金村義明

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金村 義明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県宝塚市
生年月日 (1963-08-27) 1963年8月27日(54歳)
身長
体重
185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1981年 ドラフト1位
初出場 1982年9月14日
最終出場 1999年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

金村 義明(かねむら よしあき、1963年8月27日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手内野手)。現在は野球解説者タレント

2000年、在日韓国人3世であることを自著「在日魂」で公表した。旧名は金 義明(キム・ウィミョン、김의명)だった。現役引退後は帰化して日本国籍を持っている[1]

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

  • 中学・高校時代を通じて、報徳学園に在学。高校3年生だった1981年には、4番打者兼エースとして、甲子園の全国大会へ春夏連続出場を果たした。春の選抜大会では、大府高との1回戦で、槙原寛己との投げ合いに敗れた。しかし、夏の選手権大会では、チームを優勝に導いている。また、両大会では打者として、通算打率は.577、本塁打3本を記録している。
  • 高校3年夏の全国大会では、「1回戦突破」という目標を盛岡工業高校戦で達成すると、前年優勝の横浜高校と対戦した2回戦で2打席連続本塁打を放った。3回戦で荒木大輔を擁する早稲田実業学校高等部、準々決勝で藤本修二のいた今治西高校に勝利すると、名古屋電気高校との準決勝で、工藤公康から二塁打を含む3安打を記録。さらに、投手として、初戦から決勝戦までの全6試合で完投勝利を収めた[2]。夏の全国大会の優勝投手で、4番打者を務めながら全試合を1人で完投した選手は過去に8名いるが、この大会での金村を最後に現れていない。また、この大会で記録した通算打率.545(22打数12安打2本塁打)は、夏の全国大会優勝投手としては1939年嶋清一(.550)に次ぐ歴代2位(春の全国大会を含めると3位)に当たる(いずれも2015年大会終了時点)[3]。このように投打とも大いに活躍したことから、現役を引退してからも、高校野球関連の番組・企画にたびたび登場している[4]。ただし、完投勝利を収めるたびにマウンド上で飛び上がりながらガッツポーズを披露したため、高野連の関係者から注意を受けたという[5]
  • 1981年のドラフト会議で、近鉄バファローズ阪急ブレーブスから1位で重複指名。抽選の末に、近鉄が交渉権を獲得した。なお、阪急は再指名を経て、山沖之彦を獲得している。
  • 金村自身は、ドラフト会議の時点で阪急への入団を志望していた。阪急電鉄の沿線で生まれ育ち、「阪急ブレーブスこども会」にも入会しており、少年時代から福本豊のファンだった。当時の主力打者・長池徳士1979年限りで現役を引退)の自宅も近所にあり大ファンだったことによる[6]。『在日魂』(現役引退後に著した自叙伝)によれば、ドラフト会議の前には、近鉄から挨拶を受けつつ水面下で阪急への入団交渉を進めていたという。しかし、重複指名の末に近鉄が独占交渉権を獲得したことを受けて、当時阪急の打撃コーチであった長池の自宅を泣きながら訪問。長池や当時の阪急スカウト・三輪田勝利から「近鉄で頑張れ」と言われたことから、近鉄への入団を決意した。

近鉄時代[編集]

