江川卓 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。2015年7月
江川 卓
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県石城郡好間村
(現:いわき市
生年月日 (1955-05-25) 1955年5月25日(61歳)
身長
体重
183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1978年 ドラフト1位
初出場 1979年6月2日
最終出場 1987年10月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

江川 卓(えがわ すぐる、1955年5月25日 - )は、福島県出身[1]の元プロ野球選手野球解説者タレント

日本プロ野球史上6人目の投手五冠王[2]に輝くなどの実績を残し、1980年代日本プロ野球セ・リーグを代表するエースとして活躍した。

居住地[編集]

現在は東京都在住。

経歴[編集]

出生から中学時代[編集]

出生は福島県で、幼少期を現在のいわき市で過ごす[3]。その後、鉱山技師であった父親の仕事の関係で少年時代を静岡県磐田郡佐久間町(現在の浜松市天竜区)で過ごす[4]。父は江川の出生前から長男をプロ野球選手にしたいと思っていたというが、特に野球の練習を強いられることはなく、同年代の男子と同様にバットやグローブを与えられ、ごく自然に野球を覚えた[5]。ただ、父は折に触れ何気なく息子を野球に仕向けていた。小学生時代、父の真似をして天竜川で対岸に向かって石を投げたところ、大人の飛距離に遜色なかった。以来、江川は天竜川で石を遠投することを日課とし、これにより地肩が鍛えられることとなった[6]

中学校で野球部に所属。当初は控え投手を兼ねた外野手だったが、1年生の秋から近所の学校との試合で好投したことをきっかけに正式な投手となる[7]。中学2年生のとき、父の転勤により栃木県小山市に転居。小山市立小山中学校で県大会優勝し、いくつかの高校から勧誘があった中から作新学院に入学する[8]

高校時代[編集]

高校在学中はエースとして、高めのバックスピンが良くかかった速球と良く曲がるカーブを武器にノーヒットノーラン9回、完全試合2回、選抜高等学校野球大会における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残す。その高校生離れした投球と耳の大きな顔が漫画『怪物くん』の主人公に似ていることから「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれ、日本中の注目を浴びた。江川の同僚にはのちにラジオ日本のアナウンサーとなった染谷恵二がおり、江川のブルペン捕手も務めていたが、染谷は野球部入部直後に退部した。

高校1年[編集]

1971年、江川1年生の夏、第53回全国大会栃木県予選2回戦(対足尾戦)を救援で5回無安打無四球7奪三振のパーフェクトリリーフで高校生として初登板初勝利を飾った。次戦の3回戦(対足利工大付戦)では高校生として初先発、8回を3安打零封し、5対0の中、9回を後続ピッチャーに譲っている。準々決勝(対烏山戦)でも先発し、栃木県高校野球史上初の快挙となる完全試合を達成。中学を卒業して4か月の1年生ながら素質と能力の高さを証明した。準決勝(対宇都宮商戦)は先発するも延長11回で降板、後続のピッチャーが打たれ甲子園出場はならなかった。

その年の秋、第24回秋季関東地区大会栃木県予選では4試合に登板、30回を投げて2失点37奪三振で、防御率0.67。1回戦では、北関東高校球界で鈴木孝政(1972年のドラフト1位で中日に入団)、江川とともに速球投手三羽ガラスといわれた石田真(1972年のドラフト1位で阪急に入団)を擁する足利工と激突。7回まで両者譲らず0対0だったが、8回に作新学院が2点を先取。江川は8回に1死球を与えるも後続を打ち取り、ノーヒットノーランで足利工を下した。決勝の宇都宮学園戦では3安打11奪三振で完封勝ちし、栃木県大会優勝。つづく関東大会1回戦では前橋工を相手に先発。1回2死から4回まで10者連続奪三振で無安打無失点、フェアグランドへ打たれたのはセーフティーバントによる投ゴロだけという高校入学以来最高の出来と思われる投球を見せた。この日5番に入った江川はチームでただ一人2安打を放ち、打つほうでも気を吐いたが、5回表の打席で前橋工・小池投手より頭部死球を受け退場(そのまま入院)。5回裏に後続投手が打たれて敗退。優勝候補の一角とも呼び声高かった2年春の甲子園出場はならなかった。

高校2年[編集]

1972年夏、2年生の江川は第54回全国大会栃木県予選の2回戦(対大田原戦)、3回戦(対石橋戦)、準々決勝(対栃木工戦)と登板した3試合すべてでノーヒットノーラン(うち3回戦の対石橋戦では完全試合)を達成。27回を投げて被安打0、47奪三振(対大田原戦13奪三振、石橋戦17奪三振、栃木工戦17奪三振)、一試合平均15.7奪三振という驚異的な記録で準決勝に進んだ。また、準々決勝の栃木工戦では9回表まで0対0であったが、9回裏に自らのサヨナラヒットで勝利するなど、貧弱な打線を自らの打力で補った。準決勝の対小山戦も10回2死までノーヒットノーランだったが、味方打線が点を取れず、延長11回裏、サヨナラスクイズによって0対1で敗れ、15奪三振の力投を見せるも甲子園出場はならなかった。4試合での作新学院のチーム打率は2割6分1厘(138打数36安打)だったが、江川は3割3分3厘(15打数5安打)と打撃でも気を吐いた。勝負の世界に「もし」はないが、小山戦でもし作新学院が9回までに1点でも取っていれば、地区予選4試合すべてをノーヒットノーランで決勝進出という、前代未聞の快挙を成し遂げるところであった。

また、この実績から甲子園に出場しないにも関わらず「栃木に怪物江川あり」が全国に知れ渡り、江川との練習試合の対戦希望が殺到。全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが、のちに肩を痛める遠因となったとされる。

江川の高校1年夏、2年春夏はともに甲子園への出場はならなかったため、当時の野球部監督[9]が更迭された[10]

同年秋の第25回秋季関東地区大会栃木県予選では、1回戦(対那須戦)は5回まで投げ、15アウトのうちの14アウトを三振で奪う快投で無安打零封して降板し、6回以降を後続のピッチャーに譲っている。2回戦(対足利工戦)は9回2安打15奪三振で完封勝ち。準決勝(対宇都宮戦)は6回2安打6奪三振で零封、7対0となったところで降板。決勝(対烏山戦)は9回2安打10奪三振で完封勝ち。合計で4試合に登板し、29回6安打無失点45奪三振、2試合完封で栃木県大会を優勝した。

