ジョージ・アルトマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ジョージ・アルトマン
George Altman
George Altman.jpg
1961年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ノースカロライナ州ゴールズボロ
生年月日 (1933-03-20) 1933年3月20日(87歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1955年
初出場 MLB / 1959年4月11日
NPB / 1968年4月6日
最終出場 MLB / 1967年10月1日
NPB / 1975年10月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジョージ・リー・アルトマンGeorge Lee Altman , 1933年3月20日 - )は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ゴールズボロ出身の元プロ野球選手外野手)。

経歴[編集]

テネシー大学卒業後、1955年シカゴ・カブスと契約。1959年4月11日メジャーデビューを果たすと、すぐに主力選手として活躍。1961年にはオールスターゲームに初出場を果たし、初打席本塁打を記録。1963年にはセントルイス・カージナルス1964年にはニューヨーク・メッツに1年だけ在籍。1965年に古巣・カブスへ復帰。カブスではアーニー・バンクスの後の5番を打って記録を援護したほか、ロン・サントドン・ジマーとチームメイトであった。カージナルスではスタン・ミュージアルケン・ボイヤーと打線を組んだ。レッズ戦とジャイアンツ戦に強く、7人の殿堂入り投手から本塁打を放った。

1968年東京オリオンズに入団。来日1年目の同年にいきなり現役メジャーリーガーの実力を見せつけ、打率.320、34本塁打、100打点の好成績を挙げる。慣れない日本の地で超一流打者の証明とも言える3割30本100打点を達成し、打点王ベストナインに輝いた。1969年は打率が低迷するが、1970年1971年には2年連続ベストナインに輝き、1970年には10年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズではシリーズ5連覇中の巨人と対戦するが、アルトマンは勝負を避けられる。10月27日の第1戦(後楽園)は投手戦になったこともあり、徹底してアルトマンを歩かせようとした。あろうことか5打席中4打席が四球で、うち3打席は敬遠であった。5打席目でようやく放ったレフトフライも、アルトマンがボールを無理して打ちに行った結果であり、巨人は作戦が功を奏し、延長戦の末に1-0でサヨナラ勝ち。対するロッテは第2戦以降もリズムを掴めず、3連敗で窮地に追い込まれる。アルトマンの1試合4四球は、当然のように日本シリーズ新記録であり、1試合3敬遠もまた新記録であった。11月1日の第4戦(東京)を勝って粘りを見せる。翌2日の第5戦(東京)は、ロッテの先発・小山正明の好投で2-2のまま7回表に進んだ。ロッテは小山から木樽正明につないだが、巨人は木樽を攻め、ランナーを1塁に置いて、森昌彦がレフト線へのフライを打ち上げた。レフトのアルトマンとショートの飯塚佳寛が追うちょうど真ん中に打球は飛んでいき、打球を追った飯塚とアルトマンは疾走したまま衝突。197cmのアルトマンと衝突した172cmの飯塚は、その衝撃で倒れて意識を失ってしまった。打球は外野を転々としたが、アルトマンは打球を追わず、意識を失ってしまった飯塚を抱きかかえて必死に呼びかけ、介抱したのである。その間にランナーは生還して決勝点となる1点が入り、打った森も三塁に達したが、打球を追うのをやめてまで、倒れた飯塚を必死に介抱したアルトマンの姿は、多くの人々に巨人のシリーズ6連覇以上の強い感動を与えた。アルトマンは、目先の1点を失うことより、今後に影響を及ぼすかもしれないチームメイトの体を心配することを優先したのだ。結果的にこの1点がロッテのシリーズ敗退を決定的なものにしたが、川上哲治監督は試合後にこのプレーを絶賛した。

1974年まで常に20本塁打以上を放ち、メジャーリーグ以上に本塁打を量産。7年連続20本塁打以上という安定した打撃でロッテを強豪チームに押し上げていき、1974年には6月13日から同23日まで6試合連続本塁打のパ・リーグタイ記録を樹立。来日以来最高の調子でシーズンを送ろうとし、高打率をキープして本塁打も打ちまくっていたが、アルトマンの腹部は異変をきたしていた。初期の大腸癌で、前年あたりから体が疲れやすく下血があったのである。最初はだと思っていたためにあまり気にもとめなかったが、下血はひどくなるばかりでいよいよ症状は悪化。その下血のひどさに貧血状態になるほどで、試合が終わると下着は血まみれになっていた。アルトマンはクリーニングに出さず自分で下着を洗い、優勝争いをしているチームのために病気を隠して必死のプレーを続けた。しかし病状は悪化するばかりで、8月7日南海後期3回戦(宮城)の試合中に気を失って倒れ、アルトマン自ら金田正一監督に途中交代を申し出す。球団側に癌を患っていることを知られることとなり、シーズン途中ながら帰国して手術に踏み切った。手術は無事に成功したが、4年ぶりのリーグ優勝の輪に加わることができず、中日との日本シリーズにも出場できなかった。この年は85試合出場ながら打率.351、21本塁打をマーク。アルトマンは癌を克服したものの、闘病生活の影響で体重が落ち、以前のように活躍できるかどうか未知数であった。ロッテはアルトマンの体調と1975年に42歳となる年齢を考え、契約年俸を低く抑えようとしたが、アルトマンとロッテの交渉は決裂。ロッテを解雇となったが、球界復帰のための練習を怠らなかった。

