達川光男

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達川 光男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市東区
生年月日 1955年7月13日(61歳)
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1977年 ドラフト4位
初出場 1978年7月11日
最終出場 1992年10月4日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は、日本の元プロ野球選手捕手)・監督野球解説者

広島東洋カープの正捕手として、1980年代に活躍。広島の一軍監督を務めた1998年から2000年までは、達川 晃豊(本名と読みが同じ)という登録名を用いていた。監督辞任後は、本名で活動。フジテレビテレビ新広島ニッポン放送などの解説者、スポーツ報知評論家福岡ダイエーホークス阪神タイガース中日ドラゴンズのコーチを歴任している。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1973年迫田穆成率いる広島商業高校時代、春のセンバツに出場し準優勝。特に江川卓を擁する作新学院を、チーム一丸で待ちと小技で攻め崩す作戦で下した試合は現在でも語り草となっている。同年の夏の甲子園にも出場し優勝。実は捕手にコンバートされたのは高校1年生からである。3年生は引退しており2年生は修学旅行中であり達川ら1年生だけで練習していたところ、1年生捕手がの食中毒で練習を欠席しており、代わりに達川が入った。迫田監督は達川の抜群の肩を見て、すぐさま捕手にコンバートした。このコンバートがなければプロ野球選手・達川はなかったといわれている。3年生時のエースである佃正樹と不仲であったため、春センバツは外野手として出場していたが夏の甲子園では捕手に戻り全国優勝に導いた。また、夏の甲子園では鹿取義隆から本塁打を打っているが、本人曰く高校時代公式戦での唯一の本塁打である。この大会最後のホームランで次の大会から金属バットが採用されたため、甲子園における木製バットでの最後の本塁打であるという。[1]なお、この際ベンチのサインはヒットエンドランだったが、サインを取り違えて強振したため迫田監督からひどく叱責されたと述懐している[2]

その後、東洋大学へ進学。東都大学リーグでは、1年後輩の松沼雅之バッテリーを組み、1976年秋季リーグでのチーム初優勝に貢献した。同年の明治神宮野球大会では準決勝で早大に敗退。リーグ通算90試合出場、283打数64安打、打率.226、3本塁打、25打点。ベストナイン1回。

1977年のドラフト会議広島東洋カープから4位指名を受け、入団。テレビでドラフトの様子を2巡目までは見ていたが、自分の名前が出ないためパチンコに行ってしまい、指名されたと後輩が伝えに来たときは大当たりの途中で台から動けなくなっていた[3]。また、指名がなかった場合は本田技研野球部に進むことが内定していたという[3]背番号40

現役時代[編集]

入団直後のキャンプに入る前に広島商業高校の先輩にあたる三村敏之の部屋に挨拶に行った。三村は達川に「せっかくだから、ここでバット振ってみい(素振りしてみろ)」と達川のスイングを視た。その結果「プロでは通用せん」と手厳しい結論を出したが、「バッティングが駄目なら捕手として監督の戦術をこなせるようになれ、そうすれば何時かはレギュラーになれるかもしれん」と言った。達川本人は「心が折れそうじゃった」と後年公表していたが「早い段階から方向性が決まった事は結果的に良かった」とも語っている(達川本人のブログ記事より)。

入団当時の広島は水沼四郎道原裕幸といった捕手が活躍していたため、長く控えに甘んじていた。[4]当時リリーフエースであった江夏豊週刊ベースボール内の自身のコラムで「入団直後の達川のキャッチングはプロに入団した選手とは思えないほどひどいものであった。しかし、持ち前の明るさでチームに溶け込み、頼んでもいないのに俺の部屋を掃除したり、マッサージをしたりしてくれた。ブルペンでは率先して先輩投手の球を受けるなど努力を欠かさなかった。これほど先輩選手から何かを吸収しようとする選手は他にはいなかった」と語っている。6年目にようやく正捕手の座を射止めた。

この頃について、達川は後にこう語っている。

「6年目の日南キャンプにですね、休みの日にですね、ほかのチームがどんな練習をしているかと思ってですね、巨人のキャンプを見に行ったんですね、暇だったんで。そしたらですね、当時いた山根(和夫)がほかのピッチャーに『タツ(達川)が巨人の偵察に行ったぞ』言うたんですね。それからピッチャーが信用してくれるようになりましたね」

達川といえば「ささやき戦術」「デッドボール」(ともに後述)などのトリックプレーで知られるが、捕手としての高い技術も持ち合わせていた。

川口和久が登板したある試合で、川口が自分のサインに従わないことに激怒し、試合中マウンドに詰め寄り「もう勝手にせえ!」とサインを拒否したことがある。結局バッテリーは滅多打ちに遭い、ベンチでコーチに叱責されたが達川は川口を擁護した。それ以降、川口は達川に信頼を寄せるようになった。当時、川口はキャッチングの下手な達川がノーサインで捕れるのか半信半疑だったが、意地になって必死にボールを止め、1球もパスボールしなかった達川の根性に舌を巻いた。その後厚い信頼関係を築いた2人は、相手チームにサインを盗まれていると感じたときなどにはたびたびノーサインで投げたという[注釈 1]
リード面では、評論家時代の野村克也に「達川がうるさくて困る」と言われるほど、野村をグラウンドで見つけると教えを乞うた。野村を信用するきっかけは、当時よく打たれた巨人ゲーリー・トマソンの対策法を伝授されたことだった。野村が「外からの緩いカーブ低めに落としゃぁ、セカンドゴロ4本打つよ」と言うので、コントロールのよい北別府学が投げているときにそれを実践したところ、トマソンは本当にセカンドゴロを4本打った事からである。