関東大会に駒を進めての1回戦では群馬県大会優勝校の強豪・東農大二高と対戦したが、2回2死から5回2死まで9者連続奪三振、6回まで投げて13奪三振1安打零封という素晴らしい投球を見せ、観衆を唸らせた。準決勝は70年代前半から「黒潮打線」と呼ばれて強打で鳴らしていた銚子商と激突したが、銚子商随一の強打者、4番・飯野から3打席3三振を奪うなど、まったく相手にせず、1安打完封20奪三振。銚子商はノーヒットノーランを逃れるのが精一杯というほどの完敗だった。続く決勝では好投手・永川英植(1974年のドラフト1位でヤクルトに入団)を擁する神奈川県大会優勝校の横浜高校と激突した。東農大二、銚子商の試合結果を知る横浜は三振を取られまいとバットを一握り短く持って初球から積極的に打ってくる戦法だったが、まったく寄せ付けず、その打線からも16三振を奪い、完封して優勝した。また、この関東大会3試合で3番に入った江川は、12打数7安打・打率5割8分3厘・6打点・2三塁打・2四球と打撃でもチームの勝利に大きく貢献した。

江川は秋の県大会と関東大会を無失点で優勝(秋季大会成績:7勝0敗/投球回53/被安打12/奪三振94/奪三振率16.0/失点0/自責点0/防御率0.00)。新チーム結成以来、練習試合を含む23戦全勝で負けなし、113回無失点という前人未到の驚異的な記録で3年生時の春の選抜大会出場を初めて手にした。なお、決勝で江川に16三振完封負けした横浜高も同じく春の選抜大会に出場しているが、この大会で優勝しており、江川の素質と能力の高さを間接的に証明している。

高校3年[編集]

1973年春の第45回選抜大会は「江川の大会」ともいわれたほどレベルの違いを見せつけた大会となった。初戦は秋季大阪大会で優勝し、出場校30校中トップのチーム打率3割3分6厘を誇る、優勝候補といわれた強打の北陽高校(大阪)だった。北陽・高橋監督は、「江川江川というが、まだ高校生。ウチの打線は今が絶好調。ぶんぶん振り回して江川に向かって行きますよ」と開会式前のインタビューで語っている。

3月27日、第1日目第1試合。初めて甲子園球場という全国区に登場した「怪物江川」に日本中の高校野球ファンが試合のテレビ放送に注目した。江川見たさと開幕直後の地元・北陽高戦とあって、甲子園球場は観衆5万8千人の超満員となった。満を持して登場した江川は1回から剛速球全開で、北陽の選手のバットにボールを一度も触れさせず三者連続三振。続く2回も先頭打者に1球もボールに触れさせず三振。強力打線の1番・冠野から2番・慶元(のちクラウン→西武→近鉄)、3番・広瀬、4番・藤田と続く北陽が誇る上位打線が1人もバットにボールをかすらせることすらできず、高校生の中に1人だけプロ野球選手が混じって試合が行われていると揶揄された。あまりの実力差を見せつけられ、甲子園球場は異様などよめきに包まれた。次の5番・有田(のち近鉄)がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると(一塁スタンドへのファウル)、有田に対して超満員の観客から大きな拍手が巻き起こっている(この拍手は江川を紹介するメディアで必ずといっていいほど取り上げられる逸話となっている)。初回先頭打者から4回2死までアウト11者連続奪三振、秋季大会で打率4割2分・3本塁打・21打点の成績を残した北陽一の強打者、4番・藤田からは4打席4奪三振(すべてスイングアウトでの三振)、最終イニングの9回も2番・慶元からの好打順に対して3者連続奪三振で締め、結局、この試合を4安打19奪三振で完封勝ちと、鮮烈な甲子園デビューを飾った。試合後のインタビューで北陽・高橋監督は、「生徒にはまっすぐを狙わせたが、スピードがありすぎてバットに当たろうともしなかった。途中から作戦を変えて、短打打法に切り替えたが、全くだめだった」と語っている。ちなみに、この北陽高はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト8になっている。大会前から豪腕と騒がれたが、初めて全国に姿を現した「怪物」の実力に多くの高校野球ファンが驚嘆し、この試合を契機にこの大会は江川大フィーバーに包まれた。

2回戦で作新・江川と当たる小倉南(福岡)の重田監督とナインは、この1回戦・作新学院対北陽戦を観戦し、江川が強打・北陽打線を赤子の手をひねるように圧倒した内容を見て、このままでは勝てないと考え、江川対策を練った。3月31日の2回戦、小倉南は選手全員がバットをふた握りも短く持って登場し、徹底した短打戦法とバントで江川に食い下がって、スタンドがどよめいた。しかし、安打は3回の3塁前のバントヒット1本のみで、7回10奪三振と江川が圧倒、8対0と大量リードしたため、7回終了後に降板している。

4月3日の準々決勝では、秋季愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、春の選抜でも優勝候補の一角であった今治西(愛媛)と激突した。この今治西に対して、速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した江川は7回2死まで1人のランナーも許さず14奪三振。完全試合の期待もあったが、その直後に中前打された。しかし、気持ちを切らさず8回・9回も6アウトを6者連続奪三振で締め、結局、8者連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封と完璧に抑えた。この試合での8者連続奪三振は、1926年(大正15年)夏和歌山中学小川正太郎が達成した夏の大会記録(当時)[11]に並ぶもので、春の大会としては史上最多記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は、「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう一度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」と語っている。ちなみに、この今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。

北陽、小倉南に続いて強豪・今治西を20奪三振で一蹴し、3試合25回を投げて被安打6、無失点、49奪三振。甲子園は江川一色の大フィーバーとなり、江川が登板する日は、甲子園一帯が数千人のファンで埋め尽くされ、メディアも「江川をどのチームが破るのか」という興味から、「いったい江川は大会通算いくつの三振を奪って優勝するのか」という興味に変わるほどであった。