  • ドラフト会議では、阪急・近鉄の両球団から投手として指名。しかし、近鉄への入団直後に内野手へ転向した。金村本人は、現役からの引退後に、「高校3年生春の全国大会で投げ合った槇原が最速147km/hのストレートを投げている姿を見て、『俺はプロに入っても投手では通用しない』と悟った。夏の全国大会で優勝できたのは、カットボール変化球で打者の打ち気をかわすことに徹したからに過ぎない」と明かしている[7]。ただし、内野手として一軍に定着していた1989年には、投手としてオープン戦1試合に登板している。
  • 入団1年目の1982年には、ウエスタン・リーグ公式戦全試合へ出場。同リーグの選抜メンバーとしてスタメンで出場したジュニアオールスターゲーム横浜スタジアム)では、第4打席までにサイクルヒット二塁打 → 本塁打 → 西武ライオンズに入団した工藤からの三塁打 → 単打)を記録すると共に、MVPへ選ばれた[8]。ただし、MVPの副賞として賞金139万円を獲得したことから、シーズン終了後の契約交渉では球団から賞金分の減俸を提示。金村は、一軍の公式戦にほとんど出場できなかったこともあって、この提示を渋々受け入れた[9]。なお、一軍公式戦でも、1986年7月17日の対阪急戦(西宮球場)でサイクルヒットを達成している。
  • 1985年までは一軍に定着できなかったが、佐々木恭介コーチの指導で徐々に頭角を現すと、1986年からは羽田耕一に代わって三塁のレギュラーに定着。「いてまえ打線」と呼ばれた打線の中軸として活躍するとともに、その豪快なイメージから「いてまえ大将」と称された。引退後の現在も、「かつて豪快だったパシフィック・リーグのイメージを継承した最後の選手」という評価を受けている。
  • 1991年には、9月26日の対福岡ダイエーホークス戦(藤井寺球場)に三塁手として出場したが、9回表に捕手としてマスクを被った。リーグの優勝戦線にいたチームが、一軍のベンチに入っていた捕手山下和彦古久保健二光山英和)を全員起用したばかりか、8回裏の光山の打席で代打を出したことによる。なお、金村が捕手として出場したのは、現役時代を通じてこの試合だけだった。ただし、捕手として1点を失ったほか、チームも6-7というスコアで福岡ダイエーに惜敗している[10]
  • 1994年には、規定打席への到達を逃すも、打率.299と好調であった。その一方で、一軍監督の鈴木啓示や一軍作戦兼バッテリーコーチの梨田昌孝は、金村とポジションの重なる中村紀洋を育てる意向を持っていた。結局、中村の台頭、鈴木監督の指導方針[11]、コーチ陣や球団首脳部への不信感などが重なって、1994年のシーズン終了後に球団史上初めてFA権の行使を宣言。星野仙一などからの誘いを受けて、かつて星野が一軍監督を務めていた中日ドラゴンズへの移籍を決めた[12]
  • 13年間にわたった在籍期間中には、一軍公式戦でシーズン2桁本塁打を6回、全試合出場を3回記録。通算成績は打率.258、本塁打127本で、近鉄~大阪近鉄時代の中村や、「いてまえ打線」で共に中軸を担ったラルフ・ブライアント石井浩郎タフィ・ローズを下回った。金村自身も、「成績の面では一流ではなかった」と認めている。

中日時代[編集]

  • 球団史上初めてFA権の行使によって他球団から移籍したため、移籍当初は三塁のレギュラーとして起用された。しかし、期待されたほどの結果を出せないまま、故障で戦線を離脱。さらに、同じポジションを守る外国人選手(ダネル・コールズレオ・ゴメス)に定位置を奪われたことから、一軍公式戦への出場機会がほとんどないまま2年間を過ごした。
  • 一時は張本勲の仲介でKBO球団への移籍も検討したが、1997年の開幕直後に、近鉄時代の同僚だった小野和義との交換トレード西武ライオンズに移籍した。[13]

西武時代[編集]

解説者としての活動[編集]

