古田敦也

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古田 敦也
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2019年7月11日 (引退後)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 (1965-08-06) 1965年8月6日(56歳)
身長
体重
182 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1989年 ドラフト2位
初出場 1990年4月11日
最終出場 2007年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2007)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2015年
得票率 76.8%(332票中255票)
選出方法 競技者表彰
オリンピック
男子 野球
1988 野球

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、日本の元プロ野球選手捕手)・監督野球解説者タレントスポーツキャスター兵庫県川西市出身。日本プロ野球名球会副理事長。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。マネジメントは株式会社ビッグベンと業務提携。妻は元フジテレビアナウンサー中井美穂

選手としてヤクルトスワローズ→東京ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。史上14位タイの8度の年間打率3割達成者で、シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は日本記録。捕手としての生涯打率の日本記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。

2004年のプロ野球再編問題発生時には日本プロ野球選手会会長として球団側との先頭に立ち、史上初のプロ野球ストライキ決行を主導して交渉を導いた。

マイナビニュース』にて2014年に実施された「『ミスタースワローズ』といえば誰ですか?」のアンケート(投票者数:マイナビニュース会員733名)では得票率47.5%を記録し、2位以下を大きく引き離して1位を獲得した[1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。100人ほどの小学生が所属していた少年野球チームであり、AからDの4チームに別れていた[2]。入団直後、Dチームに入れられたが、Dチームにはキャッチャーがいなかったという理由と「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される[2]。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。また、当時は阪急ブレーブスのファンクラブ組織である「ブレーブスこども会」の会員でもあった[3]

地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。

3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格した。合格後は高校時代の監督から立命館の練習に参加するよう勧められ、そこで評価を得た。そして当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされ強引に押し切られた[4]。またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学して、硬式野球部に入部した[5]。同期の同学科には寺地永が居る。

立命館大学時代[編集]

高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている[6]

関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時にはキャプテンを務め、1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった[4]

野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから上位指名の連絡が入っていたため、11月18日のドラフト会議当日には大学が会見用のひな壇を設置し、垂れ幕まで用意されていたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[7][8]。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって[9]、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している[10]。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており[11]、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている[4]。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている[12]。プロ入りが成らなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て[4]、1988年3月に立命館大学経営学部を卒業して経営学士号を取得した。

トヨタ自動車時代[編集]

1988年4月、トヨタ自動車に入社した古田は人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた[4]。新人研修ではディーラーで営業の仕事もした。古田は社会人野球時代を経たことで普通の金銭感覚が身につき、当時の経験がプロ入り後にも役立っていたと語っている[4]

トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表となるが、古田は当時「(プロに行くために)五輪メンバーに選ばれないといけない」と考え、ジャパンの監督が誰か、バッテリーコーチが誰かと調べて、野球観を調べた。すると「元気があって、国際大会の環境の悪い中でもへこたれない、あきらめないやつが好きだ」との情報を得て、すぐに実行。何十人と来る選考会で「ボール回しでも“ヤー”とか言いながら、一生懸命、声出して野球をやった」[13]。そして、見事に日本代表の座を射止め、野茂英雄潮崎哲也らとバッテリーを組み、決勝でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

古田は1989年のドラフト会議に際し、巨人かヤクルトを希望していると報じられた[14]。ヤクルトは大卒時の1987年のドラフトでも古田を指名候補に入れていたが、この時は2位以上でないとプロ入りしないとの情報を受けて[15]事前に撤退したとされている。ただし、この時のドラフトでヤクルトから1位指名された長嶋一茂によれば、立教大学の先輩で父の茂雄とも親しかったスカウト部長の片岡宏雄に「古田くんをなぜ獲得しないんですか?」と聞いたところ、「メガネだ。目」とメガネが理由であることを聞かされ、疑問に思ったと語っている[16]

当時のヤクルト野手陣は関根潤三監督の下で池山隆寛広沢克己ら若手が急成長し次々とレギュラーを獲得して着実に陣容が強化されていたが、その中で唯一残されていた課題が捕手だった。ベテラン八重樫幸雄の後の正捕手の座を争っていたのは主に秦真司中西親志の二人だったが、秦は打撃に優れるが守備難で捕逸が多く、中西は捕球に優れるが打撃が打率二割に満たない非力さで、さらに両者共に盗塁阻止率が低かったので[17]、強肩・好守の即戦力捕手の獲得が急務だった。自身も捕手だった片岡スカウト部長は、オリンピックで経験を積んで進境著しい古田のプレーに惚れ込んで獲得に動き、担当スカウトの羅本新二に古田との交渉を進めさせ、夏の編成会議で相馬和夫球団社長、田口周球団代表、関根監督ら球団首脳に古田を強く推薦して了承を取り付け[18]、古田の2位指名が内定した[注 1]。古田はトヨタへ挨拶に訪れた片岡からドラフト指名の意思を正式に伝えられたが、大卒時にプロ球団の裏切りに遭っていた古田は不信感を拭い去ることができず「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も片岡に念を押している[20][21]

