コンテンツにスキップ

小池秀郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小池 秀郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県尾西市(現:一宮市[1][2][3]
生年月日 (1969-03-18) 1969年3月18日(56歳)
身長
体重
175 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1992年 ドラフト1位
初出場 1993年4月11日[4]
最終出場 2005年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

小池 秀郎(こいけ ひでお、1969年3月18日 - )は、愛知県尾西市(現:一宮市)生まれの元プロ野球選手投手[1]。左投左打。

1990年のドラフト会議における「小池騒動」で知られる人物である[5]。プロ野球選手時代は1993年から1999年2002年から2004年と、通算10年間にわたってパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の近鉄バファローズ(1999年以降の球団名は「大阪近鉄バファローズ」)に在籍し、1997年シーズンには15を挙げてパ・リーグ最多勝投手のタイトルを獲得した。

経歴

[編集]

中学校時代までは愛知県尾西市(現:一宮市)で育った[6]。プロ入り前の『週刊ベースボール』、およびプロ入り前後の『中日スポーツ』では尾西市出身とされているが[7][8][1][2][3]、後述のドラフト会議で8球団から1位指名を受けた1990年時点では実家は岐阜県羽島市にあり[9][10]、プロ入り後の選手名鑑に掲載されているプロフィールでは羽島市出身とされている[11][12]梨田昌孝が主催するトゥルーマサの公式ウェブサイトにおける本人のプロフィールでは一宮市出身となっている[13]

中学時代まで

[編集]

尾西市立大徳小学校[4]尾西第二中学校を卒業した[14][15]。父親は地元球団である中日ドラゴンズファンだった[1]

大徳小5年生の時に地元の少年野球チーム「西五城ファイターズ」に一塁手として入団[16]シニアリーグ「尾西シニア」(現:愛知尾州ボーイズ)に進み、中学3年生から投手になる[16][17]。尾西シニア時代は全国大会にも進出したが、補欠選手としてベンチ入りしたのみで試合には出場しなかった[8]

信州工業高校時代

[編集]

中学から高校へ進学する際、父親から「野球だけが青春じゃない。もっと人間を磨いてこい」と言われ、亜細亜大学OBの取り成しで長野県の武蔵工業大学付属信州工業高等学校(現:東京都市大学塩尻高等学校)に野球留学したが[8]、高校3年生だった1986年[15]の県大会2回戦が最高で、甲子園には出場できなかった[16]。2年生だった1985年の夏の県大会(第67回大会)当時は身長172 cm体重69 kgで、当時のエースは3年生の吉野公浩(亜大-新潟産大付高監督)であり、小池は補欠選手だった[14]。同大会では同年7月23日に茅野市営球場で開催された東海大三高との4回戦で5回表、吉野に代わって2番手投手として登板、ピンチを切り抜けるが、チームは後に勝ち越しを許し、4対3で敗退した[18]

3年生になった1986年の春は、中信地区予選の1回戦で延長の末に敗れた[19]。同年の夏の県大会(第68回大会)当時はチームのエース投手として、2年生の正捕手・田中誠一とバッテリーを組んでおり、身長173 cm、体重71 kgだった[15]。当時チームの主将を務めていた3年生の右翼手・杉原宏英は、投手中心のチームであると語っていた[15]。同大会では、同年7月18日に上田市営球場で開かれた富士見高校との1回戦で、7番打者・投手として先発出場し、相手打者27人と対戦、98球を投げて相手打線を1安打、無四球に抑え、13奪三振を記録して完封勝利を収めた[19]。また打撃でも2回裏、追加点につながる三塁打を記録した[19]。しかし、同月21日に同球場で開かれた中野高校との2回戦では、チームは2回裏に先制するも、小池は4回表に3連打を浴び、スクイズで同点にされ、6回表に勝ち越しを許す[20]。7回裏に味方打線が同点に持ち込むが、延長11回表に一、二塁のピンチから連続二塁打を浴びて3点を奪われ、チームはその回の裏に勝ち越せないまま敗退した[20]。この日の小池は速球が切れ味を欠いて高めに入っており、バットを短く持ってミートを重視した中野打線に打ち込まれる結果になっていた[20]。信州工業監督の大輪によれば、小池が「あんなに打たれた姿を見るのは初めて」だったという[20]。高校時代は通算1勝[21]

亜細亜大学時代

[編集]

高校卒業後は兄も野球部に在籍した亜細亜大学に進学[16]東都大学野球リーグでは2年生時の1988年春季リーグ戦に頭角を現し、亜大を2位に押し上げ初のベストナインに選出される。4年生時の1990年には春秋連覇し、同年春には最優秀選手・最優秀投手となる[17]。春季リーグでは1986年秋に専修大学の関清和が記録した81奪三振、さらに東農大円子宏(83奪三振・1953年秋)、中大高橋輝(107奪三振・1949年春)の記録を更新し、リーグ新記録となるシーズン111奪三振をマーク[16]2007年東洋大大場翔太が115個を記録し更新)[22]。直後の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大小坂勝仁と投げ合い2-1で辛勝、優勝を飾る[23]。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され第1戦で完封勝利し日本の勝利に貢献、最高殊勲選手賞を獲得した[23]。また第31回ワールドカップ日本代表にも選出されている。同年秋の明治神宮野球大会は準決勝でエース・杉浦正則を擁する同志社大相手に小池温存で同期高津臣吾が投げ3-4で惜敗。リーグ通算63試合登板2814防御率1.45。最高殊勲選手に2度、最優秀投手に1度、ベストナインに2度選出され、大学No.1サウスポーとして注目された。また大場が従来のリーグ記録とされていた松沼雅之(東洋大)の通算376奪三振を更新した時点で、小池が通算394奪三振を挙げていたことが判明し、記録が訂正された。大学同期に高津臣吾、川尻哲郎の両投手がいた。

