ラルフ・ブライアント

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ラルフ・ブライアント
Ralph Bryant
士別サムライブレイズ 監督 #16
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ジョージア州クレイ郡フォート・ゲインズ英語版
生年月日 (1961-05-20) 1961年5月20日(61歳)
身長
体重
185 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1981年 MLB二次ドラフト1巡目
初出場 MLB / 1985年9月8日
NPB / 1988年6月29日
最終出場 MLB / 1987年10月4日
NPB / 1995年6月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ラルフ・ウェンデル・ブライアントRalph Wendell Bryant, 1961年5月20日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州フォート・ゲインズ英語版出身の元プロ野球選手外野手)、監督

ロサンゼルス・ドジャースMLBナ・リーグ西地区)から中日ドラゴンズセ・リーグ)を経て、1988年から1995年まで8年間にわたり近鉄バファローズ(NPB:パ・リーグ)でプレー。1989年に49本塁打パ・リーグ本塁打王のタイトルを獲得し、プロ野球タイ記録の4打数連続本塁打をマークするなどリーグ優勝に貢献、MVPに選出された。1993年のシーズン204三振はNPB記録[1]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

野球を本格的に始めたのは高校時代で[2]、野球以外にもフットボール、バスケットボール、陸上と、スポーツ万能な選手として知られていた[3]エイブラハム・ボールドウィン農業大学在籍中はアメリカンフットボールをプレー。ポジションはワイドレシーバーだった。

1980年MLBドラフトではロサンゼルス・ドジャースから、翌1981年のMLB一次ドラフトではミネソタ・ツインズから指名を受けるも双方とも拒否。

プロ入りとドジャース時代[編集]

1981年6月のMLB二次ドラフト1巡目でドジャースに再度指名を受け、入団した[3]。本塁打を量産する後の日本プロ野球時代と違い、この頃はアベレージ・ヒッターだった[4]

1985年メジャーデビューを果たす。監督のトミー・ラソーダからは「ベア」とのあだ名をつけられた[3]。しかしメジャーとマイナーの往復が続いて将来に明るい展望を見いだせず[2]、さらに1988年にはドジャースがカーク・ギブソンとマイク・デービスが入団、これによりメジャーでプレーするチャンスが無くなったと考えた[4]。そんな折、スプリング・トレーニングにドジャースの友好球団だったNPB中日ドラゴンズセ・リーグ)が参加。ブライアントは中日球団関係者と接触してプレーする機会を伺い[5]、ドジャースに対しても「日本にでも行かせてくれ」と訴えた[4]。ブライアントは、3月3日のベロビーチでの中日とのオープン戦で右翼手として出場し、本塁打を含む2本塁打を記録した[6]

中日時代[編集]

1988年4月18日、中日ドラゴンズへの入団が発表された[6]。中日との年俸は、6万ドル(当時780万円。推定)[7]。当時のプロ野球の一軍登録の外国人選手枠は2名であり、中日は郭源治ゲーリー・レーシッチがプレーしていたため、ブライアントは「第三の外国人選手」との扱いだった。中日は当時26歳と若いブライアントを当面の間、二軍ウエスタン・リーグ)でプレーさせて経験を積ませ、将来の一軍の戦力とする方針であった[8]。ブライアントは5月3日に日本に渡り中日に合流し、7日のウ・リーグから試合に出場した[注 1]。この間、4試合連続本塁打のウ・リーグのタイ記録をマークした[9]

6月、それまで一軍での出番がなかったブライアントに転機が訪れる。近鉄バファローズパ・リーグ)の主砲として活躍していたリチャード・デービスが6月7日、大麻不法所持により逮捕され、退団した。パ・リーグは当時、開幕から西武ライオンズが首位を走り、2位の近鉄が西武を追う立場だった。しかしデービス離脱後、近鉄は得点力が低下して首位西武とのゲーム差も広まるなど、苦戦が続いた。この状態に苦悩した近鉄首脳陣の仰木彬監督中西太ヘッドコーチが着目したのが、ゲーリー、郭の活躍で一軍での出場の見込みがなく二軍でプレーしていた中日のブライアントだった。