「俺は広島初の年俸2000万円捕手になるんだ!」と意気込んで広島市民球場の球団事務所での年俸交渉に臨んだある年、球団側は「達川、これは税金対策だ。この方が君の手取りは多くなる」と年俸1980万円を提示した。それを聞いた達川は、「この20万を足して年俸2000万にして下さい。不足分を私が出す。文句はないでしょう」と、自分の財布から20万円を取り出して詰め寄った。球団もついにその熱意に負け、達川は晴れて球団初の2000万円捕手となった。

以上のように、正捕手として定着以降、黄金期の広島投手王国を長きにわたってリードし続けた。打者としては、打率.280・本塁打10本を超えたシーズンは一度もなく、一流の打者とは言えないが、上記のような努力を重ねて、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回と当時のセ・リーグを代表する捕手となった。

現役時代の応援歌の原曲は、『仮面の忍者赤影』のテーマソングだった。

引退試合
1992年限りで現役引退。引退試合となった同年10月4日の巨人戦では、代打に起用されて涙をこらえながら打席に立った[注釈 2]。「バットを乾かした方がボールがよく飛ぶ」という話を聞いた達川は、最後の打席をホームランで飾ろうと、バットを十分に乾かして臨んだが、乾かしすぎたことで却って脆くなってしまい、結局バットは折れてショートゴロに終わった[注釈 3]。また、その次の回に守備に就いたときは、大野豊とともにリリーフカーに乗ってグラウンドに登場した。捕手で試合中にリリーフカーに乗ったのは、後にも先にも達川だけである。引退試合後の挨拶では、この日の試合でタイムリーエラーをした巨人の篠塚和典に対し、「特に篠塚会長! その他……」と名指しして、何か特別に言うことがあるのかと思いきや「以下同文」とオチをつけ、涙の引退試合から一転、場内を爆笑の渦に巻き込んだ[注釈 4]

現役引退後[編集]

1993年から1994年まで、フジテレビニッポン放送テレビ新広島のプロ野球解説者を歴任。1995年に監督の王貞治の要請で福岡ダイエーホークスの一軍バッテリーコーチに就任。選手の起用法を巡って打撃兼守備走塁コーチの高橋慶彦と対立、広島時代から折り合いがよくなかったが選手が目を丸くするほど揉み合い、体調不良を理由に1年で退任[5]、チームも5位に低迷した。同年オフに退団後は再びフジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送のプロ野球解説者として2度目の復帰。

1998年二軍監督として6年ぶりに広島に復帰し、翌1999年には一軍監督に昇格。昭和30年代生まれで初めての一軍監督である[6]。鬼軍曹として知られる大下剛史をヘッドコーチに招いて「胃から汗が出る」ほどの猛練習で若手の底上げを図ったが、選手と年が近かったため(達川の現役時代のチームメイトも多数残っていた)、投手交代時に「代えてもいいか」と聞くなど選手に厳しく接することが出来ないときもあった。また、「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれた打撃陣は好調だったが、チーム防御率も3年連続でリーグ最下位に低迷し、長年の課題だった投手陣の崩壊を止めることはできなかった。大下、投手コーチの大野豊は1年で辞任した。

また2000年には、前田智徳緒方孝市が怪我で離脱し、FA権を行使して巨人に移籍した江藤智の穴埋めとしてジェフ・ボールを獲得したが期待外れに終わるなど(そのためルイス・ロペスが復帰することになる)、誤算も相次いだ。この年は若手の活躍もあったが、結局チームは2年連続5位に終わり(最下位に低迷していた阪神タイガースに2年連続で負け越した)、成績不振の責任を取る形で同年辞任した。ただ、後に阪神に移籍した金本知憲は達川時代を振り返り「チームは弱かったけど楽しかった」と語っている。

その後は3度目のフジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送で解説(J SPORTSで放送されるテレビ新広島制作のカープ戦にも出演)、スポーツ報知で評論として復帰をしていたが、2003年星野仙一が率いる阪神に一軍バッテリーコーチとして招聘され、同年のリーグ優勝に大きく貢献した。そして星野の勇退とともにチームを去り、翌年フジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送野球解説者として4度目の復帰(このときから2009年までMBSラジオの中継にも登場するようになる)。

