畠山和洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
畠山 和洋
東京ヤクルトスワローズ #33
YS-Kazuhiro-Hatayama.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岩手県花巻市
生年月日 (1982-09-13) 1982年9月13日(35歳)
身長
体重
180 cm
96 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手左翼手三塁手
プロ入り 2000年 ドラフト5巡目
初出場 2004年8月6日
年俸 1億3,000万円+出来高(2017年)
※2016年から3年契約(年俸変動制)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

畠山 和洋(はたけやま かずひろ、1982年9月13日 - )は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手内野手外野手)。東京ヤクルトスワローズ所属。愛称は「Boo(ブー)」「ハタケ」。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校から野球を始め、4年時には地元の少年団チームに加入した。当時は野球だけでなくバスケットボールなど他のスポーツも楽しんでいた。進学した花巻市立湯口中学校にはバスケ部が無かったため、野球に集中する。抜きん出た飛距離のバッティングで活躍したが、フォームは我流であった。中学3年の時に県大会で優勝している。その後、実兄がエースを務めており、1972年に実父も投手として所属し選抜出場を果たしている、専修大学北上高等学校に進学した。1年から三塁のレギュラーに定着し、打撃フォーム矯正にも成功した[1]

1998年第80回全国高等学校野球選手権大会では、如水館との1回戦で、引き分け再試合を含む2試合に5番三塁で先発出場。計7打数6安打3打点と活躍するが、チームは惜しくも再試合で敗退した。2000年第82回全国高等学校野球選手権大会は一回戦で森岡良介要する明徳義塾と対戦し敗退。自身も4打数無安打であった。1年後輩には梶本勇介が在籍していた。当時は2年生の梶本がエースで4番を務めており、畠山は3番三塁での出場であった。

ヤクルト時代[編集]

2000年プロ野球ドラフト会議で、ヤクルトスワローズから5巡目で指名を受け、契約。

2002年に19本塁打・56打点でイースタン・リーグ本塁打王打点王の二冠に輝いた。ただし打率.259、72三振という数字が示す通り、この頃の打撃は確実性に欠けていた。また19失策中島裕之に次いでイースタン・リーグ2位だった。

2004年8月にアレックス・ラミレスと入れ代わって一軍に初昇格し、8月6日の対横浜ベイスターズ戦で初出場。この時は代打で2試合に出場するも結果を出せず、すぐに降格した。10月に再昇格して10月7日の対読売ジャイアンツ戦で、高橋尚成からプロ初安打を放った。

2005年8月19日に古田敦也と入れ代わって昇格し、その日の阪神タイガース戦(明治神宮野球場)で代打出場すると、藤田太陽からプロ初本塁打を放った。その後、9月まで代打を中心に出場するも11打数2安打2打点に終わる。打席での消極性が指摘されるなど評価は芳しくなく、一軍定着の機会を逃した。

2006年はキャンプから不調が続き、二軍スタートとなる。6月に昇格するも7打数無安打と結果を残せなかったが、二軍では好調を保ち、打率.313・7本塁打・101安打で最多安打を獲得している。さらに外野手としても45試合に出場。当時2軍監督だった小川淳司は畠山について「確実性を意識すると長打が減ってしまう」と指摘し、目標を高く置くよう求めていた。

2008年からはスピードを重視する高田繁の方針もあって、キャンプ・オープン戦は二軍スタート。開幕後も二軍で過ごしていたが、川島慶三の故障やアダム・リグスの不振もあって4月8日に昇格すると、4月15日の対横浜戦で本塁打を放つなど幸先の良いスタートを切った。5月18日の対阪神戦ではアーロン・ガイエルに代わって初めて4番・三塁手で出場し、シーズン終盤まで4番として出場。4番に定着して以降は長く本塁打が出ず、7月22日に4番打者として初めて本塁打を記録。また推定年俸900万円の、12球団で最安値の4番打者であった(ちなみに当時4番打者で最高額年俸の選手は中日ドラゴンズタイロン・ウッズの約6億5800万円)。最終的に121試合に出場し、自己最多の9本塁打・58打点という成績を残した。打率も9月に低下したものの.279を記録し、プロ入り初の規定打席到達を果たした。好球を待って右方向に流す安打が多く、53四球はチーム最多(セ・リーグ7位)であった反面、三塁手として6失策、一塁手として5失策と守備に安定感を欠き、4番打者ながら試合終盤には代走や守備固めによって交代したケースも多かった。

