奈良原浩

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奈良原 浩
中日ドラゴンズ コーチ #83
Narahara hiroshi.jpg
西武コーチ時代
(2012年9月30日、西武ドームにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県南埼玉郡白岡町(現:白岡市
生年月日 (1968-05-16) 1968年5月16日(50歳)
身長
体重
168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手三塁手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年4月6日
最終出場 2006年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2007 - 2011)
  • 埼玉西武ライオンズ (2012 - 2016)
  • 中日ドラゴンズ (2017 - )

奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県南埼玉郡白岡町(現:白岡市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)。現在は中日ドラゴンズの一軍内野守備走塁コーチを務めている。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる[1]。4歳頃に軟式野球ボールグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった[1]篠津小ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学[2][3]。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫の優れたノックで守備を鍛えられたという[2]。1学年上には河田雄祐小林昭則がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。主将となった3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は1番・遊撃手として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている[4]

青山学院大学へ進むと、2年の秋に遊撃手として東都リーグのベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した[5]。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ[6]、同年は日米大学野球の代表にも選ばれた[7]。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している[8][9][10]。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。1990年のドラフト2位で西武ライオンズに指名され、契約金と年俸それぞれ6,000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ[11]

プロ野球選手時代[編集]

西武ライオンズ[編集]

プロ1年目の1991年から、コーチの伊原春樹には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け[12]、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。同年の日本シリーズでは第1戦で代走としてシリーズ初出場を果たした[13]

1992年は代走や田辺徳雄の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された[14]同年の日本シリーズでは第3戦の8回に伊東昭光からシリーズ初安打、初打点を記録している[15]オフには380万円増の年俸1,700万円(推定)で契約を更改した[16]

1993年は遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した[17]1994年は5月7日の対ロッテ戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、鎖骨を骨折して全治2ヶ月のケガを負っている[18]

1995年松井稼頭央と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。1996年は田辺とともに主に二塁手として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。1997年高木浩之が二塁手として先発出場する事が多く、出場試合数は100試合を割っている。1997年7月10日の近鉄戦の9回表無死一、二塁で二走の奈良原が捕手からのけん制でアウトこれに抗議して塁審の胸を突き奈良原は退場となり監督の東尾修は試合終了後塁審に胸ぐらをつかみ右足で回し蹴りし東尾は3試合出場停止制裁金10万と処分を科された[19]。同年10月30日に西崎幸広との交換トレードで石井丈裕とともに日本ハムファイターズへ移籍[20]。この際、日本ハム監督の上田利治はトレード要員として奈良原と投手1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の東尾修はやむを得ず承諾したという[21][22]

日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ[編集]

1998年は開幕当初は代走や二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わってスタメンで起用されると3割を超える打率をマークし、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着した[23]。その後、右肩を痛めた田中幸雄が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている[23]。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の規定打席に到達し、ビッグバン打線の中で貴重なつなぎ役となった[21][23]。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の出塁率.388を記録し[3]、年俸は2,600万円増の7,400万円(推定)となっている[24]

1999年は田中が遊撃手に戻り、自身は代走や守備固めなどでの起用が増えた。2000年は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた[25]。オフにはFAの権利を行使し、複数年契約で残留している[26]

2002年には監督の大島康徳から指名され、主将に就任した[12]。同年は遊撃手のレギュラーとして期待され[27]、オープン戦では打率.412の好成績を残している[2]。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大によって待球が難しくなった事もあり、打撃不振に陥った[2]。また、札幌市への本拠地移転計画の発表や日本ハム本社の牛肉偽装事件などがあってチームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている[1]。オフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した[28]木元邦之の成長などもあって出場機会は徐々に減り、2005年オフには翌年の年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている[29]

2006年6月20日に、金銭トレードにより中日ドラゴンズへ移籍[30]。9月19日の対横浜戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている[31]なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対巨人戦で延長12回表に放った適時打であった。日本シリーズでは第1、2戦で代走として起用されている[32]。同年限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した[33]

現役引退後[編集]

中日二軍内野守備走塁コーチ時代(2008年6月25日、阪神鳴尾浜球場)

二軍内野守備走塁コーチを務めたのち、2011年より二軍野手コーチとなった。同年をもって落合博満が監督を辞任すると、10月6日付で一軍ヘッドコーチの森繁和ら他の8人のコーチとともに退団が発表された[34]