仰木、中西は6月21日の西宮球場でのウエスタン・リーグでの阪急ブレーブス対中日戦を視察後、球団に対しブライアントの獲得を要望した[10]。これを受け、近鉄球団代表の前田泰男が24日に中日に対しブライアントのトレードを電話で申し込むと[10]、27日のプロ野球実行委員会の後に中日、近鉄のフロント幹部が交渉し、その結果、中日としてもゲーリー、郭の活躍で今後も一軍に昇格する見込みがないとして「一軍で使うことを最低条件」に、ブライアントの中日から近鉄への金銭トレードが成立した[11]。なお、トレードが決まる直前には、広岡達朗が『中日スポーツ』(中日球団の親会社である中日新聞社が発行)に寄稿した記事で、ブライアントについて、「外国人枠の問題で1軍に入れないブライアントをトレードに出す噂があるが、絶対にやめた方がいい。彼は日本に順応するタイプで、大活躍するだろう」と指摘していた[12]

近鉄時代[編集]

1988年6月28日、ブライアントは近鉄球団によって支配下選手登録され[13]、翌29日に東京での宿舎「都イン東京」にて入団が正式に発表された[14]。同日、東京ドームで開催された対日本ハムファイターズ戦で6番・左翼として先発出場し、4回表の1死一、二塁の打席で左中間に適時二塁打を打つ上々のデビューを果たした[14]。その後、ブライアントは2度の1試合3本塁打を記録するなど、移籍後の74試合の出場で34本塁打を放ち、近鉄の最大ゲーム差8からの追い上げに貢献。なお、同年のセ・リーグ最多本塁打はカルロス・ポンセの33本である。この頃は2点本塁打が多かったことから「ミスター2ラン」とも呼ばれていた。シーズン終盤には父親が危篤となるも、日本に最後まで残りチームに帯同。優勝を賭けたシーズン最終戦の「10.19」(川崎球場で開催された対ロッテ・オリオンズ戦)では、ダブルヘッダー第2試合で34本目の本塁打を放っている。この年の267打数(※規定打席未到達)34本塁打は本塁打率7.85であり、シーズン10本塁打以上を記録した選手では2013年ウラディミール・バレンティンの7.32に次ぐ2位である。また、シーズン2度の1試合3本塁打は1950年の川上哲治、1971年の江藤愼一、1979年のレオン・リー、1985年の落合博満と並ぶタイ記録だった。

1989年は開幕から本塁打を量産したが、5月20日から6月21日にかけ当時のパ・リーグタイ記録となる22試合連続三振を喫するなど、6月の月間本塁打2本、打率.191と大不振に陥る。チームも6月は8勝10敗1分けで、6月末時点で首位を走っていたオリックス・ブレーブスに8.5ゲーム差をつけられた。しかし、7月1日の対福岡ダイエーホークス戦で、8回裏に井上祐二から14試合58打席ぶりとなる逆転2ラン本塁打をバックスクリーンに放ちチームの連敗を6で止めると、7月は月間本塁打11本と復調。8月17日にはプロ野球記録となるシーズン3度目の1試合3本塁打を記録。チームもオリックスを猛追、さらには西武も含めた3球団による熾烈なペナント争いが終盤まで展開された。

そして最後の天王山、10月12日の西武球場で西武とのダブルヘッダーを迎えた。ブライアントは、前夜ほとんど眠ることができなかったが、第1試合の第1打席から、投球が「ソフトボールよりも大きく」見えたという[15]

