小池秀郎
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 愛知県一宮市 |
生年月日 | 1969年3月18日(51歳) |
身長 体重 |
175 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト1位 |
初出場 | 1993年4月11日 |
最終出場 | 2005年7月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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小池 秀郎(こいけ ひでお、1969年3月18日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
長野県の武蔵工業大学付属信州工業高等学校(現東京都市大学塩尻高等学校)に野球留学したが、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグでは1988年春季リーグ戦に頭角を現し、亜大を2位に押し上げ初のベストナインに選出される。4年生の時の1990年には春秋季連続優勝。春季リーグでは当時のリーグ新記録となるシーズン111奪三振(2007年に東洋大の大場翔太が115個を記録し更新)。直後の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大の小坂勝仁と投げ合い2-1で辛勝、優勝を飾る。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され日本の勝利に貢献、最高殊勲選手賞を獲得した。また第31回ワールドカップ日本代表にも選出されている。同年の明治神宮野球大会は準決勝でエース杉浦正則を擁する同志社大に3-4で惜敗。リーグ通算63試合登板28勝14敗、防御率1.45。最高殊勲選手に2度、最優秀投手に1度、ベストナインに2度選出され、大学ナンバー1投手として注目された。また大場が従来のリーグ記録とされていた松沼雅之(東洋大)の通算376奪三振を更新した時点で、小池が通算394奪三振を挙げていたことが判明し、記録が訂正された。大学同期に高津臣吾、川尻哲郎の両投手がいた。
同年のドラフト会議では後述するような入団希望の表明があり、西武、ヤクルト、阪神、ロッテ、中日、広島、日本ハム、近鉄の8球団が小池を1位で指名した。その結果、1989年の野茂英雄と並ぶ8球団競合指名となった。抽選によりロッテが交渉権を得たが、小池は入団を拒否して 松下電器(現パナソニック野球部)でプレーすることになった[1][2]。またドラフト当日ロッテは当初湯舟敏郎を指名する意向だったが、監督だった金田正一がチーフスカウトが書いた提出用の用紙を取り上げて小池を指名したという逸話がある(金田は前年のドラフトでも小宮山悟を指名する意向だったフロントに反して野茂英雄を指名している。この時は結局野茂の抽選を外して小宮山を指名している)。
1991年の都市対抗に出場。準々決勝に進み先発を任される。東芝の杉山賢人と投げ合うが、丹波健二らを主軸とする強力打線に打ち込まれ大敗を喫する。その後は故障もあってプロからの評価を下げてしまった。1992年のドラフト会議では、小池はどの球団の指名でも入団する姿勢をとり、近鉄バファローズから1位指名を受けた。
近鉄時代[編集]
1年目の1993年シーズンは開幕から一軍に上がり、5月には先発として起用されるが3勝に終わる。1995年には20試合に先発して3完投、4勝を挙げプロ入り初の規定投球回もクリアしたが今一つ伸び悩む。しかし1997年にはこの年就任した小林繁投手コーチの助言でフォーム改造した結果開幕3試合目にロッテから初完封勝利、その後も好調を維持し15勝6敗でリーグ最多勝投手となる。同年9月には月間MVPも獲得。1999年シーズンには開幕から4連勝し、オールスターゲームに初出場。同年のシドニー五輪の予選に日本代表選手として参加。決勝リーグ最終戦では韓国を相手に先発、5回を無失点に抑える。同年のシーズンオフに佐野重樹、善村一仁とともに門倉健、古池拓一、東瀬耕太郎との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
中日時代[編集]
移籍1年目の2000年のシーズン序盤は先発として起用され4勝を挙げるが、その後は打ち込まれる試合が続いた。2001年シーズンは登板機会がなく、シーズン途中にはトレードを志願[3]し、同年のシーズンオフに戦力外通告を受ける。中日在籍時は兵庫県の自宅から新幹線で通勤していたとの事。
近鉄復帰[編集]
2002年シーズンには古巣・近鉄に復帰。投球フォームをサイドスローに変え、先発から中継ぎへ転向。2003年シーズンにはリーグ最多の65試合に登板した。
楽天時代[編集]
2005年シーズンからは分配ドラフトにより東北楽天ゴールデンイーグルスの所属となり、フォームもオーバースローに戻したが目立った成績を残すことができず、同年のシーズンオフに戦力外通告を受けた。
NOMOベースボールクラブ時代[編集]
2005年シーズンオフに楽天から戦力外通告を受けて去就が注目されていたが、2006年3月、社会人野球のNOMOベースボールクラブにコーチ兼任投手として入団することが突如発表された。同年は古巣近鉄の本拠地大阪ドームでの第77回都市対抗野球大会阪和2次予選では対NTT西日本戦でリリーフで登板するものの、打ち込まれ敗戦投手になっている。また、関西ローカルの深夜のTV番組の企画で、ジャニーズの若手タレントに野球をコーチをする姿が放映された。
引退後[編集]
その後2008年からは関西メディカルスポーツ学院でコーチを務めていた。
現在は近鉄時代に監督だった梨田昌孝が代表を務める芸能事務所トゥルーマサに所属。またNOMOベースボールクラブの理事も務める傍ら、プライベートトレーナーとして活動。大阪府内のトレーニング施設に専属トレーナーとして勤務している。