しかし、10月に相馬・田口の推す若松勉ではなく、ヤクルト本社社長の桑原潤が推す野村克也が新監督に就任すると状況が一変する。野村は大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなどとして「大学出に名捕手はいない」という持論を展開しており[22]、就任直後の『週刊ベースボール』の取材に対しても、高卒4年目で強肩の若手・飯田哲也を自らの手で正捕手に育て上げるという構想を示していた[23]。そして大卒社会人で眼鏡をかけている古田の指名をやめるよう要求してきたが、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発。球団幹部も古田指名の方針を崩さなかった。片岡は指名直前にも野村が「古田はやめよう。捕手はワシが育てる」と食い下がったと語っているが[24]、ヤクルトは当初の予定通り古田を2位で指名した[6]

これに対し野村は自著で、就任直後のドラフトに際し自分が片岡に今年のドラフト候補に良い捕手はいないのかと質したところ、片岡が古田の名前を出して「メガネをかけているんですが…」「打撃には目をつぶってもらえますか」と言ってきたので、メガネをかけていても問題は無いと言って古田を獲得するよう命じたと主張[25][26]。また古田との対談でも「編成部長(※スカウト部長の誤り)に『いいキャッチャーいないか?』って言ったら、『一人います。でも、メガネかけているんですよね』って。これが、後々俺が大反対しているように言われて。俺言ったことないから」と大笑いし、「今、コンタクトもあるし、レンズも軽量化して問題じゃないのに、そんなこと言う訳ない。あれには参った。それで編成部長が言うのよ。『バッティングは目をつぶってくれますか?』って。まあ、キャッチャーは守れて、頭よくて、肩が強ければそれで十分って言って、それで(古田獲得に)いこうって。まさか獲れるとは思わなかったけど、これも一つの縁だよね」と主張し、上記片岡の意見とは対立している[27][28]

そもそも、野村と片岡の間には同年ドラフトでの黒須陽一郎をめぐる一連の問題を発端とするドラフト指名戦略の違いや片岡が懇意にしていた立大野球部の一つ上の先輩でもある長嶋茂雄に対する野村の度重なる挑発、そしてその息子・一茂の扱いへの不満など、様々な問題を巡っての根深い確執があり[29]、古田指名の件についても当時ヤクルトのスカウトだった鳥原公二(後にスカウト部長)は「野村はドラフト前の会議まで古田との指名約束があること自体を知らなかったため、会議では「もう決めている選手がいる」と訴えるスカウト側との間で攻防があった。古田の指名についても野村は「メガネをかけているなぁ」と独り言をつぶやいただけで、メガネがダメという話はなかった」と片岡とは異なる見解を述べている[30]

ヤクルト選手専任時代[編集]

1990年
新人の中では1位指名の西村龍次と古田がユマの一軍キャンプメンバーに選ばれた。取材陣からは「即戦力の西村と古田が、どれ位の力を出せるかで今年のヤクルトの戦力アップにつながるか解る」と評価される一方で[31]、野村はキャンプでも記者に対して「メガネを掛けているとマスクがズレる」と語るなど[32]、古田への評価はマスコミと野村とで温度差があった。キャンプ終了後、野村は前年の主戦捕手だった秦真司と中西親志の二択から[33]当面の正捕手を秦真司に定め、4月7日の開幕戦は秦がスタメン出場し古田を控えに回した。しかし野村は秦の捕手としての能力を買っておらず、前年には飯田を正捕手として育成する構想すらもっていた。そして秦は打撃力を活かすために三塁にコンバートする方針だったが[23]、広沢克己を三塁に回す為にコンバートを延期し、やむなく秦を暫定起用した。ところがやはり秦はリードや守備での不安を露呈し、第三捕手兼代走としてベンチ入りしていた飯田が4月24日に急遽二塁にコンバートされていたこともあり[34]、4月28日に古田が初めてスタメンで出場する。古田をこの時期にスタメンに抜擢した理由について、野村は「秦や中西のリードに納得できなかったので仕方なく「古田、お前行け」と命じたのがきっかけだった」と述べている[33]。6月上旬までは秦と併用されていたが、新外国人ドウェイン・マーフィーが離脱してそのポジションが空くと野村は秦を外野にコンバート。スタメンに定着した古田の実力はライバルチームからも高く評価されるようになり、新人ながら監督推薦(藤田元司監督)でオールスター出場を果した。そして、試合に出るようになると野村は古田を試合中に叱るようになるが、ここでも古田は持ち前の負けん気を発揮し「どうせ怒られるなら近くにいようと思って「すいませんここに座らせてください」と言って近くに座るようになりました」とポジティブな姿勢を示した[35]。また、当時について「その時に違う指揮官だったり「力と力のガチンコだ」とかばかっり言われていたら僕もそういう選手になっていたと思います。たまたまそこで出会った指揮官がそういう強い気持ちとか攻撃的な気持ちを持つのは当たり前で、それに加えて頭を使えと「頭使えたら弱いやつでも勝てる」という考えだったので僕も若かったですし、非常に勉強にもなりましたね。非常に腑に落ちましたし、そういう意味ではいい刺激を与えていただいたと思っています」と古田自身の野球観の変化を語っている[36]。シーズン後半は中西と併用されたが古田は攻守両面で中西を上回り、正捕手の地位を確かなものとした。大矢明彦以来となる新人の盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞受賞を果たし、課題とされていた打撃面でも334打席に立って打率.250、26打点と及第点の数字を残した。

