八木沢荘六
基本情報 | |
---|---|
国籍 |
![]() |
出身地 | 栃木県日光市 |
生年月日 | 1944年12月1日(78歳) |
身長 体重 |
172 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1966年 第2次ドラフト1位 |
初出場 | 1967年8月11日 |
最終出場 | 1979年10月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
八木沢 荘六(八木澤 荘六[注 1][1][2][3]、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。
来歴[編集]
プロ入りまで[編集]
実家は製材所を経営し[4]、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため[5]、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。準決勝に進んで松山商の山下律夫との投手戦となるが、控え投手であった加藤斌のリリーフもあって延長16回で辛勝。決勝では倍賞明らのいた日大三高を完封で降し初優勝を飾ると、作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出されて出場できなかった。準々決勝から復帰してベンチ入りしていたが、加藤が主戦投手となった。高校同期に高山忠克・中野孝征、1期上に島野育夫がいた。
高校卒業後は1963年に早稲田大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝に貢献するなどエースとして活躍。3年次の1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に出場し、日本代表となった東京六大学選抜チームの優勝に貢献。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。第56代主将も務めた。大学同期に西田暢がいる。
現役時代[編集]
1966年の第2次ドラフトで東京オリオンズから1位に指名され、大学卒業後の1967年に入団。
3年目の1969年には一軍に定着し、先発・中継ぎで活躍。1970年にはチーム最多の43試合に登板し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、巨人との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板。
1973年10月10日の太平洋戦ダブルヘッダー第1試合(宮城)で史上13人目の完全試合を達成する。この試合は、中継ぎ登板が多く規定投球回に足りなかった八木沢に、最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合であった。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少であり、1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。同年の完投は完全試合の1試合のみであり、完封に至ってはプロ入り7年目で初だった。八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定であったが、第1試合に先発する予定であった村田兆治が寝違えて首を痛めたため、急遽第1試合に先発することになった。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかったが、これは16回ある完全試合の中で唯一の記録である。
1974年は12試合に先発として起用され、自身2度目のリーグ優勝を経験。中日との日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板し、24年ぶりの日本一に寄与した。
1975年オフの11月8日には「東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦[6]」メンバーに選出され、早大の先輩である荒川博監督率いる白軍の選手として出場。
1976年からはコーチ兼任となり、主に先発として起用される。同年は自己最多で初の2桁となる15勝、1977年には2年連続2桁の11勝をマーク。
1978年は前期シーズン中に金田正一監督に引退を勧告され、コーチに就任させる話もあったが、投手陣のリーダー格であったことから選手達が猛反発し、結局同年限りで金田監督が退任[7]。
1979年6月9日の近鉄戦(日生)でチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った[8]。この悲劇は、薄暮ゲームであったためボールが見辛く、マニエルが避け損ねたことも一つの要因だと言われている[9]。マニエルが復帰した後に「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。4勝8敗同年引退。
引退後[編集]
引退後はロッテで二軍投手コーチ(1980年)・監督(1992年 - 1994年8月2日)、西武で一軍投手コーチ(1981年 - 1984年, 1986年 - 1991年)・二軍投手コーチ(1985年)、横浜一軍投手コーチ(1995年)、巨人二軍投手コーチ(1997年 - 1998年)→阪神一軍投手コーチ(1999年 - 2001年)、オリックス一軍投手コーチ(2004年)→四国IL巡回コーチ(2005年)→東京ガス投手コーチ(2006年 - 2007年)[10]、ヤクルト二軍投手コーチ(2008年 - 2010年)→BCリーグ・群馬投手コーチ(2011年 - 2012年)[11]→特別アドバイザー(2013年)を務めた。指導者生活の合間を縫って、フジテレビ「Night Game/Daylight Game&プロ野球ニュース」・ニッポン放送「ショウアップナイター」(1996年)で解説者を務めた。