人物[編集]
1997年の最多勝獲得の影に、当時近鉄の投手コーチであった小林繁からの助言があり「投球時の左足踵を上げるフォームは意味をなさない様なので、止めた方がよい」という矯正の成果がある。
サイドスロー転向後のフォームは、右足を上げる際に両腕を斜め下方向に下げながら伸ばすため、お笑いコンビTIMの「命」というギャグのジェスチャーに似ていたので、このフォームを「命投法」と呼ぶアナウンサーもいた。このフォームについて本人は「かっこ悪いからいやなんですけどね」と語っていた。
ロッテ指名拒否[編集]
1990年のドラフトでロッテに指名された際には、学内に設けられた会場に集まっていた一般学生から落胆の声が上がり、本人もこの結果を受けて落胆した表情で「ショックです」と発言。その模様がテレビのスポーツニュースなどでそのまま放送された。小池自身はヤクルトを希望していたため、同年のドラフトでヤクルトに3位指名された高津臣吾が「小池のことを考えると素直に喜べない」、同じくヤクルトに外れ1位で指名された岡林洋一(専大)が「僕は別にどの球団でも良かったので(小池の希望していたヤクルトに決まってしまって)小池に悪いな、と…」というコメントを残している。また小池は「同じ野球部で、高津君がヤクルトに指名(3位)されましたが、今は僕の分も亜細亜大学の名前をけがさぬよう頑張ってもらいたいと思います」とコメントしている。なお、小池のロッテ指名拒否以降、亜細亜大学からロッテにドラフト指名された選手は長い間現れず、2016年のドラフト会議において同大学の宗接唯人捕手が、小池が入団を拒否して以来実に26年ぶりにロッテから指名を受けた[4]。また、2012年3月と8月にロッテと亜細亜大学とのオープン戦が行われている。
ロッテを拒否した理由については後のインタビューで「ドラフト前に西武、ヤクルト、巨人以外ならプロ拒否と表明していて、それに理解を示したロッテがドラフト直前にうちは指名しませんと伝えてきたにも関わらず、いざ当日になってみると強行指名したからで、ロッテだけはどうしても嫌だった」と語っている。また後年には、プロ入りに傾いた時期もあったが、当時の新聞に「小池は金を積めば落ちる」という関係者のコメントが掲載されたことによって「金で動いたと思われる」ということでプライドが許さなかったと報道されている[5]。
また当時、亜細亜大学の矢野祐弘総監督はドラフト前に「ロッテは最も入れたくない球団」と発言していた(当時ロッテには小池より5学年上の右打ちのスラッガー・古川慎一が在籍していたが、伸び悩んでいた)。指名後も「12球団の中でも一番避けたいと思っていた球団。本人も相当なショックを受けている」と発言した[6]。
小池の「ロッテにだけは行きたくない」発言を聞いた愛甲猛は「あんな風に公に批判をするもんじゃない。もし、僕が彼の先輩だったらぶん殴ってやりますよ」と憤った(愛甲自身、ロッテの選択権確定が決まった際には渋い表情を見せていた)。なお、小池と愛甲は2000年に中日で1年間だけ同僚となった。
千葉マリンスタジアムの登板でブーイングが起きることもあった(近鉄入団当初は、登板時に球場でロッテファンによる過激な横断幕が掲げられていたこともある)。小池のロッテ戦の通算戦績は8勝7敗。
なお前述のとおりロッテの小池指名は監督・金田正一の独断専行によるものであったが、当時はこのことは全く明るみにされなかった。
社会人に進んでからは大学時よりも評価を落とす(高津はプロ入り後の小池に関して大学のときはもっと凄い投手だったと評している)。小池は「ドラフト後のごたごたで、いつでも、どこに行ってもマスコミがつきまとって数ヶ月間にわたり全く練習ができなくなってしまった」と主張した。近鉄入団時には「松下では誰にも世話にならなかった」と発言したとされる[5]。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | 近鉄 | 27 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 2 | -- | .429 | 295 | 68.1 | 51 | 9 | 45 | 1 | 0 | 67 | 6 | 0 | 32 | 30 | 3.95 | 1.40 |
1994 | 19 | 12 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | -- | .714 | 318 | 71.1 | 76 | 13 | 33 | 2 | 0 | 46 | 5 | 0 | 44 | 42 | 5.30 | 1.57 | |
1995 | 22 | 20 | 3 | 0 | 0 | 4 | 8 | 0 | -- | .333 | 551 | 130.0 | 126 | 16 | 51 | 1 | 1 | 99 | 7 | 0 | 55 | 51 | 3.53 | 1.36 | |
1996 | 21 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 300 | 69.2 | 69 | 17 | 30 | 1 | 1 | 54 | 5 | 1 | 48 | 46 | 5.94 | 1.42 | |
1997 | 27 | 27 | 6 | 3 | 0 | 15 | 6 | 0 | -- | .714 | 767 | 182.2 | 137 | 14 | 96 | 0 | 7 | 136 | 6 | 0 | 68 | 60 | 2.96 | 1.28 | |
1998 | 18 | 17 | 1 | 1 | 0 | 7 | 3 | 0 | -- | .700 | 374 | 78.0 | 99 | 21 | 51 | 0 | 2 | 54 | 2 | 0 | 60 | 59 | 6.81 | 1.92 | |