  • 現役引退の当初は、野球解説者・野球評論家としての専属契約を結べなかったことから、フリーランスの立場で「野球人」と称して『週刊ベースボール』でコラムを連載。その一方で、サンケイスポーツの記者に同行しながら、自分で仕事の依頼や出演交渉に当たっていた。この時期から現在に至るまで、NPBの春季キャンプ期間中には、解説者としての取材を目的に全球団の一軍キャンプ地を必ず訪問。また、個人事務所として有限会社カネムラ企画を設立した[15]ほか、近鉄時代のチームメイト・野茂英雄が代表を務めるNOMOベースボールクラブの理事に名を連ねている[16]
  • 2000年シドニーオリンピック期間中には、『週刊プレイボーイ』からの依頼で、正式競技として日本代表が出場していた野球を取材[17]。さらに、『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)にゲストパネラーとして出演した際のトークの面白さが注目されたことから、2000年8月に同局及び系列の関西テレビと専属解説契約を結ぶこととなった。2001年からは、J SPORTSの野球解説者や、スポーツ報知の野球評論家を務める。なお、解説・評論活動では、「現場主義」をモットーに掲げている[18]
  • 西武時代からの自宅がある東京を活動の拠点に置きながら、近鉄時代を過ごした大阪や、中日時代を過ごした名古屋でも地元局制作の情報・バラエティ・ラジオ番組へたびたび登場。関西テレビ制作の阪神オリックス公式戦中継に、ゲスト解説者として出演することもある。同局が平日の夕方に『FNNスーパーニュースアンカー』を放送していた時期には、木曜日第1部のレギュラーコメンテーターとして、メインキャスターの山本浩之と共に「野球漫談」と称されるほどのやり取りを展開した。
  • 『スーパーニュースアンカー』が終了した2015年4月からは、『上泉雄一のええなぁ!』(MBSラジオ平日夕方の生ワイド番組)に月曜パートナーとしてレギュラーで出演。『アンカー』時代から続く「野球漫談」や、阪神以外の球団の事情も織り込んだ評論などで人気を博している。2016年からは、同局の野球解説者としても活動[19]。2017年度のナイターオフ期間には、MBSラジオで『上泉雄一のええなぁ!』月曜日への出演を続けながら、生放送のラジオ番組では自身初の冠番組MBSヨル隊「金村義明のええかげんにせぇ〜!」』でパーソナリティを務める[20]

エピソード[編集]