先輩捕手だった八重樫は「古田がレギュラーになってピッチャーとキャッチャーがよく話をするようになったと思います。若い投手が多かったし、古田とも年齢が近かったから、試合後にも自発的にミーティングをするようになっていたね。それまでは"一方通行"だったけど、その点は大きく変わった」「古田の存在はとても大きかったですから。古田の高い要求に、しっかり応える好投手たち。野村監督時代はバッテリーを中心にしっかりとした野球をしていた。そんな印象がありますね」と古田を称えた[37]

2年目の1991年オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、最終戦に出場した古田が再逆転し打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。

当時の4番広沢克己は古田と落合の首位打者争いについて「ペナント最終盤に古田の打率が落合さんよりわずかに上だったので、本当は最終戦も休むはずでした。野村さんはああ見えて優しいところがあり、自分も現役時代に激しいタイトル争いをしたので、愛弟子、それも同じ捕手の古田に何とかタイトルを取らせてあげたかったんです。選手も同じで、チーム全員が古田に首位打者を取らせたいと思っていた。だからこそ、中日とヤクルトの最終戦では批判を怖れることなく、落合さんを全打席で敬遠した。ところが落合さんが広島とのダブルヘッダーで6打数5安打の固め打ちをして、首位打者に躍り出た。古田が再逆転するには最終戦に出てヒットを打たなくてはなりません。強いプレッシャーの中、試合前の古田は緊張しながら準備した最終戦の1打席目でヒットを放ち、落合さんをわずか3毛差でかわし、見事に首位打者になりました。あの重圧の中、よく打ったものだと思う」と語っている。[38]

1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズ、翌1993年の日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場した。

1993年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。

1994年は4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱、結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。

1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。

1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、本塁打は9本ながら勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。再び日本シリーズを制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。

1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。

若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われた2000年シドニーオリンピックの野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出された。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。

2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。同年の日本シリーズでは自身2度目のシリーズMVPを受賞した。

2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割をマークした。また満塁では11打数8安打(打率.727)をマークするなど満塁での勝負強さが光った。

2003年開幕直前に右手薬指を骨折したが完治しないまま開幕戦を強行出場する。6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打席連続本塁打を記録[39]。シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割ったが1995年以来の20本塁打以上を記録した。

2004年開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、上記にあった通り球界再編による選手会の活動が激務で日に日に成績は下降。なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後の規定打席到達だった)。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。

2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。

ヤクルト選手兼任監督時代[編集]

2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。

ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘。「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。

2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿五十嵐亮太の怪我及び不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8,000万円減(75%減)の6,000万円で契約を更改した。

現役引退・監督退任[編集]

2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代5位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、その記録を達成した試合では、横浜・石川雄洋大量得点差のついた状況で盗塁を試みたことに端を発する遠藤政隆危険球判定にめぐって審判との口論の末に「(審判には)常識がない」という趣旨の暴言を吐いたという理由で退場処分を受けた[40]上、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。

9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。

9月27日の対広島戦でシーズン初安打を放つ。敵地・広島市民球場での試合であったが、試合後には広島監督のマーティ・ブラウンから花束を送られ、古田がそれに応え両軍ファンにサインボールを投げ込むささやかなセレモニーが行われた。過去に所属経験のない相手球団の主催試合で引退セレモニーが行われるのは異例の事であった。

神宮球場における最後の出場となった10月7日、古田の引退試合が行われた。奇しくも対戦相手は同じ広島であった。神宮での最終打席となる8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。佐々岡にとってこれが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。古田は後年「(この日の最終打席で)佐々岡が登板することは聞いていた」ことを明かしており、「球が遅いんですよ。(佐々岡も選手としてのピークは過ぎており)プロの球じゃないんです。もうトロトロトロって。もっとピュッときてくれんかなと。『これ引っ掛けるわ』と思ったらショートゴロだった」と対戦を回顧している[41]。また、この試合の8回には石井一、9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。引退試合翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後の打席に立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。

10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5,000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津臣吾に対し突如戦力外を通告した件について、球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なかった件などに言及するなど、最後までフロントとの間に軋轢が残った。

現役引退後[編集]

2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した(なお、プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日だけ所属契約しているが特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。

2015年1月23日、野球殿堂において255票獲得しプレーヤー表彰に選出された[42][43][44]。一問一答での「捕手とは?」の質問には、「相手の嫌がることをやらなきゃいけない。死球を当てると厳しく対応される時代だったが、それをかいくぐりながら、そこそこ成績を残せた」と現役時代を振り返った[12]。野村克也は「私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である『優勝チームに名捕手あり』を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう」と祝福のコメントを寄せた[45]

2016年には「第11回 BFA U-18野球チャンピオンシップ」「第7回女子野球ワールドカップ」「第1回 U-23 野球ワールドカップ」の3大会のアンバサダーを稲村亜美とともに務める(BS-TBSの中継番組にも大会アンバサダーとして出演)[46]