2009年ジェイミー・デントナの加入により、開幕直後は主に代打での出場となったが、代打で打率3割を上回るなど好調を維持し続けた。しかし、交流戦頃から徐々に調子を落とし、8月にはデントナと宮本慎也の離脱によってスタメン出場の機会が巡ってきたものの調子は上がらず、低調なままシーズンを終えた。打率.236・4本塁打・19打点、得点圏打率は.172と、前年よりも成績を落とす。

2010年も当初は代打起用が大半だったが、デントナの不振によって6月下旬からスタメン起用が増え、オールスターゲーム以降はレギュラーに定着。途中加入で左打ちのジョシュ・ホワイトセルと共に後半戦のチームの快進撃の立役者となる。93試合出場ながら自己最多の14本塁打を記録し、出塁率.380・長打率.551と結果を残した。三塁手の他に左翼手を任されるが、経験の浅さから打球の目測を誤ったり、送球難を露呈してしまうなど、守備面での課題を残した。

2011年は開幕スタメンこそ逃したが、ジョシュ・ホワイトセルの怪我で4番で初スタメンとなった試合で2本塁打の活躍。その後は4番として一塁手とホワイトセル出場時は左翼として出場し、オールスターゲームにファン投票で選出。自身初の選出となった。7月22日、第1戦の5回に武田勝から勝ち越しの3点本塁打を打ちMVPを獲得した[2]。後半戦は終盤に調子を落としたが、それでもシーズンを通してチームの4番として恥じない活躍を見せ、リーグ2位の23本塁打、リーグ3位となる85打点、リーグ2位のOPS.834、さらにリーグトップの78四球を記録した。自身初の1年間登録抹消されずにシーズンを送った。

2012年は開幕から調子が上がらず、4番を外され下位打線で起用されることもあったが、オールスターゲームには監督推薦で選出され、2年連続の出場を果たす。地元・岩手県営野球場で初の球宴開催となった7月23日の第3戦では、全セ・4番でスタメン出場。4回に塩見貴洋からソロ本塁打を放つなど、4打数2安打1打点をマークし、敢闘選手賞を獲得した[3]

2013年はオープン戦で首位打者を獲得するなど、好調なスタートを切ったとに思われたがシーズンが開幕すると調子を下げ6月17日に登録を抹消される。7月5日に再登録され、復帰戦で本塁打を放つなど復調の兆しを見せるも結局打率は2割前半からなかなか上がらなかった。8月末には好調だった松元ユウイチに一塁のポジションを譲るような形で二軍落ち。9月には戸田球場での守備練習中に左脇腹を痛めて戦線を離脱することになり、残りのシーズンを棒に振った。

2014年は開幕から6番打者として定着し、5月にはバレンティンの代わりとして4番も務めた。しかし6月8日の西武戦で走塁中に左足を痛めて途中交代、病院で診察を受けた結果「左大腿二頭筋肉離れ」で全治4週間と診断され、交流戦の期間には離脱を余儀なくされた。その一ヶ月半後の7月29日の阪神戦で開幕戦と同じ6番ファーストで復帰し、復帰後初打席初ヒットが決勝タイムリーになる活躍を見せる。その後も調子を落とすことなく打ち続け、この年リーグトップの得点を記録した強力ヤクルト打線の中軸を担う活躍を見せた。最終的には本塁打17、リーグ7位となる79打点、規定打席にも到達し、自己最高となるリーグ8位の打率.310をマーク(規定3割は初)し、まさに復活の一年となった。得点圏打率はリーグ2位の.402を記録し、ここ一番での勝負強さも発揮した。