2013年10月22日、翌2014年シーズンから中日ドラゴンズの一軍バッテリーコーチを務める事が球団から発表された[7][8]11月1日には背番号が90に決定したことが発表された[9]2015年一軍チーフバッテリーコーチを務め、2015年は12捕逸を記録しリーグワーストタイだった[10]。同年10月13日に2年契約の満了を持って退団することが発表された[11]

2016年からは、フジテレビ・J SPORTSの野球解説者に復帰。ウエスタン・リーグの広島主催試合(二軍戦)中継(「ちゅぴcom」の名称を冠した中国新聞グループケーブルテレビ局が制作・放送。著作権は親会社の中国新聞社が保有)の解説と、フジテレビ系準キー局・関西テレビのゲスト解説も担当する他[12]、かつてレギュラー出演していた同系列のテレビ新広島にも本数契約扱いで出演。その他系列局やニッポン放送の中継への出演の有無については未定。RCCラジオのゲスト解説も務めるなどフジテレビ系列外の在広局の野球番組にも単発で出演しているが、広島テレビ放送への出演実績はない(後述)。

その一方で、中日からの退団後には、プロ野球経験者による学生野球の指導に必要な学生野球資格の回復に向けて研修会を受講。2016年2月2日付で、日本学生野球協会から資格回復の適性認定を受けた。この認定を機に、高校野球や大学野球も指導できるようになった[13]

指導歴[編集]

  • 1995年 福岡ダイエーホークス 一軍バッテリーコーチ
  • 1998年 広島東洋カープ 二軍監督
  • 1999年-2000年 広島東洋カープ 監督
  • 2003年 阪神タイガース 一軍バッテリーコーチ
  • 2014年 中日ドラゴンズ 一軍バッテリーコーチ
  • 2015年 中日ドラゴンズ 一軍チーフバッテリーコーチ

評論歴[編集]

  • 1993年-1994年, 1996年-1997年, 2001年-2002年, 2004年-2013年,フジテレビ・ニッポン放送・テレビ新広島解説者
  • 2004年-2009年 MBSラジオ解説者
  • 2004年-2013年,2016年- J SPORTS(広島戦中継)解説者
  • 2013年,2016年- CBCラジオゲスト解説者
  • 2016年- フジテレビ解説者・フジテレビ系列局(関西テレビ放送・テレビ新広島・テレビ西日本)ゲスト解説者
  • 2016年- RCCラジオ・ニッポン放送ゲスト解説者
  • 2016年- ちゅぴcom(広島二軍戦中継)解説者

野球解説者としては、地元の広島を中心に活動。プロ野球中継・関連番組では、広島弁を交えて解説する。また、天才的な選手に対しては、「モノが違いますね」という表現で称賛することが多い。このようなキャラクターに加えて、関西東京での活動も経験しているため、全国規模の知名度を得ている。

選手・監督としての特徴[編集]

ささやき戦術[編集]

野村克也日比野武と並ぶ「ささやき戦術」の使い手として知られている。しかし、野村がバッターの弱味を突いて集中力を奪っていたのに対し、達川のそれは世間話やウソなどで相手の思考を撹乱する、いわば「明るいささやき」であった。主なものは以下の通り。

  • 広島弁で「今日飲みに行くん?」など、野球と全く関係ない話題を振る。
  • 「初球はど真ん中にストレートが来る」とわざと配球を教え、いぶかしむ打者をよそにその通りの球を投手に投げさせ、見逃した所に「せっかく教えたったのに、もうあんなええ球来んぞ」と煽る。また、「こいつは一球目から打つけぇ、外のボールから入るぞ」と大声で投手に指示し相手打者を惑わせたりもした。
  • 横浜大洋ホエールズの新人・谷繁元信が打席に立った際、「よう頑張っとるから、特別に次の球種を教えちゃる」と話しかけ、いぶかしむ谷繁に向けて「カーブ、カーブ、カーブ、カーブ」とつぶやき続けた。谷繁もその気になったところ、ピッチャーが実際に投げてきたのはストレートだった。思わず谷繁が文句を言うと、達川は「すまんすまん、アイツはワシのサインを理解しておらんかった」と答え、その直後に「ナイスストレート!」と言いながらピッチャーにボールを返球した。当時の大洋の監督は達川をよく知る古葉竹識であり、谷繁はベンチに帰った際「達川の言うことを聞くな」と叱られたという。なお、谷繁はのちに中日へ移籍し、2014年から中日の捕手兼任監督、達川は同年から中日のバッテリーコーチに就任し同じ球団のユニフォームを着用することとなる。
    • ルーキー時代の長嶋一茂にも同様のエピソードがあり、達川は「お前はお父さんが偉大じゃけぇ、可哀そうじゃのう」とからかった上、「この間ガリクソンからホームラン打っとったが、お前あのコースが得意なんか?」「それならもう一回同じところ投げさせてみようかのお」と煽った。しかし実際にそのコースに投げさせたところ、あわやホームランという大ファウルを打たれ冷や汗をかいたという。
  • 相手チームの主力選手やその時点で好調な打者に対して「悪いが1球、顔の前に通させてもらうけぇのお」と脅す。達川本人が引退後に語ったところによれば、「顔の前」とはインハイ攻めを指すものではなく「避けなければ当たるコース」であり、プロではブラッシュボールは駆け引きのひとつとして当然の行為と認識していたという。
    • 達川は池山隆寛とテレビで共演した際、現役時代に池山に対して「次の球は危ないところ(インコース)使わせてもらうけぇ、気をつけとけ」と予告したエピソードを例として挙げた。達川は「彼(池山)くらいのバッターになると、厳しいところを攻めないと必ず打たれますから。プロでは常識です」と述べている。池山もこの達川の言動が事実であることを認めており、仕掛けられた数は「1回や2回ではなく、数えきれない」とのこと。
  • 味方ピッチャーに大声でまくしたて、敵味方だけでなく観客に失笑を浴びることもあった。ヤクルト大杉勝男と対戦した際、マウンドの津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ(足が速くないので四球で出塁させても盗塁の心配はないという意味)、安心して投げてきんさい」と叫んだ。怒った大杉はわざわざ死球コースに投げさせろと要求、本当に投げさせる気などなかった達川が渋々従うと、大杉はその身体に向かって投じられた球を特大本塁打にしてしまった。達川はベースを1周した大杉に「(バットが振れない)石ころだと? ふざけるな!」と一喝された上、頭を殴るジェスチャーをされたという[14]