2019年4月からは静岡県焼津市内の複数企業による企業複合型の社会人野球クラブチーム焼津マリーンズのアドバイザーに就任[47]。これはクラブ代表の戸﨑義人トヨタ自動車時代のチームメイトだった縁によるものである[48]

2021年にはヤクルトの春季キャンプ第2クールからの臨時コーチを務める[49][50]。ヤクルトへの指導は14年ぶりとなり、ブルペン捕手として石川雅規と14年ぶりにバッテリーを組んだり[51]打撃投手として投げ込んだりなど[52]、熱のこもった指導が多く取り上げられた[53]

同年、日本女子ソフトボールリーグ機構理事に就任[54]

選手としての特徴[編集]

かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があり、古田も眼鏡を着用していた(乱視がひどく、当時のコンタクトレンズでは自身の眼球に合わなかったため、止む無く眼鏡を着用していた[11])ことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ[6][55]、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評されたが、プロ入り後は即戦力として活躍し日本球界を代表する捕手となった。古田は殿堂入りした際の「一番誇れる記録は?」という質問に、「記録っていうか、メガネをかけてやってこれたことかな。目が悪くてメガネかけたプロ野球選手はダメだって言われた時代なんでね。高校生を含めてけっこうたくさんの人に“メガネかけてるんですけど、おかげで野球を続けてます”と言われて、やった甲斐あったかなあと思いましたねえ」と述べている[6]

正捕手として日本プロ野球名球会入りしているのは野村克也・古田・谷繁元信阿部慎之助の4人のみである。野村は古田について、「初めてキャンプで見たときから、捕球や二塁への送球は天才的で、肩も強かった。当初はスカウトから『打撃には目をつぶってください』と言われたが、もともと頭のいい子だったから、投手の配球を読むことで上達し、2年目には首位打者も獲得した」と振り返り、賞賛している[45]。また、古田の性格については「大変強気で自信家、そして目立ちたがりのところもある」と分析し、「捕手の本能も持っているが、それと同じくらい投手に近い考えもある」珍しいタイプと評している[22]

守備[編集]

ID野球の申し子」の異名で名を馳せた[56]。ピッチャーに初球から決め球を要求したり、3つ目のストライクを狙う時にストライクゾーン中央にストレートを要求したりして打者の裏をかいた[要出典]

持ち前の強肩に加え、送球前の動作や、捕球してから即座に送球動作へと移る技術、正確で素早く力強いスローイング等を徹底的に磨いた[57]。1991年に12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。

この高い捕球・送球能力について、その理由として下半身の柔軟さをあげられることが多い。古田自身は股関節の柔らかさについて、「これは持って生まれたものだと思うんです。子供のころから、いわゆる女の子座りもできた。ヒザの関節も、じん帯も緩めなんです。よく伸びるというか、柔らかいというか……。特にヒザは緩いかもしれませんね。というよりルーズ気味。人に引っ張られるとグラグラってする時がありますから」と述べている[58][59]

ミットを動かさずにボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた[58]矢野燿大は「古田さんのキャッチングは、手で捕っているというよりも下半身で捕られているように見えるんです。右バッターのアウトサイドにボールが来るとする。そうすると、古田さんの場合、上半身の体勢はそのままで、下半身だけがアウトサイドに寄っていくんです。で、キャッチングの瞬間、フッと身体が内に寄る。手じゃなくて身体が寄るんです。低めのボールにしてもそう。もともと古田さんって、ぺちゃんって座れるじゃないですか。僕なんかだと股関節が固いから、低めに来たら手でしか上げられない。でも、古田さんは重心で上げられるんですよ。ベンチから、つまり、横から見ていたらようわかります。(中略)だから、審判にも絶対にストライクに見えるんです。僕らみたいに手をちょこっと動かしたりするのは審判にもバレバレなんですけど、古田さんはインコースだろうがアウトコースだろうが、下半身を動かして身体の中心で捕るんで、全部ストライクに見えるんですよね」と語っている[60](類似趣旨:村田真一[61])。

ただ単に球がミットに入りやすいという理由で大きなミットを好んで使った[62]

守備・打撃の両面で、それまで定説とされていた技術に対し、自身の経験に裏打ちされた独自の理論に基づく技術を構築している。かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、敢えて両腕をルーズにして、人差し指をおよそ45度にして構えた。これは脇を締めることで、ヒジの自由性を失うデメリットを懸念したためであり、脇を締めた状態(ミットを立てた状態)から低目の投球を捕球する際には、『ミットを上から被せにいく捕球しかできない』という。それだと捕球直後には腕を伸ばしきって一段とミットの位置を下げてしまうため、ボールと判定される見込みが高くなる。それを解消させようとミットを下から掬い上げる捕球を求めた結果、“脇を空ける構え”につながった[63][57]。脇を締めていると真ん中に外に向かって取りにいった時ミットの重みもあってより外側に向くが、脇を締めずに最初から外回りでいけば、より的確にボールを取れる[63]。新人時代には、それを見た野村監督から「お前、もういっぺんやってみい」と言われ、再現してみせると「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言われたという[57]