  • 野球以外のスポーツでは、報徳学園中学校時代に、柔道で初段を取得した。また、実母が焼肉店を開くまで宝塚カントリークラブで長らくキャディーを務めていた縁で、少年時代から折に触れてゴルフをプレー[18]。現役引退後は、チャリティーゴルフコンペにたびたび参加している。
  • 実家は裕福でなかったが、報徳学園高校が甲子園の全国大会でたびたび逆転勝利を収めてきた話を実母から聞いたことをきっかけに、プロ野球より同校に憧れを持つようになったという[6]。このような経験から、現役引退後は、高校野球の特待生制度に賛成する立場を表明している[21]
  • 1981年9月の日韓親善高校野球の日本選抜の1人として出場[1]。家族とともに韓国に渡ったがこのとき金村家は朝鮮籍であったため、臨時パスポートの取得に苦労した[1]。在韓中、政府のはからいで父が幼い頃に生き別れになった釜山在住の姉2人とソウルで再会。普段無口だった父は号泣、この歓待で「韓国のイメージが変わった」という金村家は帰国後、一家全員で韓国籍に切り替えた[1]
  • 『在日魂』によれば、近鉄からはドラフト前の時点で、「(東海大学から前年に読売ジャイアンツへドラフト1位で入団した)原辰徳の契約金(推定8,000万円)と年俸(推定840万円)を上回る金額と、(関連会社の近鉄不動産が扱っている)土地を用意する」という条件を出されていたとされる。しかし、ドラフト会議後に球団社長と代表が交代したことから、球団スタッフの顔触れも一新。実際の入団交渉では、以上の条件を白紙に戻したため、金村本人は「まるで詐欺やないか」と思ったという。そのため、交渉はしばしば決裂。在阪スポーツ紙などから実母がバッシングを受ける事態にまで至ったが、契約金6,000万円、年俸380万円(金額はいずれも推定)という条件で近鉄に入団した。入団決定後は、契約金を全額両親に渡したうえで、両親のために近鉄不動産から実勢価格より3%安い金額で土地を購入したという[22]。また実母は、金村の入団を機に、自宅のある宝塚市内で長らく焼肉店を営んだ(現在は閉店)。
  • 入団時の背番号は28であったが、それまで28番をつけていた花房健が着ていたユニフォームがそのまま金村に引き継がれる。金村曰く「入団会見の直前にHANABUSAのワッペンを外した」という。
  • 近鉄入団当時、入団交渉のゴタゴタやルーキーながらパンチパーマといった出で立ちもあり、加えてドラフト一位というやっかみから、先輩から目を付けられ、寮では何度もお金が盗まれることまであったという。そんな中、厳しくも優しく接してくれたのが栗橋茂平野光泰森脇浩司等であった[23]。特に、森脇は、金村を大変気に入っていたという。
  • 近鉄入団時の守備走塁コーチで、後に一軍監督を務めた仰木彬には、生前を通じて深い恩義を感じていた。
    • 仰木がオリックス・ブルーウェーブの一軍監督を務めていた1990年代中頃に、仰木が肺癌を患っていることを知った。仰木から口止めを懇願されたことを機に、仰木が2005年12月15日に逝去するまで、その事実を誰にも言わなかった。また、仰木の晩年には、ゴルフなどで親交を続けていた。
    • 仰木がオリックスの一軍監督を務めていた時期から、野球解説者への転身後は、春季キャンプ期間中にオリックスブルーウエーブおよび後継球団のオリックス・バファローズの一軍キャンプを最初に取材。2015年までは毎年、キャンプインの初日(2月1日)から、キャンプ地の宮古島宮崎市へ取材に赴いていた[24]
    • 仰木の逝去当時は、『ベリーベリーサタデー!』(関西テレビ制作土曜朝のワイドショー)内のスポーツコーナー「Weeklyベリスポ!」に、コメンテーターとしてレギュラーで出演。逝去翌々日(2005年12月17日)の「Weeklyベリスポ!」で仰木の生前葬を取り上げた際には、全国向けの生放送中にもかかわらず、思わず号泣した[25]。翌2006年には、仰木とのエピソードを記した著書『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』も出版している。
  • メジャーリーガーとして来日入団したドン・マネーが、ロッカーや風呂場の汚さに失望し退団したこともあり、近鉄の選手会長を務めた時代に、待遇や施設の改善に尽力し、選手専用駐車場の確保(それ以前は選手専用のものはなく、開幕戦で予告先発だった野茂英雄が球団役員専用車のため駐車を拒否された)や風呂場の改装等が実現したという[26][27]
  • 自身と大塚光二が進行を務めるプロ野球バラエティ番組「ガンバレ日本プロ野球!?」(J SPORTS)では仰木は2度ゲストで出演、この縁から同番組のキャンプ編ではオリックスキャンプからスタートするのが恒例となっている。
  • オールスターゲームのパリーグ三塁手は石毛宏典松永浩美がメインだった為、仰木彬がパリーグ監督である1990年のみ監督推薦として出場できた。
  • 鈴木健と容姿が似ている。1988年、西武と近鉄が最後まで優勝を争った際、はた山ハッチ(やくみつる)は自身執筆の『パロ野球ニュース』(1988年8月)で両人と思われるトランクス姿の人物を描き、「今年はウチが優勝だ」と宣言する四コママンガを描き、同じコマに登場する中日の星野仙一監督が「お前は近鉄の金村か?西武の鈴木健か、どっちだ」と突っ込むネタを描いている。なお、鈴木健とは西武移籍時にチームメイトとなり、この際にも『パロ野球ニュース』でネタにされた[28]。二人が似ていることは当人達も自覚していて、鈴木は金村を「お兄ちゃん」と呼んで慕い、金村は球場やキャンプ取材時に「鈴木健さんですよね?」と度々声を掛けられると証言している。
  • 現役時代に、プロ野球ニュースのオフ企画で片岡篤史が父親に贈った檜風呂の一番風呂に入浴した。この放送をきっかけに、片岡は阪神移籍後に応援歌の歌詞に「檜風呂」と付けられてしまい、引退後に「申し訳ないことをした」と振り返った[29]