同年のドラフト会議前には、大学の先輩である阿波野秀幸(当時近鉄バファローズ)よりやや力は落ちるが、同年の投手陣ではナンバーワンと評され、複数球団の競合指名が予想されていた[7]。実際に広島東洋カープオリックス・ブルーウェーブ福岡ダイエーホークスの3球団を除く9球団が獲得に名乗りを上げていたが[1]、当時、本人が最も入りたい球団は読売ジャイアンツ(巨人)であった[4]。本人は亜大が春夏連覇を決めた同年10月24日、意中の球団はヤクルトスワローズ西武ライオンズ・巨人の3球団であり、それ以外の球団から指名を受けた場合は社会人野球に進み、1992年バルセロナ五輪を目指したいと表明した[21][24]。実際、この3球団以外の獲得に名乗りを上げた6球団(中日ドラゴンズ阪神タイガース横浜大洋ホエールズ日本ハムファイターズ近鉄バファローズロッテ・オリオンズ)に対しては、いずれも口頭もしくは電話で入団拒否の意向を伝えていたという[1]。その一方、本命はヤクルトであって巨人・西武はダミーであるという報道があり、巨人スカウト陣も1位は小池ではなく野手を指名する旨を断言していた[7]。またロッテや阪神以外なら1位指名球団に条件次第で入団するだろうという臆測もあり、地元球団である中日ドラゴンズはスカウト部長の岡田英津也監督星野仙一に小池の1位指名を希望する旨を伝えて指名の内定を得ていた[7]

同年11月24日に開催された同会議では、意中の球団であった西武・ヤクルトに加え、阪神、ロッテ、中日、広島東洋カープ日本ハムファイターズ、近鉄の8球団が小池を1位で指名した一方、巨人は元木大介を1位指名した[25]。前年の野茂英雄と並ぶ史上最多の8球団競合指名となり、抽選によりロッテが交渉権を得たが[25]、小池は入団を拒否し大きな騒動となる(後述)。またドラフト当日ロッテは当初小池の意向を聞き、指名を避ける方向だったが、監督だった金田正一が直前になって小池を指名するよう希望し、小池を指名したという逸話がある[26]。ロッテが小池の強行指名に踏み切った背景には、同年限りで現役を引退した村田兆治に代わる球団の顔としての役割を小池に担ってもらい、当時の「暗い、弱い」というチームイメージの払拭を期待していたこと、そして近い将来に控えていた千葉移転[注 1]の目玉としての役割も期待していたことが背景にあり、小池が入団した暁には村田の背番号であった29や、野茂が近鉄に入団した際以上の破格の金銭条件(それぞれ史上最高額となる契約金1億5000万円、年俸1500万円)、そして退団後も球団本社入りする「終身身分保障」を用意する方針であった[27]

松下電器時代

[編集]

ドラフト会議前、小池は意中の球団以外に指名された場合は社会人野球の熊谷組に入団すると表明していたが[24]、ロッテが獲得断念を表明した同年12月12日に小池が社会人入りを改めて表明した際、約10社が獲得に名乗りを上げ、小池は同月27日、熊谷組に入社辞退の意向を伝えた上で松下電器に入社する意向を伝えた[28]。そして翌1991年1月8日に松下電器産業本社で面接試験を受け、正式に入社が決定した[29]。結果、1990年のドラフト指名70選手でプロ入りしなかった選手は小池と米正秀(大洋の5位指名を拒否)の2人となった[30]

松下電器に入団後、1991年都市対抗予選では、6月17日の日本生命との大阪和歌山第一代表決定戦(日本生命球場)で5回途中から救援登板したが、8回に左足に痛みを感じ、9回には痛みが激しくなったことから降板、内側側副靭帯損傷で3週間の安静が必要と診断された[31]。このことから、バルセロナで同年7月2日から12日間にわたって開催されたインターコンチネンタルカップ選手権の全日本代表選手20人からは外れ、小池の代わりに若田部健一駒澤大学)がメンバーに選抜された[32]。都市対抗本大会では準々決勝に進み先発を任される。東芝杉山賢人と投げ合うが、丹波健二らを主軸とする強力打線に打ち込まれ大敗を喫する。

社会人時代の1991年から1992年の2年間は左肘の故障などで鳴かず飛ばずに終わり[33]、肘や腰などの故障から通算4勝にとどまった[34]。目標としていたバルセロナ五輪のメンバーにも選抜されなかったが、1992年夏にオランダで開催されたハーレム大会木村龍治らから指摘を受けたことをきっかけに、大学時代に理想としていた投球フォームを取り戻し、都市対抗野球の大阪・和歌山予選では全6試合に登板、東京ドーム行きの原動力になった[35]。本大会は初戦の大昭和製紙北海道戦で先発したが補強選手の佐藤真一に本塁打を浴びるなど5回途中で降板し、原井和也が3本塁打して接戦となるも敗れた[36]

小池は1992年11月21日のNPBドラフト会議を議前に、どの球団から指名されても入団する意向を示し、『中日スポーツ』記者の阿知波浩二は中日が1位指名を公言していた松井秀喜星稜高校)の抽選に敗れた場合の外れ1位としての指名候補になるだろうと報じていたが[6]、1巡目で近鉄バファローズから単独1位指名を受け[37][38]、同年12月1日に近鉄と仮契約を結んだ[39]契約金は1億円、年俸は1000万円で[39][40]、近鉄としては野茂以来2人目の契約金1億円新人選手だった[39]。本人曰く、近鉄は希望球団だったという[39]背番号23[41]

プロ野球選手時代

[編集]

第1次近鉄時代

[編集]

1993年シーズンは開幕から一軍(パシフィック・リーグ)に昇格し、4月11日に本拠地・藤井寺球場で開催された対日本ハムファイターズ戦でプロ初登板した[4]。初勝利は同年6月20日の対日本ハム戦(藤井寺球場)で[4]、5月には先発として起用された。しかしシーズンでは27試合に登板して68イニング1/3の投球回を記録したものの、3勝4敗2セーブ・防御率3.95の成績に終わる[4]。翌1994年は12試合に先発登板し[12]、シーズンでは全19試合に登板して投球回71イニング1/3を記録し、5勝2敗と勝ち越したが、防御率は5.30だった[4]。同年11月29日には年俸1450万円(前年比250万円増額)で契約更改した[42]

チームがリーグ最下位に低迷した1995年には先発ローテーションに定着して投球回130イニング・3完投を記録、プロ入り後初の規定投球回に到達した。また防御率もリーグ11位の3.53を記録したが、4勝8敗と負け越した[12]1996年江坂政明の不振や柴田佳主也の伸び悩みなどから再び中継ぎ兼任に戻り、21試合に登板して69イニング2/3投球回・1完投を記録した[12]。チームの左投手としては孤軍奮闘した形となったが[12]、3勝5敗・防御率5.94の成績だった[4]