宮本慎也の談話によると、配球を根底にした守備体系の指示については、捕手の古田が全て務めていた。そのため古田の捕手としての出番が激減した2006年以降、それまで守備網に引っかかっていた打球が、あと一歩のところで外野に抜けていってしまう頻度が高まったという[60]

捕手の他、1993年のリーグ優勝が決定した次の試合で外野手(左翼手)、1997年に野村克則と守備位置を入れ替わる形で一塁手として出場したことがある[64]

現役時代の捕球により親指と人差し指の間の腱を酷使し、引退後には掌を開くと親指が手首の辺りまで垂れ下がるようになった。その様子を収めた動画を、本人は公式YouTubeチャンネルで2021年5月に公開した[65]

打撃[編集]

捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。守備負担の大きい捕手を務めながら残した通算打率.294は、7000打数以上の選手中では歴代9位に位置する。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年に阿部慎之助が.3405を記録するまでは2リーグ制以降では捕手のシーズン打率の歴代最高記録だった[66]

新人の頃に落合博満の打撃を捕手側から見て参考にし、自分の打撃に採り入れたという。打撃でも独自の理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから、初球の重要性を挙げている[67][68]

現役時代はピッチャーに合わせてバットを取り替えており、古田は自身を球界一バットを取り替えた男であると主張している。たとえば緩いカーブは短いバットなら先にあたるが、長いバットなら芯に当たるだろうという単純な理由で、相手によってバットを選んでいた[69]。バットを頻繁に替えたのは、敢えてバットのせいにすることによって気持ちの切り替えを図るという狙いもあった[70]

現役時代、伊勢孝夫打撃コーチからは「強いて言うなら、お前は無手勝流だな」と言われており、引退後の自著でも定まった打撃フォームを持たない人物であったことを自認している[70]

本人は2021年5月の自身の公式動画で「ホームランを打てない訳ではないけど、打率重視、ヒット狙いの短距離打者」と打撃面の性質を語っていた[71]

引退後に本人は「後ろ足に体重を乗せ過ぎずに敢えて前にスウェーすることで際どい球に手首が返らないようにする」「スウェーしながら打つときに前肘を抜くようにし、体を後ろに戻して右足を軸に回転して打つと内角に詰まりにくい」と打撃論を語っていた。古田自身の若い頃は指導者が皆「脇を締めろ」と指導したが、2020年代になると脇を締める事に拘らない指導者が増えたとしている[72]

野球論[編集]

  • チームのコンセプトには基本的に従うべきだが、お互いに遠慮が出て意思疎通が取れなくなるのも良くないため、ベテランの域に入った頃の古田は、新人に対して「違うと思ったら首を振れ」と言っていた。首を振って意思を表明した以上責任が生まれるので、ピッチャーは必死になって投げるというのが古田の主張である[73]
  • 得意技を活かしたければ短所を無くすべきであって、それが出来なければいつまでたってもレギュラーにはなれないという趣旨の主張をしている[74]
  • 配球は裏をかくことが重要であり、例えばストライクからボールになる外角の変化球で安易に空振り三振を取りに行くと、肝心な時に配球を読まれるケースが増えるので推奨していない。古田は、キャッチャーにとって一番怖いのはホームランを打たれることそのものではなく大事な場面で打たれることであると言っている[75]
  • 監督時代、アダム・リグスを「バントしない2番バッター」として重用したのは、バントでアウトを献上するよりも2番バッターがヒットを打って1番バッターと合わせてランナーが2人いる状況を作ること、リグスが足が速く併殺の恐れが少なかったことによる。また、当時のヤクルトでは後進のキャッチャーも育っておらず、ピッチャーも信用できるレベルには達していなかったため、どうしても打って勝つしかなかった[76]
  • 監督時代はとにかく打ち勝つ野球を目指していたため、新聞記者からも「もっと緻密な野球をすると思ったんですけどねえ」と皮肉られることもあった。だが古田にしてみれば「無い袖は振れない」という状況で生み出したその野球こそが緻密な野球であった[77]
  • 最近の若い選手[注 2]は優しすぎる人間の下で過保護に育ったため、決断力がないと分析している。そのため古田はそういう選手たちには強引にこちらの考えを強制するなど若干荒っぽく接した方が、結果を気にせずその場で出来ることに集中できるのではないかと考えている(2009年当時)[78]。一方2021年7月にアップロードした本人の動画では、現役時代に味方投手が試合で上手く投げられず降板して考え込んでいると「細かい性格の投手にはウソでも細かく答える」ことで納得させたとある[79]
  • 力を80%程度にセーブしながらシーズン中毎試合出場できる選手が優れた選手であり、観客にゲームを観てもらうプロとして適格だと考えている。そのためには、体力的にも精神的にもオンとオフの切り替えができることが重要であると自著で説いている[80]
  • 宮本慎也は「古田さんは年上の選手でもフェンスを怖がっている外野手がいると何怖っているんだ100年早いと言ったり、30過ぎてクイックができない投手がいると辞めてしまえと言う。今(平成末期の時代)はそういう選手はいないですね」と述べている[81]
  • 本人は自分のキャッチング技術が培われた要因として「人の言うことをあまり聞かなかったこと」を挙げている。本人は捕手というポジションについて「教えようがないわりに技術が必要」と表現している[65]
  • 野球選手には読書が必要であると主張しており、アマチュア時代から野球漬けであった選手の中には文字自体を拒絶する者もいる、そのような選手がプロ入りしてミーティングをきちんと聞かなかったりすると嘆いている。特に野村は「馬鹿っぽい奴が嫌い」であったため、野村の顔を潰さないように古田は読書で教養を身に着けたという[82]
    • 古田はトヨタ自動車時代に先輩達から「お前らもう大学を卒業したんだから、漫画とか週刊誌とか卒業しろ」と教育されたといい、これを本人は「その頃の社会の流れ」と後年に分析していた。一方、五十嵐亮太は古田から『20世紀少年』を勧められたと語っており、漫画を完全に否定しているわけではない模様[82]
  • プロ野球選手はロマンを与えることが仕事と考えており、先発投手を早期交代させるために初回からカットする打撃を行う打者を「それをやったらプロ野球じゃない」と快く思っていない。また、日本球界時代のある時期に明治神宮野球場での試合で左翼ポール際を狙うことが多かった松井秀喜はオールスターの際にベンチで会った古田に「松井…志が低いよ」と苦言を呈されたことがある[83]