4月5日の準決勝は広島県代表の広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)と対決。広島商・迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では、広島商の全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒットと内野安打)、毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている[12]。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、エース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)が詰まりながらもチーム初安打となるライト前のポテンヒットを放ち、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は8回裏2死1・2塁からダブルスチールを敢行、これが小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって、作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。

同年5月4日に行われた沖縄特別国体1回戦では、江川は山口県の岩国高校を相手に1失点完投負けを喫したが、7月の第55回全国大会栃木県予選では、作新学院の試合がある日は遠地から見物に来る車が5000台以上にもなり、球場周辺の一帯の道路は朝から大渋滞で完全に交通マヒとなって、警備には40人以上の警察官が動員された。また、隣接する軟式野球場を解放して、急遽臨時駐車場とするなど、関係者は対応策に追われた。屈指の好カードとなった準決勝の対小山戦は徹夜組約100人、決勝の対宇都宮東戦は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上も出るなど、地方の県予選としては異例の事態となった。試合は、江川が登板した5試合のうち、2回戦(対真岡工戦)、3回戦(対氏家戦)、決勝(対宇都宮東戦)の3試合でノーヒットノーランを達成。特に3回戦の氏家戦、決勝の宇都宮東戦では無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)も1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を被安打2、70奪三振で無失点。練習試合を含めると140回無失点という驚異的な成績でこの年の夏の甲子園出場を決めた。

同年8月9日、柳川商(福岡)との対戦となった夏の甲子園1回戦は、対江川用の奇策「プッシュ打法」作戦により、江川は6回表に練習試合を含めて146イニングぶりの失点を喫するが、延長15回の死闘の末に作新学院が2対1でサヨナラ勝ち。この試合を完投した江川は15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録した(1位は徳島商板東英二の18回25奪三振)。江川を見るために全国でファンがテレビに釘付けになり、関西電力が大手会社にエスカレーター冷房のストップを要請する事態となった[13]。8月16日の銚子商(千葉)との2回戦は、好投手・土屋正勝(のち中日)を相手に、栃木県予選のチーム打率が.204だった作新学院打線は点を取れず、0対0のまま延長戦に突入した。試合途中から降り出した雨でボールがすべり、制球を乱した江川は12回裏1死満塁のピンチを招くと、カウント2-3から内野手全員をマウンドに集め、「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」と告げた。江川はそのとき、「ふざけるな、ここで負けたら終わりなんだからちゃんとストライクを入れろ」といわれることも覚悟していたというが、ナインに「おお、いいよ。ここまでこれたのはお前のおかげなんだから、お前の気の済むように投げろ」といわれ、「ああ、このチームにいて本当に良かった」と思ったという[14]。この直後、江川が投じた169球目のストレートは明らかに高く外れるボールで押し出し。0対1でサヨナラ負けとなり、江川にとって最後の甲子園は幕を下ろした。

超高校級の豪腕投手として驚異的な活躍を果たし、怪物のニックネームを欲しいままにした。甲子園の通算成績は6試合に登板し、4勝2敗、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で、奪三振率14.0は、歴代でも断トツの記録である[注釈 1][15]

江川の高校生活最後の大会となる10月14日開幕の千葉国体では、1回戦で同年夏の甲子園優勝校である広島商と激突、被安打2、17奪三振で、1対0の完封勝ち。春の甲子園で敗れた雪辱を果たすとともに、改めて江川の実力を証明してみせた。準決勝の静岡高戦では、被安打4、11奪三振で無四球完封勝利。夏の甲子園で敗れた銚子商との再戦となった決勝戦でも先発したが、2回を投げて被安打2、2奪三振、自責点1で降板。江川に勝ち負けは付かなかったが、後続の投手が打たれて2対3で敗れ、銚子商に一矢を報いることは叶わず、作新学院は準優勝となった。結局、江川は高校時代に全国制覇を経験することができなかった。

1973年秋のドラフト会議(11月20日開催)で上田利治新監督率いる阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否する。慶應義塾大学法学部政治学科を受験するも不合格だったため、法政大学法学部第二部法律学科に進んだ(のちに一部へ転籍)。江川が慶應義塾大学受験に失敗した事実はニュース速報として報じられ、大きな話題になった。江川は不合格について「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している[16]。一方で、「江川を入学させると裏口入学だと騒がれる」という思惑から「例年なら野球部セレクションによる加点があるはずが、この年に限って加点が行われなかった」という説もあり、実際、この年は堀場英孝中尾孝義など慶大志望の他の有力選手の中にも不合格者が相次いだ[17]

法政大学時代[編集]

法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学リーグ戦に登板。春季リーグ戦は3位に終わったが、直後の新人戦慶大戦では3失点5奪三振で完投勝利(自身も4安打)し、優勝に貢献。さらに、その年の秋季リーグ戦でも史上最年少で投手のベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍[18]明治神宮野球大会でも法大の準優勝に貢献した(決勝戦では中大田村政雄と投げ合うも1本のソロ本塁打に泣き、9回12奪三振、0対1の完投敗戦)[19]1976年から77年法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。なかでも1976年秋季リーグでは、投手は野手と比較して打席に立つ回数が少ないにも関わらず規定打席に到達、38打数13安打で打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(リーグ2位)、打点10(リーグ1位)の好成績を挙げている。このときはもちろん法大の規定打席数以上の選手の中では3部門すべてにおいてトップであった。通算47勝は山中正竹法大)の48勝に次ぐ史上2位。1977年10月22日、対明大1回戦を5安打完封して47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で連盟タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり先発を鎗田英男に譲っている。通算17完封連盟記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁明大巨人)の7度に次いで、谷沢健一早大中日)の6度と並ぶ連盟2位の記録である。奪三振数(443個)も2002年秋に当時早大4年生だった和田毅(476個)に更新されるまでは歴代最多だった[20]。また、江川は2年生で第4回日米大学野球選手権大会日本代表、3年生で第5回日米大学野球選手権大会日本代表、4年生で第6回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたが、同学年で3年生時の全日本大学野球選手権大会準決勝で江川と投げ合った東海大遠藤一彦(のち大洋)は一度も同代表に選出されず、江川に対して強烈なライバル意識を持ったことが設計士の道を諦めてプロ入りする方向転換の要因となった。なお、当時のチームメートには船木千代美(投手)がいる(のちにTDKの監督として都市対抗野球で東北勢の初の優勝を果たす)。

