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駒田徳広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
駒田 徳広
横浜ベイスターズコーチ時代
(2009年4月30日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県磯城郡三宅村(現:三宅町
生年月日 (1962-09-14) 1962年9月14日(63歳)
身長
体重
191 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1983年4月10日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

駒田 徳広(こまだ のりひろ[注 1]1962年9月14日 - )は、奈良県磯城郡三宅村(現:三宅町)出身の元プロ野球選手内野手外野手、左投左打)、野球指導者野球解説者タレント俳優

現役時代は読売ジャイアンツ横浜ベイスターズで通算20年間プレーした。NPB史上初の初打席満塁本塁打デビューを飾ったほか、現役を通じ満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った[1][2][3]一塁手として史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞するなど、一塁の名手としても知られた。1990年代のNPBで最も試合に出場した(1302試合)選手でもある。

経歴

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プロ入り前

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小学生のころからテレビで見た高校野球に憧れ、奈良県の強豪・天理を目指していたという[4]。当時から身体能力が高く運動神経も長けていたといい、野球以外では水泳などで県大会上位の成績を残していた[5]。中学へ入り本格的に野球を始める。生来の左利きだが、1年生までは右打ちで、コーチの指示で2年生から左打ちに転向[6]。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などで三遊間を抜けるゴロヒットを量産したというが、奈良県立桜井商業高等学校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍[7]1978年奈良大会では2年上の東利夫とバッテリーを組み準決勝に進むが、郡山に惜敗。1979年の奈良大会では2回戦で天理に敗れたが、同年の秋季大会奈良県予選では準々決勝で天理に勝った。しかし、準決勝で智弁学園に敗れ、敗者復活戦で広陵に勝ったが、2位決定戦で高田商に敗れ、近畿大会には進めなかった。

1980年の春季大会奈良県予選決勝で天理と対戦。川本和宏と投げ合い、無死満塁で敬遠されたという逸話を残すも[注 2][8]、乱打戦の末敗退。イニングの先頭打者で敬遠されたこともあった。同年の奈良大会では3回戦で智弁学園に敗れ、甲子園出場は叶わなかったが、高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた[9]。担当スカウト伊藤菊雄[10]

巨人時代

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1980年ドラフト会議で、読売ジャイアンツから投手として2位指名され入団。ドラフト同期には原辰徳らがいる。

入団後、新人合同自主トレ期間のみ投手の練習をこなした。駒田は自身の投手能力に限界を感じていたため、投手として育成するつもりだった藤田元司監督へ野手転向を直訴。訴えが認められ、1年目春季キャンプより選手登録は投手のまま、野手扱いとなった[11]

プロ入り1年目の1981年および、2年目の1982年二軍出場のみにとどまった。

3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の対横浜大洋ホエールズ戦(後楽園球場)にて、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー・中畑清に代わり、先発7番・一塁手でプロ初出場を果たす。初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打[注 3]を右翼席に放った[12]。当初藤田はベテランの山本功児の起用も考えていたが、助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。同年は、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章、12を挙げる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己の3名が巨人のセ・リーグ優勝の原動力となり、期待の若手として彼らの背番号にちなみ「50番トリオ」と呼ばれ注目された[13]。当時駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。同年の西武との日本シリーズに3試合出場し、6打数1安打の成績を残す。

1984年、巨人の監督に就任した王貞治から期待され、一本足打法の習得を勧められる[14]。首都圏での試合日は毎回のように王の師匠である荒川博の自宅へ通った。王と同じく合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習に励むが一本足打法の習得には至らなかった[注 4]。当時打撃についてあまりにも苦悩する姿から、チームメイトは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けたという。

1985年、開幕1週間で二軍降格となり「このままでは結果が出る気がしない」と自らの意思で一本足打法を封印する。後ろめたさを抱えながらも、いずれ王の耳に入ることを見越して一本足打法の断念を当初コーチにのみ報告していたが、実際には伝わっていなかったばかりか、新聞報道により王はそのニュースを知ることとなった。事情を聞かれるべく合宿所で王の到着を待つ駒田は、いたたまれなくなり合宿所4階からの飛び降りを考えたほどだったと言う。短い問答のみで王は一本足打法の断念を承認したというが、このことで王が荒川に謝罪したという罪悪感、なにより王が監督であったころに日本一をとれなかったこともあり、王に対する負い目は自身の大成後も拭えなかったという[15]

1986年後半、二軍打撃コーチの松原誠の指導により、バットを上から振り下ろす本塁打を狙いの打撃フォームをやめ[16]、グリップを下げたレベルスイングを導入。これが奏功し打撃スタイルが確立した[17]。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。

