山下大輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
山下 大輔
Daisuke Yamashita on March 22, 2012.jpg
DeNA二軍監督時代
(2012年3月22日、平塚球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県清水市(現:静岡市清水区
生年月日 (1952-03-05) 1952年3月5日(65歳)
身長
体重
176 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 1973年 ドラフト1位
初出場 1974年4月7日
最終出場 1987年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督コーチ野球解説者。愛称は「大ちゃん」。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

清水東高校から、一般入試で慶應義塾大学商学部に進学。1年生からレギュラー遊撃手となり、高校の2年先輩である松下勝実(松下電器)とクリーンアップを組み活躍する。東京六大学野球リーグでは、1年上の萩野友康新日鐵八幡)、長谷部優(松下電器)の両左腕エースを擁し、1971年秋季リーグからの3連覇に三番打者として貢献。1972年全日本大学野球選手権大会では、決勝で関大山口高志に完封され準優勝にとどまる。同年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。4年時には主将を務め「慶應のプリンス」と呼ばれた。リーグ通算88試合に出場し、314打数102安打、11本塁打、50打点、打率.325、首位打者1回(1973年春季リーグ)、ベストナイン4回。

現役時代[編集]

1973年のドラフト会議を前に山下は「巨人が第一志望。在京球団でも構わない」と態度を表明していたが、その言葉通り1番クジで1位指名した大洋ホエールズに入団。当初の背番号は20。オーナーの中部謙吉は山下の入団を大変喜び、ヘッドコーチの秋山登の提案もあってユニフォームの色を出身地の静岡の名産にちなんだオレンジ(みかん)と緑(お茶)に変えた(これは親会社が食品会社なので食品にちなんだユニフォームにしてイメージアップを図る意味もあった。なお、この配色は湘南電車の色としても広く知られている)。ルーキー・イヤーの1974年オールスターゲームに、控え選手であったにも関わらずファン投票で選出されるほどの人気があった。

1975年、背番号を1に変更し、遊撃のレギュラーに定着。翌1976年、遊撃手の守備率の当時のセ・リーグ記録を樹立し、ダイヤモンドグラブ賞を初受賞する。以後ダイヤモンドグラブ賞は1983年まで8シーズン連続で受賞(遊撃手としての受賞回数は現在も最多記録)している。1977年、遊撃手連続守備機会無失策のセリーグ記録を樹立すると、翌1978年には自身の記録を上回る日本記録を樹立した[1]1985年、新監督の近藤貞雄により、高木豊と入れ替わりで 二塁手へコンバートされる。1986年8月1日の対ヤクルト戦では阿井英二郎から現役時代では唯一のサヨナラホームランを放っている。

1987年、同じ内野手の高橋雅裕の台頭でレギュラーを陥落すると1988年、キャンプ終了後のシーズン開始直前に、体力の限界(特に動体視力の低下)を理由に突如現役引退を表明した。

現役引退後[編集]

1989年から1992年までTBS野球解説者を務めたほか、雑誌「Number文藝春秋)」にコラムを連載。

1993年、新監督の近藤昭仁に招聘され、横浜大洋から球団名が変更された横浜ベイスターズの一軍内野守備コーチに就任。1996年から 1997年まで、横浜二軍のヘッドコーチを務める。1998年、監督に就任した権藤博の指名で横浜一軍ヘッドコーチに昇格し、38年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献。2000年のシーズン終了後、権藤とともに退任した。