コーチ時代は指導力を発揮し、中西太・山内一弘・水谷実雄・高畠康真(いずれも打撃コーチ)などと並び「12球団巡回コーチ」と呼ばれた。
千葉に移転した新生ロッテの監督に抜擢されるとチーム成績は振るわなかったが、監督1年目の1992年は最下位に終わったものの、4月を首位で終えるなど見せ場は作った。監督3年目の1994年に成績不振のため8月2日をもって休養、中西太ヘッドコーチが代理監督となった。テリー伊藤は自身の著書の中で「戦いなき古典芸能野球を演出した『能面』監督」と評している[12]。
横浜コーチには早大の先輩である近藤昭仁監督に誘われて就任したが、チームは66勝64敗と16年ぶりに勝ち越すも、順位は4位に終わり、近藤と一緒にユニフォームを脱いだ[13]。
巨人コーチには早大の先輩で、アマ球界から招かれた石山建一編成部長補佐からの要請で就任し、1998年に契約が切れた[13]。
阪神時代は投球フォームの研究に余念がなく、選手へのアドバイスは的確であった[14]。野村克也監督が新庄剛志に視線をやりながら「こいつ、肩が強いからピッチャーできるんじゃないか?」と言った際、八木沢は「ちょっと直すところはあるが、練習すればワンポイントでけるかもしれない。」と言い、新庄に二刀流の練習を始めてもらった[13]。新庄は明けて1999年の春季キャンプも1日置きにブルペンに入り、オープン戦2試合に登板した[13]。3月5日の巨人戦は1回を無安打無失点、同21日のダイエー戦1回1失点と、制球は今一つであったが、強い球は投げていた[13]。ところが登板の翌22日の近鉄戦でセンターを守っていた際に左太腿を肉離れして離脱し、二刀流は肉体的に負担が大きいということで自然消滅した[13]。1年目に肩を痛めていた井川慶は力のある球を投げていたため、チェンジアップを覚えた面白いと思い、人差し指と親指をくっつけて握るサークルチェンジの投げ方を教えた[13]。1999年は1勝、2000年も1勝であったが、入団4年目の2001年にはチェンジアップを自分のものにして9勝挙げた[13]。八木沢は阪神を去る前に井川は「頑張れよ。今のままでいったら必ず二桁は勝てるから」と言い、井川は涙をこぼしていた[13]。井川は2002年に14勝をマーク、2003年は20勝5敗、防御率2.80で沢村賞に輝き、阪神の18年ぶりの優勝に貢献[13]。2003年の優勝時にロッテ監督時代の教え子伊良部秀輝が13勝を挙げて貢献したのも感慨深ったと述べている[13]。阪神コーチ時代は全て最下位に終わったが[13]、チーム防御率4.04(リーグ3位)→3.90(リーグ3位)→3.749(リーグ4位)であった[15][16][17]。
東京ガス時代は木村雄太にカーブを伝授し、自身の古巣であるロッテに送り出した[18]。
2014年、同年2月6日に死去した森徹の後を受けて同11日に日本プロ野球OBクラブ理事長に就任[19]。前述の死球事件を教訓に、アマチュア野球でもフェイスガードを解禁して欲しいと訴えている[9]。
人物[編集]
- 西武に移籍してきた江夏豊が、球団で唯一慕っていたコーチである。その江夏が在籍した1984年はリーグ優勝を逃し、翌シーズンはその責任をとらされ二軍コーチに降格させられてしまうが、後に八木沢はインタビューで「二軍降格は自らの志願だった」と答えている[20]。
- 野村が阪神監督就任時、尾花高夫に一軍投手コーチとして声をかけていた。尾花本人も行動を共にすることを希望していたが、尾花はダイエーのコーチに就任。阪神の一軍投手コーチを誰にするか迷った時、友人の森祇晶が八木沢を推薦したため就任に至ったという経緯がある。
- 野村からは親しみをこめて「ロクさん」と呼ばれていた一方で、自身と同じ年に阪神へ入団した藤川球児とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著[21]では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。藤川が入団2年目の2000年、秋季二軍キャンプ中に床へ肘を付けた状態で腕立て伏せを繰り返していたところに、ランチを済ませて偶然通りかかった投手コーチ(八木沢)から「そのやり方はなんだ。肘なんか付くな」と言われた[22]。当時は右肘の状態が思わしくなかったので、トレーニングコーチからの了解を得たうえで、同僚の投手数名と肘を付いての腕立て伏せに取り組んでいた[22]。投手コーチにもこのような事情を話したところ、爪楊枝をくわえながら自分だけに向けて高圧的な口調で「うるせえ、俺が『(肘を付けずに腕立て伏せを)やれ』と言ったらやれ」と迫ってきたので、「あんたのためにやってるんじゃない」と思わず言い返してしまった[22]。そのコーチには後日詫びを入れたのだが、翌2001年にはシーズン中に一軍へ呼ばれず、シーズンの終盤には(当時二軍監督であった)岡田彰布から『藤川を一軍へずっと推薦してきたけれど、投手コーチが推薦をはねつける』と打ち明けられた」という[22]。