1987年、開幕戦の中日ドラゴンズ戦で杉本正から本塁打を放ち、シーズン後半にはレギュラーの松本匡史から外野のポジションを奪取。

1988年、背番号を10に変更する。残り10試合を残して打率.287だったが、閉幕まで24打数14安打、打率.583と一気に数字を上げ、最終戦で初の規定打席に到達。打率三割超えも達成し、結果として生涯最高位となるセ・リーグ打率ランキングの4位に入った。同年は初の4番スタメンも経験[注 5]。チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけ1番打者としての起用が多かった。

1989年、再び藤田元司が監督に就任。シーズン序盤の三塁手・中畑清の故障に伴い、一塁手・岡崎郁が三塁コンバートされたことで、駒田は空いた一塁に定着。シーズン残り15試合で47打数21安打(.447)を記録し、打率.284から.303と後半で一気に追い上げたことで2年連続となる打率三割超えを達成し、打率ランキング8位に入った。初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。このころより「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)にて、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだといわれている。さかのぼること巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美吉井理人の継投に完封されていた。勝利投手となった加藤が試合後「シーズン中の方が相手が強かったからしんどかった」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は「加藤の暴言に対する罵倒」であると一般的に認識されている[注 6][注 7]。同シリーズでは2024年現在、7試合までの日本シリーズ史上最高となる打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選出された。なお、この第7戦の加藤への発言が契機で、後年に加藤との縁ができることとなり、両者の現役引退後、21世紀に入ってからは、駒田の娘と同じくプロの雀士となった影響もあり、互いに交流を頻繁に行うこととなった[18]

1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場した。西武との日本シリーズでは14打数2安打に終わり、チームも4連敗で敗退した。

1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314(打率ランキング6位)を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放っている。

1992年アキレス腱痛の原辰徳が一塁へコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったが9補殺を記録するなど強肩で貢献した。同年に打撃コーチに就任した中西太の指導と相性が良く、前半戦は本塁打を量産。しかし打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンの得点圏打率も.231と低迷した。最終的にはセ・リーグ7位となる打率.307、本塁打は自己最多となる27本を記録する。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で1試合3本塁打を記録している。8月17日のヤクルト戦(神宮球場)で高野光から本塁打を放ち、これが巨人軍通算6000本塁打となった。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては巨人軍初の年俸1億円プレイヤーとなる。

1993年長嶋茂雄が監督に就任。原が三塁へ再転向し、駒田は再び一塁手に戻るが、開幕から本人も「原因が分からない」[19]と述べるひどい打撃不振に陥る。5月22日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)ではスタメン落ちし、1990年9月11日から続いた307試合連続フルイニング出場記録が途切れ、また同試合での途中出場もなく1989年5月27日から続いた450連続試合出場記録もストップした[20]。打撃に対する意見の相違などによる、打撃コーチ・中畑清との確執もマスコミで度々報じられた[注 8]。またシーズン中、自身の処遇について長嶋と直接話をすべく幾度かコンタクトを取ろうと試みるが、その機会は訪れなかったという[21]。駒田は「長嶋茂雄さんというスーパースターが監督になったときは嬉しかったが、打撃論とか打撃について遠征の時に聞きたかったが、聞くことはできなかった」と回顧している[22]

同年シーズンオフ、同じ一塁手である中日・落合博満FA権を行使し巨人に入団することが濃厚となる。首脳陣との意思疎通が図れなくなったことや、自身のトレードのうわさを耳にし出場機会の減少を危惧した駒田もFA宣言する[20]。同じくFA権を行使した槙原寛己とは対照的に巨人からの慰留はなかった。関東球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督・近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍[注 9][注 10][注 11]。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊屋鋪要大門和彦山崎賢一市川和正松本豊)を突如解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判の的となった[注 12]。駒田は「僕はね、未だにOBとしても一歩引いているところがあるんです。それはあの時の生え抜き選手たちを大量解雇して、僕を獲ったっていう経緯がありましたからね」と述べている[24]。2025年現在、巨人生え抜きで国内他球団へFA移籍した唯一の選手である[注 13]。駒田は恩師である藤田前監督の勧めもあって結果的に横浜移籍を選んだが、阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも獲得の打診が寄せられていたと後年明かしている[25][26]

横浜時代

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1994年、ベテランの大量解雇によりチームが若返ったことで、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績は低迷。中盤からは主に6番打者での出場となった。リーグ最多二塁打を記録した一方、併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。

1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間通じても6本にとどまった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時おり試みている。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。

