佐々木恭介

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佐々木 恭介
大和高田クラブ 監督 #68
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県氷上郡青垣町(現・丹波市
生年月日 (1949-12-28) 1949年12月28日(67歳)
身長
体重
176 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1971年 ドラフト1位
初出場 1972年4月8日
最終出場 1981年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

佐々木 恭介(ささき きょうすけ、1949年12月28日 - )は、兵庫県氷上郡青垣町(現・丹波市)出身の元プロ野球選手外野手)・監督野球解説者野球評論家

経歴[編集]

少年時代は相撲を取ったら負け知らずだったため、相撲部屋からスカウトが来たという。

柏原高校から新日鐵広畑に入社。1970年第41回都市対抗野球大会鐘淵化学の補強選手として出場し、チームの準々決勝進出に貢献する。1970年のドラフト会議東映フライヤーズに9位指名されるが入団を拒否し新日鐵広畑に残留。翌1971年第42回都市対抗野球大会では、山中正竹住友金属から補強)・三沢淳の両エースを擁し中心打者として活躍、準決勝では2本塁打を放つ。決勝で丸善石油を降し優勝、最優秀選手の橋戸賞を受賞し、同年の社会人ベストナイン(一塁手)にも選出された。他のチームメートに小玉孝遊撃手・白滝政孝外野手らがいた。

同年のドラフト会議近鉄バファローズに1位指名で入団。1974年に外野手に転向しレギュラーとなった。1978年には打率.354の成績で首位打者を獲得[1]1979年1980年にも打率3割以上をマークし、リーグ連覇の原動力となった。1979年の日本シリーズでは第7戦の9回裏に江夏豊と対戦した打者の一人(いわゆる「江夏の21球」)。江夏が自分に投じた第2球目、ど真ん中のシュートを見逃してしまい(判定はストライク)、その後の第3球目に三塁線を強襲するヒット性の打球(ファウル)を放ったが、結局三振に倒れる。佐々木は「人生をやり直せるとしたら、あの打席の2球目の場面をやり直したい」と述べたことがある。

1981年6月3日の対ロッテ戦で、1回表にプロ野球史上最短の試合開始4球で退場処分を受けている。

1982年肝炎による内臓疾患により一軍出場はなく、同年限りで現役引退。

引退後は1983年に近鉄のスカウトを務め、村上隆行を獲得(その関連からか後々、村上は佐々木が着用した背番号5を着用することとなる)。1984年から1989年まで近鉄二軍打撃コーチ、1990年は1年間毎日放送野球解説者・スポーツニッポン野球評論家、1991年から1992年までは監督の中村勝広の要請により阪神タイガース一軍打撃コーチを務める。阪神時代は新庄剛志亀山努をブレイクさせ、6年ぶりのAクラス入りに貢献した。

その後、1993年から1995年まで、3年間二度目の毎日放送野球解説者・スポーツニッポン野球評論家となる。担当していたラジオ番組では話術の巧みさを発揮した。

1996年から1999年まで近鉄監督を務める。就任直後のドラフト会議では(赤いふんどしを着用し当日に臨んだと言われる)抽選でPL学園福留孝介の交渉権を獲得し(入団は拒否)、『ヨッシャー』の掛け声(これが愛称となる)で話題となった。スカウトより事前に「意中球団でないため、近鉄に入団する可能性は極めて低い」という報告を受けていたが、PL学園は藤井寺からおよそ10分の距離[2]なのに、何もしないのは惜しいということで強行1位指名に踏み切ったという。福留獲得のため近鉄球団は7億円まで積み、さらに数年間プレーすれば自由契約にするとまで約束したとのことだが福留は首を縦には振らなかったと、MBSラジオゴー傑P」で佐々木は語っている。当時は巨人と出来ていると思っていたが、ふたを開けてみると中日だったのかと驚いたという。

1996年11月のドラフト会議で、3位指名した礒部公一は当初オリックス・ブルーウェーブへ入団を希望していた。しかし、佐々木は交通の便が悪い広島県東広島市の礒部の実家へ、球団が用意したヘリコプターで近鉄の指名選手中一番先に会いに行き、その結果ヘリまで飛ばし挨拶に来てくれた熱意と、その場での説得で礒部は近鉄入団を決意した。

1998年は優勝争いはできたがここ一番で踏ん張れず、1999年は悔しさを晴らすため続投となった[3]。だが同年は3年間の集大成を見せることができず(二年連続して二ケタ勝利ができた投手が皆無だった)、退任。

2000年は1年間三度目の毎日放送野球解説者・スポーツニッポン野球評論家を再び務めた後、2001年に監督の東尾修に請われライバルチームである西武ライオンズ一軍ヘッド兼打撃コーチに就任。2002年には中日ドラゴンズの一軍打撃コーチに就任し、同チームに入団した福留と再会する。[4]2003年には一軍ヘッド兼打撃コーチとなり、シーズン終盤には監督の山田久志が解任(名目上は「休養」)されたため、監督代行として20試合指揮を執った。監督代行としては20試合で14勝5敗1分と好成績を収め、チームを5位から2位に引き上げた。

2004年から2009年まで6年間四度目の毎日放送野球解説者・スポーツニッポン野球評論家として活動し、2007年には韓国プロ野球三星ライオンズ春季キャンプ中の特別打撃コーチを務めた。そしてペナントレース終盤に同チームの臨時コーチを2008年まで務めた。

