伊藤智仁

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伊藤 智仁
東京ヤクルトスワローズ コーチ #84
伊藤智仁2010.jpg
2010年11月8日(松山中央公園サブ野球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市中京区
生年月日 (1970-10-30) 1970年10月30日(46歳)
身長
体重
183 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1992年 ドラフト1位
初出場 1993年4月20日
最終出場 2001年4月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ヤクルトスワローズ
    東京ヤクルトスワローズ (2004 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ。現在は、東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチを務めている。

来歴・人物[編集]

京都市立朱雀第一小学校、京都市立中京中学校、花園高を卒業後、地元の三菱自動車京都に入社。1992年バルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作るなど、日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。同年のドラフト会議ではヤクルトスワローズ広島東洋カープオリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団契約を交わす。入団時の背番号は20

1993年4月20日に先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振をあげるが援護もなく0-0のまま迎えた9回裏2死、篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する。この後、悔しさのあまり自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げ感情を露にした。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである[1]。この試合の他93年は12試合の先発登板の内、味方打線が1点以下しか取れない試合が実に7試合と打線の援護に恵まれない事が多かった(この年、ヤクルト打線はチーム打率、得点数ともリーグ1位であり、貧打線ではなかった)。だが、伊藤がルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)である事を首脳陣は理解していたため、コーチ陣は故障を危惧し登板回数・投球回を減らすよう促すが、監督の野村克也はその助言を聞かずそれがシーズン中盤の故障に繋がった。この事に関し、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしたが、伊藤自身は「当時の主戦投手は200球近く投げていた。僕も198球を投げたことがある。先発は白黒つくまで投げようという時代。野村克也監督を恨むことなんてないです。むしろチャンスをもらえた。気にもかけてくれた」と語っている。[2]7月中旬にひじ痛のため戦線離脱。シーズン終了まで復帰することはなかったが、実働3ヶ月ながら巨人の松井秀喜を抑えて新人王を受賞。

1994年から2年間はひじ痛とルーズショルダーに悩まされ一軍登板はできなかった。1996年後半に一軍に復帰。1997年は抑えの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務める。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞した。1998年から再び先発に転向する。開幕からローテーションに入ったものの援護に恵まれず負けが先行し、途中抑え不在のチーム事情でストッパーになるも再び先発に戻る。この年最多勝に輝いたチームメイトの川崎憲次郎とは対照的に援護の無さから最終的に6勝11敗と負け越すが初めて規定投球回数をクリア、リーグ三位の防御率2.72を記録する。1999年から背番号を21に変更。登板回数は少ないものの先発ローテーションに入り安定した投球を続け2年連続自己最多の8勝を挙げ好成績を残すが、ひじ痛・肩痛は癒えておらず同年オフに2度目の右肩の手術を受けている。2001年にひじ痛・肩痛が再発、チームはリーグ優勝・日本一になるも本人は登板数も1試合に終わる。オフに再起を誓い、3度目となる右肩の手術を受ける。2002年秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した。[3]2003年10月25日、秋季コスモスリーグの対巨人戦に登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。かつて150km/hオーバーを記録したストレートは109km/hにとどまった。10月29日、球団の引退勧告を受け現役引退を表明。

引退した翌年2004年からヤクルトの二軍投手コーチに就任、背番号は842008年荒木大輔と共に一軍投手コーチに就任、練習指示やブルペンでの肩作りの指示を中心に行っておりマウンドに姿を出すことは滅多にない。2014年からはベンチ入りした高津臣吾投手コーチとともに投手陣を指導し、2015年には14年振りのチームのリーグ優勝に貢献した。高津臣吾投手コーチが二軍監督に就任したことで、2017年からは事実上のチーフ投手コーチ(肩書は投手コーチ)を務めることになった。

選手としての特徴[編集]

スライダーはプロ野球史上最高とも評されている[4]

全盛期に伊藤の球を受けていた捕手の古田敦也は「あの高速スライダーは捕手だからなんとか捕球出来ているが、もし自分が打者だったら絶対に打てない」と評し、プロ野球評論家の青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価し、そして当時の監督だった野村克也をして「長いこと監督をやってきたけど、あいつがNo.1だよ」[5]と言わしめた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1993 ヤクルト 14 12 5 4 0 7 2 0 -- .778 426 109.0 70 3 35 1 2 126 5 0 11 11 0.91 0.96
1996 14 0 0 0 0 1 2 3 -- .333 77 15.0 16 3 14 1 3 15 1 0 9 9 5.40 2.00
1997 34 0 0 0 0 7 2 19 -- .778 172 47.2 23 3 10 3 1 53 0 0 8 8 1.51 0.69
1998 29 22 6 1 0 6 11 3 -- .353 648 158.2 114 14 57 3 9 154 8 3 53 48 2.72 1.08
1999 17 17 2 1 1 8 3 0 -- .727 455 114.2 92 6 30 0 6 91 4 0 31 29 2.28 1.06
2000 18 18 2 1 1 8 7 0 -- .533 449 109.0 102 10 30 1 2 107 6 0 38 38 3.14 1.21
2001 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 15 4.0 4 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0.00 1.00
通算:7年 127 70 15 7 2 37 27 25 -- .578 2242 558.0 421 39 176 9 23 548 24 3 150 143 2.31 1.07
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 20 (1993年 - 1998年)
  • 21 (1999年 - 2003年)
  • 84 (2004年 - )

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]