第1試合、ブライアントは0-4のビハインドから4回表に郭泰源からチーム初得点となる46号ソロ本塁打、6回表にも郭泰源から47号同点満塁本塁打を放つ。8回表にはそれまでブライアントに対し被本塁打0と抑えていた渡辺久信がスクランブル登板するも、48号勝ち越しソロ本塁打を放ち、近鉄が6-5で勝利した。本人はこの時点で「アンビリーバブル」と叫んでいた。ブライアントの1試合3本塁打は通算6回(シーズン4回)となり、王貞治の持っていた通算5回を上回る新記録となった。渡辺は、引退会見で「一番思い出に残る一球」とし、西武監督在任中2008年刊行の自著で「予想以上の集中力とパワー」と書いている[16]。また、ブライアントの弱点である高目直球を配球した伊東は「今でも何で打たれたのか分からない」と述懐している。

そして第2試合、第1打席は敬遠四球だったが、3回表の第2打席では高山郁夫から2-2の均衡を破る49号ソロ本塁打を放ち4打数連続本塁打を達成。自身も「これで西武にとどめを刺したと確信した」というものでもあった[17]。続くハーマン・リベラがソロ本塁打、鈴木貴久が2ラン本塁打しこの回一挙に4得点。先発のエース阿波野秀幸の好投もあって、近鉄が14-4で勝利。ダブルヘッダー連勝の立役者となったブライアントは、第50号本塁打についての質問に対しては「ホームランを打つよりも優勝しましょう」と答えた。試合後、チームで立川の焼き鳥屋にて祝杯を挙げたがブライアントは痛みで腕でグラスを上げることができず、金村の指示で翌日に針治療を受けている[18]。当夜のスポーツニュース、翌日の新聞では「神様、仏様、ブライアント様」「奇跡の4連発」という言葉が使われた。そして10月14日の対ダイエー戦に勝利し近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を達成。監督の仰木彬の次に胴上げされたのはブライアントであった。こうして、この年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献したブライアントはパ・リーグMVPに選出された。

1990年6月6日の対日本ハム戦(東京ドーム)で、角盈男から天井スピーカーを直撃する一打を放ち、東京ドーム特別グラウンドルールにより本塁打に認定された。設計上スピーカーに当てることは不可能と予測されており、この本塁打は推定飛距離160 mとされている[17]。2008年6月7日、フリオ・ズレータ千葉ロッテマリーンズ)が左翼天井の照明を直撃する一打を放ち、18年ぶり2本目の東京ドーム認定本塁打を記録するまで、長らくこの認定本塁打を記録する選手は現れなかった[注 2]。7月24日のNPBオールスターゲーム第1戦(横浜スタジアム)で読売ジャイアンツ(巨人)の斎藤雅樹から左中間スタンド最上段の広告板を直撃する先制2ラン本塁打を放ち、次の打席では木田優夫(巨人)から振り逃げというブライアントらしい活躍でMVPに選ばれた。

1991年は、開幕9試合を終わって打率.171ながら放った6安打がすべて本塁打でリーグ1位であった。しかし、6月30日に二塁ベース帰塁の際に、右膝半月板を損傷した。手術のため、アメリカ合衆国に帰国。1992年は、5月3日に逆風8 mの千葉マリンスタジアムでロッテの今野隆裕からスコアボードを直撃する本塁打を放ち、電光掲示板を破壊した。

1993年4月18日に福岡ドームでの公式戦第1号本塁打をダイエーの若田部健一から記録した。TV中継のアナウンサーは「打つべき人が打つものですね」と語った。また、この年はシーズン記録となる204三振を記録するも、42本塁打107打点で、本塁打王・打点王の二冠を獲得。1994年は35本塁打を放ち2年連続の本塁打王に輝く。

1995年のシーズン途中までに10本塁打を記録したが、怪我で一軍登録を抹消された。同年限りで自由契約となった。しかし、オフの「近鉄ファン感謝デー」に前ぶれなく飛び入り参加し、最後までファンサービスに努めるという、粋なところを見せた。一度帰国した後、11月下旬に長年暮らした大阪市内のマンションの整理を目的に訪日すると選手会主催による納会にも参加し、別れの挨拶を済ませた後に近鉄ナインから胴上げもされた。