2012年より、埼玉西武ライオンズの一軍内野守備・走塁コーチに就任した[35]。2016年は両リーグワーストの101失策を記録した[36]2016年9月29日に、一軍打撃コーチの宮地克彦とともに退団が発表された。

2016年10月12日、中日ドラゴンズの一軍内野守備走塁コーチに就任し6シーズンぶりに中日に復帰した。攻撃時は三塁コーチを務める[37]

選手としての特徴[編集]

辻発彦と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ[38]ゴールデングラブ賞の受賞歴こそないものの、オレステス・デストラーデからは「オジー・スミスとまでは言わないが、MLBで十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている[39]。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や石毛宏典と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した[14]。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取る事など多くを学んだという[14]。守備では特に打球へのスタートを重視しており、捕手のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた[14]

西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している[14]。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと東尾修は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという[14]。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている[12]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]


















































O
P
S
1991 西武 70 63 57 9 13 1 0 0 14 1 3 3 3 0 3 0 0 9 0 .228 .267 .246 .512
1992 66 40 35 9 6 1 0 0 7 4 3 1 2 0 3 0 0 7 0 .171 .237 .200 .437
1993 110 205 161 20 40 3 0 0 43 13 10 4 16 1 26 0 1 24 1 .248 .354 .267 .622
1994 72 176 141 26 35 5 0 0 40 11 14 4 11 2 21 0 1 17 1 .248 .345 .284 .629
1995 102 245 208 19 47 5 1 0 54 13 19 6 18 2 16 0 1 29 1 .226 .282 .260 .542
1996 108 215 170 31 37 4 3 2 53 8 22 5 22 3 18 0 2 34 3 .218 .295 .312 .607
1997 94 100 89 20 17 1 2 0 22 3 13 6 5 0 6 0 0 17 1 .191 .242 .247 .489
1998 日本ハム 128 464 364 72 102 6 4 1 119 25 30 6 36 0 60 1 4 50 9 .280 .388 .327 .715
1999 88 121 103 17 18 5 0 0 23 6 6 1 9 0 9 0 0 18 1 .175 .241 .223 .464
2000 101 305 254 50 65 16 0 3 90 31 14 3 13 2 36 0 0 46 6 .256 .346 .354 .700
2001 124 399 334 32 79 19 3 4 116 19 27 5 31 1 33 0 0 59 5 .237 .304 .347 .652
2002 116 364 320 22 65 6 0 1 74 19 13 4 21 2 21 0 0 49 1 .203 .251 .231 .482
2003 109 376 317 40 82 24 3 0 112 32 12 4 16 4 35 1 4 70 3 .259 .336 .353 .689
2004 85 109 99 21 24 4 1 0 30 9 5 1 4 0 5 0 1 20 1 .242 .286 .303 .589
2005 98 179 165 21 38 7 2 2 55 17 6 2 5 1 7 0 1 35 1 .230 .264 .333 .598
2006 中日 37 35 31 4 6 2 0 0 8 1 1 0 3 0 1 1 0 11 0 .194 .219 .258 .477
NPB:16年 1508 3396 2848 413 674 109 19 13 860 212 198 55 215 18 300 3 15 495 34 .237 .311 .302 .613

年度別守備成績[編集]


二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 16 7 12 0 5 1.000 - 48 25 50 0 13 1.000
1993 4 3 6 0 0 1.000 - 102 82 183 4 43 .985
1994 20 10 25 0 1 1.000 - 53 64 111 3 26 .983
1995 39 26 48 1 5 .987 - 75 72 169 3 28 .988
1996 97 150 172 5 44 .985 - 9 3 7 0 1 1.000
1997 83 73 98 2 21 .988 - -
1998 33 76 78 2 23 .987 3 1 0 0 0 1.000 99 117 215 11 46 .968
1999 31 26 39 1 8 .985 14 7 8 0 1 1.000 29 15 52 2 8 .971
2000 30 64 85 2 15 .987 - 80 96 149 11 40 .957
2001 - 40 14 40 3 1 .947 96 79 233 6 49 .981
2002 65 107 153 0 29 1.000 4 0 0 0 0 ---- 52 69 131 2 23 .990
2003 88 169 232 3 53 .993 8 3 8 0 0 1.000 23 16 39 1 9 .982
2004 65 31 67 2 11 .980 5 0 6 1 1 .857 13 9 20 0 6 1.000
2005 56 49 82 0 20 1.000 2 2 1 1 0 .750 39 32 92 3 19 .976
2006 14 6 18 0 3 1.000 7 1 0 0 0 1.000 -
通算 641 797 1115 18 238 .991 83 28 63 5 3 .948 718 679 1451 46 311 .979