1996年、5・6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末ごろよりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々で5本塁打を記録。前年の本塁打数がわずか6本と衰えもささやかれていたが2年ぶりに2桁本塁打を達成。

1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率三割超え(打率ランキング7位)を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。

1998年、新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様である駒田が経験などをスムーズに発言できるようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献した。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務め、9月初旬まで打点数ランキング2位と打点王争いに絡むなど活躍をみせるが、終盤には応援団がボイコットするほど深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む満塁における強さ(満塁時の打率5割、打点31)などから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得[注 14]西武ライオンズとの日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)の満塁での適時打を含む4安打5打点の大活躍で調子を取り戻す。日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也からライトフェンス直撃の決勝2点適時二塁打を放ち[27]シリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフの野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。

1999年、打率.291と好成績を残すが、ローズをはじめ打撃陣が絶好調だった横浜のチーム打率.294を下回っている。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)にて、巨人時代の1993年10月21日からの連続試合出場記録が739試合で途切れた[注 15]。12年連続100安打以上を達成[注 16]

2000年、リーグ最年長野手となる。2000安打まで残り73本で迎えたシーズンだったが、プレッシャーのためか開幕から精彩を欠く。打率.234と不調にあえぐ中、家族が球場観戦していた6月18日(父の日)の対広島東洋カープ戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけベンチ裏に下がり、山下大輔ヘッドコーチの許可を得て試合中に帰宅した。球場を去る際の取材陣への「(監督の権藤博と)野球観が違う」というコメントが首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた[注 17][28]。7月18日に一軍に復帰するも不調は続き、8月12日に再び二軍に降格。10日後の8月22日に再登録されると調子を取り戻し、9月6日の中日戦で野口茂樹から2000本目の安打をレフト前に放って[29]名球会入りを達成した。権藤は「引退してから駒田は分かってくれたんです。権藤さんが監督でなかったら2000安打は達成できなかったって。あのときは二軍に落とすしかなかったんですよ。上においても暴れるから。その代わり、10日間、二軍で何やってもいい。試合に出てもいいし、休んでもいい。その代わり、10日後、一軍に戻ってきたら5番を打たせる。と言ってそのとおりにしました。今では駒田と会うと、笑って話をしますよ」と述べている[30]。達成直後に球団から引退勧告を受けたが「2000本を打つためにやっていたと思われるのは嫌だった」という気持ちから断りを入れ[31]、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放って交代。現役続行を希望したため退団セレモニーなどは行われなかった。

その後は移籍先を模索したが、他球団からの勧誘はなく、翌2001年1月18日に現役引退を表明。現役通算安打2006本は2025年現在、現役引退した名球会会員では福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。

引退後

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2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。同年秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。

2002年からテレビ東京の解説も兼任。

2005年、同年に誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で[32]楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。

2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk東北放送テレビ北海道STVラジオにも出演。

2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承燁の臨時一塁守備コーチを務める。

2009年、当時スタメンで極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任[注 18]。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。

2010年からtvk、文化放送スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会における監事を務めた[33]。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。

2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。

2012年千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた[34]。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。

2016年、総監督の江本孟紀からの要請で、独立リーグ四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグス監督に就任[35]。前期は最下位だったが、後期は13期ぶりに勝率5割を越え、3位(2位の香川オリーブガイナーズと同勝率、直接対決の成績により順位決定)に浮上し[36]、4期ぶりに最下位を脱した。初年度終了後、チームを率いた感想を「選手を指導してみて歯がゆい部分もあり、正直『このまま指導しても無理かな』という気持ちもあった。でも、後期は一歩引いて見ていると、楽しくなった」と述べている[37]

2017年、前期は超大物の元メジャー・リーガー、マニー・ラミレスの加入などもあり、序盤から首位を快走するも後半に失速し、2位に終わる。後期早々にラミレスは帰国。チームは3位に終わるも、年間を通じた勝率は2位となり、7年ぶりに通年勝率が5割を超えた。翌2018年前期は2位、後期は3位。

2019年前期は最終日まで徳島インディゴソックスと優勝を争うも、2位に終わる[38]。2019年7月12日、同シーズン限りでの高知監督退任を発表した[39]。優勝できなかったこと、NPBへ選手を送り込めなかったことをその理由として挙げ、後任監督の選任を考慮してシーズン途中で発表したと述べた[39](当時はそのように退団理由を挙げたが、2020年にドラフト8位で阪神に入団し、2025年にNPB記録となる50試合連続無失点記録を達成した石井大智は、入団テストの際に駒田が獲得を希望し、2018年に高知に入団した選手である[40])。後期は就任直後以来の4位(最下位)だった。9月10日のホーム最終戦後にはグラウンドでファンや選手と記念撮影をした[41]