1984年の日本シリーズ阪急ブレーブスを下し日本一に輝いた際、広島ローカルの特番で以下のように語っている。

「ささやき始めるとね、弓岡なんか『達川さん、黙ってくださいよー』怒ってね。今井さんと山沖は乗ってくるんですよね、すぐ。まぁ軽い男ゆうたら失礼ですけどね。ホント軽い男なんですけどね。今井さんなんかは、北別府だったんですけどね、1球振ったんですよ。『あ、今井さん、バッティング練習していないのになかなか当たるじゃないですか』言うたら『ほうじゃろうがぁ』言うから『あぁすごいですね。じゃあスライダーはどうですか』言うたら空振りしたんですよ。『スライダーは打てないですねぇ』ほいでツーナッシングなったんですね。『じゃもういっちょスライダー行きますよ。いってくださいよ』言うたら、空振り三振しましてね」

「で、昨日(第6戦)なんですけど、山本和さん(山本和男)いうのがいるんですが。ま、9回で5点差あって2アウトだったから、打つ気なかったと思うんですが、山沖に『おまえ打つなよ』言うたら『いや、打ちますよ』言うから『打つなや、わりゃ何言いよんなら! 山本和さんは女房も子どもも一人おるのに、おまえおるまぁが。打つなよ』言うたら『はあ、そうですか』言うて三振しましたけどね。まぁ、言わんでも三振はしとったと思うんですが

なお、喋ると頭の回転が良くなり、リードが冴えてくるため、大洋の選手がある試合で「達川無視作戦」(「絶対喋るな! 挨拶からするな!」とミーティングの段階から選手に徹底させた)を決行した。MSNでの達川のコラム「モノが違いますね」によると、これは加藤博一が提案したもので、この結果として達川本人も「お前ら、どうなっとるんじゃ」と困惑するほどペースを掴めなくなった。

この「ささやき戦術」を始めたきっかけは広商時代、1973年春センバツ準決勝の試合前、迫田穆成監督に「(作新学院江川卓に)何でもええけぇ話しかけて、帰り際に広島弁で脅してこい」と心理的な揺さぶりを指示されたのが始まりと述べている。迫田の発言に仰天した達川は「何を言えばええんですか。堪えてくんさい(勘弁して下さい)」と必死で許しを請うたが、認められず作戦は強行された。乗り気でない上に混乱していた達川は、「今日は…、おどりゃあ(お前)覚えとけよ!」と言うのがやっとだったという。達川は後年、この作新学院戦について「江川君は本当に飛び抜けていましたね。体も大きいし、球は恐ろしく速い」「打席で実際に投球を見たら、こんなん体に当たったら死ぬなと。そう思って、打席で1歩下がって立ってましたよ」と述懐している。江川に対して行った数々の心理作戦も、あまりにも実力差があったため「少々スポーツマンシップに外れても、ハンデとして認められるだろう」と考えていたという。

デッドボール[編集]

達川は身体をかすってもいないボールを「デッドボールだ」と言い張る事が多く、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』(フジテレビ)で頻繁に取り上げられた。デッドボールが認められて出塁したことが何度もあり、トリックプレーの代表格として扱われているが、本人は至って真面目なプレーであったと語っている。また、わざと当たりに行った(インコースをデッドボールにした)ことは現役生活を通じて1回も無いという。