近鉄の本拠地が藤井寺球場から大阪ドームへ移転した1997年には、新たに就任した小林繁投手コーチの助言でフォーム改造を行い、新しい変化球としてシンカーを覚えた事で成績が大きく向上した[43]。同年4月10日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初完封勝利を挙げた[4]。その後も好調を維持し、同年9月には4勝、防御率1.23の成績で月間MVPを初めて獲得した[44]。最終的には27試合に登板して投球回は182イニング2/3を記録、15勝6敗・防御率2.96(パ・リーグ5位)の好成績を挙げ、西口文也(西武)と同数でリーグ最多勝投手となる[45]。同年から1999年まで、対オリックス・ブルーウェーブ戦では11連勝していた[46]

しかし1998年から2年間は肩の故障に苦しみ[4]、同年は8月31日の対オリックス戦で7勝目を挙げたのを最後に勝利を挙げられず[11]、18試合(投球回78イニング)に登板して7勝3敗・防御率6.81の成績に終わる[4]

球団名が「大阪近鉄バファローズ」に改称された1999年シーズンには開幕から4連勝し、オールスターゲームに初出場[47]。オールスターゲーム第2戦(阪神甲子園球場)では3回裏から2番手で登板し、2回無安打無失点に抑え、優秀選手賞を受賞した[47]。しかしシーズンでは23試合に登板して投球回149イニング・6勝11敗・防御率4.05と不振だった[4]。同シーズン最後の勝利は、8月17日の対西武19回戦(西武ドーム)だった[46]。同年のシドニー五輪の予選に日本代表選手として参加[23]。決勝リーグ最終戦では韓国を相手に先発、5回を1失点に抑える。

中日時代

[編集]

1999年のシーズンオフ、佐野重樹善村一仁の2人とともに、門倉健古池拓一東瀬耕太郎の3人との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍した[2]。小池本人は同年11月6日にトレードを通告されたが[48]同年にパ・リーグ最下位に沈んだ近鉄の投手である自身がセ・リーグ優勝を達成した中日から必要とされたことに関しては「すごくありがたい」と受け止めてはいたものの、同時にそれまで近鉄の左のエースとして投手陣を支えてきた自負があったことから、自身がトレード要員とされたことに納得できず[3]、「トレード要員となった理由を聞きたい」などとして態度を保留していた[48]。しかし、後に「野球だけは失うわけにはいかない」と徐々に態度を軟化させ、同月15日に岡本伊三美球団代表と話し合ってトレード受諾の意向を伝え、同日付で正式にトレードが成立した[49][50]。このトレードは梨田昌孝新監督のもとで先発投手の補強を狙っていた近鉄と[注 2]サムソン・リーの退団を受けて左投手の補強を進めていた中日の思惑がそれぞれ一致したことによるものだった[52]。近鉄時代の背番号だった23は東都大学野球リーグ時代のライバルで仲の良かった関川浩一が着用していたため着用できず[53]、小池の背番号は25になった[54]。年俸は前年と同じ5500万円[55]。本人は中日移籍にあたり、かつての意中の球団だった巨人に投げ勝ちたいという意思を表明していた[4]

野口茂樹川上憲伸山本昌武田一浩に次ぐ5人目の先発投手の座を山田洋鶴田泰らと争い[53]2000年のシーズンは先発として起用された[56]。4月22日の横浜ベイスターズ戦(ナゴヤドーム)で6回無失点で移籍後初勝利を挙げた[57][58]。5月末時点では4勝1敗、防御率1.89(セントラル・リーグ3位)[56]と結果を出していた。だが、5月18日の対横浜11回戦(横浜スタジアム)を最後に勝利投手になれず[46]、6月3日の対巨人戦では3回途中7失点で降板[59]。この時点で4勝2敗、防御率2.90(リーグ6位)の成績だったが、再調整のため6月5日に二軍ウエスタン・リーグ)へ降格する[59]。6月15日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で一軍復帰したが、3回途中6失点で降板し敗戦投手となった[60]。その後6月22日に再び二軍に降格した[61]

8月2日の阪神戦で再び一軍に復帰したが、1回裏から3失点し3回で降板[62][63]。8月9日の広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)で先発したものの4回途中5失点で降板し、翌10日に再び二軍降格すると、以降は二軍でも不振で一軍再昇格はできなかった[56]。最終的に13試合に登板したものの4勝3敗、防御率4.19に終わり、オフに年俸5000万円(500万円減)で契約更改した[56]。中日入団時は野球に専念するため、妻を大阪に残して名古屋のホテルで単身赴任すると報じられていたが[53]、同年は「家族との時間を大切にしたい」との理由に加え、シーズン途中まで一軍の先発ローテーションに定着しており、登板機会が週1回に限られていたことから、兵庫県芦屋市の自宅から名古屋まで新幹線通勤していた。しかし減俸を受け、翌2001年シーズンは名古屋で単身赴任生活を送っていた[56]

移籍2年目の2001年シーズンは登板機会がなく、シーズン途中にはトレードを志願し[64]、同年6月9日には中日の伊藤球団代表[注 3]が小池本人の希望で移籍先を探していることを明かしていた[66][67]。しかしトレードは成立せず、10月12日に戦力外通告を受けた[68]

第2次近鉄時代

[編集]

その後、古巣・近鉄の入団テストに参加[69]。2001年12月7日に近鉄への入団が発表され、1999年以来3年ぶりとなる古巣復帰を果たした[70]。復帰1年目となる2002年シーズンの推定年俸は2400万円[70]。同年にはチェンジアップを習得し、開幕2戦目となる3月31日の対オリックス2回戦で復帰後初勝利を挙げた[46]

2003年には投球フォームをサイドスローに変え、先発から中継ぎへ転向、リーグ最多の65試合に登板した。

楽天時代

[編集]

2005年シーズンからは分配ドラフトにより東北楽天ゴールデンイーグルスの所属となり、フォームもオーバースローに戻したが、目立った成績を残すことができず、同年9月15日に戦力外通告を受けた[71][72]

NOMOベースボールクラブ時代

[編集]