高知の監督時代には、高知市帯屋町にて「KOMA'S HOUSE」というバーを開店させ、自身もカウンターに立ち接客等に従事した[42][43][44]。同店舗は、駒田の監督退任に伴い、2019年10月25日で閉店している[45]

2020年からは再びテレビ東京(BSテレ東)・tvk・TBSチャンネルの野球解説者、タレントとして復帰した。

2022年、巨人の三軍監督に就任[46][3]。FA権を行使して退団した1993年以来29年ぶりの巨人復帰となった[47]。7月26日および27日に行なわれたマイナビオールスターゲーム2022にて、セ・リーグのコーチとして出場予定だった原辰徳監督が新型コロナウイルス感染のため出場辞退したことから、駒田が代理として出場した[48]。同年巨人三軍は65試合対外試合を行い、37勝23敗5引分(勝率.617)という成績だった。

2023年は86試合を戦い、43勝36敗7引分(勝率.544)の成績を残す。シーズンオフの11月から12月にかけて台湾で開催されたアジア・ウィンター・リーグの、DeNA、中日、楽天、西武の若手選手で構成されたチーム「NPB WHITE」の監督として派遣された[49]

2024年シーズンは87試合で62勝17敗8引分(勝率.785)を残す。オフに、シーズン中に打撃投手を務めていた際に痛めていた肘の手術を行った[50]

2025年は94試合で60勝31敗3引分(勝率.659)という成績を残し、同年をもって巨人を退団した[51]

選手としての特徴

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打撃面

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満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録[注 19][52]、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率は、本塁打およそ15本に対して満塁本塁打1本という群を抜く成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録し、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打およそ8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並ぶ日本記録である[1]。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。

読売ジャイアンツ第52代4番打者である。1988年 - 1992年にかけて通算34試合ではあるが、133打数50安打14打点、7本塁打で打率.376の成績を残した。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合に4番で出場し、85打数29安打19打点、3本塁打で打率.341を記録している。

一軍デビュー当時は首脳陣から長距離砲として期待されたが、極度の打撃不振に陥った。フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力に重きを置く打撃スタイルを確立し成績が安定、レギュラー獲得を果たす。基本的に単打で良いという信念のもと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるスタイルは、横浜移籍後に顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2桁記録は3回である。巨人時代より、背筋力など筋力全般が打者の中で特に優れていたとされる。長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなライトスタンドへの柵越えを放つ駒田を見た藤田は、「なぜ試合になると本塁打が少ないのだろう」と、記者らと共に訝しがったという。引退から9年経過した横浜のコーチ時代であっても長打力は衰えをみせず、試合前のフリーバッティングで柵越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[53]

また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録した[54][55]。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としており、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らず当てるのみの打撃が目立ち、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きな選手が年齢を重ね下半身の力が衰えると上半身をかぶせて打つようになるため、内野ゴロが増えると分析している[56]

駒田自身は「単純な投打の力量が勝負を分けるわけではない」と考え、「状況や敵バッテリーの性格から配球を読み取り、相手を上回るような自由な発想も必要」と語る[57]

守備面

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手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートおよびハーフバウンド送球の捕球処理が非常に上手かった[注 20]。浮足立つことなく、体をほぼ動かさず手首のハンドリングのみでこともなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的[注 21]。また高身長であることから、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球により二塁で走者を刺すこともしばしばあった[注 22]

人物

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現役時代は周囲の助言が自分に合わなかったことから衝突や食い違いが多く、世間からは唯我独尊のイメージを持たれることも多かった[58]。 若手時代から馬面をさかんに漫画で弄られていた。やくみつるの漫画では高木豊と接触するというネタで「薄毛の子そこのけそこのけお馬が通る。」という小林一茶の句をパロディーにした作品があった。

引退後はテレビラジオでの野球解説のほか俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組旅番組に出演している。夫人とのテレビ出演も多い。長女は日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、駒田真子[59]

旧車および1970 - 1980年代におけるアイドル歌謡のファン(特にお気に入りは沢田聖子の「今日に乾杯!」[60])。それらをテーマとしたメディアにしばしば登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露した。引退後には、横浜関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していた。2015年6月10日放送の『村上信五とスポーツの神様たち』(フジテレビ系列)へ満塁の神様として出演時、お気に入り楽曲として伊藤美奈子の『誘魚灯』を紹介、同曲をBGMに駒田の生涯満塁本塁打全13本の映像が流された。前記のとおり、高知監督時代の2018年3月からバー「KOMA’S HOUSE」を開店。売り上げはチームの運営資金に充てていた[61][62]

