皆川睦雄

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皆川 睦雄
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山形県南置賜郡山上村大字関根
(現・米沢市
生年月日 (1935-07-03) 1935年7月3日
没年月日 (2005-02-06) 2005年2月6日(満69歳没)
身長
体重
179 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1954年
初出場 1954年5月8日
最終出場 1971年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2011年
選出方法 競技者表彰

皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 2005年2月6日)は、山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市[1]出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家

現役選手としては、野村克也と共に南海ホークスの同期入団で同球団黄金期の主力選手であった。2017年現在、日本プロ野球界「最後の30勝投手」である[2]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市)で7人兄弟の末子として誕生。幼い時に父を亡くし、経済的に恵まれない環境の中、父の後を引き継いだ兄の運送業の手伝いをしながら成長。小学生の時には大人顔負けのボールを投げており、山上村立山上中学校に入学すると、米沢市の大会などで活躍。米沢市内の中学にはなかなか勝てなかったものの、関根にすごいピッチャーがいると関係者の間で知られるようになる。中学卒業後は米沢高校に進学し、民法学者としてその名を知られた遠藤浩が野球部の監督を務めており、遠藤の指導で力をつける。1年次の1951年当初は外野手であったが、途中から投手に転向。その後はそれまでの3年生投手が外野に回ったため、皆川が1年生ながらエースとなった。同年の夏の甲子園東北大会では右手小指を骨折しながら1回戦の内郷戦で完封勝利を記録するが、骨折の影響で準決勝の安積戦では指の痛みが限界に来て大量失点を喫して敗れた。2年次の1952年は米沢高が西高と東高に分かれ、皆川は西高に所属。夏の甲子園山形大会で見事優勝を飾るが、東北大会では1回戦で同じく優勝候補の気仙沼に敗退。この頃から各大会にプロ野球のスカウトが来て、皆川をマークにしていた。3年次の1953年夏の甲子園東北大会を勝ち上がり決勝に進むが、白石戦でエース・大沼清と投げ合い敗退。甲子園出場はならなかったが、この試合で二塁塁審を務めていた岩本信一が皆川の素質を買い、南海ホークス山本一人選手兼任監督に皆川の獲得を薦めたという[3][4]。当初は立教大学に進学を希望ということで、南海は手を引いた形になっていたが、母子家庭で家計も苦しく断念。皆川が先輩に伴われて「南海にお世話になります」といってきて、1954年に南海へ入団。同期入団には野村克也宅和本司がおり、進学を断念した立教には後に「立教三羽ガラス」と呼ばれた杉浦忠長嶋茂雄本屋敷錦吾が入学している。

現役時代[編集]

入団後最初の2年間は白星に恵まれず、自由契約も覚悟したが、山本(鶴岡)の「皆川はプロで生きて行こうと努力しているし、まじめにやっている。来シーズン辺りは活躍するはずだ。ワシが保障するから給料は倍にしてやれ」の一言で解雇どころか給料倍額を言い渡され奮起する。

3年目の1956年に11勝を挙げるが、同時に肩を痛め、コーチの柚木進に勧められるかたちでオーバースローからアンダースローサイドスローと言われることもある)に転向した[5]。このフォーム改造が功を奏し、1957年に18勝、1958年に17勝。1962年にはチームトップの19勝を挙げるなど、8年連続2桁勝利を挙げ、安定した成績を残すようになる。

1968年10月6日の対東映戦でシーズン30勝と通算200勝を同時に達成。アンダースロー投手の200勝は皆川が初めてであった。また、シーズン30勝は1964年の小山正明(30勝)以来4年ぶりの快挙だった。以後シーズン30勝を達成した投手は誕生していない[6]。最終的に31勝まで伸ばし、防御率も1.61で最多勝利最優秀防御率を獲得。皆川自身、2桁勝利は12度マークしているが、20勝を挙げたのはこのシーズンだけである。

1969年も期待されたが、公式戦まであと1週間に迫った巨人とのオープン戦でバントを失敗し、投球を右人差指に当て骨折するという事故を起こし、再起まで3ヶ月という診断で、結局この年は5勝に留まった[7]。皆川故障の影響は大きく、同年、南海は戦後初の最下位に転落している。