2年生時には右肩を疲労骨折した。ただし、当時その事実は外部には伏せられ、六大学のリーグ戦にも通常通り登板していたため気づかれることはなく、プロ引退後にその事実が明かされた。江川によればそれ以後右肩の調子が100%に戻ることはなかったという[21]

法大4年生時の1977年秋のドラフト会議(11月22日開催)では、法大の大先輩・根本陸夫新監督率いるクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡市を本拠地としていたクラウンに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。このときのことをのちに江川は、「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため、遠距離交際を避けられる在京セ・リーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている[22]

大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学[23]。これは、大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したため[23]南カリフォルニア大学で練習し、実戦ではアラスカのサマーリーグにアンカレッジ所属として参加し2勝2敗。留学当時、クリス・スミス(のちヤクルト)がルームメイトで、江川にとって英語の先生役でもあった。

プロ入り時の騒動[編集]

プロ野球選手時代[編集]

1978年度ドラフト会議(11月22日開催)の2日前に急遽帰国した江川は、ドラフト会議前日の11月21日、(福岡野球から西武グループに譲渡されたライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で[24])巨人と電撃契約した(通称「空白の一日事件」)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコットした[25]。当のドラフト会議では、巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海近鉄ロッテ阪神の4球団が江川を1位指名し、抽選の結果、阪神が江川との交渉権を獲得した[26]。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効である」と主張して、江川に対する阪神の交渉権を認めなかった。この問題はこじれにこじれたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、1979年1月31日、江川は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになった[27]。この一件により、江川に対する世間の風当たりは強くなり、一気に悪役に仕立て上げられる。マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道した。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という造語が流行語にまでなった。また、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌いな物として「江川・ピーマン北の湖」という呼び方が揶揄的になされた[28]

巨人入団時に背番号19を提示されるも、さすがに小林繁の着けていた背番号なので拒否。昭和30年生まれにちなみ、空いていた背番号30を着ける。なお、阪神入団時の背番号は3である。これはたまたま3番が欠番だったからということもあるが、巨人移籍後は(永久欠番のため)使用できない番号を故意に着けさせた阪神側のせめてもの抵抗とも受け取れる。ただし、引退時は引退記念登板(巨人対阪神のオープン戦)でライバルであった掛布雅之を打席に立たせるなど、阪神サイドも一定の配慮を見せている。

自主トレ期間中は前年まで現役捕手だった矢沢正がパートナーを務めた。

開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛[29]する。デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン若菜嘉晴マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手[30]。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也中日)に新人王をさらわれた。なお、同年4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は同年7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。プロ2年目の1980年には最多勝最多奪三振を獲得。3年目の1981年には、20勝6敗、防御率2.29、奪三振221で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率(.769)、最多完封(7完封)という投手五冠王[2]に輝き(日本プロ野球史上6人目、2リーグ分立後3人目)、チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた。MVPに選出されたものの、沢村賞は同僚の西本聖の受賞となった(当時の沢村賞は現在と異なりプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されていた)。

その年の日本シリーズ(対戦相手は日本ハム)では第1戦、第4戦、第6戦の3試合に先発。第1戦は6回を投げて自責点4の敗勢で降板、その後チームが同点に追いつき敗戦投手は免れたものの、9回裏にリリーフエースの角三男が打たれてチームはサヨナラ負けを喫した。中3日で登板した第4戦は2失点完投勝利。さらに中3日で登板した第6戦(第5戦が雨のため1日順延)も3失点完投勝利で優勝。レギュラーシーズンに続き胴上げ投手となり、巨人を8年ぶりの日本一へ導いた。このとき、9回裏2死後の最後の打者であった五十嵐信一の飛球がマウンド上に上がった際に、普段通り投手に代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている[31]

1982年も19勝(リーグ2位)、防御率2.36(リーグ2位)、奪三振196(リーグ1位)、24完投(リーグ1位)、6完封(リーグ1位)を挙げる活躍を見せるが、沢村賞には20勝を挙げて沢村賞選考基準項目のすべてを満たした北別府学広島)が選出されたため、この年も沢村賞を獲得できなかった(江川もすべての選考基準項目を満たしていた)。結局、江川は沢村賞を獲得できないまま現役生活を終えることになる。

1983年夏に再び右肩を痛める[32]鍼灸の治療などを受けてマウンドに立ち続けたが、スポーツ新聞などからは「百球肩」と揶揄されるようになった。江川はこの事実が知られることを恐れ、投球数を減らすように工夫し、チーム内でもトレーナー一人以外には知らせなかったという[33]。しかし、この肩痛が最終的に江川を引退に追い込むことになる。この年は、レギュラーシーズン優勝決定時を含め3セーブを記録(江川がセーブを記録したのはこの年のみ)。また、同年の西武との日本シリーズでは、シリーズ直前に右足ふくらはぎの肉離れを起こしていたため精彩を欠き、第1戦、第6戦で敗戦投手となり、第4戦でも江川自身に勝ち負けは付かなかったがチームは敗戦した[34]。同年オフ、堀内恒夫の現役引退に伴い、藤田元司と堀内が背負った背番号18への変更を打診されたが固辞している。

1984年はナゴヤ球場でオールスターゲーム第3戦で中日・中尾とバッテリー組み8者連続奪三振を記録。このとき5人目の打者として対戦した落合は、「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している。しかし、9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった[35]。同年9月16日の対広島戦(広島市民球場)では、先発して延長11回まで0点に抑えたが、12回裏1死無走者、打者・長嶋清幸の場面で158球目を打たれ、これが生涯初の被サヨナラ本塁打となり、自責点1の完投負けを喫した。しかしながら、同年のシーズンも通算2度目のリーグ最高勝率(.750)と通算4度目のリーグ最多完封[36]を記録した。