2005年シーズンオフに楽天から戦力外通告を受けて去就が注目されていたが、2006年3月、社会人野球NOMOベースボールクラブにコーチ兼任投手として入団することが発表された[73]。同年は古巣近鉄の本拠地大阪ドームでの第77回都市対抗野球大会阪和2次予選では対NTT西日本戦でリリーフで登板するものの、打ち込まれ敗戦投手になっている。また、関西ローカルの深夜のTV番組の企画で、ジャニーズの若手タレントに野球をコーチをする姿が放映された。

引退後

[編集]

2008年からは関西メディカルスポーツ学院で、野球選手科が廃止される2013年末までコーチを務めていた[74]

現在は近鉄時代に監督だった梨田昌孝が代表を務める芸能事務所トゥルーマサに所属。またNOMOベースボールクラブの理事も務める[75]傍ら、プライベートトレーナーとして活動。大阪府内のトレーニング施設に専属トレーナーとして勤務している。

選手としての特徴

[編集]

高校3年生だった1986年夏の長野大会時点では「県下屈指の左腕」と評され、右打者の内角を突くキレの良く、球速もある速球と、縦に大きく割れるカーブのブレーキの鋭さが持ち味で、以前より制球力が良くなって投球に幅が出てきていたが、ピンチの際に配球が単調になりがちなことが課題と評されていた[15]

大学時代は打者の手元で微妙に変化するカーブと球速140 km/h超の速球、そして時折投げるフォークボールが武器だった[76]。また球速は140 km/h前後ながら、ピッチングのうまさを各プロ球団のスカウトたちから高く評価されていたとも報じられている[77]。1990年のドラフト会議時点では、握力左52 kg、右50 kg、背筋力230 kg、遠投110 m、視力は左右とも2.0で[16]、奪三振マシンと評されていたが、1992年のドラフト会議時点では大学時代より投球フォームが小さくなり、迫力もなくなったと評されていた[6]

人物

[編集]

母親は1989年2月に肝硬変で死去しており[78]、1990年のドラフト会議時点では父親・兄との3人家族だった[17]

1997年の最多勝獲得の影に、当時近鉄の投手コーチであった小林繁からの助言があり「投球時の左足踵を上げるフォームは意味をなさない様なので、止めた方がよい」という矯正の成果がある。

サイドスロー転向後のフォームは、右足を上げる際に両腕を斜め下方向に下げながら伸ばすため、お笑いコンビTIMの「命」というギャグのジェスチャーに似ていたので、このフォームを「命投法」と呼ぶアナウンサーもいた。このフォームについて本人は「かっこ悪いからいやなんですけどね」と語っていた。

小池騒動

[編集]

1990年のドラフト会議における最大の目玉として小池には各球団のスカウトの注目が集まる。これに対し、小池は西武、ヤクルト、巨人の3球団を希望し、それ以外であれば社会人に進むことを表明[79][注 4]。特に、当時球界屈指の不人気球団であったロッテには拒否の意向を強く伝え、更に総監督の矢野祐弘も「ロッテは最も入れたくない球団」と発言していた(担当スカウトは教え子の芦岡俊明で、当時ロッテには小池より5学年上の右打ちのスラッガー・古川慎一が在籍していたが、伸び悩んでいた)。スカウトもこれを受けて指名を断念。湯舟敏郎を1位指名することを決定し亜大側にもその旨を伝える[注 5]。しかし、直前になって監督の金田正一が小池の指名を強く希望し、強引に変更させた[80]

ロッテから指名回避の連絡を受けた大学は会議当日、東京都武蔵野市にあるキャンパスの3号館大教室に会見場を設け、小池だけでなく一般の学生300人を集結させた[81]。史上最多タイの8球団が1位指名から指名を受けた小池だったが、抽選の結果、矢野曰く「12球団の中で最も拒否したかった球団の一つ」であるロッテ球団オーナー代行の松井が当たりくじを両手でかざすや否や、場内の学生からは悲鳴とブーイングが飛んでいた[81]

顔面蒼白となった小池は「今は何も言えません…。頭が真っ白です。ロッテの方と会うことはありません」と言葉を絞り出し、その後キャンパス内の広報室に閉じこもり、報道陣の隙を付いてこの場から出た後、神奈川県川崎市の下宿先ではなく、外部の情報を遮断できる野球部の寮内に2日間雲隠れした[82]。ドラフト会議翌日の25日には日本テレビ放送網の『独占!スポーツ情報』への出演が予定されていたが、ドラフト会議前の「どこの球団であろうと、必ず出演します」という約束から一転して出演をキャンセル、番組内で司会者が「小池君、ぜひ電話をください!」と呼びかけても反応はなかったという[83]

一方で、このドラフトで同級生の高津臣吾がヤクルトに3位指名。小池がヤクルトを希望していたため高津は「小池と一緒なら本当に良かったのにな……」[84]、「本当なら素直に喜んでいいのでしょうが、テレビに映っていた小池のことを思うと……素直に喜べない」と目頭を押さえながらコメントした。同じくヤクルトに外れ1位で指名された同じ東都大学リーグで投げた岡林洋一専大)が「僕は別にどの球団でも良かったので(小池の希望していたヤクルトに決まってしまって)小池に悪いな、と…」というコメントを残している。また小池は「同じ野球部で、高津君がヤクルトに指名(3位)されましたが、今は僕の分も亜細亜大学の名前をけがさぬよう頑張ってもらいたいと思います」とコメントしている。

対するロッテ側は金田が「野茂がいくらもらったか知らんが、それ以上のことはさせてもらうで」として、「契約金1億5000万円を出す。生涯の保障もする」(ロッテ・松井静郎球団社長)と好条件を示していたが、小池は「ロッテにだけは行きたくない」と公言し結局指名拒否となった。これに輪を掛けるように、矢野も「12球団の中でも一番避けたいと思っていた球団。本人も相当なショックを受けている」と発言した[85]

このため、亜大とロッテとの関係が極端に悪化[注 6]。これ以降ドラフト指名された選手は長い間現れず、2016年のドラフト会議において同大学の宗接唯人捕手が、小池が入団を拒否して以来実に26年ぶりにロッテから指名を受けた[86]。また、2012年3月と8月にロッテと亜細亜大学とのオープン戦が行われている。