エンゼルス傘下時代[編集]

1996年カリフォルニア・エンゼルス傘下のAA級ミッドランド・エンゼルスでプレーしたが、打率.208に終わり、この年で引退した。

引退後[編集]

引退後は故郷に戻り古本屋を経営していたが、OB戦などで数回来日している。1999年11月21日、近鉄球団創設50周年記念に大阪ドームで行われた読売ジャイアンツとのOB戦では、両軍唯一の外国人OBとして出場。2002年のモルツドリームマッチでのホームラン競争ではライトスタンドのJ-PHONEの看板を直撃しそうな大ホームランを放った。

2005年には、監督・仰木彬の招聘でオリックス・バファローズの打撃コーチを同年のみ務めた。

同年の交流戦では、横浜スタジアムにて試合前のイベントとして横浜ベイスターズ打撃コーチの田代富雄とホームラン競争を行っている。田代は0本だったが、ブライアントはバックスクリーン横に2発、ライトスタンドに1発の計3本のホームランを放ち、パワー健在を見せ付けた。来日した際ブライアント本人や仰木が語ったところによると、近鉄時代のホームランには1本あたり10万円のインセンティブが付けられていたという。当時の相場は1本100万円であったと言われ、本人は当初「ケタを一つ間違えているのではないかと思った」と語っている。

母国アメリカではIT関連企業の役員を務めており、再婚して妻、娘、息子と4人で暮らしていたものの、現在は再び離婚してジョージア州アトランタで芝刈りの仕事をしながら[19]静かに余生を送っている。

2022年3月18日、個人的事情により来日出来なくなったトニ・ブランコの後任として、北海道フロンティアリーグ士別サムライブレイズの監督に就任することか発表された[20]。開幕前日の4月30日の時点で、選手は「監督はまだ合流できていない」と述べていた[21]。5月2日、士別球団はブライアントの入国遅延のため、翌日のチーム開幕戦はフィジカルコーチの菅原大和が代理監督として指揮を執ることを発表した[22]。開幕までに来日できなかったのは、新型コロナウイルス感染症の影響でビザの発給が遅れているためと報じられている[23]。開幕後も5月22日まで、引き続き代理監督の菅原が指揮を執った[24][25][26]。5月24日、ブライアントは球団本拠地の士別市で就任記者会見を開き、選手の長所を伸ばしたいと抱負を語った[27]。今回の就任は、ブランコの契約解除に際して一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会 (JRFPA)が士別球団から代わりの人物を紹介する依頼を受けて話が進んだと報じられている[28]

選手としての特徴[編集]

細身の体格ながらスイングスピードが非常に速く[29]強烈なライナーの打球が持ち味だった[要出典]

しかし、豪快な打撃の反面三振が非常に多く、1シーズン200三振以上(204三振、1993年)を記録したNPBで唯一の打者である[注 3]。現役時代はシーズン130試合制であったにもかかわらず、2020年現在においてもNPBのシーズン三振最多記録の上位3位までをブライアントが独占している[注 4]。通算三振数は1186でNPB史上35位(2019年現在)だが、三振数上位40名のうち、「出場試合数1000未満でランクインしている(773試合)」「三振数が出場試合数より上回っている」唯一の選手である。あまりの三振の多さのため「ホームランか三振か」「ミスターK」「大型扇風機」と評されたが、その一方でこの三振の多さから敬遠四球を受けることが少なく、本塁打の量産に繋がったと見る向きもある[30]

近鉄時代は多くの三振を記録したが、監督の仰木からは常に「エディ、心配するな。思いっきり振ってこい」と励まされていた。また、ブライアントの三振の多さを指摘した記者に対して、中西太ヘッドコーチは「いくら三振してもいい、アイツのホームランのおかげでどれだけいい思いをさせてもらったか」と答えている。