石井琢朗との対談にて、「俺は大雑把(中略)俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている[63]

「『自分で辞めようと思わない限り、引退は来ない』と思っていた。だから特に引退とか引き際なんてことは考えたこともなかった。だって野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない。ボーリング、ゴルフ、そして野球なら週に何回でも試合ができる。そんなものに引退があるなんて、考えてもみなかった」「成績が落ちてきた時は、『工夫が足りないんだ』と思っていた。ゴルフで言えば、『なんでこのショートホールでOBを打っちゃったんだろう』みたいな感覚」と述べている[64]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983 巨人 86 199 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 0 1 31 5 .286 .337 .533 .870
1984 79 91 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 0 21 3 .238 .297 .369 .666
1985 92 172 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 3 2 24 4 .252 .324 .371 .694
1986 64 120 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 1 0 21 2 .257 .350 .406 .756
1987 113 371 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 3 1 55 6 .287 .344 .450 .795
1988 116 404 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 4 0 43 11 .307 .362 .468 .830
1989 126 458 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 10 2 60 10 .303 .367 .472 .839
1990 130 528 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 6 2 70 11 .287 .356 .498 .854
1991 130 558 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 7 2 78 16 .314 .369 .478 .848
1992 130 556 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 7 2 70 10 .307 .367 .521 .888
1993 122 482 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 1 0 89 18 .249 .308 .339 .647
1994 横浜 130 558 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 3 2 95 29 .284 .321 .429 .749
1995 130 539 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 1 78 20 .289 .338 .399 .736
1996 130 534 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 6 1 78 18 .299 .358 .410 .769
1997 135 558 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 4 0 73 20 .308 .360 .448 .808
1998 136 586 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 1 0 86 21 .281 .311 .379 .690
1999 129 558 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 0 2 84 14 .291 .330 .403 .732
2000 85 326 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 2 1 57 11 .258 .301 .343 .644
通算:18年 2063 7598 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 59 19 1113 229 .289 .342 .433 .774
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁 外野
























1983 巨人 24 189 12 2 16 .990 39 52 1 1 0 .981
1984 12 31 3 0 3 1.000 26 18 0 1 0 .947
1985 36 190 13 1 21 .995 26 24 1 0 0 1.000
1986 25 124 9 0 10 1.000 18 17 2 0 2 1.000
1987 53 411 21 5 30 .989 65 98 2 2 0 980
1988 26 133 3 0 10 1.000 100 147 5 4 1 .974
1989 113 953 53 5 75 .995 22 38 1 0 0 1.000
1990 130 1187 104 7 101 .995
1991 130 1220 99 8 84 .994
1992 19 94 14 1 7 .991 119 179 9 2 3 .989
1993 115 921 47 8 80 .992 11 12 0 0 0 1.000
1994 横浜 130 1059 75 8 112 .993
1995 130 1132 71 11 111 .991
1996 128 1002 71 7 104 .994
1997 131 1018 64 7 99 .994
1998 136 1163 68 12 104 .990
1999 129 1113 69 12 94 .990
2000 81 702 41 3 61 .996
通算 1548 12642 837 97 1122 .993 426 585 21 10 6 .984
  • 太字年はゴールデングラブ賞受賞年

表彰

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記録

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初記録
  • 初出場・初先発出場:1983年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、「7番・一塁手」で先発出場
  • 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回裏に右田一彦から右越満塁本塁打 ※初打席初本塁打は史上16人目、満塁本塁打は史上初、プロ初安打が満塁本塁打は史上3人目
節目の記録
  • 100本塁打:1992年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回裏に秋村謙宏から右中間へソロ ※史上168人目
  • 1000試合出場:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、「5番・右翼手」で先発出場 ※史上303人目(佐藤兼伊知と同日達成)
  • 1000安打:1993年8月29日、対広島東洋カープ18回戦(東京ドーム)、12回裏に望月秀通から左前安打 ※史上170人目
  • 150本塁打:1995年9月7日、対読売ジャイアンツ24回戦(横浜スタジアム)、4回裏に木田優夫から2点本塁打 ※史上102人目
  • 1500試合出場:1996年6月8日、対阪神タイガース10回戦(札幌市円山球場)、「6番・一塁手」で先発出場 ※史上116人目
  • 1500安打:1997年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、2回表に加藤伸一から中前安打 ※史上71人目
  • 300二塁打:1998年7月5日、対ヤクルトスワローズ11回戦(藤崎台県営野球場)、6回表に石井一久から右翼へ2点適時二塁打 ※史上20人目
  • 1000三振:1999年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から ※史上24人目
  • 2000試合出場:2000年4月30日、対広島東洋カープ6回戦(横浜スタジアム)、「5番・一塁手」で先発出場 ※史上31人目
  • 350二塁打:2000年6月15日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から左翼線二塁打 ※史上20人目
  • 2000安打:2000年9月6日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、3回表に野口茂樹から左翼線二塁打 ※史上29人目[65]
  • 3000塁打:2000年9月17日、対読売ジャイアンツ27回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から中前安打 ※史上35人目
その他の記録
  • 25試合連続安打(1999年5月18日 - 6月17日)
  • シーズン29併殺打(1994年)※セ・リーグ記録、NPB左打者記録
  • 通算229併殺打:NPB左打者記録
  • プロ野球通算55000号本塁打:1987年9月7日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、5回表に欠端光則から2点本塁打
  • プロ野球通算70000号本塁打:1997年9月9日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へソロ
  • 代打の代打で満塁本塁打:1989年4月16日、対広島東洋カープ戦 ※NPB史上4人目
  • オールスターゲーム出場:6回(1990年1991年1992年1995年1997年1998年