1971年限りで現役引退した。

通算成績は759試合の登板で、221勝139敗、防御率2.42。2016年現在、221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録である。またアンダースロー投手としては1983年山田久志に抜かれるまで最多勝記録でもあった。なお、南海の大エースとして名高い杉浦よりも通算勝利数は上回っており、200勝がラインとなる日本プロ野球名球会にも入会している。

引退後[編集]

1976年から1977年までは阪神の一軍投手コーチを務め、山本和行をリリーフエースに、池内豊を中継ぎエースに育てた。1986年から1988年までは巨人の一軍投手コーチを務め、1987年のリーグ優勝に貢献。水野雄仁桑田真澄斎藤雅樹を指導した。特に桑田は「僕が入団した翌年、打たれても、皆川さんの大丈夫、大丈夫、に随分励まされた」と語っている[8]1991年から1992年は近鉄の一軍投手コーチとして、佐野重樹高村祐を育てた。1998年には1年だけ台湾プロ野球三商タイガースで投手コーチを務めた。

朝日放送の野球解説者を長年にわたり務め野球評論家の傍ら、少年野球の指導にも力を入れていた。

2005年2月6日、敗血症のため死去。69歳没。葬儀では南海時代の先輩岡本伊三美が弔辞を読み、野村克也、吉田義男金田正一王貞治、母校の高校のOBらが参列した。

出身地の米沢市と山形県では、生前のプロ野球選手としての輝かしい成績と、現役引退後も野球にとどまらず郷里山形の発展に尽力した功績を称え、2005年11月3日には米沢市市民栄誉賞を、2006年3月15日には山形県県民栄誉賞をそれぞれ贈呈した。また同年夏には米沢市営野球場(上杉スタジアム)の愛称が「皆川球場」に改称された。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館野球殿堂)競技者表彰(エキスパート部門)に、落合博満(プレーヤー部門)と共に選出された。

プレースタイル・逸話[編集]

投球スタイル[編集]

宅和本司杉浦忠ジョー・スタンカら、派手な活躍をしたエースの陰に隠れながら、アンダースローからのシュートシンカーと制球力を武器に長く2番手投手として南海投手陣を支えた。

皆川の球質は、打者の手元で浮き上がる杉浦とは異なり、ストレートそのものが沈み気味であるうえ、シンカーはさらに大きく落ちるという特徴があった[9]

毎年、安定して2桁勝利を挙げ続けてきたが、張本勲榎本喜八といった左の強打者への攻めに限界があった。このため、投球の幅を広げるべく、野村克也と小さく鋭く曲がるスライダーの開発・習得に取り組み、1968年シーズン前に完成させた。この球種は、打者の手元で芯を外すためにあえて変化を小さくしたものであり、習得を進言した野村曰く「世界初のカットボール」である[1]。オープン戦最後の巨人戦で王貞治相手に試し、どん詰まりのセカンドフライに仕留め、その効果を確認したという。皆川は王を打ち取ったときにマウンド上で満面の笑みを見せ、野村はそのときの嬉しそうな顔を忘れられないと語っている[9][10]

同い年、同チームで、同じくアンダースロー(に当時は分類されることが多かった[11])杉浦忠とは、「本格派」と「技巧派」、「太く短く」と「細く長く」など、対比されることが多い。野村は、杉浦を「華やかな表看板」、皆川を「地味な縁の下の立役者」と表現している[9]。皆川自身は「杉浦の陰で咲く花」と評されても反論せず「スギ(杉浦)はスギ。僕は僕」と笑顔で黙止したという[12]1969年秋のドラフト1位の佐藤道郎が入団したころ、チームには“太く短く”をモットーとする「杉浦派」と“細く長く”の「皆川派」という言葉があったという[13]

野村克也とは同い年の同期入団であり、15年以上に渡ってバッテリーを組んだ。皆川自身は「221勝のほとんどが野村に助けられたもの」と言っているが[14]豊田泰光は「好リードでその力を引き出したのは野村だったが、野村もまた抜群の制球力を利用した研究によって、随一の配球理論を構築したという面があるだろう」と述べている[15]