「優柔決断」[編集]

2009年の自著では、インターネットなどによって情報量に優れているため、高校生などでもそのままプロで通用するのではないかと古田自身も思える選手が増えたという。だが、現在の若手選手は情報過多で頭でっかちのため経験が足りないと憂慮している[84]。そんな古田は、1つの情報を得て満足するのではなく、違う方法も試し、人のアドバイスも聞いてみる情報収集を行い、決断をスッパリと下す、「優柔決断」を推奨している[85]その上で大切なのは以下の通りである。

まず先入観や好き嫌いで篩にかけず、本、インターネット、人づてなど何でもよいので、あらゆる手段を使って情報を収集する[86]。次に現在の環境に愚痴を言わず、与えられた環境の中でいかに最大限の力を発揮するかを大事にする[87]。ブレることを恐れず、進歩することが必要なら成功体験に囚われず変化を求めるべきである[88]。野球の技術を手に入れるためには、情報を収集するだけではなく実際に体験して自分のものにする[89]。それから15秒から20秒の思考時間で取捨選択できるように、頭の中にファイルを作り、情報を体系化する[90]。プロ野球選手は弱点を克服していなければレギュラーを守れるはずもないため、相手に弱点があっても、それが2年前の情報であればその情報を捨てる[91]。そして成功イメージを描きすぎることによってそれに囚われて自分の打撃などができなくなるため、描きすぎないようにする[92]。周りの空気に流されないことも重要である[93]。即決グセを付け、最後は腹をくくることが大切である[94]

人物[編集]

趣味は将棋ゴルフ、読書、映画鑑賞、投資など。音楽ではU2の大ファンである。書道は有段者。特に将棋では日本将棋連盟から1995年8月に初段、2004年11月には三段の免状を受けている[4][95]NHK連続テレビ小説ふたりっ子」にも「棋将」のタイトル保持者・毛利元彦役でスポット出演した。また、妻の中井美穂もNHKの「将棋講座」でアシスタントを務めたことがある。読書は、遠征での移動中にたまたま本を読んでいたところを、「漫画や週刊誌以外の、ちゃんとした本を読んでいる野球選手は見たことがない」と野村に称賛されたことを機にハマり始めた(古田曰く、「それ(褒められて)以降は漫画や週刊誌を読めなくなった」)[96]。後に野村自身も、「人間学、社会学を鍛える」ための最善の手法であることや、(特に捕手において)「頭脳を鍛える」という意味もかねて、後進に強く勧めている。

従兄タレント大木凡人がいる。また血縁ではないが、ヤクルト時代の同僚であった城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にある。城石の前夫人だった大橋未歩に城石との交際を薦めた。

大学時代には家庭教師などのアルバイトをしていた。4回生のゼミ(テーマは現代日本の中小企業問題)では、そのドラフト直前、当時の担当教授に進路を聞かれた際、「ドラフト待ってます」と答えている[95]

プロ入り後も愛車は一貫してトヨタ車を愛用している(ソアラアリストセルシオレクサス・LS[95]

1993年には母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれた。その際のキャッチコピーは「ぼくのチームも大したもんだが、ぼくの母校も大したもんだ」。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、という内容の同学の広告に再登場した。

1994年にシングルCD「Xeno 〜見知らぬ人〜」を発売している(現在は廃盤)。なお、PVにはレコーディングの模様が使用されている。

1995年に野茂英雄がメジャーに挑戦し始めた際、国際大会で活躍していた野茂の姿を知っていた古田は、日本の各メディアや複数の野球評論家が「無謀」「ワガママ」と批判する中で、野茂の活躍を信じていた[94]

2001年のリーグ優勝の時、ウイニングボールをキャッチし、高津臣吾を抱擁して喜びを分かち合うはずだったが、石井一久に先を越され、古田はマウンド上で独りになり[97]、日本シリーズでも同様のことが繰り返された[98]