その後はメジャーリーグ中継 (NHK)解説者・ 日刊スポーツ評論家となり、第14回アジア競技大会野球日本代表の打撃コーチも務めた。

2003年、生え抜きOBとして満を持して横浜監督に就任する。シーズン前、友人のセルジオ越後の発案で、かつての「マシンガン打線」に代わる愛称としてチームの打線に「大ちゃんス打線」という名前が付けられる。コーチ陣はヘッドコーチに江藤省三、投手コーチに小谷正勝、バッテリーコーチに福田功を招き、打撃コーチは2軍から高木由一を昇格させ、前任の森祇晶時代投手コーチの森繁和、内野守備走塁コーチの辻発彦は留任した。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で獲得し、さらにFA若田部健一、トレードで中嶋聡を獲得するなど、球団からは手厚い支援を受けたが、新加入選手は故障や不調などでことごとく戦力にならず、石井琢朗をはじめ主力選手も不振にあえいだ。森時代に4番を任されて打撃を狂わされた鈴木尚典が打率.311と完全復活[2]、同じく森時代不振だった金城龍彦も.302打ち、多村仁古木克明村田修一も本塁打20本以上打ったが[2]、投手陣が早々に崩壊し、チーム防御率4・80はリーグ最下位、失策114個はリーグ最低の守備率、三振数1110もリーグワーストだった[2]。チームは開幕早々に最下位に沈み、同年のセントラル・リーグを制した阪神タイガースには16連敗も喫するなど、閉幕まで最下位を独走した。成績は45勝94敗で勝率.324と、ドラフト制度導入後の横浜球団史上最低勝率を記録した。監督2年目の2004年も4月に単独首位に立つなど健闘したものの、徐々に調子を落とす。シーズン最終戦まで広島東洋カープと5位を争ったが、最終戦で最下位が決定した。同年オフ、任期満了で監督を退任した。

2005年、新たに創設された新球団東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した田尾安志の要請で[3]一軍ヘッドコーチに就任。しかし就任早々の5月にはチームの成績不振のため、二軍監督に配置転換される。フェニックスリーグでは、楽天球団初の優勝を飾る。翌2006年から楽天の球団編成本部長を務め、2007年末で同職を退任。

2008年、再び日刊スポーツ評論家に就任。TBSニュースバードtvkでも野球解説を務めた。

2009年からメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャース傘下ルーキーリーグチームの守備コーチに就任。

2012年、日本球界では非常に珍しい、かつて一軍監督を務めた古巣・横浜DeNAベイスターズの二軍監督に就任。同球団では秋山登に続いて2例目。2013年限りで退任。

2014年、横浜DeNAのゼネラルマネージャー補佐に就任[4]。同年シーズンオフより、再び横浜DeNA二軍監督に就任。2015年10月1日に2016年度シーズンにおいて契約を結ばない旨通知された[5]

2016年よりNHKの解説(メジャーリーグ中継のみ)に復帰した。また同年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[6]

人物[編集]

明るく誠実な人柄で知られる。

1977年ごろから急速に頭髪が後退。1982年頃には後頭部にわずかに毛が残るだけの状態になってしまった。カツラメーカーからCM出演を打診されたが断っている(代わりに出演したのが衣笠祥雄である)。1980年代にアニメ映画化された『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、山下はあごひも付きの帽子・ヘルメット姿で描かれていた。

ただ、時が流れるにつれ、煌々と光る自らの頭部をアピールポイントにするユーモアも持ち合わせるようになり、以下のような発言がある。

  • テレビカメラに向かって帽子を取り「はげましておめでとう」
  • 横浜監督就任パーティでの選手たちに対する訓話で「僕の頭のようになって欲しい。怪我(毛が)無く、明るく、輝いてほしい」
  • 風が強い日に「僕のヘアスタイルも乱れがちで…」
  • 横浜スタジアムの芝の張り替え工事の際は「ヘアースタイルが変わったようなもんでしょ?」
    • (インタビュアーから「監督のヘアースタイルは?」と聞かれ)「いや、変わんないんだけど」
  • 楽天ヘッドコーチ就任時「チームを(自分の頭で)明るくしたい」「私は(スキン)ヘッドコーチ」「昔はノーエラーの山下。今はノーヘアーの山下です」
  • 楽天編成本部長時代の2007年に頭を剃り上げたケビン・ウィットが入団会見を行った際、「彼とはセイムヘッド(同じ頭)ですが息子ではありません」