ロッテを拒否した理由については後のインタビューで「ドラフト前に西武、ヤクルト、巨人以外ならプロ拒否と表明していて、それに理解を示したロッテがドラフト直前にうちは指名しませんと伝えてきたにも関わらず、いざ当日になってみると強行指名したからで、ロッテだけはどうしても嫌だった」と語っている。また後年には、プロ入りに傾いた時期もあったが、当時の新聞に「小池は金を積めば落ちる」という関係者のコメントが掲載されたことによって「金で動いたと思われる」ということでプライドが許さなかったと報道されている[87]

上記のとおり西武、ヤクルト、巨人の3球団を希望していたものの、「ロッテと阪神以外なら交渉に応じる」と話していた事、ダイエー大洋に対して前向きなコメントをしていた事、近鉄のスカウトが来た際に拒否を匂わせるような対応をしなかった事等から必ずしも希望の3球団のみに拘っているわけではなかった事がうかがえる[88]

小池の「ロッテにだけは行きたくない」発言を聞いた愛甲猛は「小池が自分の後輩だったらブン殴ってやるけどね。入る入らないはもちろん本人の自由。しかし、プロの球団に対して(あの言動は)許せない。断るにしてももっと気持ちよく断ってほしかった」と憤った[89](愛甲自身、ロッテの選択権確定が決まった際には渋い表情を見せていた)。なお、小池と愛甲は2000年に中日で1年間だけ同僚となった。

千葉マリンスタジアムの登板でブーイングが起きることもあった(近鉄入団当初は、登板時に球場でロッテファンによる過激な横断幕が掲げられていたこともある)[90]。小池のロッテ戦の通算戦績は8勝7敗。

なお前述のとおりロッテの小池指名は監督・金田正一の独断専行によるものであったが、当時はこのことは全く明るみにされなかった。

社会人に進んでからは大学時よりも評価を落とす(高津はプロ入り後の小池に関して大学のときはもっと凄い投手だったと評している)。小池は「ドラフト後のごたごたで、いつでも、どこに行ってもマスコミがつきまとって数ヶ月間にわたり全く練習ができなくなってしまった」と主張した。2年後のドラフト会議では松井秀喜伊藤智仁が注目を集める中、ひっそりと近鉄から単独1位指名を受けた。近鉄入団時には「松下では誰にも世話にならなかった」と発言したとされる[87]

なおロッテは1992年に本拠地を川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転しており、移転を控えた1991年のドラフト会議では地元・千葉出身の好投手である石井一久東京学館浦安高校)の獲得を狙っていたとされるが、結局は石井ではなく吉田篤史ヤマハ)を1位指名し、競合必至とされていた石井は意中の球団として挙げていたヤクルトから単独で1位指名された[91]。その理由については、当時ロッテが即戦力投手を必要としていたチーム事情や[92]、石井本人がヤクルト以外の球団には入団しない意向を示していたことに加え[91]、前年の小池騒動の影響もあったと報じられている[93]

また引退後、2010年時点でドラフト会議の際には毎年のように当時の映像が放送されており、風物詩となっている[79]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1993 近鉄 27 2 0 0 0 3 4 2 -- .429 295 68.1 51 9 45 1 0 67 6 0 32 30 3.95 1.40
1994 19 12 0 0 0 5 2 0 -- .714 318 71.1 76 13 33 2 0 46 5 0 44 42 5.30 1.57
1995 22 20 3 0 0 4 8 0 -- .333 551 130.0 126 16 51 1 1 99 7 0 55 51 3.53 1.36
1996 21 10 1 0 0 3 5 0 -- .375 300 69.2 69 17 30 1 1 54 5 1 48 46 5.94 1.42
1997 27 27 6 3 0 15 6 0 -- .714 767 182.2 137 14 96 0 7 136 6 0 68 60 2.96 1.28
1998 18 17 1 1 0 7 3 0 -- .700 374 78.0 99 21 51 0 2 54 2 0 60 59 6.81 1.92
1999 23 23 2 0 0 6 11 0 -- .353 638 149.0 135 19 69 0 3 96 7 0 69 67 4.05 1.37
2000 中日 13 12 0 0 0 4 3 0 -- .571 259 58.0 52 5 36 2 1 47 4 0 32 27 4.19 1.52
2002 近鉄 14 8 0 0 0 3 2 0 -- .600 225 50.0 61 9 17 2 0 42 1 0 36 33 5.94 1.39
2003 65 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 212 52.1 33 3 27 2 3 57 0 0 23 22 3.78 1.15
2004 49 0 0 0 0 0 2 0 -- .000 132 27.0 39 3 12 1 3 13 1 0 20 19 6.33 1.89
2005 楽天 11 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 42 7.2 12 0 4 0 1 4 2 0 7 6 7.04 2.09
通算:12年 309 131 13 4 0 51 47 2 0 .520 4113 944.0 890 129 471 12 22 715 46 1 494 462 4.40 1.44
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

[編集]

表彰

[編集]