1975年に阪神タイガースの入団テストを受け、健康診断で何の問題もないことが分かって入団が叶ったのである。同年4月6日の中日戦(ナゴヤ)では鈴木孝政からセ・リーグ最年長(42歳0ヶ月)満塁本塁打を記録[1]し、この試合では2番手の竹田和史からも本塁打を放って開幕2連勝に貢献。5月6日の中日戦(甲子園)では松本幸行からセ・リーグ最年長(42歳1か月)で三塁打を放った[2] [3]。勝負強いアルトマンが5番に入ることで、敬遠されることが少なくなった4番の田淵幸一はこの年、王貞治を抑えて本塁打王になった。日本プロ野球NPB)に在籍した外国人選手で初めて200本塁打を達成したが、通算1000安打にはあと15本足りなかった。NPB通算205本塁打は当時(1975年シーズン終了時)の外国人最多。この記録は翌1976年近鉄クラレンス・ジョーンズに破られるが、アルトマンが帰国の際、在阪球団所属という縁もあって見送りに来てくれたジョーンズに「俺の記録は君が一日でも早く破ってくれ」と依願している。

引退後はシカゴ大豆相場師となった[4]

人物[編集]

敬虔なるキリスト教徒として知られ、酒・タバコなどの嗜好品は嗜まず日曜、祝日にはデーゲームがあろうと教会での礼拝を怠らなかった。また東京スタジアムにアルトマン・シートを設けてファンを招待し、190cm以上の風貌と積極的なチャリティー活動から「足長おじさん」と呼ばれて親しまれた。

メジャーでは「ビッグジョージ」の愛称で親しまれた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1959 CHC 135 468 420 54 103 14 4 12 161 47 1 0 6 1 34 4 7 80 8 .245 .312 .383 .695
1960 119 372 334 50 89 16 4 13 152 51 4 3 2 3 32 6 1 67 4 .266 .330 .455 .785
1961 138 573 518 77 157 28 12 27 290 96 6 2 4 7 40 3 4 92 4 .303 .353 .560 .913
1962 147 603 534 74 170 27 5 22 273 74 19 7 0 2 62 14 5 89 8 .318 .393 .511 .904
1963 STL 135 521 464 62 127 18 7 9 186 47 13 4 2 6 47 2 2 93 7 .274 .339 .401 .740
1964 NYM 124 445 422 48 97 14 1 9 140 47 4 2 2 2 18 4 1 70 8 .230 .262 .332 .594
1965 CHC 90 216 196 24 46 7 1 4 67 23 3 2 1 0 19 2 0 36 1 .235 .302 .342 .644
1966 88 201 185 19 41 6 0 5 62 17 2 2 2 0 14 3 0 37 3 .222 .276 .335 .612
1967 15 20 18 1 2 2 0 0 4 1 0 0 0 0 2 0 0 8 0 .111 .200 .222 .422
1968 東京
ロッテ
139 586 531 84 170 33 1 34 307 100 8 5 0 7 43 3 5 80 10 .320 .372 .578 .950
1969 129 500 457 65 123 25 2 21 215 82 9 1 0 7 33 2 3 64 8 .269 .318 .470 .788
1970 122 481 426 66 136 19 1 30 247 77 3 2 1 5 44 4 5 50 5 .319 .385 .580 .965
1971 114 435 388 56 124 15 2 39 260 103 2 2 1 6 38 15 2 53 5 .320 .378 .670 1.048
1972 112 449 384 46 126 27 1 21 218 90 4 1 0 7 55 19 3 29 4 .328 .410 .568 .978
1973 120 433 365 54 112 17 1 27 212 80 4 5 1 3 62 12 2 30 7 .307 .407 .581 .988
1974 85 327 271 48 95 15 2 21 177 67 1 6 1 6 48 7 1 17 4 .351 .442 .653 1.095
1975 阪神 114 397 361 33 99 12 1 12 149 57 0 2 0 4 30 2 2 37 7 .274 .330 .413 .743
MLB:9年 991 3419 3091 409 832 132 34 101 1335 403 52 22 19 21 268 38 20 572 43 .269 .329 .432 .761
NPB:8年 935 3608 3183 452 985 163 11 205 1785 656 31 24 4 45 353 64 23 360 50 .309 .378 .561 .938
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

NPB
  • 打点王:1回 (1968年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1968年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

MLB
NPB初記録
NPBその他の記録
  • 6試合連続本塁打(1974年6月13日 - 6月23日)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1970年、1971年、1973年、1974年)

背番号[編集]

  • 21 (1959年 - 1962年)
  • 26 (1963年)
  • 2 (1964年)
  • 21 (1965年 - 1967年)
  • 7 (1968年 - 1974年)
  • 44 (1975年)

脚注[編集]

  1. ^ 2010年8月25日金本知憲が4ヶ月更新。
  2. ^ 2011年9月23日の巨人戦で金本知憲が43歳5か月で更新
  3. ^ 週刊ベースボール、2011年10月10日号、95頁
  4. ^ 日本経済新聞1976年10月27日19面「足長おじさんアルトマン 商品取引所で奮戦『日本の野球は新聞で見ている』」日本経済新聞社1976年10月p917

関連項目[編集]

外部リンク[編集]