  • 相手投手の投球が内角を深く攻める投球であった場合、ユニフォームにかすったことを激しくアピールし、執拗にデッドボールを主張した。一度それが成功したのでその後は体に近い投球があれば条件なしで一塁に走り出す技を会得した。内角球→一塁へ平然と走り出す→捕手と球審が呼び止める→いかに自分がデッドボールに当たったかを必死に説明する。
  • 左腕を投球がかすめた際に、とっさに右手でひっかき傷を作り、審判にアピールして成功した。
  • 投球がかすめた時にアピールする箇所はなぜか手袋をめくった手首付近が多く、打席前にベンチ裏にて何らかの仕込みがあるのではと噂された(実際は際どいボールが来て倒れ込んでいる間に手の甲をつねって腫れさせていたことが多かった)。左手をかすめたのに右手を差し出したこともある。

しかし、他のチームの打者に対しては、デッドボールであることが明らかである場合でも「デッドボールではない」と抗議し、阪神の北村照文から激怒されたこともある。特に、阪神の鮎川義文が明らかに足に当たった際には、平光清審判のズボンを掴んでまで抗議したこともある。

東のグラウンドの詐欺師」といわれた大洋の市川和正とともにデッドボールに関する逸話を数多く作ってきた。また、両者はお互いをかなり意識していたという。また当時は金森栄治とともに「東の金森、西の達川」とも称されたが、当たりっぷりの悲惨な金森に対し、達川はその老獪さが笑いを誘った。

引退した年にゲスト出演したテレビの珍プレー番組の中で「当たっていないのに塁に出たのは1回で、当たってても出してもらえなかったことが3回ある」と発言したが、その直後、当たっていないのに出塁したシーンが2つ映し出された。それに対して「あれはオープン戦ですから」と弁明している。

なお達川は日本シリーズでの最多死球6という記録を持っている。

自身のデッドボールもさることながら、「プロの強打者に対するビーンボールの使用は、バッテリーが持つ正当な権利」という持論を持ち、時には内角を容赦なく突く攻撃的なリードを見せた。この姿勢は監督やコーチ陣も理解を示し、捕手としての長い現役生活を支えた。ただし前述の通り、インコース攻めを行う際は事前に相手打者へ「危ないところいくけぇ、気をつけとけよ」と声をかけることは忘れないよう心がけていた。なお達川の弁によると、ささやきで相手の思考を撹乱することは日常的に行っていたが、相手打者がデッドボールで負傷することを何よりも嫌っており「例えば本当はインコースが来るのに外へ踏み込むよう仕向けるとか、逆を教えたことは1回も無い」という。

「珍プレー」について[編集]

前述のように、ボールが体に当たっていないのに「当たった」とアピールする達川のプレーは、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などの珍プレーを取り扱う番組でしばしば取り上げられた。

一方、1990年5月24日の阪神戦では三塁に走者がいる場面で投球が本当に左足に当たり、当たったボールがそれる間に三塁走者のロッド・アレンが生還した際には、痛みを必死にこらえて当たっていないというアピールをしたこともある。阪神側の抗議により審判団が話し合った結果、小林毅二球審にしっかり「デッドボール」と判定されアレンも三塁に戻され、その直後に足を引きずりながら達川が一塁に向かう様子は、童話「狼少年」を地でいくシーンとして珍プレー集などで何度も使われた。実はこの時、足の親指の爪が割れて血が噴き出していたという。その後、とてもプレーできる状況ではなく植田幸弘が代走で送られた。

また、達川は2度ほど試合中にコンタクトレンズを紛失したことがある。当時は高価な品物であったため、2度とも試合は中断され、ホームベース周辺で両軍総出の大捜索劇となり、その様子は観客の爆笑を誘った。最初の紛失の際は突然タイムをかけ地面を探り出した達川に場内騒然となったが、「コンタクトレンズ紛失のため」という場内アナウンスにより観客席は大爆笑に包まれた。このシーンも『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で頻繁に取り上げられた。

このように、宇野勝と並んで珍プレーに取り上げられることの多い達川だが、テレビなどでは宇野がほとんどヘディングプレーを採り上げられるのに対し、達川の珍プレーはデッドボールやコンタクト紛失など枚挙に暇がない。日本テレビ系列で放送されている珍プレー番組『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』では、「2試合に1回のペースで珍プレーを出していた」という分析結果が紹介されており、20世紀の珍プレーキングに輝いている。

高木豊からは、大洋ホエールズ時代の「達川無視作戦」を暴露された。しかし、高木とは「豊」と下の名前で呼ぶほど仲が良い[15]

サヨナラインフィールドフライ事件[編集]

1991年6月5日の横浜スタジアムでの大洋戦で、同点で迎えた9回裏1死満塁の場面で清水義之インフィールドフライ・イフ・フェアで併殺が取れると勘違いし、フライを落としてサヨナラ負けを喫したことがある。

監督として[編集]

達川が広島の監督を務めていた時期は、投手陣がボロボロでピッチャーの頭数が足りなかった。それに加えて当時の外国人枠の関係で外国人投手は2人までしか使えなかったため、打開策として、野手登録していたフェリックス・ペルドモをピッチャーとして登板させたことがある。また、代打でペルドモを送り、そのまま登板させたことがある。