2005年1月5日、故郷である兵庫県川西市から同市第1号の「名誉市民」に選ばれ、同日の記念講演で「子どもたちが大きな夢を持って育てるような環境づくりに貢献していきたい」と語った。

2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。眞鍋がブログを書籍化した際には、古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際には、眞鍋が宣伝用の帯を書いている。公式ブログを開設する以前、試験的に「吉田淳也」という偽名でブログを数回書いていた。写真を載せていたのにも関わらず閲覧数はとても少なかったが、古田の公式ブログで紹介すると一気に閲覧数が増えたという。

眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けた。

2006年11月21日、男性誌GQ JAPANの読者投票により「GQ JAPAN Men of the Year 2006」のスポーツ部門で選出された[99][100]

プロ野球の現場退任後、数多くのマラソン大会に出場しているためマラソンランナーとしての知名度も上げている。2009年3月22日、東京マラソンを完走。2010年5月16日、ホノルルトライアスロンを完走。2011年9月18日、アイアンマン70.3 セントレア常滑ジャパンを完走。2011年12月4日には、西オーストラリアでアイアンマンレースを完走した。

引退後はタレントとしても活躍しており、番組の企画から司会までこなす。「フルタの方程式」や「古田敦也のプロ野球ベストゲーム」「スポーツクロス」など冠番組がある。

2000本安打以上を記録した捕手では自身以外には野村克也谷繁元信阿部慎之助がいるが、野村と谷繁は現役引退後に専任監督を務めたことがある。一方捕手出身の2000本安打以上を記録した監督経験者の中では古田のみ専任監督の経験がない。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1990 ヤクルト 106 334 280 32 70 12 1 3 93 26 1 1 3 4 43 3 4 44 11 .250 .353 .332 .686
1991 128 485 412 58 140 23 5 11 206 50 4 5 4 3 62 7 4 59 10 .340 .428 .500 .928
1992 131 568 474 87 150 27 3 30 273 86 3 2 1 4 78 10 11 87 12 .316 .422 .576 .997
1993 132 595 522 90 161 29 0 17 241 75 11 4 9 2 59 0 3 83 15 .308 .381 .462 .842
1994 76 287 260 24 62 9 0 3 80 19 3 0 1 3 20 2 3 40 11 .238 .297 .308 .605
1995 130 551 487 88 143 18 1 21 226 76 6 0 5 7 46 0 6 51 24 .294 .357 .464 .821
1996 119 492 437 57 112 24 2 11 173 72 5 1 4 1 46 1 4 68 22 .256 .332 .396 .728
1997 137 598 509 74 164 32 2 9 227 86 9 4 3 4 69 4 13 64 11 .322 .413 .446 .859
1998 132 552 491 58 135 19 1 9 183 63 5 4 3 4 46 4 8 62 14 .275 .344 .373 .717
1999 128 548 483 79 146 26 2 13 215 71 10 3 4 7 51 4 3 41 8 .302 .368 .445 .813
2000 134 562 496 65 138 31 0 14 211 64 5 5 6 4 45 5 11 54 15 .278 .349 .425 .774
2001 121 503 441 59 143 23 0 15 211 66 1 0 3 7 43 2 9 41 17 .324 .390 .478 .868
2002 120 458 420 49 126 24 1 9 179 60 3 0 3 1 28 3 6 47 15 .300 .352 .426 .778
2003 139 576 509 69 146 27 1 23 244 75 2 0 4 3 49 6 11 77 14 .287 .360 .479 .840
2004 133 532 483 72 148 23 0 24 243 79 1 2 0 3 36 2 10 66 11 .306 .365 .503 .868
2005 96 357 329 29 85 15 0 5 115 33 1 0 1 3 19 0 5 54 8 .258 .306 .350 .656
2006 36 98 90 11 22 5 0 0 27 8 0 0 1 0 7 2 0 13 4 .244 .299 .300 .599
2007 10 19 18 2 6 1 0 0 7 0 0 0 0 0 1 1 0 0 1 .333 .368 .389 .757
通算:18年 2008 8115 7141 1003 2097 368 19 217 3154 1009 70 31 55 60 748 56 111 951 223 .294 .367 .442 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]



捕手












1990 ヤクルト 106 55 26 29 .527 5
1991 127 83 35 48 .578 12
1992 130 60 31 29 .483 2
1993 132 45 16 29 .644 7
1994 76 24 12 12 .500 2
1995 130 67 35 32 .478 6
1996 118 60 36 24 .400 7
1997 137 61 33 28 .459 7
1998 132 68 38 30 .441 10
1999 127 59 32 27 .458 13
2000 134 73 27 46 .630 7
2001 116 43 22 21 .488 2
2002 113 52 30 22 .423 8
2003 139 71 44 27 .380 5
2004 130 58 43 15 .259 8
2005 87 32 24 8 .250 1
2006 21 10 9 1 .100 1
2007 6 5 5 0 .000 1
通算 1959 926 498 428 .462 104
  • 各年度の太字はリーグ最高(試合数は捕手として全試合出場)
  • 赤太字は日本記録。
  • 太字年ゴールデングラブ賞受賞