- 伊原春樹とは西武・阪神でコーチとして同僚となり、伊原が西武監督時はキャンプで臨時コーチを務めた。オリックス監督時も一軍投手コーチとして招聘され、2004年に就任。前年のオリックスはチーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819と投手陣が大崩壊状態であった。八木沢に投手陣再建の手腕が託されたが、同年もチーム防御率が5.66を記録。2年連続5点台という結果に終わり、伊原と共に同年限りで辞任。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1967 | 東京 ロッテ |
1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 7 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0.00 | 2.00 |
1968 | 6 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 81 | 19.1 | 16 | 2 | 6 | 1 | 3 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 4.19 | 1.14 | |
1969 | 44 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | -- | .600 | 359 | 90.0 | 71 | 11 | 24 | 4 | 3 | 56 | 1 | 0 | 40 | 36 | 3.60 | 1.06 | |
1970 | 43 | 4 | 2 | 0 | 1 | 5 | 4 | -- | -- | .556 | 419 | 98.1 | 99 | 11 | 30 | 8 | 1 | 72 | 0 | 0 | 36 | 31 | 2.85 | 1.31 | |
1971 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | -- | -- | .800 | 161 | 36.2 | 40 | 3 | 11 | 3 | 0 | 19 | 1 | 0 | 25 | 19 | 4.66 | 1.39 | |
1972 | 35 | 7 | 1 | 0 | 1 | 7 | 8 | -- | -- | .467 | 395 | 90.1 | 106 | 14 | 20 | 2 | 6 | 33 | 0 | 0 | 50 | 45 | 4.48 | 1.39 | |
1973 | 55 | 9 | 1 | 1 | 1 | 7 | 1 | -- | -- | .875 | 513 | 130.1 | 112 | 14 | 25 | 2 | 3 | 68 | 1 | 0 | 47 | 40 | 2.76 | 1.05 | |
1974 | 37 | 12 | 2 | 2 | 0 | 8 | 7 | 2 | -- | .533 | 453 | 115.0 | 86 | 12 | 27 | 1 | 3 | 54 | 1 | 0 | 56 | 49 | 3.83 | 0.98 | |
1975 | 20 | 9 | 1 | 0 | 1 | 2 | 5 | 0 | -- | .286 | 324 | 77.2 | 76 | 13 | 21 | 1 | 2 | 26 | 1 | 0 | 35 | 33 | 3.82 | 1.25 | |
1976 | 34 | 22 | 5 | 0 | 1 | 15 | 9 | 1 | -- | .625 | 676 | 171.2 | 153 | 14 | 29 | 1 | 5 | 66 | 2 | 0 | 53 | 47 | 2.46 | 1.06 | |
1977 | 40 | 28 | 5 | 2 | 1 | 11 | 14 | 1 | -- | .440 | 719 | 175.0 | 167 | 10 | 32 | 0 | 6 | 89 | 2 | 0 | 75 | 51 | 2.62 | 1.14 | |
1978 | 28 | 17 | 6 | 1 | 1 | 5 | 6 | 3 | -- | .455 | 496 | 120.1 | 119 | 7 | 23 | 0 | 5 | 48 | 0 | 0 | 49 | 43 | 3.22 | 1.18 | |
1979 | 28 | 6 | 0 | 0 | 0 | 4 | 8 | 1 | -- | .333 | 326 | 74.1 | 95 | 6 | 19 | 1 | 4 | 32 | 0 | 0 | 43 | 40 | 4.84 | 1.53 | |
通算:13年 | 394 | 119 | 23 | 6 | 7 | 71 | 66 | 8 | -- | .518 | 4929 | 1200.0 | 1142 | 117 | 267 | 24 | 42 | 567 | 9 | 0 | 521 | 443 | 3.32 | 1.17 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
年度別監督成績[編集]
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | ロッテ | 6位 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 | 26.5 | 89 | .241 | 3.82 | 47歳 |
1993年 | 5位 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 | 23.5 | 95 | .251 | 4.08 | 48歳 | |
1994年 | 5位 | 85 | 34 | 51 | 0 | .400 | -- | -- | ---- | ---- | 49歳 | |