1985年には王貞治監督が持っていた当時の年間最多本塁打記録(55本)に迫る阪神のランディ・バースに対し、他の巨人の投手が敬遠をする中で真っ向勝負をしている[37]。このシーズンのオフに中国鍼治療で復肩した江川は新ストライクゾーンが導入された翌1986年は好調で、6月26日に7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑んでいるが、最終打席で本塁打を許した。同年7月20日、大阪球場で行われたオールスターゲーム第2戦に4回からリリーフ登板、1死2塁で西武の高卒ルーキー・清原和博と初対決(清原は代打で登場)、カウント2-1からストレートを投げて空振り三振に切って取る。明くる年の1987年、6月2日の神宮球場での対ヤクルト戦では、6回1/3を投げて自責点3で降板、江川自身に勝ち負けは付かなかったが、ヤクルトの4番で「怪物」といわれたボブ・ホーナーと初めて対戦。日米「怪物」対決はホーナーから3打席連続三振を奪った江川に軍配が上がった(試合は7対6で巨人勝利)。しかし、同年9月20日の対広島戦で、4番・小早川毅彦に2打席連続で本塁打を打たれる(シングルヒット含めて猛打賞)。2本目は逆転サヨナラツーランホームランとなり、3失点(小早川の2本の本塁打によるもの)で完投しながら敗戦投手となった。これをきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した[38]任意引退ではなく自由契約になったが、これは球団側の意趣返しともいわれた。

引退会見では、優勝のかかった対広島戦を前にして長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるといういわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし、鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが彼が主張した患部(肩胛骨)の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった。のちに江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めた。

現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている[39]。『たかが江川されど江川』によると、同年5月13日、後楽園球場での阪神戦で、8回まで完封ペースだったが、江川の法大の後輩・木戸克彦の代打として登場したプロ入り通算0安打の無名のルーキー・八木裕に100球目の投球をフルスイングで本塁打されたことにも大きなショックを受けたという[40]。八木は同年オフ、江川の法大の先輩・長崎慶一の引退に伴い、江川も一時的に与えられた背番号3を与えられた。また、『巨人-阪神論』では、前年の1986年の時点で肩の痛みなどから引退を考えていたと述べ、入団初年に9勝で終わって以来、「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも引退を決めた原因であると述べている[41]。上記の小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で、肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失ったという[42]。奇しくもこの年挙げた勝ち星は小林繁が引退した年と同じ13勝だった。ただし、江川の通算勝利数は小林の通算勝利数(139勝)より4勝下回る。

プロ野球人生最後の登板となった因縁の西武との日本シリーズにおいては、第3戦に先発投手として登板。好投を見せるも打線がそれに応えることができず、石毛宏典ジョージ・ブコビッチにソロ本塁打を打たれ、8回2失点(9回は水野雄仁が登板)で敗戦。チーム自体も相手の組織力と隙のない野球の前に完敗を喫し、最後の花道を飾ることはできなかった。

この年の8月に次年度の球団カレンダー用の写真撮影が行われた際には、カメラマンから桑田真澄との2ショットを依頼されたのに対し、のちに写真の差し替えで桑田に迷惑をかける可能性を考慮して、2ショットを拒否した[43]

シーズン終了後の球団納会では、長嶋茂雄の引退試合のコメント(「わが巨人軍は永久に不滅です」)をもじって「巨人軍選手会は永遠に不滅です」と最後の挨拶を行った。

現役引退後[編集]

引退後は、日本テレビの野球解説者に就任。1993年にはメガCD専用ソフト『江川卓のスーパーリーグCD』の開発にも関わり、1994年からは『スポーツうるぐす』のMC、1996年からは『THE・サンデー』のスポーツコメンテーターを務める。2016年現在は『Going!Sports&News』の日曜日メインコメンテーターとナイター中継、主に巨人主催試合の解説を担当している。ワイン好きで「ワインタレント」として知られ、ワインに関する著作があり、名誉ソムリエの資格も持っている。遠縁に元タレント・女優の江川有未がいる。2003年春には法大野球部臨時コーチを務めた。2009年のヤクルト春季キャンプでは球界を代表するストッパーである五十嵐亮太の特別コーチを務め、2011年には千葉・鎌ケ谷で日本ハムの新人合同自主トレを視察、斎藤佑樹の投球を見て「北別府タイプになったら200勝近く勝つ」と分析した。

作家の草柳大蔵は著書『きれいな敬語羞かしい敬語』で、きれいな言葉で解説するプロ野球解説者として、豊田泰光や落合と並んで江川を挙げている。

『スポーツうるぐす』では、GIシーズンになると杉本清(以前は高橋源一郎)と競馬の予想を行っていたが、あまり当たらなかった(対象レースのほとんどで予想を外した年もあった)。

幾度となく巨人の監督候補に名前が挙がるものの、本人はそのたびに否定しているが、自身のテレビ番組でも巨人の監督が代わるニュースが大きく取り上げられる際は、他の出演者から「狙っていたんでしょ?」と声をかけられ、それらしいコメントを繰り返している。江川は2010年の対談で「(プロ野球の)監督になるかどうかはタイミング(そのときの環境)による」と述べている[44]。同じ対談では、「自分は考えを譲れないタイプなのでコーチではユニホームを着ない」「年齢的に最後かなと思ったときには巨人以外のユニホームを着ることもあるかもしれない」とも話している[45]

2011年11月11日、2012年シーズンから江川を巨人ヘッドコーチに起用すべく招聘する案が渡邉恒雄球団会長によって進められていたことが、清武英利球団代表の記者会見で明らかになっているが、江川自身は球団側から正式な要請を受けていないとしており、仮にコーチの話を受けたとしても入団時の経緯もあり、この年のヘッドコーチである岡崎郁に迷惑を掛けられないので「受けないだろう」と江川は述べている。結果、岡崎はヘッドコーチ留任となり、江川の入閣は行われなかった(「清武の乱」参照)。

2015年10月、巨人の後任監督として検討された[46]

プレースタイル[編集]