  • 1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球が打者・山崎武司の頭付近を通過したことが発端となる乱闘に、“マスコットバットを持ち出し参戦した”とされる[30]。当事者のガルベスと山崎に加え、金村も罰金10万円と厳重注意を受けた。後年、自身がラジオパーソナリティを務める『ツー快!お昼ドキッ』(CBCラジオ)で「素振りをしているときに乱闘が起こり、何事が起こったかと見に行ったら乱闘に巻き込まれた。バットを持っていたことは、取り上げられるまですっかり忘れていた。」と語っている。
  • 1999年9月30日の引退試合、対千葉ロッテマリーンズ戦の第1打席(現役最後の打席)であえなく凡退している。金村は前出のラジオ番組で「現役最後の打席でこれまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、マリーンズ先発の薮田安彦は容赦なくフォークボールを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。このシーンをモノマネする芸人は「現役最後の打席で涙に溢れながらもチンポジ(男性器の位置)を気にする金村選手」として演じている。
  • プライベートでチワワを飼育。Facebookの公式アカウントで大量の画像を公開したり、出演番組で「ウチのチワワは世界一可愛い」と公言したりするなど溺愛している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1982 近鉄 7 17 17 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .118 .118 .118 .235
1983 38 83 76 6 15 3 0 2 24 11 1 0 4 0 3 0 0 19 2 .197 .228 .316 .544
1984 54 115 94 11 16 3 0 2 25 10 2 0 6 2 11 0 2 23 3 .170 .266 .266 .532
1985 42 80 72 11 21 3 1 3 35 8 0 0 3 0 4 0 1 13 1 .292 .338 .486 .824
1986 130 493 437 66 120 23 6 23 224 67 3 1 10 4 39 0 3 83 10 .275 .335 .513 .848
1987 130 531 469 51 114 12 2 14 172 61 4 3 8 11 42 2 1 101 11 .243 .300 .367 .667
1988 99 379 323 37 93 17 0 14 152 48 2 1 5 3 48 2 0 65 7 .288 .377 .471 .848
1989 81 288 244 32 55 7 0 7 83 30 0 2 12 1 29 0 2 68 6 .225 .312 .340 .652
1990 113 450 376 67 103 25 1 17 181 51 7 7 5 2 64 3 3 85 6 .274 .382 .481 .863
1991 130 526 467 65 126 16 3 16 196 60 2 2 6 1 50 2 2 88 13 .270 .342 .420 .762
1992 102 390 335 50 87 11 3 13 143 44 5 3 4 1 48 4 2 66 7 .260 .355 .427 .782
1993 47 176 154 14 34 6 1 3 51 28 1 1 5 0 15 1 2 21 2 .221 .298 .331 .629
1994 80 279 254 34 76 15 0 8 115 28 2 1 3 3 17 0 2 47 3 .299 .344 .453 .797
1995 中日 28 88 79 4 14 4 0 1 21 5 0 1 2 0 7 0 0 15 6 .177 .244 .266 .510
1996 42 45 40 1 7 1 0 0 8 6 0 0 0 0 5 0 0 6 0 .175 .267 .200 .467
1997 西武 73 152 124 13 38 10 1 3 59 26 3 0 0 2 22 0 4 28 6 .306 .421 .476 .897
1998 41 52 38 2 10 2 0 1 15 7 0 1 0 3 10 0 1 11 0 .263 .404 .395 .799
1999 25 60 44 2 8 0 0 0 8 7 2 0 0 0 16 3 0 6 2 .182 .400 .182 .582
通算:18年 1262 4204 3643 466 939 158 18 127 1514 487 34 23 73 33 430 17 25 752 85 .258 .337 .416 .753
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1992年4月21日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(日生球場)、5回裏に園川一美からソロ ※史上169人目
  • 1000試合出場:1994年6月11日、対日本ハムファイターズ11回戦(東京ドーム)、7番・三塁手として先発出場 ※史上319人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 28 (1982年 - 1986年)
  • 6 (1987年 - 1997年途中)
  • 24 (1997年途中 - 1999年)