遊撃手時代、守備に苦手意識を持っていた[16]広瀬叔功は自著で、「私にとって、皆川氏は、実は大の苦手だった。皆川投手の落ちる球で、相手打者はゴロばかり。ショート守備の下手クソさが目立って仕方がない。逆に言えば、相手を三振に仕留めてくれるスギやん(杉浦)のありがたさをよく分からせてくれたのがこの皆川氏だった」と述懐している[17]

人物・逸話[編集]

東北人らしい、物静かでまじめ、粘り強い性格だった。

皆川の人となりを表すエピソードとして以下の話がよく知られる[1]。アンダースローに転向した1956年西鉄ライオンズとの試合で8番打者・和田博実を3ボール0ストライクにした際、皆川は「どうせ打ってこないだろう」と真ん中に軽いストレートを放ったが、主審の二出川延明に「ボール」と判定される。捕手である野村は当然のこと、皆川も「ど真ん中なのになぜボールなのか」と猛抗議したところ、二出川に「気持ちが入っていないからボールだ!」と一喝された[18]。この無茶なジャッジに野村は憤慨したものの、当の皆川は逆に感銘を受け、以後の投球で一球たりとも手を抜かないようになり、色紙にも「一球入魂」と書くようになったという。

まじめ、摂生ぶりを示すエピソードとして次のような話がある[8][19]

  • 登板の日は自宅で必ず餅を食べ、「腹持ちがいいんだ」が口癖だった。
  • 車の運転はせず夫人に送られて球場入り、勝てば次も同じ道を通りゲン担ぎをした。
  • 夫人特製の長袖パジャマを夏も離さず、冷房もかけなかった。

薬師寺管長の高田好胤の知遇を得、高田の講演会では皆川も行動を共にする機会が多かった。皆川の長男の結婚式には高田が駆けつけて祝辞を述べたという[1]

豊田泰光とは妙にウマが合い、食事をよく共にしたという。豊田は、「山形出身の皆川は東北人=無口という昔のイメージ通りの人間で、酒も飲まない。弾んだ会話というものもなかったが、それがよかった。とにかく一緒にいるだけでほっとした」「万事控えめな男と私(豊田)の組み合わせを、周囲は不思議がったものだ」と語っている[15]

確執[編集]

読売ジャイアンツ一軍投手コーチ時代、皆川とエース投手の西本聖は確執があり、1980年から1985年まで6年連続2桁勝利を記録したほどの大投手となっていた西本だが、皆川コーチ加入の1986年以降、思うような成績を残すことが出来なかった。球団は二人を和解させようとしてオフに和解ゴルフをさせたがマスコミには「茶番劇」と書かれ、二人のギクシャクした関係はとても和解したとは言い難かった。1988年を最後に、巨人生え抜きであった西本はトレードで中日ドラゴンズへ移籍した[20]。ドラゴンズでの西本はその年に年間20勝の大台を記録し、翌年も11勝を挙げている。皆川もまた、1988年を最後に巨人の一軍投手コーチを辞めている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1954 南海 10 3 0 0 0 0 3 -- -- .000 93 23.1 23 1 6 -- 0 11 0 0 9 8 3.00 1.24
1955 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 25 6.2 4 0 2 0 0 3 0 0 1 1 1.29 0.90
1956 60 16 1 1 0 11 10 -- -- .524 760 190.2 169 8 31 2 1 68 5 1 69 46 2.17 1.05
1957 56 23 5 2 1 18 10 -- -- .643 899 229.0 170 7 52 5 5 90 1 0 74 60 2.36 0.97
1958 52 26 12 6 2 17 8 -- -- .680 908 230.2 172 9 46 4 8 113 2 0 62 47 1.83 0.95
1959 51 14 0 0 0 10 6 -- -- .625 634 163.2 129 7 26 2 4 91 2 1 52 35 1.92 0.95
1960 39 17 2 1 0 11 8 -- -- .579 634 158.1 144 7 36 2 4 78 1 0 58 51 2.89 1.14
1961 51 4 1 0 1 16 7 -- -- .696 695 177.1 142 11 38 10 4 119 0 0 53 39 1.97 1.02
1962 59 22 8 3 3 19 4 -- -- .826 849 212.1 201 13 33 4 1 119 0 0 68 59 2.49 1.10
1963 53 12 2 1 0 12 9 -- -- .571 736 188.0 165 16 33 3 3 96 0 0 62 53 2.54 1.05
1964 52 13 2 0 0 7 5 -- -- .583 672 161.0 161 19 36 3 6 73 0 0 65 52 2.91 1.22
1965 40 18 4 2 1 14 10 -- -- .583 651 163.2 140 12 35 2 6 89 0 0 58 48 2.63 1.07
1966 46 31 11 6 2 18 7 -- -- .720 837 212.0 188 20 34 2 8 109 4 0 63 50 2.12 1.05
1967 45 35 9 3 1 17 13 -- -- .567 1017 255.2 215 16 67 2 7 152 1 0 68 65 2.29 1.10
1968 56 38 27 8 4 31 10 -- -- .756 1346 352.1 256 18 63 7 9 193 2 0 75 63 1.61 0.91
1969 33 13 4 1 2 5 14 -- -- .263 538 134.1 126 16 20 1 4 65 0 0 47 39 2.62 1.09
1970 27 24 8 2 0 9 10 -- -- .474 676 163.2 154 14 40 2 7 100 1 0 72 69 3.79 1.19
1971 25 18 5 1 1 6 5 -- -- .545 582 135.1 145 28 35 2 7 69 0 0 79 64 4.27 1.33
通算:18年 759 327 101 37 15 221 139 -- -- .614 12552 3158.0 2704 222 633 53 84 1638 19 2 1035 849 2.42 1.06
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 49 (1954年 - 1960年)
  • 22 (1961年 - 1971年)
  • 81 (1976年 - 1977年)
  • 73 (1986年 - 1988年)
  • 72 (1991年 - 1992年)