記録

[編集]
投手記録
打撃記録
その他の記録

背番号

[編集]
  • 23(1993年 - 1999年)
  • 25(2000年 - 2001年)
  • 34(2002年 - 2005年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ロッテは1992年に本拠地をそれまでの川崎球場神奈川県川崎市川崎区)から千葉マリンスタジアム千葉県千葉市美浜区)へ移転し、球団名も「ロッテ・オリオンズ」から「千葉ロッテマリーンズ」へ改称した。
  2. ^ 当時の近鉄は赤堀元之高村祐の故障を受け、右の先発投手の強化を目指していた[51]
  3. ^ 同年10月1日まで球団代表を務めていた伊藤修[65]
  4. ^ 西武とヤクルトは1位指名。巨人は元木大介を1位指名。
  5. ^ 湯舟は阪神が小池の外れ一位として単独指名。
  6. ^ 亜大だけでなく、ロッテの重光武雄オーナーもテレビの生放送で罵声を浴びせた亜大に激怒したとされる。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 中日スポーツ』1990年11月24日付第5版1頁「きょう'90ドラフト会議 巨人元木 正力オーナー宣言 小池6球団競合」「中日も小池有力」(中日新聞社
  2. ^ a b c 門倉、古池、東瀬が近鉄へ移籍 小池、佐野、善村と電撃トレード」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年11月7日。オリジナルの2001年3月6日時点におけるアーカイブ。2023年1月28日閲覧。
    • 紙面記事:『中日スポーツ』1999年11月7日第5版2頁「門倉、古池、東瀬 近鉄へ移籍 小池、佐野、善村と電撃トレード」(中日新聞社)
  3. ^ a b c 小池傷心 中日移籍で近鉄に不満訴える」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年11月12日。オリジナルの2001年3月5日時点におけるアーカイブ。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 『ドラゴンズ 2000 ファンブック』2000年3月9日発行、発行:中日ドラゴンズ、企画制作・協力:中日スポーツ中日新聞社出版開発局、中日新聞フォトサービス、(株)大広、発売元:中日新聞社、31頁「巨人キラー 思いも新たに」ISBN 978-4806204022
  5. ^ “小池騒動”の中、金田さんの右手に巻かれた包帯…忘れられない400勝投手の脱走劇
  6. ^ a b c 中日スポーツ編集『月刊Dragons中日新聞社、第116号(1992年12月号)、1992年12月1日、11頁、中日スポーツ報道部 アマ野球担当・阿知波浩二記者「中日ドラフト作戦、松井(星稜)を1位で指名 松井を取れればあとは即戦力投手」
  7. ^ a b c d 週刊ベースボール』1990年12月3日号(第45巻第57号、通巻:第1857号)20-22頁「'90ドラフト直前大特集 元木(上宮出)&小池(亜大)をめぐる虚々実々のかけひき 小池秀郎のケース 逆指定3球団のうち指名はヤクルトだけ? 案外低い競争率に終わる可能性もある」(ベースボール・マガジン社
  8. ^ a b c 『週刊ベースボール』1990年4月14日増刊号(第45巻第16号、通巻:第1816号)34頁「プライド高きサウスポーは、チーム11シーズンぶりのVへ「不敗宣言」 小池秀郎〈亜大〉」(ベースボール・マガジン社)
  9. ^ 中日新聞』1990年12月4日朝刊運動1面23頁「小池拒否 初交渉でロッテ“痛撃” 「もう会わぬ」」(中日新聞社
  10. ^ 読売新聞』1990年12月4日東京朝刊スポーツA面19頁「ドラフト1位の亜大・小池投手がロッテを拒否 「今年はプロ断念」」(読売新聞東京本社
  11. ^ a b 『'99プロ野球 12球団 全選手百科名鑑 No.23』168頁 - 『ホームラン』第23巻第3号(通算:第246号 / 1999年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1999年3月31日。
  12. ^ a b c d e 江川卓(解説)、二宮清純(制作) 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之、小関順二 編『プロ野球スカウティングレポート'97』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1997年3月5日、266頁。ISBN 978-4915977398国立国会図書館書誌ID:000002553097 
  13. ^ 小池秀郎のプロフィール”. 株式会社トゥルーマサ. 2024年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月19日閲覧。
  14. ^ a b 『信濃毎日新聞』1985年7月12日別刷31頁「第78回全国高校野球長野大会 > 信州工」(信濃毎日新聞社)
  15. ^ a b c d e 信濃毎日新聞』1986年7月10日別刷17頁「第68回全国高校野球長野大会 > 信州工」(信濃毎日新聞社)
  16. ^ a b c d e f 『日刊スポーツ』1990年10月23日付第7版6頁「小池(亜大)ヤクルト逆指名へ 巨人、西武ならOK その他はプロ拒否も 1億円!?契約 相思相愛」(日刊スポーツ新聞社)
  17. ^ a b c 『週刊ベースボール』1990年9月14日増刊号(第45巻第43号、通巻:第1843号)31頁「「カラーグラビア&本文」立体大特集 小池秀郎〈亜大〉「秋も、真っ向勝負で行きます!」」(ベースボール・マガジン社)
  18. ^ 『信濃毎日新聞』1985年7月24日朝刊スポーツ面16頁「第67回全国高校野球長野大会 第7日 好プレー東海大三 信州工の猛追撃を断つ 東海大三4-3信州工」(信濃毎日新聞社)
  19. ^ a b c 『信濃毎日新聞』1986年7月19日朝刊スポーツ面18頁「第68回全国高校野球長野大会 第2日 左腕小池(信州工)13奪三振 〝若い〟富士見 活路開けず なかなかの〝心臓〟 信州工6-0富士見」(信濃毎日新聞社)
  20. ^ a b c d 『信濃毎日新聞』1986年7月22日朝刊スポーツ面15頁「第68回全国高校野球長野大会 第5日 ドキドキ逆転ドラマ 無心の中野 ほほ笑む 11回連続二塁打 信工 満塁の粘り届かず 中野7-5信州工」(信濃毎日新聞社)
  21. ^ a b 『中日スポーツ』1990年11月13日付第5版4頁「'90ドラフト1位くん 4 小池秀郎投手(亜大) 本命はヤクルト!? 西巨はダミー」(中日新聞社 阿知波)
  22. ^ 過去の記録 投手 東都大学野球連盟