2015年、4月26日の読売ジャイアンツ戦(神宮球場)でプロ野球史上273人目の通算100本塁打を達成[4][5]。シーズン通して低打率だったものの、5月以降ホームランを量産し、雄平に変わって4番に座る。後半戦は足の負傷の影響によりホームランのペースも下がったが、キャリアハイの26本塁打、チーム日本人最多記録となる打点105を記録し打点王のタイトルを獲得。優勝を果たしたヤクルト打線を牽引した。

2016年は春季キャンプ中にぎっくり腰を発症した関係で調整が遅れ、ぶっつけ本番で開幕戦を迎えた。4月に入り背中の張りを訴えて一時離脱、復帰後も復調の兆しは見られなかった。5月26日の阪神戦でサヨナラタイムリーを放つと、6月5日のオリックス戦で今シーズン初本塁打を放った。乗っていくかと思われた矢先、6月11日に負傷交代。左手有鈎骨骨挫傷と診断され今季3度目の離脱となった。さらに復帰を目指す矢先に以前から傷めていた右アキレスの状態も悪化し今季絶望であることが報道された。最終的に45試合の出場に留まった。

選手としての特徴[編集]

チームトップクラスの長打力を持ち味とする[6]。2008年から2011年までにかけての通算の対右打率.260に対し対左打率.301と左投手に強く、2011年には本塁打の8割以上を左方向に運んだが[7]、外角球を右方向に飛ばす打撃も持ち味とし[8][7]、2011年には2ストライクに追い込まれてからは右方向に運ぶなどカウントに応じた打撃も上達させた[7]。8打席に1つ近い割合で四球を選べる選球眼も持ち、2010年には打率.313を残すなどボールゾーンの球にも対応できる[9]

クラウチングスタイルのような身体を深く沈めるフォームで[10]、安定感に欠けるため緩急や変化球に弱く[10][11]、内角球の対応にも弱点を抱えていた[12]。リーグ2位のOPS.834を記録した2011年にはホームベース方向に身体をかがめてバットを構えてゆっくりと左ひざを上げ、そこからつま先をピンと伸ばしてタイミングを計りバットを振り出す独特なフォームに取り組み[13]、2010年までは速球に合わせて緩い球に対応するためのシンプルな待ち方をしていたが、2011年からは早めにトップを作ると同時に左足を上げてゆっくりステップする待ち方に変えたため、ボールを長く見ることができるようになったという[14]

一塁ベースから遠い右打者ということもあり、走塁面では一塁到達4.4秒台と平均を下回る[15]。守備では主に一塁手三塁手で起用される他、左翼手で起用されたこともあるが、2010年には左翼守備では平均を下まわる守備得点を記録した[16]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2004 ヤクルト 4 9 8 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .125 .222 .125 .347
2005 11 13 11 1 2 0 0 1 5 2 0 0 0 0 2 0 0 5 0 .182 .308 .455 .762
2006 7 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .000 .143 .000 .143
2007 37 88 75 4 17 2 0 1 22 7 0 1 2 0 10 0 1 20 2 .227 .326 .293 .619
2008 121 479 416 43 116 22 2 9 169 58 2 1 1 4 53 2 5 84 11 .279 .364 .406 .770
2009 85 214 182 14 43 8 1 4 65 19 0 1 1 4 27 0 0 31 7 .236 .329 .357 .686
2010 93 280 243 38 73 17 1 14 134 57 0 0 1 3 28 1 5 38 7 .300 .380 .551 .931
2011 142 583 494 66 133 24 1 23 228 85 1 0 1 4 78 5 6 94 10 .269 .373 .462 .834
2012 121 497 455 49 121 21 1 13 183 55 2 1 1 2 37 0 2 64 13 .266 .323 .402 .725
2013 99 393 360 28 79 18 0 12 133 51 0 0 2 1 30 1 0 69 10 .219 .279 .369 .648
2014 113 464 422 52 131 19 1 17 203 79 2 0 1 3 36 1 2 54 17 .310 .365 .481 .846
2015 137 584 512 64 137 26 0 26 241 105 0 0 0 8 62 0 2 92 10 .268 .344 .471 .815
2016 45 190 163 15 40 10 0 1 53 18 0 1 0 0 26 0 1 24 6 .245 .353 .325 .678
2017 15 62 52 6 11 3 0 2 20 4 0 0 0 0 8 0 2 13 2 .212 .339 .385 .723
NPB:14年 1030 3863 3399 380 904 170 7 123 1457 540 7 5 10 29 399 10 26 591 95 .266 .345 .429 .774
  • 2017年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]