通算:3年 | 345 | 139 | 202 | 4 | .408 | Bクラス:3回 |
- 1992年から1996年までは130試合制
- 1994年、成績不振により8月2日に監督を解任。監督代行は中西太
タイトル[編集]
- 最高勝率:1回 (1973年)
記録[編集]
- 初登板:1967年8月11日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に5番手で救援登板・完了、1回2失点(自責点0)
- 初奪三振:1968年9月29日、対東映フライヤーズ27回戦(東京スタジアム)、4回表に青野修三から
- 初先発:1968年10月3日、対南海ホークス25回戦(大阪スタヂアム)、5回2/3を4失点
- 初勝利:1969年10月4日、対東映フライヤーズ24回戦(後楽園球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、2回1失点
- 初先発勝利・初完投勝利:1970年9月17日、対東映フライヤーズ22回戦(後楽園球場)、9回3失点
- 初完封勝利:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目の完全試合
- 初セーブ:1974年5月24日、対阪急ブレーブス前期6回戦(阪急西宮球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点
その他の記録[編集]
- 完全試合:1973年10月10日、対太平洋クラブライオンズ後期12回戦(宮城球場) ※史上13人目
背番号[編集]
- 27 (1967年 - 1979年)
- 72 (1980年、1999年 - 2001年、2011年 - 2012年)
- 73 (1981年)
- 84 (1982年 - 1991年)
- 80 (1992年 - 1994年)
- 77 (1995年)
- 85 (1997年 - 1998年)
- 75 (2004年)
- 74 (2008年 - 2010年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 公益社団法人全国野球振興会の公式ホームページや、2021年に掲載された連載企画における直筆サイン等のように、状況に応じて苗字を「八木澤」表記とする例も存在する。
出典[編集]
- ^ “団体概要”. 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ). 2022年12月2日閲覧。
- ^ “八木澤理事長ごあいさつ”. 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ). 2022年12月2日閲覧。
- ^ “スポニチ紙面企画「我が道」 11月八木澤荘六(元プロ野球選手・指導者)”. NEWSCAST (2021年10月31日). 2022年12月2日閲覧。
- ^ 「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)より、八木沢が実家で丸太を背負ってスクワットをしている写真から。
- ^ 神宮球場ガイドブック2009年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
- ^ 昭和43年~|球場史|明治神宮野球場
- ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA2 パ・リーグ編 ベースボール・マガジン社.2022年.P49
- ^ 近鉄・マニエル(右)はロッテ・八木沢から顔面死球を受け、下あごの複雑骨折などの重傷を負った(1979年6月9日撮影)
- ^ a b あの時フェースガードがあったら― 40年前、赤鬼マニエルにぶつけた八木沢荘六さんの悔恨と願い
- ^ 八木沢氏 東京ガスのコーチに就任
- ^ 八木沢荘六投手コーチ就任・青木野手コーチ背番号決定のお知らせ - 2010年12月20日
- ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月、ISBN 9784334783259。
- ^ a b c d e f g h i j k l スポーツニッポン2021年11月29日、11版、八木沢荘六の我が道㉖、阪神への置き土産となった井川慶
- ^ 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・阪神タイガース2000陣容
- ^ 年度別成績 1999年 セントラル・リーグ
- ^ 年度別成績 2000年 セントラル・リーグ
- ^ 年度別成績 2001年 セントラル・リーグ
- ^ 入団拒否、栄養費、改名…ロッテ木村「長かった」7年目の初勝利
- ^ プロ野球OBクラブ新理事長は八木沢氏 スポーツニッポン 2014年2月11日閲覧
- ^ ムック「埼玉西武ライオンズ 黄金投手陣の軌跡」(2013年、ベースボール・マガジン社)
- ^ 現役時代(野村・八木沢が阪神を退団後)の2009年にベースボール・マガジン社から刊行された『未熟者』および、現役引退後の2021年に日本実業出版社から刊行された『火の玉ストレート』。
- ^ a b c d 『火の玉ストレート』第Ⅰ章「努力は人生を裏切らない」pp.24 - 28「はじめて感じた社会の不条理」
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 八木沢荘六 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)