監督時代も「詐欺師」ぶりは変わらず、2000年9月19日。新井貴浩の明らかなファウルボールをホームランだと抗議し、森健次郎三塁塁審だけでなく阿部慶二三塁ベースコーチや、巨人の三塁手だった江藤智、三塁ランナーの金本知憲にまで笑われたことがある。なおこの試合で達川は合計3回抗議に出て、最後はルイス・ロペスのサヨナラホームランで広島が勝利している[16]

1999年のドラフト会議において、近鉄中日と競合して国学院久我山高校のエース・河内貴哉の指名権を引き当て、広島オーナーの松田耕平から受け取ったたばこ「ラッキーストライク」を懐から取り出してその喜びを表現した。

人物・エピソード[編集]

広島県広島市出身で、独特の軽妙な広島弁が特徴である。愛称は「タツ」「タツさん」「たっちゃん」「タッツ」など。

現役時代は、どの投手にも分け隔てなく接するため、連れ合っての食事、飲酒等は控えていたが、例外的に同い年の大野豊とは親密に友人付き合いをしていた。また、津田恒実とのコンビも「名バッテリー」と呼ばれた。

珍プレーで同じく有名な宇野勝を「彼ほど正直な男はいない」と評価している。理由は、宇野が打席に立っていた時に審判にストライクをボールと判定されて「今のをボールというのなら僕は(野球を)辞めます。次宇野が打席に立ったら聞いてみます」と審判に言い、宇野が次に打席に入ったときに「ウーやん、さっきのボールはストライクだな?」と宇野に聞くと「はい、確かにストライクです」と正直に答えたからである。

現役時代、印象に残っている選手として前述の宇野勝の他に駒田徳広、長嶋一茂を挙げている。駒田は初対面時、何故かひどい腹痛を訴えながら打席に入ってきたため、心配した達川が「大丈夫か」と声をかけたところ、駒田は「すぐ済ませますから大丈夫です」と答えた。達川は大人しく凡退してベンチへ戻るのかと思ったが、駒田は本塁打を放ち全力疾走でダイヤモンドを一周、腹を抑えながらベンチへ駆け込んだという。達川はこの時のことを「あれは本当に腹を壊していたと思うんですよ。あれでついには2000本(安打)打ちましたからね。わからんもんですよね」と述べている。長嶋一茂については、「潜在能力はかなりのものを持っていたが、少し揺さぶりをかけるとコロッと騙される弱点はプロとして致命的だった」と評している。宇野も含めた3名を達川は「共通点を言うと、3人とも善人なんですよ」と述べ、性格の良さは申し分ないと絶賛した。

取り壊される広島市民球場への思い出として、自身の事よりも、父親と直に観戦した外木場義郎完全試合を挙げている。

達川が監督やコーチに就任して現場復帰している間、テレビ新広島(TSS)は専属の解説者を置かず、必要に応じてフジテレビ系列局(主に一軍公式戦中継)や広島の球団役員・スカウト(主にウエスタン・リーグ公式戦中継)[注釈 5]から解説者を招いていた。達川がいつか解説者に復帰する時に備えた配慮だったが、そのため広島主催試合の解説を、同じフジテレビ系列の解説者である対戦相手のOBが務めるケース[注釈 6]がしばしば見られ、『J SPORTS STADIUM“野球好き”』にも配信されたため、契約の関係で同番組には通常出演しないはずの解説者が、TSS制作時に限り出演する事態ともなった。また、ローカルニュース・スポーツ情報番組[注釈 7]でも解説者を交えた戦力分析などの内容を組むことに制約が生じ、専属解説者を複数確保している広島県内他局との格差が生じる弊害も生じた[注釈 8]

中日コーチに就任した2014年、TSSの自社制作中継については、達川の監督時代に広島に在籍した笘篠賢治[注釈 9]金本知憲[注釈 10]、、かつてバッテリーを組んでいた金石昭人[注釈 11]、引退後にレギュラー捕手を務めた西山秀二[注釈 12]など、在広局での活動が少なかった広島OBを本数契約で起用した他、必要に応じて従来同様フジテレビ系列各局からの派遣も受けていた。土曜日の情報番組『知りため! プラス』にはかつて県内他局の解説者で、達川同様中日のコーチを務めた経験のある小林誠二(2014年7月まで飲食店経営)を4月放送分からコメンテーターとして起用した他、『J SPORTS STADIUM“野球好き”』のTSSプロダクション(またはRCC)・J SPORTS制作分や中国新聞社制作のケーブルテレビ向け広島二軍戦中継にも解説者として出演していた。また7月最終週から『TSSスーパーニュース』には小林と同じく中日のコーチを務めた原伸次(2014年現在飲食店経営)がスポーツコーナーのコメンテーターとして出演していた。[注釈 13]。その一方でネット受けするビジターゲームについては、長年達川とコンビを組んでいた矢野寛樹アナウンサーの報道部編集デスクへの移動も重なり、TSSからの要員派遣が全く派遣されないという事態も発生していた。

また、これまで達川が解説を務めていた『TSS杯 広島県少年野球学童選手権大会』については、2014年の第44回大会は元広島外野手の小川達明(会社員・ドラワン塾塾長)が務めた。