年度別監督成績[編集]




























2006 ヤクルト 3位 146 70 73 3 .490 18 161 .269 3.91 41歳
2007 6位 144 60 84 0 .417 20.5 139 .269 4.07 42歳
通算:2年 290 130 157 3 .448 Aクラス1回、Bクラス1回

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

松山坊っちゃんスタジアムにある、古田敦也2000本安打達成記念碑
初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1997年5月7日、対読売ジャイアンツ4回戦(明治神宮野球場)、7回裏に入来祐作から左越ソロ ※史上190人目
  • 1000本安打:1997年10月3日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、3回表に黒田博樹から中前適時打 ※史上186人目
  • 1000試合出場:1998年6月2日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、4番・捕手として先発出場 ※史上343人目
  • 150本塁打:2001年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、6回表にダレル・メイから左越逆転2ラン ※史上118人目
  • 1500本安打:2001年7月11日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、1回表に上原浩治から右越ソロ ※史上82人目
  • 1500試合出場:2002年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)、5番・捕手として先発出場 ※史上135人目
  • 300二塁打:2003年4月4日、対阪神タイガース1回戦(大阪ドーム)、9回表にジェフ・ウィリアムスから右中間二塁打 ※史上40人目
  • 200本塁打:2004年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(宮城球場)、9回表に土居龍太郎から左越場外ソロ ※史上80人目
  • 3000塁打:2004年9月25日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、6回表に小山田保裕から左中間へソロ ※史上38人目
  • 350二塁打:2005年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、3回裏に吉川輝昭から左翼線二塁打 ※史上24人目
  • 2000本安打:2005年4月24日、対広島東洋カープ5回戦(坊っちゃんスタジアム)、6回裏に大竹寛から三塁強襲二塁打 ※史上32人目(捕手としては野村克也に次いで歴代2人目、大学卒・社会人野球出身選手として初)
  • 1000打点:2005年10月5日、対中日ドラゴンズ21回戦(明治神宮野球場)、8回裏に真中満の代打として出場、高橋聡文から左前適時打 ※史上27人目(大学卒・社会人野球出身選手として初)
  • 1000得点:2006年6月4日、対オリックス・バファローズ6回戦(明治神宮野球場)、7回裏にアダム・リグスの左越3ランで記録 ※史上33人目
  • 2000試合出場:2007年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上37人目(捕手登録の選手史上5人目、大学卒・社会人出身選手初。なお、古田はこの試合で退場処分を受けている)
その他の記録
  • 1試合本塁打:4本(2003年6月28日)※日本タイ記録
  • シーズン盗塁阻止率:.644(1993年)※日本記録
  • オールスターゲーム出場:17回(1990年 - 2006年)※現役最終年の2007年はコーチとして出場

背番号[編集]

著書[編集]

単著[編集]

共著[編集]

関連情報[編集]

野球以外での受賞[編集]

ファッション関連[編集]

その他[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

情報・報道番組[編集]
バラエティ番組[編集]
  • スポーツマンNo.1決定戦(1998年 - 2001年、2003年 - 2005年、TBS)
    第4回プロスポーツマン大会に参戦。大会出場を「年に1度の自己確認」とし、特にMONSTER BOXの自己記録更新に毎回、執念を見せていた。第6回プロスポーツマン大会では14段から自己記録を2段更新する16段を成功。また、頭脳系のTHIRTYでは毎回種目別No.1を目指すも準決勝で敗退とNo.1を掴めなかったが、最後の出場となった第11回プロスポーツマン大会で、ついにTHIRTYで種目別No.1を獲得し、悲願を成し遂げた。またその大会ではSPIN OFFで木元邦之相川亮二のプロ野球選手相手に勝利し準決勝進出する活躍もあり、総合8位で自身初の総合上位入賞を果たした。インタビューで明るい一面を見せることが多く、大会の盛り上げ役も買って出ていた。
プロスポーツマン大会
大会 放送日 総合順位
第4回大会 1998年1月1日 11位
第5回大会 1999年1月1日 11位
第6回大会 2000年1月1日 15位
第7回大会 2001年1月1日 9位
第9回大会 2003年1月1日 12位
第10回大会 2004年1月1日 13位
第11回大会 2005年1月1日 8位
教養・ドキュメンタリー番組[編集]
スポーツ番組[編集]
ドラマ[編集]

ウェブテレビ[編集]

  • ボブ・サップ緊急来日!第1回Abema杯5種競技HAOOO5!(2017年10月14日、10月22日、AbemaTV[109]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

クラスJ編では、古田の現役引退試合の1シーンや少年野球チームを指導するシーンがある。

PV[編集]

ゲーム[編集]

ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]

  • Xeno~見知らぬ人~(1994年4月8日、東芝EMI)

その他[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1位指名には潮崎哲也が内定していたが、その後の争奪戦で西武に潮崎を押さえられてしまったため[19]、野茂英雄の指名に変更した。
  2. ^ ただし、これは2009年発売の著書で言及されているので、おそらく1980年代に生まれた世代の選手たちのことを指しているものと思われる。

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]