1999 | 23 | 23 | 2 | 0 | 0 | 6 | 11 | 0 | -- | .353 | 638 | 149.0 | 135 | 19 | 69 | 0 | 3 | 96 | 7 | 0 | 69 | 67 | 4.05 | 1.37 | |
2000 | 中日 | 13 | 12 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 259 | 58.0 | 52 | 5 | 36 | 2 | 1 | 47 | 4 | 0 | 32 | 27 | 4.19 | 1.52 |
2002 | 近鉄 | 14 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 225 | 50.0 | 61 | 9 | 17 | 2 | 0 | 42 | 1 | 0 | 36 | 33 | 5.94 | 1.39 |
2003 | 65 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 212 | 52.1 | 33 | 3 | 27 | 2 | 3 | 57 | 0 | 0 | 23 | 22 | 3.78 | 1.15 | |
2004 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 132 | 27.0 | 39 | 3 | 12 | 1 | 3 | 13 | 1 | 0 | 20 | 19 | 6.33 | 1.89 | |
2005 | 楽天 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 42 | 7.2 | 12 | 0 | 4 | 0 | 1 | 4 | 2 | 0 | 7 | 6 | 7.04 | 2.09 |
通算:12年 | 309 | 131 | 13 | 4 | 0 | 51 | 47 | 2 | 0 | .520 | 4113 | 944.0 | 890 | 129 | 471 | 12 | 22 | 715 | 46 | 1 | 494 | 462 | 4.40 | 1.44 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル[編集]
- 最多勝利:1回 (1997年)
表彰[編集]
- 月間MVP:1回 (投手部門:1997年9月)
記録[編集]
- 投手記録
- 初登板:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、7回表に2番手として救援登板、1回1/3を2失点
- 初奪三振:同上、7回表に大島康徳から
- 初セーブ:1993年4月20日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(日生球場)、7回表1死に2番手として救援登板・完了、2回2/3を無失点
- 初先発登板:1993年5月4日、対西武ライオンズ4回戦(西武ライオンズ球場)、6回1/3を3失点で敗戦投手
- 初勝利:1993年6月20日、対日本ハムファイターズ12回戦(藤井寺球場)、3回表に2番手として救援登板、5回無失点
- 初先発勝利:1994年7月13日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(石川県立野球場)、7回2失点
- 初完投:1995年7月6日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(千葉マリンスタジアム)、8回2失点で敗戦投手
- 初完投勝利・初完封勝利:1997年4月10日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(大阪ドーム)
- 打撃記録
- 初安打:2000年4月22日、対横浜ベイスターズ4回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に野村弘樹から左前安打
- 初打点:2000年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に山内泰幸から中前適時打
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1999年)
背番号[編集]
- 23 (1993年 - 1999年)
- 25 (2000年 - 2001年)
- 34 (2002年 - 2005年)
脚注[編集]
- ^ 【11月24日】1990年(平2)小池秀郎、8球団指名も当たりは一番嫌いなロッテ
- ^ 小池秀郎「ドラフト8球団競合!絶対に行きたくない球団に当てられた男」【プロ野球世紀末ブルース】
- ^ オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」(2008年4月30日出版、ISBN 4-7755-1188-2 / ISBN 978-4-7755-1188-6)p.21
- ^ トレードでは与田剛と川本良平が入団している
- ^ a b 『週刊ベースボール別冊秋嵐号 2011ドラフト候補名鑑』ベースボール・マガジン社、2011年、90頁。JANコード 4910204481016。
- ^ 朝日新聞1990年11月25日25頁
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 小池秀郎 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、 The Baseball Cube
- 小池秀郎オフィシャルブログ
- 所属事務所プロフィール
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