なお、2015年からは広島の投手コーチを退任した山内泰幸を専属解説者として迎え、解説者時代の達川よりも、野球中継以外のTSSローカル番組[注釈 14]に多く出演している。また、かつての森永勝也[注釈 15]や達川同様に2015年の『第45回TSS杯 広島県少年野球学童選手権大会』の解説も務めている。

中日ドラゴンズコーチに就任して2年目の2015年4月には、自らが手塩にかけて育成してきた入団2年目の桂依央利が、一軍で初マスクをかぶった試合で、第二打席で初ホームランを放ち、チームの大黒柱である大野雄大の完投勝利をリードするなど大活躍した。鮮烈なデビュー戦の結果に満足気ながらも、試合後には「先発の大野が首を振るのを150回までは数えていたけど、その後は数えられんかったわ。」などと達川節を炸裂させ、早速翌日のスポーツ新聞に掲載された事で読者の笑いを誘った。この試合で先発マスクを被った桂は、初ホームランとマルチ安打をプロ初出場で記録したが、これは日本プロ野球史上初の出来事であった。

映画カスタムメイド10.30」では、主人公の小林マナモ(木村カエラ)の夢の中に出てくるラジオ電話相談という設定で「回答者の声」として出演した。

後に甲子園通算20回出場・40勝をあげる木内幸男が甲子園を目指すきっかけとなったのは、達川の言葉によるものである(詳細は木内幸男の項を参照)

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1978 広島 12 30 28 2 6 1 0 0 17 1 0 0 1 0 1 0 0 6 2 .214 .241 .250 .491
1979 49 89 81 4 18 0 0 0 18 3 0 0 0 0 7 0 1 16 4 .222 .292 .222 .514
1980 9 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .200 .400
1981 49 123 113 8 25 4 0 1 32 10 1 1 0 0 7 1 3 11 8 .221 .285 .283 .568
1982 77 206 176 15 37 8 0 3 54 13 0 0 9 1 15 2 5 23 2 .210 .289 .307 .596
1983 116 372 330 30 83 11 0 5 109 41 1 0 12 5 19 2 6 23 11 .252 .300 .330 .630
1984 117 371 312 35 76 9 0 7 106 33 1 2 14 2 36 7 7 30 3 .244 .333 .340 .673
1985 95 269 230 18 53 6 0 4 71 31 0 1 16 3 19 2 1 34 8 .230 .289 .309 .597
1986 128 467 416 42 114 21 1 9 164 46 1 0 10 2 34 11 5 42 5 .274 .335 .394 .729
1987 130 480 418 40 107 18 0 8 149 34 2 3 15 2 38 14 7 40 16 .256 .327 .356 .683
1988 122 432 383 29 100 13 0 6 131 38 2 1 10 1 30 18 8 29 10 .261 .327 .342 .669
1989 109 331 277 22 63 8 0 4 83 22 1 2 14 1 33 7 6 36 9 .227 .322 .300 .621
1990 101 305 272 19 72 9 0 3 90 33 3 1 7 5 15 4 6 34 8 .265 .312 .331 .643
1991 120 423 359 30 85 19 0 1 107 39 3 3 15 6 41 12 2 47 13 .237 .314 .298 .612
1992 100 283 236 17 55 4 0 0 59 14 2 1 6 0 36 8 5 29 11 .233 .347 .250 .597
通算:15年 1334 4186 3636 311 895 131 1 51 1181 358 17 15 129 28 331 88 62 402 110 .246 .317 .325 .642
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1978 12 8 6 2 .250
1979 46 15 10 5 .333
1980 7 0 0 0 .000
1981 48 42 26 16 .381
1982 75 46 30 16 .348
1983 115 75 50 25 .333
1984 117 74 49 25 .338
1985 94 56 33 23 .411
1986 128 102 65 37 .363
1987 130 74 52 22 .297
1988 122 80 46 34 .425
1989 108 77 52 25 .325
1990 101 68 40 28 .412
1991 120 81 48 33 .407
1992 97 59 36 23 .390
通算 1320 857 543 314 .366

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1999年 広島 5位 135 57 78 0 .422 152 .260 4.78 44歳
2000年 5位 136 65 70 1 .481 150 .256 4.48 45歳
通算:2年 271 122 148 1 .452 Bクラス2回
※1999年から2000年までは135試合・引き分け再試合制

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 40 (1978年 - 1992年)
  • 84 (1995年)
  • 74 (1998年 - 2000年)
  • 90 (2003年、2014年 - 2015年)

関連情報[編集]

著書[編集]

放送[編集]

出演番組[編集]