背番号

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  • 50(1981年 - 1987年、2016年 - 2019年)
  • 10(1988年 - 2000年)
  • 75(2005年)
  • 73(2009年)
  • 70(2022年 - 2025年)

出演

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野球解説

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バラエティ

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ドキュメンタリー

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映画

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テレビドラマ

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テレビCM

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ラジオ

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DVD

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  • 『プロ野球の練習法から―新しい「理論」と「実践」を指導―』打撃編 (2003年) ティアンドエイチ株式会社[66]

著書

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  • 『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21:2001年7月) ISBN 978-4047040434
  • 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月) ISBN 978-4583103686
  • 『DVDで“勝つ!野球”バッティング最強のコツ60 (コツがわかる本!)』(メイツ出版:2013年11月) ISBN 978-4780413106

脚注

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注釈

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  1. ^ 本名は「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになり本人も使い分けているという(『FLASH』2012年3月20日号での本人のインタビューより)。ただし、最初の結婚までは「とくひろ」を名乗った。
  2. ^ 同試合における次打席も満塁で迎え、本塁打を放つ。しかし投手・駒田が藤本博史に満塁本塁打を打たれチームは8-13で敗退した。
  3. ^ メジャーリーグでは2010年現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年福岡ダイエーホークスケビン・ミッチェルと駒田のみであり、日本出身者では駒田が唯一である。
  4. ^ 駒田は「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました。年末年始も休みはなかった」と、当時の練習の厳しさを語っている(2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
  5. ^ 巨人時代の4番打者としての通算成績は、34試合、打率.376、7本塁打、14打点(1988年 - 1992年)。
  6. ^ 実際は加藤の発言に憤ったわけではなく、場外本塁打だと勘違いしたこと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮のあまり「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだという。「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃって」と後年回想している。また「加藤本人にも多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは(三塁手の)金村義明くらいでしょう」とも述べている(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。
  7. ^ 「バ〜カ!!!」発言以降、駒田は人格が変わるとの風評が立ち、相手チームによる内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べた(2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。
  8. ^ 駒田は後年、「中畑さんは猛ノックでチームを立て直すという考え方。<中略>中畑さんとは頻繁に衝突しました。考え方が決定的に違ったのです」と述べている(2012年12月04日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
  9. ^ FA移籍を選択した背景には、恩師である藤田元司のアドバイスがあったと言われる(『プロ野球「トレード&FA」大全』洋泉社編集部)。なお、中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズも駒田獲得に名乗りを上げている。
  10. ^ 12月9日、横浜市内のホテルで入団会見を行い、「大変やりがいを感じる。(横浜に)骨をうずめるつもりで頑張る。(横浜は)球場が街の真ん中にあって格好いいね」、「打率3割、本塁打30本ぐらいの結果を出しチームに貢献したい」と抱負を語った。