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 9 (1991年 - 1995年)
  • 5 (1996年 - 1997年)
  • 4 (1998年 - 2006年途中)
  • 95 (2006年途中 - 同年終了)
  • 82 (2007年 - 2011年)
  • 74 (2012年 - 2016年)
  • 83 (2017年 - )

コーチ歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.56
  2. ^ a b c d 『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57
  3. ^ a b 毎日新聞、1998年11月24日付朝刊、埼玉地方面
  4. ^ 朝日新聞、1986年3月31日付朝刊、P.19
  5. ^ 読売新聞、1988年11月4日付朝刊、P.19
  6. ^ 読売新聞、1989年5月27日付朝刊、P.18
  7. ^ 読売新聞、1989年6月10日付朝刊、P.19
  8. ^ 読売新聞、1989年10月27日付朝刊、P.18
  9. ^ 読売新聞、1990年5月24日付朝刊、P.19
  10. ^ 読売新聞、1990年10月26日付朝刊、P.18
  11. ^ 読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19
  12. ^ a b c 『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.58
  13. ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  14. ^ a b c d e f 「ベースボール・ルネッサンス1993 クローズアップ 奈良原浩 他のプレーヤーが飛びついて捕るような打球を正面でさばく。」『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.48
  15. ^ 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)
  16. ^ 読売新聞、1992年12月5日付朝刊、P.21
  17. ^ 日本野球機構 1993年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  18. ^ 読売新聞、1994年5月8日付朝刊、P.13
  19. ^ 西武・森慎二、2度目の先発試合での退場劇【1997年7月10日】
  20. ^ 朝日新聞、1997年10月31日付朝刊、P.31
  21. ^ a b 「BASEBALL 西武野球の粋を知るつなぎ役・奈良原浩が日ハムにもたらした効果。」『Sports Graphic Number』、1998年7月30日号、P.153
  22. ^ 97年最下位だったチーム盗塁数の改善と西武対策(特にコーチの伊原春樹の作戦)で強く要望していた。(日本プロ野球トレード大鑑1936-2001 ベースボールマガジン社より)
  23. ^ a b c 「新天地1年目を振り返る 奈良原浩 念願のシーズンフル出場も『喜び』と『悔しさ』の1年」『週刊ベースボール』、1998年10月26日号、P.60
  24. ^ 読売新聞、1998年12月1日付朝刊、P.25
  25. ^ 読売新聞、2000年9月24日付朝刊、P.16
  26. ^ 毎日新聞、2000年11月9日付朝刊、P.23
  27. ^ 読売新聞、2002年2月23日付朝刊、P.18
  28. ^ 毎日新聞、2002年12月5日付朝刊、P.19
  29. ^ 朝日新聞、2005年9月30日付朝刊、P.21
  30. ^ 朝日新聞、2006年6月21日付朝刊、P.23
  31. ^ スポニチ 日めくりプロ野球 【9月19日】2006年 移籍1号本塁打、と思いきや…奈良原浩 幻の大飛球
  32. ^ 日本野球機構 2006年度日本シリーズ 試合結果
  33. ^ 朝日新聞、2006年10月31日付朝刊、P.18
  34. ^ 朝日新聞、2011年10月23日付朝刊、P.23
  35. ^ 朝日新聞、2011年11月11日付朝刊、P.23
  36. ^ 西武「守乱」の責任とり奈良原コーチ退団 2016年9月29日東京スポーツ
  37. ^ 中日、奈良原氏がコーチ就任「スキのない野球を浸透させたい」
  38. ^ 「西武・辻発彦と奈良原浩の内野手論 『見えないファイン・プレー』の美学」『現代』、1994年3月号、P.120
  39. ^ 「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.32

関連項目[編集]

外部リンク[編集]