出演[編集]

現在の出演番組[編集]

レギュラー
準レギュラー

過去の出演番組[編集]

テレビCM[編集]

  • 国土リアルエステートテレビコマーシャルキャラクター(大阪府ローカル)

ラジオCM[編集]

  • エスライズ・エージェンシー(2016年 - 、MBSラジオ・関西ローカル限定)

著書[編集]

  • 『在日魂』(講談社、2000年、ISBN 4062103494/講談社文庫、2004年12月、ISBN 4062749378
  • 『元祖いてまえ男金村義明のプロ野球警戒警報!』(日本文芸社、2002年)ISBN 4537250909
  • 『プロ野球勝てる監督、負けるボス』(実業之日本社、2004年)ISBN 4408395536
  • 『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』(世界文化社、2006年)ISBN 4418065369
  • 『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』(東京ニュース通信社、2016年)ISBN 4198641358

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 朝日新聞 2017年3月15日 23面
  2. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.05「1981年8月21日 全試合をひとりで投げ抜き、悲願の全国制覇達成」(『Web Sportiva2010年8月16日付記事)[リンク切れ]
  3. ^ 【甲子園V腕座談会】(2)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  4. ^ 亀梨和也 NHK甲子園特番ナビゲーターに「感動体感したい」(『スポーツニッポン2015年7月21日付記事)
  5. ^ 【甲子園V腕座談会】(4)3年生・水野VS1年生・桑田(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  6. ^ a b 【甲子園V腕座談会】(1)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  7. ^ 【甲子園V腕座談会】(3)金村さんの秘技「おちょくり投法」(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  8. ^ [1]
  9. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.04「1982年7月23日、ジュニアオールスターでサイクルヒット&MVP」(『Web Sportiva2010年7月15日付記事)
  10. ^ あの金村も急造捕手経験 ロッテ・五十嵐は全ポジション出場達成(『スポーツニッポン2014年12月10日付記事)
  11. ^ 現役引退後に著した『勝てる監督 負けるボス』では、「最低の監督」という表現で鈴木を批判している。
  12. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.10「1995年2月14日 野茂英雄、ドジャース入団」(『Web Sportiva2010年12月21日付記事)
  13. ^ トレードはこうやって決まる!現場とフロントの連携
  14. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vo1.07「1998年10月26日 涙の横浜ベイスターズ、38年ぶり日本一」(『Web Sportiva2010年9月21日付記事)
  15. ^ フーガキャスティングの講師一覧|金村義明
  16. ^ NOMOベースボールクラブ 運営役員紹介
  17. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.06「2000年9月17〜27日 シドニー五輪、初のプロ・アマ合同チームの裏側」(『Web Sportiva2010年9月6日付記事)
  18. ^ a b 金村義明プロフィール金村義明オフィシャルサイト
  19. ^ ANAクラウンホテル大阪(金村義明オフィシャルブログ2015年12月20日付記事)
  20. ^ 金村義明氏 初の冠番組「ええかげんにせぇ〜!」MBSラジオで10・10開始(『スポーツニッポン2017年9月23日付記事)
  21. ^ 【甲子園V腕座談会】(終)今だから話せる「蔦さん伝説」(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  22. ^ 『在日魂』P139~P140
  23. ^ 『在日魂』P142~P144
  24. ^ 2016年には、2月1日(月曜日)が『上泉雄一のええなぁ!』への出演日と重なっていたため、解説者への転身後初めて同月2日からキャンプを取材(取材先は宮崎市清武総合運動公園)。
  25. ^ 株式会社パートナーシステム・講師プロフィール 金村義明
  26. ^ 「お笑いワイドショー マルコポロリ」2013年12月15日(日)”. gooテレビ (2013年12月15日). 2014年5月28日閲覧。
  27. ^ 『在日魂』第3章「プロ野球狂想曲」
  28. ^ 1997年5月『パロ野球ニュース』。日本ハムの上田監督(当時)が「西武のベンチ入り人数が一人多い」と抗議したら、実は「右の鈴木健(金村)」と「左の鈴木健(本人)」という二人一組のスイッチヒッターだった、あるいは同じく上田が「西武の三塁手が二人いる」と抗議したら、実は「鈴木健1人だが、時々分身の術を使う(と称して金村が現れる)」という扱いだった、というもの
  29. ^ 鵜飼克郎 (2017年8月5日). “金村義明氏が片岡篤史「檜風呂」応援誕生のきっかけを回顧”. 週刊ポスト. http://www.news-postseven.com/archives/20170805_600223.html 2017年8月7日閲覧。 
  30. ^ 【5月1日】1996年(平8) 32分中断 ガルベス“危険球”に山崎武司突進!大乱闘!(2011年5月1日、スポニチアネックス)2014年11月20日閲覧
  31. ^ 関西テレビローカルは『プロ野球中継(西暦)』の番組名
  32. ^ 2009年度より水曜のMCを担当

外部リンク[編集]