成11年)11月11日、この日の日付に11が並んだこと、また終了からおよそ満10年(数えで11年)経ったことから『11PM 11回忌法要スペシャル』が午後11時37分から一夜限りでNNN30局[21]で生放送され、大橋巨泉ら歴代の出演者をはじめ、有名芸能人が一堂に会した。メイン会場の司会進行は徳光和夫でサブ会場の司会進行は福澤朗。当時日本テレビのアナウンサーだった福澤は巨泉から「給料制か。フリーになって、ウチの事務所(オーケープロダクション)に来い」と突っ込まれていた。番組名物だったサントリー生CMも再現された(CMの内容は「サントリーのワインで21世紀を祝おう」だった)。法要SPでは赤坂プリンスホテルのロイヤルホールでパーティー形式で開催され、過去の11PMの映像を振り返るトークを中心に、爆笑問題の漫才などのイベントが行われた。番組の最後に巨泉、愛川、藤本の3人がトークし、現在のテレビ番組に対して苦言を呈していた。『11PM』現役スタッフだった菅原正豊率いるハウフルスが制作を担当した。

脚注[編集]

  1. ^ 吉田照美が出演していた当時の「金曜イレブン」は、10代後半から20代の女性モデルをレギュラーに起用(「SOS歌劇団」という番組内グループ)していたこともあり、彼女たちのスケジュール(10代のメンバーは一部に法律などによる出演時間の制約がかかる者もいた)に配慮しての「擬似生放送収録」が多かったようである。
  2. ^ シングル盤「ハリー・オン・ダウン」には、「読売テレビ「11PM」番組挿入歌」の表記や、11時の時計が描かれたものなどがある。
  3. ^ 大橋巨泉著書「巨泉 人生の選択」
  4. ^ 高平哲郎『今夜は最高な日々』P97・98 新潮社 2010年 ISBN 978-4-10-326411-8
  5. ^ 『11PM』読売テレビ版最終回での回顧録より
  6. ^ WIDE SHOW 11PM『深夜の浮世史』P82 日本テレビ出版部 1983年
  7. ^ 当時、沖縄では未放送。
  8. ^ 1974年当時テレビ大阪は未開局。
  9. ^ 読売テレビ50年社史編纂委員会 編纂 『読売テレビ50年社史』、2009年、106頁。 
  10. ^ 第9回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  11. ^ 一時期巨泉がインスタントラーメン「本中華」のCMモデルとして出演したことがある
  12. ^ 後述の、11回忌法要スペシャルは沖縄県を除く30局ネット(長崎国際テレビ鹿児島讀賣テレビを含む)で放送された。
  13. ^ ニュースJAPAN』への内包のため、FNN加盟局以外(FNN平日最終版ニュース未ネット局)でのネットが事実上不可能になったため。
  14. ^ これに伴い、四国放送高知放送テレビ宮崎は『どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS』よりネット再開している。
  15. ^ a b c d e f g h i 11回忌法要スペシャルもネット。
  16. ^ a b c d e f g h 11回忌法要スペシャルはネット。
  17. ^ 昭和52年9月と10月の東奥日報テレビ欄から
  18. ^ 一旦打ち切りにし、後に再開。
  19. ^ 当時の上層部との折り合いが付かなかったのが退職の理由。
  20. ^ チーフプロデューサーと同義。
  21. ^ 長崎国際テレビ鹿児島讀賣テレビを含む。

関連項目[編集]

日本テレビ 月曜 - 金曜深夜枠
前番組 番組名 次番組
-
11PM