  23. ^ a b c 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、213頁。
  24. ^ a b 中日新聞』1990年10月25日朝刊運動1面25頁「西武など3球団を亜大・小池、指名」(中日新聞社
  25. ^ a b 『中日新聞』1990年11月24日夕刊社会面15頁「中日、小島(元住友金属)を1位指名 小池(亜大)は抽選でロッテ 8球団競合 プロ野球ドラフト会議 元木は巨人が指名」(中日新聞社)
  26. ^ 【ドラフト会議物語28】8球団指名の小池は“避けたかった”ロッテ【90年】”. 週刊ベースボールONLINE (2018年10月16日). 2022年7月6日閲覧。
  27. ^ 『中日スポーツ』1990年11月26日第5版3頁「ロッテ小池に破格の条件用意 史上最高額 年俸1500万円 契約金1億5千万円 ポスト兆治だ背番号29だ 『終身身分保障も』きょう緊急幹部会」(中日新聞社 谷野)
  28. ^ 『中日新聞』1990年12月28日朝刊運動1面21頁「〝小池争奪戦〟やっと終止符 松下電器入り決定」(中日新聞社)
  29. ^ 『中日新聞』1991年1月9日朝刊運動1面21頁「小池の松下入社正式決定」(中日新聞社)
  30. ^ 『中日新聞』1991年1月25日朝刊運動1面25頁「大洋5位指名 米の獲得断念」(中日新聞社)
  31. ^ 『中日新聞』1991年6月18日朝刊運動1面25頁「小池じん帯損傷 都市対抗登板は微妙」(中日新聞社)
  32. ^ 『読売新聞』1991年6月21日東京朝刊スポーツB面18頁「インターコンチ杯に駒大・若田部ら代表選手20人を発表/全日本アマ野球連盟」(読売新聞東京本社)
  33. ^ 『読売新聞』1992年11月22日東京朝刊スポーツA面21頁「ドラフト会議 星稜高校の松井、巨人入りへ 入団表明続々」(読売新聞東京本社)
  34. ^ 『読売新聞』1992年11月22日東京朝刊スポーツB面20頁「ドラフト1位指名選手の横顔/プロ野球」(読売新聞東京本社)
  35. ^ 『毎日新聞』1993年1月27日東京朝刊スポーツ面21頁「93プロ野球始動/8 近鉄・小池秀郎 よみがえった自信」(毎日新聞東京本社)
  36. ^ 「都市対抗野球大会80年史」日本野球連盟 毎日新聞社
  37. ^ 『中日新聞』1992年11月22日朝刊運動1面25頁「92ドラフト」(中日新聞社)
  38. ^ 『読売新聞』1992年11月21日東京夕刊社会面15頁「ドラフト会議 ミスター・強運の残りクジ 「松井」で満面笑み、勝利のサイン」(読売新聞東京本社)
  39. ^ a b c d 『中日新聞』1992年12月2日朝刊運動1面27頁「1億円ルーキー誕生 近鉄・小池 「思ったより多い」 小池」(中日新聞社)
  40. ^ 「ルーキー入団順調 ドラフト無風 1億円契約続々 1位選手、既に9人得 ダイエー、ヤクルト 全選手獲」『中日新聞』(中日新聞社)1992年12月8日、朝刊運動1面17頁。2023年1月28日閲覧。
  41. ^ 「近鉄が新人選手の入団発表 “燃える”小池は『23』」『読売新聞』(読売新聞社)1992年12月25日、東京朝刊スポA19頁。2023年1月28日閲覧。
  42. ^ 朝日新聞』1993年11月30日東京朝刊第14版第一スポーツ面23頁「プロ野球契約更改情報 29日」(朝日新聞東京本社) - 縮刷版1355頁。
  43. ^ ドラフト史上最多の8球団競合→ロッテ入団拒否「あの頃、ツンツンにとんがってましたから」小池秀郎の実家に届いた抗議の電話」『Number Web』2022年10月20日。2025年3月1日閲覧
  44. ^ a b 「ヤクルトと近鉄勢独占 9月の月間MVP」『中日新聞』(中日新聞社)1997年10月8日、朝刊運動1面29頁。2023年1月28日閲覧。
  45. ^ 年度別成績 1997年 パシフィック・リーグ”. NPB.jp. 日本野球機構 (1997年). 2023年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月29日閲覧。
  46. ^ a b c d 林英樹「近鉄小池、古巣で涙の957日ぶり白星」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2002年4月1日。オリジナルの2002年4月2日時点におけるアーカイブ。
  47. ^ a b c d 「プロ野球オールスター第2戦 ローズ6打点、MVP 本拠地で阪神勢が大暴れ」『読売新聞』(読売新聞社)1999年7月26日、東京朝刊スポA19頁。2023年1月28日閲覧。
  48. ^ a b 読売新聞』1999年11月16日大阪朝刊スポーツA面25頁「小池投手らの交換トレード 近鉄、中日球団が正式発表/プロ野球」(読売新聞大阪本社
  49. ^ 『中日スポーツ』1999年11月16日第5版2頁「小池、トレード了承 「心の整理つきました、中日で頑張ります」」(中日新聞社 桝谷紘)
  50. ^ 『東京新聞』1999年11月16日朝刊運動1面23頁「小池が受諾し、トレード成立 近鉄と中日の3対3」(中日新聞東京本社)
  51. ^ 『朝日新聞』1999年11月16日東京朝刊スポーツ1面25頁「近鉄と中日、3対3トレード正式発表(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)
  52. ^ 『中日新聞』1999年11月7日朝刊運動1面29頁「中日 門倉らトレード 近鉄から小池、佐野、善村」(中日新聞社)
  53. ^ a b c 『中日スポーツ』1999年11月21日第5版3頁「“最強投手陣”に割り込む 小池 ウキウキ新天地 決意の単身赴任」(中日新聞社 加藤宏幸)
  54. ^ 「プロ野球短信 25日 朝倉の背番号『41』」『中日新聞』(中日新聞社)1999年12月26日、朝刊運動1面25頁。2023年1月28日閲覧。
  55. ^ 『中日新聞』1999年12月2日朝刊運動1面31頁「プロ野球短信 1日 【中日】武田の背番号を17に」(中日新聞社)
  56. ^ a b c d e 川上、小池 ダウンも納得サイン/竜主力選手 契約更改交渉スタート”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2000年11月28日). 2001年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月28日閲覧。
  57. ^ 「セ・リーグ 関川が先制打」『東京新聞』2000年4月23日、朝刊運動1面23頁。2023年1月28日閲覧。
  58. ^ 「セリーグ 第4節 22日 頭脳派・小池 キラリ粘投 鈴木平、岩瀬、ギャラード 完封リレー 細心の制球『丁寧に低め』」『中日新聞』(中日新聞社)2000年4月23日、朝刊運動2面28頁。2023年1月8日閲覧。