フジテレビ(・フジテレビONEBSフジ)・テレビ新広島カンテレ東海テレビ
NHK広島放送局
  • NHKプロ野球(2016年7月22日。ゲスト出演。広島県・岡山県・鳥取県の3県ネット)
中国放送(RCC)
  • RCCテレビ
    • 開幕直前! 3時間生放送スペシャル Veryカープ! RCC(2016年3月23日)
  • RCCラジオ
    • ココスポ(2016年3月28日)
    • RCCカープナイター(2016年より広島主催試合のゲスト解説で出演し、NRN・JRN向けの両方を担当。2013年以前はニッポン放送からの裏送りや同局の協力によるビジター自社制作時に出演していた)
広島ホームテレビ(HOME)
J SPORTS
  • J SPORTS STADIUM(テレビ新広島またはJ SPORTS制作の広島主催ゲームが中心だが、2013年にはCBCテレビ制作の中日対広島戦にも出演。2016年は春季キャンプ中継から復帰し広島主催試合の中継に出演)
ニッポン放送
MBSラジオ毎日放送
CBCラジオ

出演CM[編集]

出演テレビドラマ[編集]

  • とんび(2012年1月7日・14日、NHK) - 伊達酒造社長 役

ゲームソフト[編集]

登場作品[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 川口は自著「投球論」(講談社現代新書)の中で「互いに相手の投げたがっている球、欲しがっている球が分かるので何も問題がなかった」と語っている。
  2. ^ マスコミに対して引退を発表したのが試合開始前後であり、球場では発表されていなかったため、球場の観客はなぜ達川が打席で涙をこらえているかがわからなかった。
  3. ^ そのバットは試合後ゴミ箱に捨てられていたが、この試合のバットボーイを務めていた大学生が密かに持ち帰っていた。後にこの大学生はテレビに出演し「達川さんが引退試合で使った折れたバット」とエピソードを披露した。また、中国新聞のカープ50周年特集記事でもこの大学生と折れたバットのエピソードが紹介されていた。
  4. ^ 試合は20時台前半に終わったので、この引退挨拶も全国ネットで生放送(大洋vs.阪神との2元中継)されている。
  5. ^ 備前喜夫阿南準郎白武佳久など。
  6. ^ 中日戦を谷沢健一鈴木孝政THK)、ヤクルト戦を大矢明彦池山隆寛、横浜戦を平松政次加藤博一、阪神戦を田尾安志KTV)・池田親興TNC)など。
  7. ^ TSSスーパーニュース』・『サタ・スポ』など。
  8. ^ 特集や特別番組を組む必要があった場合は、フジテレビ他FNS各局の解説者からのコメントを事前にVTR収録したり、生放送の場合はフジテレビのスタジオから解説者が出演することもあった。
  9. ^ 文化放送フジテレビONEプロ野球ニュース解説者。
  10. ^ 出演当時日本テレビMBSラジオ他解説者。広島対巨人戦のフジテレビ系全国中継にも出演した。現:阪神タイガース監督
  11. ^ HBCラジオGAORAJ SPORTS解説者。
  12. ^ RFラジオ日本・GAORA解説者。
  13. ^ 小林・原の地上波野球中継への出演はなかった。
  14. ^ TSSみんなのテレビ』・『全力応援 スポーツLOVERS』・『ひろしま満点ママ!!』など。
  15. ^ TSS初代野球解説者。1993年没。

出典[編集]

  1. ^ 「怪物」たちの真実(2) 雨と奇策に散った江川卓
  2. ^ ワシの唯一の自慢話 後編”. 達川光男のものがちがいます (2011年8月17日). 2012年9月14日閲覧。
  3. ^ a b ドラフトの思い出”. 達川光男のものがちがいます (2011年10月29日). 2012年11月4日閲覧。
  4. ^ 元広島達川光男氏 ドラ4からレギュラー獲得したストーリー
  5. ^ 安枝新俉、人間・王貞治―89野球魂 (学研新書)、学習研究社、2009年、P30
  6. ^ 2000年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑より。
  7. ^ 【中日】達川新コーチが会見、背番号90
  8. ^ ★来季のスタッフについて中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース 2013年10月22日配信
  9. ^ ★来季スタッフの背番号について中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース 2013年11月1日配信
  10. ^ 中日 94失策は人工芝のナゴヤドーム移転後最多 - 日刊スポーツ(2015年12月30日)
  11. ^ 中日、達川コーチらの退団を発表デイリースポーツ 2015年10月13日配信
  12. ^ 中日コーチ就任以前も、対巨人戦全国中継や対広島戦のTSSとの2局ネット時を中心に出演することがあった。
  13. ^ 学生野球資格回復に関する規則第4条による適性認定者日本学生野球協会
  14. ^ 笑顔と闘志を忘れないために 津田の思い出 3”. 達川光男のものがちがいます (2011年7月19日). 2012年11月4日閲覧。
  15. ^ オレだから言えるプロ野球・奇想天外の舞台ウラ(高木豊 著、スコラ 1995年)「第4章 ボスと痛快野球人」より
  16. ^ 2000年9月20日 日刊スポーツ 5面など
  17. ^ 2016年のテレビ西日本・北海道文化放送には山内が出演した。
  18. ^ ラジオCMに達川氏を起用 ポプラ公式ホームページ 2012年4月2日配信

関連項目[編集]

外部リンク[編集]