主に横浜監督時に自ら盛り上げ役を率先し、チーム内の不協和音を克服している。夫人いわく「主人が人の悪口を言っているのを聞いたことがない」という。横浜が日本一になったヘッドコーチ時代、監督の権藤は「深夜に呼び出しても山下は必ず来てくれて、よく愚痴を聴いてくれた」と言っている(永谷脩の著作より)。また権藤は著書の中で「彼は本当にチーム内の事を熟知していた。何でも知っているし、何を聞いても答えてくれる。とにかく引き出しがたくさんあるのだ。私が監督就任一年目で日本一になれたのも、彼の力に負うところがとても多かったように思う」と記している[7]。2000年に駒田徳広が権藤に造反した際も駒田をフォローし、後日のインタビューで駒田に感謝されるなど人格者であった。屋鋪要によると、現役時代の1983年の試合中、高木豊が「オレらが点をとってもピッチャーがこう打たれちゃあなぁ」とぼやいていたところ、山下が「みんな一生懸命やっているんだから、そういうことを言うな!」と高木を叱責したことがあった[8]

英語が堪能で、日本ハムとのオープン戦で監督のトレイ・ヒルマンに英語で挨拶したことがある。ただ、ヒルマンには日本語で挨拶された。

2010年には日本経済新聞にマイナーリーグでの日常をレポートする「米国コーチ修行奮闘記」を月に1度程度のペースで連載した[9]。この中ではマイナーリーグの環境と比較すれば日本プロ野球の二軍はまだ恵まれていると指摘し、「薄給でも野球をやりたい」という情熱のある若者を日本のプロ野球界は汲み上げ切れていないのではないかと述べている[10]

家庭[編集]

静岡に本社を置く病院・社会福祉施設向けリネンサプライ、介護用具レンタル・販売会社「ヤマシタコーポレーション」の創業家一族であり、山下自身、取締役に名を連ねている。

大洋に入団して寮に入るときに兄が自分の車で山下を寮まで送った。だが、それが高級外車であったために、寮にいた関係者はあぜんとしたという。「ヤマシタコーポレーション」の社長であった父親は、山下が早く野球界から足を洗って後継者である兄を助けて会社を盛り立ててくれることを2002年に亡くなるまで望んでいた。だが、父の死から半年後に古巣・横浜からの監督就任要請があると、山下はこれを引き受けたため父親との約束を果たすことができなかった。兄は2013年に亡くなり、ヤマシタコーポレーションは兄の長男が後を継いでいる(その際、山下本人も取締役に就任している)。