  59. ^ a b 「プロ野球短信 5日」『中日新聞』(中日新聞社)2000年6月6日、朝刊運動1面23頁。2023年1月28日閲覧。
  60. ^ 「セ・リーグ 阪神14安打で12点」『東京新聞』2000年6月16日、朝刊運動1面25頁。2023年1月28日閲覧。
  61. ^ 「高卒ルーキー福沢1軍 竜投に新風起こせ」『中日新聞』(中日新聞社)2000年6月23日、朝刊運動1面33頁。2023年1月28日閲覧。
  62. ^ 「セリーグ 第19節 2日 竜の命綱またプツリ」『中日新聞』(中日新聞社)2000年8月3日、朝刊運動1面29頁。2023年1月28日閲覧。
  63. ^ 「セ・リーグ “水もの竜打線” 投も踏ん張れず Gに7差」『東京新聞』2000年8月3日、朝刊運動1面23頁。2023年1月28日閲覧。
  64. ^ オークラ出版『中日ドラゴンズ伝説』(2008年4月30日出版、ISBN 4-7755-1188-2 / ISBN 978-4-7755-1188-6)p.21
  65. ^ 『中日新聞』2001年9月26日朝刊運動二面26頁「球団総括を新設 中日役員会」(中日新聞社)
  66. ^ 『読売新聞』2001年6月10日東京朝刊スポーツA面27頁「中日・小池秀郎投手を放出へ/プロ野球」(読売新聞東京本社)
  67. ^ 朝日新聞』2001年6月10日東京朝刊スポーツ1面25頁「中日・小池がトレード要望 プロ野球」(朝日新聞東京本社
  68. ^ 「プロ野球短信 12日」『中日新聞』2001年10月13日、朝刊運動1面29頁。2023年1月28日閲覧。
  69. ^ 「小池が古巣・近鉄へ復帰訴え ブルペンで梨田監督にアピール/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)2001年11月9日、大阪朝刊スポA21頁。2023年1月28日閲覧。
  70. ^ a b 「近鉄が3選手のテスト入団発表 3年ぶり小池投手復帰/プロ野球」『読売新聞』読売新聞大阪本社、2001年12月8日、大阪朝刊スポB18頁。2023年1月28日閲覧。
  71. ^ 「ベテラン6投手に楽天、戦力外通告」『中日新聞』(中日新聞社)2005年9月16日、朝刊朝刊運動2面26頁。2023年1月28日閲覧。
  72. ^ 「楽天が高村らに戦力外通告/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)2005年9月16日、東京朝刊スポA21頁。2023年1月28日閲覧。
  73. ^ 「NOMOクラブに小池が入団/社会人野球」『読売新聞』(読売新聞社)2006年3月15日、東京朝刊スポB16頁。2023年1月28日閲覧。
  74. ^ " 新着情報 関西メディカルスポーツ学院野球選手科の廃止について 大阪・神戸関西メディカルスポーツ学院 2014年02月04日
  75. ^ NBCについて | 役員紹介 NOMOベースボールクラブ
  76. ^ 『中日新聞』1990年6月6日朝刊運動2面20頁「早大、亜大が中心 全日本大学野球あすから 愛工大も差なし」(中日新聞社)
  77. ^ 『中日新聞』1990年11月22日朝刊運動2面24頁「ドラフトの主役(下) 大学生 小池、水尾が双へき」(中日新聞社)
  78. ^ 『日刊スポーツ』1990年11月24日付第7版2頁「小池に7球団 「なるようになる」 母の形見指輪握りしめ天命待つ 午後2時にも「選択確定」 「さいわい増して名も上がる」クジでは末吉」(日刊スポーツ新聞社【広瀬】)
  79. ^ a b ドラフト史上最多の8球団競合→ロッテ入団拒否「あの頃、ツンツンにとんがってましたから」小池秀郎の実家に届いた抗議の電話
  80. ^ 【ドラフト会議物語28】8球団指名の小池は“避けたかった”ロッテ【90年】”. 週刊ベースボールONLINE (2018年10月16日). 2022年7月6日閲覧。
  81. ^ a b 『日刊スポーツ』1990年11月25日付1頁「小池元木になったる?! 涙でロッテ 拒否浪人も あ〜今年もドラフト残酷物語 8球団指名もよりによって… 契約金は1億円以上 ロッテ0.01%にかける カネやんガッツポーズ 亜大の学生ブーイング 「あれだけ断ったのに」」(日刊スポーツ新聞社)
  82. ^ 小池秀郎「ドラフト8球団競合!絶対に行きたくない球団に当てられた男」【プロ野球世紀末ブルース】”. エキサイトニュース (2016年12月14日). 2023年10月4日閲覧。
  83. ^ 日刊スポーツ』1990年11月26日付1頁「小池 代理人拒否 矢野亜大総監督 封鎖 深夜姿現す ロッテ入団否定を再確認 オーナー、監督にも会わん 矢野総監督 「弱いチームで自分を磨け」カネやん熱いメッセージ」(日刊スポーツ新聞社
  84. ^ 小池秀郎、ロッテ指名に怒りと涙/ドラフト回顧録”. 日刊スポーツ. 2023年10月22日閲覧。
  85. ^ 朝日新聞1990年11月25日25頁
  86. ^ トレードでは与田剛川本良平が入団している
  87. ^ a b 『週刊ベースボール別冊秋嵐号 2011ドラフト候補名鑑』ベースボール・マガジン社、2011年、90頁。JANコード 4910204481016。 
  88. ^ 「8球団指名の小池秀郎がロッテ拒否」週刊ベースボール別冊 よみがえる1990年代のプロ野球 Part7 1990年編 野茂英雄、颯爽デビュー ベースボール・マガジン社.2021年.P38-39
  89. ^ 『中日スポーツ』1990年12月18日付第5版3頁「ロッテ新選手会長 愛甲 怒りの一発 4300万円で更改 オレが先輩なら小池を殴りたい 何て失礼な断り方だ」(中日新聞社)
  90. ^ 近鉄・小池秀郎、因縁のロッテ戦初登板【1993年4月15日】
  91. ^ a b 日めくりプロ野球 3月 【3月8日】1992年(平4) 石井一久、プロの洗礼にも「誰に打たれたっけ?」」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2011年3月8日(原著2008年3月8日)。2020年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月9日閲覧
  92. ^ 『週刊ベースボール』1991年11月25日号(第46巻第52号、通巻:第1913号)61頁「12球団週間通信 今週の特集 ロッテオリオンズ 「将来性」より「即戦力」がほしい! “千葉の星“石井一久(東京学館浦安)指名に踏み切れないというお家事情」(ベースボール・マガジン社)
  93. ^ 『中日スポーツ』1991年11月22日第5版3頁「【ロッテ】直前に吉田に変更」(中日新聞社)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]