近鉄時代の応援歌の原曲は『仮面ライダーV3』のオープニングテーマ「戦え!仮面ライダーV3」。ブライアント以降は、マリオ・バルデスに使われただけだった。

人物[編集]

同年齢でもある俳優のエディ・マーフィに風貌が似ていることから、チームメイトの金村義明に「エディ」と愛称をつけられた[31]。ブライアント本人も気に入っていたようで、カメラに向かって「I'm Eddie Murphy」と、おどける映像が残っている[32]。金村とは仲が良かったと回顧している[33]。1989年10月12日のダブルヘッダーで、奇跡の4打数連続本塁打で西武を倒した翌日のスポーツ紙には「エディ・マーフィにそっくりのブライアントがいるのではない。エディ・マーフィがブライアントに似ているのだ」[要出典]と記載された。

温厚な性格で知られたが、1990年にはロッテ戦で前日の小宮山悟から始まり6月28日園川一美前田幸長と立て続けに死球を受けて前田に突進、唯一といえる乱闘騒ぎを起こして退場となった。また空振り三振した際には怒りのあまりにバットを自身の太腿で真っ二つに折るシーンが何度か見られた。

酒が飲めず、選手同士で飲みに行った際はコーラで乾杯するのが常だった[34]。しかし、中畑清宇野勝とともにサッポロビールのテレビコマーシャルに出演したことはある。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 LAD 6 6 6 0 2 0 0 0 2 1 0 1 0 0 0 0 0 2 0 .333 .333 .333 .667
1986 27 82 75 15 19 4 2 6 45 13 0 1 0 1 5 0 1 25 1 .253 .305 .600 .905
1987 46 81 69 7 17 2 1 2 27 10 2 1 0 1 10 2 1 24 0 .246 .346 .391 .737
1988 近鉄 74 302 267 50 82 8 0 34 192 73 1 0 0 2 30 3 3 91 5 .307 .381 .719 1.100
1989 129 568 494 91 140 23 0 49 310 121 5 2 0 0 68 17 6 187 6 .283 .377 .628 1.004
1990 108 461 412 67 101 19 1 29 209 73 4 1 0 2 41 4 6 198 4 .245 .321 .507 .828
1991 63 264 239 37 57 5 2 22 132 43 3 1 0 0 24 1 1 100 1 .238 .311 .552 .863
1992 119 501 448 78 109 17 2 38 244 96 6 3 0 2 45 6 6 176 4 .243 .319 .545 .864
1993 127 550 497 83 125 20 1 42 273 107 4 1 0 2 46 4 5 204 5 .252 .320 .549 .869
1994 105 481 437 80 128 23 1 35 258 106 0 2 0 3 39 5 2 153 8 .293 .351 .590 .942
1995 48 208 186 26 36 9 0 10 75 22 0 0 0 2 18 0 2 77 0 .194 .269 .403 .672
MLB:3年 79 169 150 22 38 6 3 8 74 24 2 2 0 2 15 2 2 51 1 .253 .325 .493 .819
NPB:8年 773 3335 2980 512 778 124 7 259 1693 641 23 10 0 13 311 40 31 1186 33 .261 .336 .568 .904
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録
  • 4打数連続本塁打:1989年10月12日、対西武ライオンズ24回戦・25回戦(西武ライオンズ球場)ダブルヘッダー第1試合―第2試合
  • 1試合9打点:1993年9月7日、対日本ハムファイターズ21回戦(東京ドーム[注 6]
  • 1試合3本塁打:8回 ※世界記録
  • シーズン1試合3本塁打:4回 (1989年) ※世界記録
  • シーズン本塁打率:7.85 (1988年) ※シーズン10本塁打以上で歴代2位[注 7]
  • シーズン最多三振:204 (1993年) ※歴代1位[注 8]
  • オールスターゲーム出場:3回 (1990年、1992年、1993年)