現役時代は100m走のタイムが11秒1という球界有数の俊足の持ち主であった。

江川の球速は、高校時代にすでにピークを迎えていたともいわれ、当時スピードガンはまだなかったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[47](プロ入り後は1981年8月30日に最速153km/hを記録している)。江川が出演する『Going!Sports&News』にて[48]、現役時代の江川の球速(ある1球)をスーパーコンピュータで解析したところ、160km/hだったと推定されるという。その球威は、「本気で投げると同級生の小倉捕手が球を捕れなかった」「打者がファウルするだけで歓声が沸いた」などの伝説を生んでいる[要出典]。また、高校時代の江川が投じるきれいにスピンがかかった球筋は、数字以上の速さを感じさせていた[要出典]。スピンが多くかかっているのは、なるべく球離れを遅くしてスピンをかけるように本人が努力したためだという[要出典]。ただし、投手としては指が短めだったこともその理由である。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。基本的には速球投手であり、落合博満は最後の速球派投手だと高く評価している[要出典]

カーブ以外有効な変化球を持たなかった江川は、プロ入り以後は投球術で打ち取るテクニックを覚えている。また、1983年に肩を痛めてからはスライダー系の変化球を投げるようになった[要出典]1985年頃から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[49]。2010年3月14日放送の「SUPERうるぐす」ではコントロールがよく、ストレートのスピードとコースを投げ分けることができたので、カーブ以外の変化球を使わなかったと語った。現役時代のライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[50]

阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[51]

9回を完投するため、中心バッターには「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[52]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[52]

江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[53][要出典]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリのコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[54]。また与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川はボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2-0からヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手からの懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[55]。一般的に速球派投手はコントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。

被本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の一人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年はリーグ最多の36本塁打を浴びた。9イニングあたりの被本塁打は通算で1.23本である。

上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝タイムリーヒットを放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[56]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」[57]と懐述している。

打撃の優れた投手としても知られているが、初安打はデビューから36打席目だった[58]。プロ入り最初の打席で、阪神の山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[59]

人物[編集]

卓という名前は、父の趣味である麻雀の麻雀卓に由来する。弟の名前も同様に麻雀牌に由来している。しかし、本人は否定している[53]

少年時代の写真に笑顔で写ってるものはない。それは父親から「写真は真顔でとられろ」と言われたからである[60]

裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親が財産の管理が上手かったことから、年二回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[61]

幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京盛岡青森函館札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多新八代鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間を無駄にしてまで陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会ハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。

大学時代、現在の夫人と交際していたときにデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[62]

現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[63]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(後のエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[64]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。

現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだったという[65]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。現在は駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。

本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[66]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。

テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。

西本とのライバル関係[編集]

現役時代の江川のライバルとして西本聖がいる。元々は「空白の一日事件」で江川が巨人に入団した際、球団が先発ローテーションの一角を無条件で江川に与えたため、ドラフト外からはい上がって先発ローテーション枠をつかみかけていた西本が一方的に江川をライバル視していたが、沢村賞の一件以降、江川も西本を「唯一のライバル」として意識するようになった[67]。食事はもちろん、新聞や雑誌などの取材でも頑なに二人での取材を避けたという。二人にまつわる話として、

  • 投球練習の際にお互いに意地になって330球以上も投球した
  • お互いが先発している試合で「頼むから打たれてくれ」と思っていた
  • 1983年、西武ライオンズとの日本シリーズ第6戦で抑えに自分が登板すると思っていたところ、第7戦先発予定の西本が呼ばれたため緊張の糸が切れてしまった(9回に西本が同点に追いつかれ、10回に江川が登板するもサヨナラ負けを喫した)
  • 1980年から1987年まで交互に4回ずつ開幕投手を務めたが、江川の年はいずれもチームは優勝していない(西本の年は3回優勝)[68]
  • 江川が入団した1979年から引退する1987年までの9年間において、シーズン勝利数で西本が江川を上回った年は一度もない(1984年のみ同じ15勝だが、西本が11敗しているのに対し江川は5敗だった)

など、逸話も多い。ただし、引退後は同じ伊東会のメンバーとしてお互いに親交を深めている[69]

人間関係[編集]

好敵手であった掛布雅之とは、現役時代にはオールスターゲームの際に言葉を交わす程度であったが、掛布の引退後に解説者として仕事をともにするようになってから親交を深めた[70]

巨人入団の際に小林繁に迷惑をかけたことに対して負い目を感じていた江川は、恨みの感情がありながら江川の気持ちを察していた小林とは、お互い避けるような形で引退後もほとんど会話がなかったが、2007年10月12日からオンエアされた黄桜のCMで江川と小林は対談という形で共演した[4]。リハーサルもなく撮影された中で、小林が、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな! 二人ともしんどかった」と江川に語りかけた。「この対談で初めてお互いのわだかまりが取れた」とのちに江川は語っている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1979 巨人 27 23 7 2 1 9 10 0 -- .474 653 161.0 132 22 50 3 0 138 0 1 57 50 2.80 1.13
1980 34 34 18 5 2 16 12 0 -- .571 1055 261.1 226 34 60 5 2 219 0 0 88 72 2.48 1.09
1981 31 30 20 7 3 20 6 0 -- .769 931 240.1 187 27 38 2 4 221 0 1 68 61 2.29 0.94
1982 31 31 24 6 10 19 12 0 -- .613 994 263.1 200 36 24 2 3 196 0 0 77 69 2.36 0.85
1983 33 29 10 2 2 16 9 3 -- .640 883 217.2 187 27 59 5 2 131 1 0 83 79 3.27 1.13
1984 28 28 13 3 2 15 5 0 -- .750 782 186.0 186 20 58 4 3 112 0 0 80 72 3.48 1.31
1985 30 26 3 1 0 11 7 0 -- .611 735 167.0 188 34 56 2 3 117 1 0 102 98 5.28 1.46
1986 26 26 8 1 2 16 6 0 -- .727 791 194.0 172 27 49 4 4 119 1 1 64 58 2.69 1.14
1987 26 25 7 0 1 13 5 0 -- .722 685 166.2 150 26 49 6 2 113 1 0 71 65 3.51 1.19
通算:9年 266 252 110 27 23 135 72 3 -- .652 7509 1857.1 1628 253 443 33 23 1366 4 3 690 624 3.02 1.12
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初登板・初先発:1979年6月2日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、8回5失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、1回表にマイク・ラインバックから
  • 初勝利・初先発勝利:1979年6月17日、対広島東洋カープ11回戦(後楽園球場)、7回1/3を1失点(自責点0)
  • 初完投勝利:1979年8月14日、対阪神タイガース21回戦(後楽園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1979年8月26日、対広島東洋カープ19回戦(後楽園球場)
  • 初セーブ:1983年7月29日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
節目の記録
  • 1000投球回:1983年6月14日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、1回表2死に達成
  • 1000奪三振:1984年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(後楽園球場)、2回表に玄岡正充から ※史上69人目
  • 100勝:1985年6月4日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で6回2/3を6失点 ※史上88人目
  • 1500投球回:1986年4月4日、対ヤクルトスワローズ1回戦(後楽園球場)、4回表1死に達成
その他の記録
  • シーズン10無四死球試合 (1982年、セ・リーグ記録)
  • オールスターゲーム出場8回 (ファン投票選出:1982年・85年、監督推薦:1980年・81年・83年・84年・86年・87年)

