森徹

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森 徹
Toru Mori from Weekly baseball March 13 1961 issue Scan10010 160913.jpg
週刊ベースボール』1961年3月13日号表紙
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道函館市
生年月日 (1935-11-03) 1935年11月3日
没年月日 (2014-02-06) 2014年2月6日(満78歳没)
身長
体重
173 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1968年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 東京ドラゴンズ (1969)

森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2月6日)は、北海道函館市出身(旧満州生まれ)の元プロ野球選手外野手)・監督解説者

息子はアニメ監督のもりたけし。娘にジャズ・シンガーの森郁。

来歴・人物[編集]

実家は旧満州で手広く事業を行っており、森は次男として生まれた。森が10歳の頃に兄が戦死、妹が病死。それから後を追うように父も亡くなり、終戦後は母と共に北海道函館市に引き上げ、12歳の時に東京の知人宅にに移った。早大学院では渡辺利一郎門下の柔道選手としても知られ、現在に至るまで唯一の同校出身プロ野球選手である。3年次の1953年夏の甲子園都予選では2回戦で東京教育大附高に敗退。高校卒業後は早稲田大学に進学し、東京六大学リーグでは3年次の1956年までに3度の優勝を経験したほか、2年次の1955年春季からの3季連続を含む4度のベストナインに選出される。1955年秋季の早慶戦では第1戦で藤田元司から先制の2点タイムリー、第3戦では同じく藤田から1-1の同点で迎えた延長11回表に決勝2ラン本塁打を放って完全優勝に貢献し、試合終了後にはチームメイトから胴上げされた。同年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学リーグ選抜で構成)に選出され、日本の優勝に貢献。1956年にはエース・木村保を擁して全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝で関大村山実に抑えられて敗退した。4年次の1957年には木村の卒業も影響したほか、長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾ら「立教三羽ガラス」を擁する立大に圧倒され、春秋連続優勝を許す。秋季1回戦では杉浦にノーヒットノーランを喫した。リーグ通算71試合に出場し、270打数63安打・5本塁打・37打点・打率.233。東京六大学を代表するホームランバッターとして何度も神宮を沸かせ、その功績を引っ提げて1958年中日ドラゴンズへ入団。新人ながら開幕戦の広島戦(4月5日広島市民)で4番を任され、試合ではエースの長谷川良平から初安打となる本塁打を放った。その後も9月17日大阪戦(甲子園)から21日大洋戦(川崎)まで4試合連続本塁打を記録するなどリーグ2位の23本塁打を放ち、73打点も記録するなど新人として申し分の無い活躍を見せたが、新人王は長嶋茂雄(巨人)に奪われる。1959年はシーズン通して4番を打ち、最終戦の大阪戦(甲子園)で通算100勝がかかっていたエースの小山正明から2本塁打を放ち、新人の桑田武(大洋)と並ぶ31本塁打で本塁打王に輝き、87打点で打点王も獲得して見事2冠を達成。プロでもリーグを代表するホームランバッターとして押しも押されもせぬ存在となり、江藤慎一高木守道の台頭までは中日のスター選手としても君臨したが、1961年濃人渉が監督に就任すると状況が一変。就任当初に自宅を訪ねてきた濃人から主将に指名されると、森は渋々引き受けたが同僚から「監督が森を大人しくさせるためにキャプテンにすると言っていた」と告げられて激怒し、濃人と共演したテレビ番組で「適当にやるよ」とコメントして関係が悪化。1961年シーズンオフには南海とのトレードが画策がされたが、1962年に交換相手無しの金銭トレードという形で大洋ホエールズへ放出[1][2]。移籍後3年間は桑田武と並ぶ中心打者として実績を残し、チームもリーグ2位を2度記録するが、1965年には故障で出場機会が減少して打率も2割を切る。1966年、かつて自分を放出した濃人が中日監督解任後に二軍監督となっていた東京オリオンズへ移籍。同年は打線の中軸として91試合に先発出場するが、その後は故障がちになり、1967年には濃人が二軍監督からヘッドコーチに昇格。シーズン途中に戸倉勝城監督が成績不振で休養すると濃人がチームの指揮を執ることになり、森はスタメンから外されることが多くなった。濃人が監督に昇格した1968年にはハワイキャンプのメンバーからも外され、永田雅一オーナーの説得も振り切り、同年限りで現役を引退[1][2]

引退後は旅行代理店の経営に携わっていたが、1969年田中義雄の誘いにより、世界規模のリーグ戦「グローバルリーグ」という国際的な野球リーグへの参加を表明。日本チーム「ハポン・デ・トキオ」(東京ドラゴンズ)の選手兼任監督となり、精力的に練習に加わって選手のレベルアップに尽くし、チームは好調なスタートを切る。ベネズエラカラカスを中心に転戦を続けたが、リーグそのものが開幕から1ヶ月で資金難から頓挫。半年後には帰国を余儀なくされた。帰国後は東京12チャンネル解説者

社団法人全国野球振興会の役員を務める(2011年より黒江透修に代わって理事長に就任)かたわら、プロ野球マスターズリーグ名古屋80D'sersの選手としても活躍していた。

プロレスラー力道山とは義兄弟の間柄で、森の母が力道山の面倒をよくみたことから、森の母は唯一、力道山を「リキ!」と呼べる存在だったという[3][4]。この関係から張本勲と仲がよく、シーズンオフには力道山のジムで一緒に練習したり旅行に行ったりしたという[3]。なお、森自身も晩年には柔道合気道空手道で6段位を持つほど武道格闘技に造詣が深かった[5]

2011年から財団法人日本プロスポーツ協会の理事にも就任。

まむしの粉を愛用し、食事の際は米にも肉にもふりかけて食べたという。そのため鼻血が酷く、よく詰め物をしていたという。

2014年2月6日午前8時52分、肝細胞癌のため東京都文京区日本医科大学付属病院で死去。78歳没[6]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1958 中日 112 447 421 46 104 18 1 23 193 73 7 7 3 2 18 4 3 85 9 .247 .283 .458 .741
1959 130 536 486 66 137 27 5 31 267 87 9 6 0 9 37 5 4 77 12 .282 .338 .549 .887
1960 129 523 469 61 129 22 3 21 220 72 9 9 0 4 45 2 5 67 17 .275 .345 .469 .814
1961 123 463 428 34 109 19 0 13 167 60 5 6 0 6 26 3 3 60 8 .255 .302 .390 .692
1962 大洋 133 509 481 62 122 18 3 22 212 67 2 7 0 4 21 2 3 65 13 .254 .289 .441 .730
1963 134 498 466 49 112 23 2 24 211 68 5 7 1 3 27 0 1 57 19 .240 .283 .453 .736
1964 130 383 357 39 91 15 2 15 155 54 4 4 3 3 18 4 2 31 13 .255 .294 .434 .729
1965 87 168 162 18 31 4 0 13 74 28 3 0 1 0 3 0 2 19 6 .191 .216 .457 .672
1966 東京 101 363 333 37 71 10 1 17 134 43 8 4 1 0 25 0 4 60 7 .213 .276 .402 .679
1967 91 265 256 20 65 9 2 10 108 33 4 1 0 0 8 1 1 45 11 .254 .279 .422 .701
1968 7 9 9 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
通算:11年 1177 4164 3868 432 971 165 19 189 1741 585 56 51 9 31 228 21 28 568 115 .251 .298 .450 .748
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 7 (1958年 - 1961年)
  • 6 (1962年 - 1965年)
  • 8 (1966年 - 1968年)

脚注[編集]

関連項目[編集]