背番号[編集]

  • 46 (1985年 - 1987年)
  • 49 (1988年 - 同年途中)
  • 16 (1988年途中 - 1995年、2005年、2022年 - )

参考文献[編集]

  • 日本野球25人 私のベストゲーム ISBN 9784163678306 - 1989年の4連発について語っている。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1991年の『Sports Graphic Number』でのインタビューにおいてこの時を振り返り「人生で最悪の1か月半(笑)。雨が降っても晴れても練習練習。今まで、あれほど厳しく練習したことはなかった。でも、そのお陰で近鉄にトレードされた時は最高のコンディションだったんだ。でも、もう1回やれって言われたら絶対に嫌だ(笑)」と答えている。
  2. ^ このブライアントの認定本塁打をきっかけに、東京ドームでは天井スピーカー直撃の認定ホームランを記録した選手に対して、特別賞としてスピーカーを製造するメーカーから300万円の賞金が贈呈されることになった(メインスピーカーのみ)。なお天井のスピーカーは2015年に撤去されている。
  3. ^ ブライアントの現役当時のMLBでは、1970年にボビー・ボンズが記録した189が最多であったが、2009年にマーク・レイノルズが223三振でブライアントを初めて上回った(参照MLB公式サイト
  4. ^ 2019年に村上宗隆が184三振を喫するまでは4位まで独占していた。
  5. ^ a b アレックス・カブレラに更新されるまでは、通算150本塁打、200本塁打も最速記録であった。
  6. ^ 1試合3本塁打を8回目に達成した試合でもある。3本の内訳は2ラン、満塁弾、ソロであり、もし3ランが出ていたらサイクルホームランであった。なお、この試合の第1打席ではセンターフェンス直撃のヒットを放っている。
  7. ^ 達成当時1位。現在の1位はウラディミール・バレンティンの7.32(2013年)。
  8. ^ 198個(1990年)、187個(1989年)はそれぞれ歴代2位 - 3位までを独占している(2019年シーズン終了現在)。

出典[編集]