登録名[編集]

  • 皆川 睦男 (みながわ むつお、1954年 - 1969年)
  • 皆川 睦雄 (みながわ むつお、1970年 - )

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 置賜スポーツ偉人伝 皆川睦雄 置賜文化フォーラム
  2. ^ ベースボールマガジン2011年9月号30ページ
  3. ^ 日本プロ野球名球会『名球会 comics 皆川睦雄』 ぎょうせい 1992年 P.79-87
  4. ^ 【球界高校人脈】山形“弱小県”返上へ!皆川睦雄、広島・栗原ら輩出 - ZAKZAK
  5. ^ 会員紹介 皆川睦雄 - 名球会ホームページ
  6. ^ 同じ年MLBでもデニー・マクレインがシーズン30勝を達成している。MLBでもこの年を最後にシーズン30勝投手を達成した投手はいない。
  7. ^ 「南海ホークス40年史」株式会社南海ホークス 1978年
  8. ^ a b 球談徒然”. 2015年6月5日閲覧。
  9. ^ a b c 野村克也「エースの品格 一流と二流の違いとは」小学館 2008年
  10. ^ 野村克也「名選手にドラマあり 脳裏に焼き付くあのシーン」小学館 2014年
  11. ^ 現在では杉浦の投法サイドスローに分類することが多い。
  12. ^ スポニチ Sponichi Annex 2011年1月14日”. 2015年6月5日閲覧。
  13. ^ 「南海ホークス 栄光の歴史 1938-1988年」ベースボールマガジン社 2012年
  14. ^ 朝日新聞DIGITAL 2011年1月15日”. 2015年6月5日閲覧。
  15. ^ a b 豊田泰光「チェンジアップ」(日本経済新聞 2011年1月20日)”. 2015年6月5日閲覧。
  16. ^ その後外野手中堅手)にコンバート
  17. ^ 広瀬叔功「南海ホークス ナンバ 栄光と哀しみの故郷」ベースボールマガジン社 2014年
  18. ^ これは当時の時代背景が生んだことでもあり、現在のプロ野球ではこのようなジャッジは許容されないと考えられる。
  19. ^ 日刊スポーツ”. 2015年6月5日閲覧。
  20. ^ のち、オリックスを経て古巣巨人に復帰した上で同年引退。

関連項目[編集]