背番号[編集]

  • 3 (1979年) ‐ 阪神タイガース
  • 30 (1979年‐1987年) ‐ 読売ジャイアンツ

関連情報[編集]

著書[編集]

関連書[編集]

江川を題材とした作品[編集]

  • 詩 「雨に散った江川投手」 (作:サトウハチロー
    • 1973年の夏の甲子園、対銚子商業戦で、雨の中延長戦で押し出し四球により敗れた江川の姿を見て作られた。この詩の中でハチローは、自分は雨を愛したがこれからは雨に関する詩を作るのをやめると詠った。ハチローが亡くなる3か月ほど前のことである。
  • 漫画 『江川と西本』 (作:森高夕次、画:星野泰視

江川(およびその家族)に由来する命名[編集]

  • ゆでたまご原作のプロレス漫画『キン肉マン』の主人公「キン肉スグル」の名前は江川にちなんだものだといわれている。また、兄の「キン肉アタル(=キン肉マン・ソルジャー)」の名前も江川の実弟、中(あたる)に同じ。父母の名前も同じ[53]
  • 高橋留美子の漫画『うる星やつら』の主人公である諸星あたるの「あたる」も江川の実弟に由来する命名である[72]
  • 水島新司の漫画『ドカベン』の登場人物で「江川学院」の投手「中二美夫(あたる・ふみお)」も同様で、「中」は江川の弟の名前、「二美夫」は江川の父の名前である。水島はプロ入り前より江川と親交があり、江川事件当時は自宅に江川を匿ったこともあった。
  • 江口寿史の漫画『すすめ!パイレーツ』の登場人物で千葉パイレーツ投手江原卓徳」は、江川と原辰徳をかけ合わせた名前であり、キャラクターの造形はクラウンにドラフトで指名された頃の江川に近かった。「どうして僕はこんな球団に入っちゃったんでしょうね!?」が口癖。なお、この作品にはのちに江川自身も登場している。

出演[編集]

テレビ・ラジオ[編集]

CM[編集]

映画[編集]

PV[編集]

参考文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 上位十傑の2位以下は、2位:板東英二徳島商)…12.1(62回・83奪三振)、3位:藤浪晋太郎大阪桐蔭)…10.7(76回・90奪三振)、4位:尾崎行雄浪商)…10.3(89回・102奪三振)、5位:島袋洋奨興南)…10.1(115回2/3・130奪三振)、6位:田中将大駒大苫小牧)…10.1(91回1/3・102奪三振)、7位:柴田勲法政二)…9.8(103回2/3・113奪三振)、8位:松坂大輔横浜)…8.8(99回・97奪三振)、9位:ダルビッシュ有東北)…8.5(92回・87奪三振)、10位:牛島和彦浪商)…8.4(100回・93奪三振)である。
  2. ^ 当時は最多奪三振の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト[1]には、1980年、1981年、1982年の「最多奪三振」として江川の名前が記載されている。なお、セントラル・リーグでは、1991年より最多奪三振の表彰が開始された。
  3. ^ 当時は最高勝率の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト[2]には、1981年、1984年の「最高勝率」として江川の名前が記載されている。なお、タイトルとしての「最優秀勝率投手」および「勝率第一位投手」については、「最高勝率 (野球)」を参照のこと。

脚注[編集]