  1. ^ 歴代最高記録”. NPB.jp 日本野球機構. 2022年3月23日閲覧。
  2. ^ a b 近鉄で開花。ブライアントは 日本で本塁打アーチストになった”. Web Sportiva. 2022年3月23日閲覧。
  3. ^ a b c 日刊スポーツ』1988年4月19日1面「ラソーダ監督が命名 ジョージアの熊さん」(日刊スポーツ新聞社
  4. ^ a b c Sports Graphic number1991年8月20日No272「ラルフ・ブライアント・緊急インタビュー」pp.32-37
  5. ^ 特集・80's~90's 助っ人黄金時代 【伝説の助っ人インタビュー】ブライアント 「ワタナベから打ったHRは忘れない」”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年3月23日閲覧。
  6. ^ a b 『日刊スポーツ』1988年4月19日1面「星野新外人獲得 ド軍ブライアント外野手」(日刊スポーツ新聞社)
  7. ^ 朝日新聞』1988年7月4日22面(朝日新聞東京本社
  8. ^ 『日刊スポーツ』1988年4月19日1面「当分はファームで」(日刊スポーツ新聞社)
  9. ^ 報知新聞』1988年6月28日2面「中日ブライアント晴れて猛牛の1軍」(報知新聞社
  10. ^ a b 東京中日スポーツ』1988年6月25日5面「ブライアント譲って欲しい 近鉄が申し入れ」(中日新聞東京本社
  11. ^ 『日刊スポーツ』1988年6月28日2面「代役にブライアント 中日から金銭で獲得」(日刊スポーツ新聞社)
  12. ^ 北辻利寿「昭和最後の優勝者はドラゴンズ・歓喜の夜に名古屋が沸いた!(20)」『ドラの巻』CBCテレビ、2018年12月28日。2022年4月15日閲覧。オリジナルの2022年4月15日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ 『報知新聞』1988年6月29日4面「『近鉄ブライアント』きょう発表」(報知新聞社)
  14. ^ a b 『日刊スポーツ』1988年6月30日3面「ブライアント逆転二塁打デビュー」(日刊スポーツ新聞社)
  15. ^ 菊池靖「最強助っ人を訪ねて ラルフ・ブライアント あの4連発の感触。」『Sports Graphic Number』2011年11月10日号pp.56-57
  16. ^ 渡辺久信 『寛容力』講談社、2008年。ISBN 978-4062150002 193頁-199頁
  17. ^ a b ベースボール・マガジン社 『プロ野球70年史』ベースボール・マガジン社、2004年。ISBN 978-4583038087 568頁-570頁 1989年10月12日の「4連発」に関連して1頁かけてブライアントを紹介している。
  18. ^ 元近鉄ブライアント ’80年代“伝説の名勝負”舞台ウラを明かす”. Friday Digital. 2022年3月23日閲覧。
  19. ^ NHK BS1 ワールドスポーツMLB「あの助っ人は今」
  20. ^ トニ・ブランコ氏の契約解除とラルフ・ブライアント氏の監督就任のお知らせ - 士別サムライブレイズ(2022年3月18日)2022年3月18日閲覧。
  21. ^ “石狩レッドフェニックス坪井智哉監督、「全力疾走」で初代王者目指す…独立リーグ「北海道フロンティアリーグ」5月1日開幕”. スポーツ報知. (2022年4月30日). https://hochi.news/articles/20220430-OHT1T51028.html?page=1 2022年4月30日閲覧。 
  22. ^ 士別サムライブレイズ [@samurai_blades] (2022年5月2日). "【5/3美唄戦 代理監督のお知らせ】" (ツイート). Twitterより2022年5月2日閲覧
  23. ^ 阿佐智 (2022年5月4日). “「待ち人」ラルフ・ブライアント来たらず。それでも新リーグは開幕。【北海道フロンティアリーグ】”. Yahoo!ニュース. https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20220504-00294306 2022年5月4日閲覧。 
  24. ^ 士別サムライブレイズ [@samurai_blades] (2022年5月7日). "【5/7 石狩戦 代理監督のお知らせ】" (ツイート). Twitterより2022年5月11日閲覧
  25. ^ 士別サムライブレイズ [@samurai_blades] (2022年5月11日). "【5/11 美唄戦 代理監督のお知らせ】" (ツイート). Twitterより2022年5月11日閲覧
  26. ^ 士別サムライブレイズ [@samurai_blades] (2022年5月22日). "【5/22 美唄 石狩戦 代理監督のお知らせ】" (ツイート). Twitterより2022年5月23日閲覧
  27. ^ “元近鉄ブライアント氏が士別監督就任会見 思い出の“カツカレー”で来日実感”. Full-Count. (2022年5月24日). https://full-count.jp/2022/05/24/post1225768/ 2022年5月24日閲覧。 
  28. ^ 阿佐智 (2022年5月23日). “レジェンド助っ人の独立リーグ監督就任の舞台裏…「日本プロ野球外国人OB選手会」とは?”. BASEBALL KING. https://baseballking.jp/ns/column/324688 2022年5月23日閲覧。 
  29. ^ 近鉄・ブライアント「奇跡の4連発を放った最強の大砲」/連続写真
  30. ^ 『プロ野球「助っ人」伝説』(宝島社)
  31. ^ 週刊ベースボール』2013年4月29日号20頁(ベースボール・マガジン社
  32. ^ 文春Numberびでお「助っ人列伝」
  33. ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編](週刊ベースボール別冊初冬号)ベースボール・マガジン社、2020年、25頁
  34. ^ プロ野球回顧録 金村義明が語るブライアント「No.1の打撃。別格でしたね」”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年3月23日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]