2007年に東北楽天ゴールデンイーグルスが静岡の静岡県草薙総合運動場硬式野球場でオープン戦を行った際にはヤマシタコーポレーションがメインスポンサーを務めている。

妻と、子供3人(長男・長女・二男)がいる。1981年に渋谷区の自宅(斜め向かいは五月みどり邸)の庭を拡張するため1坪40万円で土地を買ったが、4年後に1坪800万円に高騰したという。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1974 大洋 92 186 166 15 30 1 1 4 45 9 1 1 1 0 13 0 6 37 3 .181 .265 .271 .536
1975 103 257 222 28 55 12 2 3 80 10 6 4 7 2 21 2 5 37 4 .248 .324 .360 .684
1976 113 428 380 47 105 19 2 7 149 21 14 9 4 1 41 1 2 43 5 .276 .349 .392 .741
1977 105 488 423 77 110 17 3 18 187 48 6 7 12 2 49 2 2 68 6 .260 .338 .442 .780
1978 129 546 466 55 118 22 8 9 183 41 8 2 14 2 61 4 3 77 12 .253 .342 .393 .735
1979 129 530 458 59 129 24 3 12 195 53 6 4 11 6 53 4 2 63 7 .282 .355 .426 .780
1980 121 461 419 50 111 21 4 9 167 41 15 6 9 3 29 1 1 52 9 .265 .312 .399 .711
1981 130 554 490 68 136 31 1 16 217 52 6 11 9 2 51 1 2 38 10 .265 .336 .443 .779
1982 130 592 519 79 144 23 2 18 225 42 3 4 12 2 54 5 5 50 3 .277 .350 .434 .784
1983 130 575 495 73 133 33 2 11 203 36 11 4 9 2 66 7 3 42 11 .269 .357 .410 .767
1984 116 468 413 38 102 6 0 6 126 33 4 3 14 5 36 1 0 36 9 .247 .304 .305 .609
1985 99 329 293 25 82 17 0 6 117 25 3 2 8 1 26 1 1 32 6 .280 .340 .399 .739
1986 118 381 343 31 91 14 0 7 126 33 9 2 10 4 22 2 2 52 3 .265 .310 .367 .677
1987 94 196 172 12 32 5 0 3 46 11 3 3 11 1 12 1 0 15 1 .186 .238 .267 .505
通算:14年 1609 5991 5259 657 1378 245 28 129 2066 455 95 62 131 33 534 32 34 642 89 .262 .332 .393 .725
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム
チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2003年 横浜 6位 140 45 94 1 .324 42.5 192 .258 4.80 51歳
2004年 6位 138 59 76 3 .437 20.0 194 .279 4.47 52歳
通算:2年 278 104 170 4 .380 Bクラス2回

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1982年7月22日、対ヤクルトスワローズ19回戦(横浜スタジアム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上230人目
  • 100本塁打:1983年6月23日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、7回表に野村収から左越ソロ ※史上125人目
  • 1000本安打:1983年6月24日、対ヤクルトスワローズ10回戦(横浜スタジアム)、3回裏に梶間健一から右前安打 ※史上127人目
  • 1500試合出場:1986年9月24日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、7番・三塁手として先発出場 ※史上84人目
守備に関する記録
  • 遊撃手最高守備率 .988(1976、当時セ・リーグ最高)
  • 遊撃手連続守備機会無失策 205(1976/7/11~1977/4/5、当時セ・リーグ記録)
  • 遊撃手連続守備機会無失策 322(1977/8/28~1978/5/6、当時日本記録)

背番号[編集]

  • 20 (1974年)
  • 1 (1975年 - 1988年)
  • 80 (1993年 - 2000年)
  • 86 (2003年 - 2004年)
  • 77 (2005年)
  • 88 (2012年 - 2013年、2015年)

関連情報[編集]

著書[編集]

監修

出演番組[編集]

出典[編集]

  1. ^ 1977年から1978年にかけて達成した遊撃手としての連続守備機会無失策記録(322機会)は、山下の後の大洋の遊撃手として活躍した高橋に更新(353、1988年 - 1989年)され、後にヤクルト池山隆寛宮本慎也中日井端弘和によって更新されている。
  2. ^ a b c 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P102
  3. ^ 読む野球-9回勝負-No.6、主婦の友社、P172
  4. ^ ゼネラルマネージャー補佐就任のお知らせ横浜DeNAベイスターズ公式サイト2013年10月17日付ニュース
  5. ^ 2016年度 ファーム監督契約について横浜DeNAベイスターズ公式サイト2015年10月1日付ニュース
  6. ^ 元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。
  7. ^ 権藤博、『教えない教え』、集英社新書、2010年、P196-197。
  8. ^ B・B MOOK 626 スポーツシリーズ NO.499『ホエールズ&ベイスターズ 60年の軌跡』 P32-33 ベースボール・マガジン社 2009年8月 ISBN 4583616171
  9. ^ 米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)一覧”. 日本経済新聞. 2011年9月15日閲覧。
  10. ^ 米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)「ハプニング連続でたくましく、中村君のマイナー挑戦」”. 日本経済新聞 (2010年8月4日). 2011年9月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]