  11. ^ 巨人軍史における駒田の位置づけについて。『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている。なお同書には、槙原、吉村の単独エピソードが紹介されている。
  12. ^ 駒田の推定年俸1億2000万円と巨人への獲得保障金(駒田の前年度年俸の1.5倍の額)の合計額はおよそ3億円であり、高木(推定年俸9840万円)、屋鋪(推定年俸4800万円)、大門(推定年俸2700万円)、山崎(推定年俸2700万円)、松本(推定年俸2040万円)、市川(推定年俸1900万円)、の年俸合計額はおよそ2億4000万円である。しかし、横浜球団は駒田獲得と大量解雇の関係を明確に否定した。駒田獲得資金の総額については、スポーツニッポンは総額3億6千万超、コストカット額は前述の6選手と引退する斉藤明夫(推定年俸7240万円)、そのほか戦力外となった5選手の年俸を加えて3億8000万円としている[23]
  13. ^ 駒田以外に巨人からのFAで国内他球団へ移籍した選手は小久保裕紀サブロー鶴岡一成小笠原道大だが、全て移籍選手である(小久保、サブロー、鶴岡は前所属球団に復帰)。海外移籍では松井秀喜上原浩治高橋尚成菅野智之がいる。
  14. ^ プロ入り18年目での初受賞は当時として遅咲きの新記録。
  15. ^ 横浜時代のみでは738試合であり、2012年現在における連続試合出場の横浜球団記録。
  16. ^ 1990年代の10年間、日本プロ野球において野村謙二郎に次いで2番目に安打を放っている(1459本)。
  17. ^ 事件の背景には、右投手(ネイサン・ミンチー)に対し(当日2打席2三振ではあったものの)左打者の自分の代打に右打者(中根仁)を送ったこと、当時チームは最下位であったにもかかわらずバントやミーティングをしないなど、攻撃面では特別な工夫をしない権藤博の采配に対する鬱積した不満もあったと言われる。
  18. ^ 就任時、「技術的なものは(年長で打撃チーフコーチ格の)杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番、2番コンビを復活させたい」と語っている。
  19. ^ 全満塁本塁打の内訳。第1号:1983年4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:1984年5月2日(後楽園)代打で大洋・遠藤から。第3号:1988年4月23日(東京ドーム)大洋・岡本から。第4号:1989年4月16日(東京ドーム)代打で広島・紀藤から。第5号:1989年5月3日(東京ドーム)阪神・遠山から。第6号:1994年4月21日(神宮)ヤクルト・宮本から。第7号:1995年9月22日(横浜)広島・小林敦から。第8号:1996年5月4日(ナゴヤ)中日・中山から。第9号:1996年8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:1997年7月16日(東京ドーム)巨人・から。第11号:1998年4月18日(横浜)中日・山本昌から。第12号:1998年5月10日(下関)広島・小林幹から。第13号:1999年8月19日(横浜)阪神・湯舟から。
  20. ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、『駒田はプロ入り当初から誰に教わるでもなくグラブ捌きがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている』と述懐した。また、駒田は大柄ながら俊敏で当時は足も速く、もともと器用だった選手がそのまま体が大きくなったのでは、と分析し、長身も含め一塁手としては理想的だったと語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社)。子どものころからショートバウンドの捕球に長けていたという。プロ入り後はルーキーイヤーに同僚だったタコ足捕球の名一塁手・松原誠や、同じく一塁守備の上手かった山本功児から捕球のコツを教わったり、レギュラー一塁手の中畑清とショートバウンド送球を投げ合って捕球練習したという。
  21. ^ 立浪和義は、自身の現役時代に守備の上手かった一塁手として駒田を挙げ、「適当に捕っている感じだが、球がグラブにちゃんと収まっている感じがすごい」と、ショートバウンド送球の捕球技術を評価している(立浪和義著『攻撃的守備の極意 ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント』廣済堂出版)。
  22. ^ 駒田と対談した松原誠は、バント処理の際、(現役選手の中で)「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。
  23. ^ 巨人を模したと思われる球団「東京ガリバーズ」の4番打者として出演。甲子園球場で撮影された本塁打を打つシーンでは、実際に左中間スタンドに飛球を叩き込んでいる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 【8月19日】1999年(平11) 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム」『スポーツニッポン』。2010年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月22日閲覧
  2. ^ 【5月2日】1984年(昭59) 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム スポーツニッポン
  3. ^ a b 巨人3軍監督に「満塁男」駒田徳広氏 杉内俊哉投手コーチ/陣容一覧」『日刊スポーツ』2021年11月15日。2022年8月3日閲覧
  4. ^ 「満塁男」駒田徳広さん「挫折が人生変えた」…入試で落ちた天理にアンダースローで快投
  5. ^ 2012年11月17日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  6. ^ 2012年11月19日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  7. ^ 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月)