一塁 三塁 外野




































2004 ヤクルト 2 13 0 0 1 1.000 - -
2005 2 7 0 0 0 1.000 2 0 0 0 0 - -
2007 15 101 9 0 2 1.000 11 5 17 2 0 .917 -
2008 88 666 46 5 42 .993 24 12 34 6 6 .885 -
2009 35 175 15 2 11 .990 30 15 40 3 3 .948 -
2010 15 54 6 1 2 .984 16 6 15 2 0 .913 48 51 2 0 0 1.000
2011 111 635 50 4 54 .994 3 7 5 0 1 1.000 62 84 3 2 0 .978
2012 121 1006 77 7 94 .994 - -
2013 97 781 55 4 57 .995 - -
2014 111 902 58 2 83 .998 - -
2015 136 1171 104 11 105 .991 - -
2016 45 373 33 1 22 .998 - -
2017 15 116 13 1 5 .992 - -
通算 793 6000 466 38 478 .994 86 45 111 13 10 .923 110 135 5 2 0 .986
  • 2017年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他記録

背番号[編集]

  • 33 (2001年 - )

打席登場曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月16日号35-39ページ『白球入魂「ノーチャンス - 畠山和洋~畠山,正直なバッティングで流れを掴む」』
  2. ^ 畠山、勝ち越し3ランでMVP/球宴 - 2011年7月23日
  3. ^ 熱い盛岡 畠山凱旋弾 フルスイングで恩返し”. 東京新聞. 2012年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月5日閲覧。
  4. ^ ヤクルト・畠山が通算100号”. 産経新聞. 2015年4月27日閲覧。
  5. ^ 燕・畠山、トップ並んだ6号「泳がされたが、うまく反応できた」”. サンケイスポーツ. 2015年4月27日閲覧。
  6. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、239頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  7. ^ a b c 『週刊プロ野球データファイル』2011年29号、ベースボール・マガジン社、雑誌27742-11/2、9-10頁。
  8. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2003』 白夜書房、2003年、29頁。ISBN 4-89367-854-X
  9. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、128頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  10. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクト、2009年、270頁。ISBN 978-4-7572-1628-0
  11. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2008』 白夜書房、2008年、75頁。ISBN 978-4-86191-374-7
  12. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、130頁。ISBN 978-4-86191-508-6
  13. ^ ヤクルト・畠山和洋、二人三脚でつかみ取った4番の座Web Sportiva、2011年5月11日。
  14. ^ 煌めく旬な選手インタビュー Vol.15 畠山和洋『週刊ベースボール』2011年35号、ベースボール・マガジン社、雑誌20442-8/8、112-115頁。
  15. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクト、2010年、122頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  16. ^ 守備を得点換算で評価するSMR Baseball lab
  17. ^ 鈴木力燕市長が定例記者会見、総額1億8,000万円の一般会計12月補正予算案など6項目を発表”. ケンオー・ドットコム (2011年11月29日). 2017年8月6日閲覧。
  18. ^ はたけまつり。”. つば九郎オフィシャルブログ「つば九郎ひと言日記」 (2011年12月15日). 2017年8月4日閲覧。
  19. ^ ヤクルトの畠山が1000試合出場=プロ野球”. 時事ドットコム. 2016年6月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]