2008年8月に行われた日本ハム対オリックス戦(GAORAプロ野球中継)で、「オリックスはどうでもいい」などオリックスを侮辱する発言が目立ったため、ブログに批判的な意見が多く集まってコメント欄が閉鎖になった。その試合はオリックスが勝っている。シーズン終了後、この年オリックスが2位に躍進した理由を「コリンズ効果ですよ。みんなそう言ってます」と語っていた。

2009年に行われたゴルフの関西シニア選手権で「不正」をしていたことが発覚し、毎日放送でのプロ野球解説を含むテレビ、ラジオ出演を自粛。同時期にスポーツニッポン新聞社との評論家契約も終了となったが、因果関係は未詳。2010年10月8日から12月末日までの3ヶ月間桃山学院大学硬式野球部の特別コーチを務めた[5]

2011年1月20日日本女子プロ野球機構京都アストドリームス」の監督に就任[6]、2012年シーズン終了まで指揮を執るが、女子プロ野球全体の大々的なチーム再編に伴い監督を退任した。

2015年に社会人野球チーム・大和高田クラブの副部長に就任し、翌2016年からは監督を務めている。

指導者としての評価[編集]

近鉄監督時代のチーム成績は、3位が最高でそれ以外はすべてBクラス(3位から6位までを一度ずつ経験)だった。ただし、就任時には野茂英雄吉井理人ラルフ・ブライアントなど主力選手が退団や移籍で多数抜けた上に、前監督の鈴木啓示と選手との間に深い溝ができていた。在任中に打者ではタフィ・ローズ中村紀洋、投手では大塚晶文などが新戦力となり、退団後の2001年におけるリーグ優勝への下地は佐々木監督時代に着実に作り上げられた。2003年に中日の代理監督就任時においても、その時点で中日の成績は5位だったが、残り20試合を14勝5敗1分で乗り切り最終的には2位にまでチームを上昇させてシーズンを終了させるなど監督としての能力は決して悪いものではない。

打撃コーチとしても金村義明や村上隆行、中根仁、亀山や新庄、そして後述の福留などを育成した実績もあり、解説での打撃理論も緻密であるのでコーチとしての評価が高い。事実、金村は今でも「僕がプロ野球でやっていけたのは仰木監督と佐々木コーチのおかげ」と言っている。福留の自主トレでも打撃指導をしたり、カブスの取材に訪れた際には非公式ながら臨時コーチとして背番号「53」のカブスのユニフォームが用意され、福留の打撃指導をした[7]

人間関係[編集]

現役当時の監督だった西本幸雄を尊敬しており、監督時代の背番号を近鉄監督時代の西本と同じ68番にしたばかりか、自身の公式ブログのアドレスにも「68」を入れたほどである。佐々木の現役時代の背番号も、西本の現役時代(毎日)と同じ5番だった。

福留孝介は近鉄の入団は拒否したものの、佐々木をコーチとして慕っていた。福留が2002年に首位打者を獲得できたのは、佐々木の打撃指導によるものとされている。また、プライベートでの親交は今も続いており、時々食事を共にする仲だという。2006年の日本シリーズ開幕戦の試合前、「サンデードラゴンズ」の収録中だった佐々木に本人から直接電話がかかってくるという一幕もあった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1972 近鉄 53 134 122 13 30 7 0 5 52 12 6 2 1 1 9 0 1 36 1 .246 .301 .426 .727
1973 91 233 209 26 47 12 0 8 83 26 5 1 1 1 21 0 1 39 8 .225 .297 .397 .695
1974 118 402 362 40 95 25 0 13 159 39 7 8 5 3 29 0 3 49 5 .262 .320 .439 .759
1975 117 424 364 44 111 7 5 13 167 69 8 9 3 12 39 2 6 32 5 .305 .371 .459 .829
1976 125 479 418 49 112 17 1 10 161 41 15 5 5 5 46 1 5 40 15 .268 .344 .385 .729
1977 109 330 293 30 59 8 0 6 85 30 9 5 5 2 26 0 4 39 3 .201 .274 .290 .564
1978 109 426 376 47 133 19 2 9 183 62 8 7 6 10 30 0 4 23 10 .354 .398 .487 .884
1979 111 415 363 56 116 13 0 18 183 46 14 3 4 3 37 3 8 38 8 .320 .392 .504 .896
1980 112 414 359 68 114 18 0 19 189 66 8 5 4 4 40 0 7 36 12 .318 .393 .526 .919
1981 91 288 253 31 66 7 1 4 87 21 14 3 5 3 21 0 6 17 3 .261 .329 .344 .672
通算:10年 1036 3545 3119 404 883 133 9 105 1349 412 94 48 39 44 298 6 45 349 70 .283 .350 .433 .782
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1996年 近鉄 4位 130 62 67 1 .481 14.5 146 .255 4.01 47歳
1997年 3位 135 68 63 4 .519 7.5 112 .274 3.79 48歳
1998年 5位 135 66 67 2 .496 5.0 126 .267 4.28 49歳
1999年 6位 135 54 77 4 .412 23.5 151 .257 4.54 50歳
通算:4年 555 264 279 12 .486 Aクラス1回、Bクラス3回
※1 1996年は130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制
※3 通算成績には2003年中日・山田久志監督休養後の監督代行20試合(14勝5敗1分)を含む

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 5 (1972年 - 1982年)
  • 50 (1984年 - 1985年)
  • 85 (1986年 - 1989年)
  • 83 (1991年 - 1992年)
  • 68 (1996年 - 1999年、2011年 - 2012年)
  • 77 (2001年)
  • 75 (2002年 - 2003年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

著書[編集]

  • 『遥かなる野球少年』(情報センター出版局:1994年11月) ISBN 4795816921

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]