  8. ^ [虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」(2/5)」『現代ビジネス Sportsプレミア』2013年2月8日。2014年8月10日閲覧
  9. ^ 週刊読売 1980年12月号
  10. ^ 【やってられるか!】駒田徳広のドラフト裏話と想像を絶する合同自主トレ - YouTube
  11. ^ 2012年11月27日、『朝日新聞』奈良版、朝刊
  12. ^ 意外な選手が多い?初打席で本塁打を放った選手たち」『BASEBALL KING』2018年3月11日。2020年7月18日閲覧
  13. ^ 新50番トリオだ!藤村、大田…そして円谷V打」『Sponichi Annex』2011年5月18日。2018年3月2日閲覧
  14. ^ 【私の失敗(1)】駒田徳広、王貞治二世にはなれなかった」『サンケイスポーツ』2015年7月14日。2024年1月19日閲覧
  15. ^ 「4階から飛び降りようと…」駒田徳広が苦しみ続けた“王監督への負い目”…同僚の陰口、巨人ファンからは罵声「駒田、お前はもういいよ!」 Number Web 2024/07/06 11:01 (2024年7月6日閲覧)
  16. ^ [虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<後編>「強運のプロ野球人生」(スポーツコミュニケーションズ)」『現代ビジネス』2013年2月22日。2024年1月19日閲覧
  17. ^ 2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  18. ^ 元巨人・駒田と元近鉄・加藤が因縁の真相語る 25年ぶりに正式対面 - ORICON NEWS。2014年1月9日6時発信、2025年9月6日閲覧。
  19. ^ 巨人最終年の不振は「プロ野球選手の更年期障害」が原因だった【駒田徳広 連載#2】」『東スポnote』2021年12月1日。2025年7月12日閲覧
  20. ^ a b まさかのFA宣言! 駒田徳広「長嶋巨人を自ら去った男」【プロ野球世紀末ブルース】」『エキサイトニュース』2016年9月21日。2018年3月2日閲覧
  21. ^ 【私の失敗(3)】駒田徳広「バントおもしろくない」中畑コーチに反発」『サンケイスポーツ』2015年7月16日。2024年1月19日閲覧
  22. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 266頁
  23. ^ 【11月8日】1993年(平5) 旧大洋の顔を大リストラ 横浜流FA参戦」『スポーツニッポン』。2008年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年1月19日閲覧
  24. ^ 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P250
  25. ^ 駒田徳広氏は横浜入団発表前日に「現状維持でいいよな?」」『日刊ゲンダイDIGITAL』2018年11月26日。2024年5月13日閲覧
  26. ^ 生え抜きで唯一FA移籍 駒田徳広氏が語る長嶋監督との軋轢と別れ」『日刊ゲンダイDIGITAL』2015年3月11日。2024年1月19日閲覧
  27. ^ 10年ひと昔…横浜、駒田徳広の一撃で38年ぶりの日本一[リンク切れ]
  28. ^ あと30本 駒田徳広 職場放棄「2軍でも何でもいいや!」
  29. ^ 各種記録達成者一覧 2000安打NPB
  30. ^ 週刊ベースボール2023年5月22日号、61頁、レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 権藤 博[中日](3)
  31. ^ 【私の失敗(4)】駒田徳広、権藤監督と“確執”…代打出され試合中に帰宅」『SANSPO.COM』2015年7月17日。2018年3月2日閲覧
  32. ^ 読む野球-9回勝負-No.6、主婦の友社、P172
  33. ^ 組織概要」『日本プロ野球名球会』。2020年11月29日閲覧
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  35. ^ 駒田徳広氏 新監督就任のお知らせ - 高知ファイティングドッグス公式サイト(2015年12月8日閲覧)
  36. ^ 高知FDが5連勝で3位に 後期終了」『高知新聞』2016年9月17日。2016年11月3日閲覧[リンク切れ]
  37. ^ 高知FD 駒田監督1年目の総括(下) 自分を変えなければ」『高知新聞』2016年10月9日。2016年11月3日閲覧
  38. ^ 高知FD奇跡の逆転優勝ならず 大一番で香川に零封負け 徳島が前期V」『高知新聞』2019年6月5日。2019年6月5日閲覧
  39. ^ a b 高知FD 駒田徳広監督退任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2019年7月12日)
  40. ^ ABS秋田放送 (2021-03-12), 【祝・優勝】阪神・石井大智投手 秋田時代に密着!, https://www.youtube.com/watch?v=xvQQ3esV0LA 2025年12月26日閲覧。 
  41. ^ 駒田監督ありがとう 高知FD地元最終戦 ファンと笑顔で別れ」『高知新聞』2019年9月11日。2019年10月31日閲覧
  42. ^ 元巨人、横浜の駒田徳広 「独立リーグ監督」と「バーマスター」の二刀流」『AERA dot.』2018年4月17日。2024年5月13日閲覧
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関連項目

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外部リンク

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