  1. ^ 日本テレビ「江川卓プロフィール」
  2. ^ a b 『プロ野球データブック・最新版』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1995年)
  3. ^ 【新連載】福島に生きる 「かわいそうだから、じゃない!」 ~オールスターゲームがいわき市であるワケ~(馬路雄、ダイヤモンド・オンライン、2013年5月27日)
  4. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)pp.23-24
  5. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)pp.25-26
  6. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)pp.33-36
  7. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)pp.36-38
  8. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)pp.38-44
  9. ^ 江川入学直前の1971年春の甲子園で指揮を執った。江川が高校時代の練習風景を語るときの「徹底的に走り込まされ、水も飲ませてくれなかったほど厳しい」監督はこの人。
  10. ^ 『巨人の星への道―父子鷹、江川と原の真実』参照。
  11. ^ 現在の夏の大会記録は、2012年夏に桐光学園松井裕樹が記録した10者連続奪三振。
  12. ^ 迫田監督の策に嵌った江川は、この試合で計8四球を与えている。
  13. ^ 73年、江川雨中の押し出し/夏の甲子園日刊スポーツ、2011年8月9日)
  14. ^ 『豪球列伝』の江川の項参照。
  15. ^ 桐光学園の松井裕樹は、甲子園通算の奪三振率は17.0で江川を上回ったが、甲子園への出場は2012年夏の1回のみで、通算奪三振数は68であり、甲子園通算80奪三振に達していないので、この記述では除外する。
  16. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.60-61
  17. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.56-58
  18. ^ 最年少ベストナイン投手の記録は33年後の2007年春に当時早大1年生で19歳の誕生日直前だった斎藤佑樹が更新。
  19. ^ 阪急(またはオリックス)の1位指名を拒否した高校3年生が大学1年生時に明治神宮野球大会の決勝戦で先発投手となった例は江川の他に1999年の九州共立大新垣渚の例がある。
  20. ^ 通算勝利、奪三振はともに史上2位だが、通算40勝と400奪三振を両方記録しているのは江川のみである[3]
  21. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)p.162
  22. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.79-80
  23. ^ a b 【12月3日】1977年(昭52) 江川が二度目の入団拒否、クラウン蹴って米国留学へ”. 2012年6月16日閲覧。スポニチ、2007年12月3日)
  24. ^ 当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。
  25. ^ ただし、のちにドラフト外という手段で明大鹿取義隆ら新人選手を10人獲得している。
  26. ^ 日本プロ野球ドラフト会議史上、ドラフト1位指名を3回も受けたのは江川のみである。
  27. ^ 【1月31日】1979年(昭54) 巨人のエース・小林繁、“阪神の新人”・江川卓とトレード”. 2014年6月16日閲覧。スポニチ、2008年1月31日)
  28. ^ 「江川・ピーマン・北の湖」強すぎで揶揄日刊スポーツ、2015年11月21日)
  29. ^ あくまでも球団側の要請による「自粛」であり、「出場停止」ではない。
  30. ^ 【6月2日】1979年(昭54) “元チームメイト”江川粉砕 4年目ラインバックが逆転弾”. 2013年6月16日閲覧。スポニチ、2008年6月2日)
  31. ^ 『日本野球25人 私のベストゲーム』参照。
  32. ^ 『巨人-阪神論』p.122
  33. ^ 『巨人-阪神論』pp.128-129
  34. ^ 【10月29日】1983年(昭58) 江川研究に3か月、田淵が放った日本シリーズ初本塁打”. 2010年6月16日閲覧。スポニチ、2007年10月29日)
  35. ^ 【7月24日】1984年(昭59) だから江川卓 江夏と並ぶのは興味がなかった?”. 2015年6月16日閲覧。スポニチ、2009年7月24日)
  36. ^ この年の江川は山根和夫(広島)と並ぶ3完封で1位タイ。1980年~82年は単独1位だった。
  37. ^ 同年の7勝目、通算102勝目を挙げた7月12日の阪神戦では、7回から登板して9回までの3イニングを自責点0のパーフェクトリリーフ。江川にとってはプロ生活唯一のレギュラーシーズンでの救援勝利となった(同試合で江川の女房役・山倉和博が3イニング連続本塁打)。
  38. ^ この年の小早川はリーグ最多の16勝利打点を挙げている。また、小早川はヤクルトに移籍した初年度の開幕戦(1997年4月4日)で、前年の沢村賞受賞者である巨人の開幕投手斎藤雅樹から3打席連続本塁打を記録しているが、その試合のテレビ中継の解説者は江川だった。
  39. ^ 1987年5月10日、江川は、作新学院時代にバッテリーを組んだ小倉偉民の実姉・睦美の夫だった男性(二人は1983年に離婚)の叔父である亀岡高夫衆議院議員)と小倉自身が前年秋に養子縁組をした記念にホテルニューオータニで開催された政治資金パーティーにゲスト参加した。本来、そのパーティーは丸1か月前の4月10日に予定されていたが、当日は星野仙一新監督が率いる中日ドラゴンズ(この年、トレードによって落合博満が新加入)との開幕戦の日だったことから、(江川が開幕投手となることを想定して)パーティーの開催日は1か月延期された。しかし、開幕投手には西本が選ばれたため、江川は王監督に不信感を抱いたという。江川は翌11日の開幕第2戦に先発、7回を投げて自責点2に抑え、シーズン初勝利を挙げている[要出典]
  40. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.160-161
  41. ^ 『巨人-阪神論』pp.120-122
  42. ^ 『巨人-阪神論』pp.124-126
  43. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.214-216による。なお、この話にはオチがあり、引退記者会見後では写真の差し替えが間に合わず、結局江川の写真はそのままカレンダーに使われた。そのカレンダーは当時過去最高の売上を記録したという。
  44. ^ 『巨人-阪神論』p.211
  45. ^ 『巨人-阪神論』pp.214-215
  46. ^ http://www.sankei.com/sports/news/151019/spo1510190036-n1.html
  47. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)p.46
  48. ^ 2015年11月22日23時55分~23日0時55分放送の回。
  49. ^ 『豪球列伝』の江川の項参照。
  50. ^ 『巨人-阪神論』p.113
  51. ^ ランディ・バースが明かす、日本で戦った最高の投手とは?Number Web、2015年9月16日)
  52. ^ a b 『巨人-阪神論』pp.62-64
  53. ^ a b c 『さんまのまんま』(関西テレビ)2014年7月5日放送回にて本人談。
  54. ^ 『巨人-阪神論』pp.99-100
  55. ^ 『巨人-阪神論』p.101
  56. ^ 【8月16日】1980年(昭55) 電撃トレードから564日、江川卓vs小林繁 雨中の決着”. 2011年6月16日閲覧。スポニチ、2007年8月16日)
  57. ^ 2007年10月12日からオンエアされた黄桜のCM撮影時の江川自身の発言。
  58. ^ 公式戦の通算打撃成績は、625打数117安打、打率.187、13本塁打、47打点。
  59. ^ 『巨人-阪神論』pp.167-168
  60. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)p.22
  61. ^ 『たかが江川されど江川』(単行本版)p.24
  62. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.62-63
  63. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.227-228
  64. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)p.238、p.245
  65. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.233-234
  66. ^ 『たかが江川されど江川』(新潮文庫版)pp.219-220によれば、当初は純金パターを作らせるつもりだったが、業者から「純金だと重過ぎて振れない」といわれ、純銀になったという。なお実際には純銀でも重過ぎたため、のちに一部をくり抜いてロウを埋める改造を加えたとのこと。
  67. ^ 西本聖 「エース」の座を争った江川卓との9年間(全4回)アサ芸プラス、2012年6月22日~7月2日)
  68. ^ 1980年…江川(チームはセ・リーグ3位)、1981年…西本(同優勝)、1982年…江川(同2位)、1983年…西本(同優勝)、1984年…江川(同3位)、1985年…西本(同3位)、1986年…江川(同2位)、1987年…西本(同優勝)
  69. ^ 富士通「夢をかたちに」スペシャル 『20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 封印された涙の理由…』”. 2012年6月16日閲覧。TBSテレビ、2009年7月20日)
  70. ^ 『巨人-阪神論』p.96、p.135
  71. ^ 江川と掛布の対談集。
  72. ^ 『少年サンデーグラフィック』に掲載の原作者インタビューによる。

関連項目[編集]