江尻亮
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 茨城県高萩市 |
生年月日 | 1943年1月10日(76歳) |
身長 体重 |
177 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年 |
最終出場 | 1979年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は、茨城県高萩市[1]出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
目次
経歴[編集]
実家は旅館を営んでいた。日立一高では1年生の時、1958年秋季関東大会県予選準々決勝で結城一高からノーヒットノーランを達成。準決勝で土浦三高に敗退するが、好投手として話題になる。3年時の1960年には夏の甲子園東関東大会(茨城・千葉両県)県予選決勝に進出するが、0-1で水戸商に惜敗した。
卒業後は早稲田大学に進学。東京六大学リーグでは1年生から登板機会を得るが結果を残せず、同期のエース・宮本洋二郎の後塵を拝す。一時は外野手に転向するが3年生の時にリリーフとして復活。1964年、4年生時の春季リーグで初勝利。同季は3勝をあげ防御率0.00、代打としても活躍。1960年秋季リーグ以来の優勝に貢献したが、同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で駒大に敗れ準優勝。その後も好調を維持し、秋季リーグの立大1回戦4回まで、3季にわたり46回2/3連続無失点のリーグ記録を樹立した。リーグ通算23試合登板、7勝6敗、防御率1.97。大学同期には宮本の他、石山建一がいた。
1965年に投手として大洋ホエールズへ入団するが、同年6月24日の巨人戦で王貞治に満塁ホームランを打たれるなど結果を残せず、1967年に打者転向。左翼手の定位置を獲得すると、1968年からはクリーンナップに定着。打率.283で初のベストテンに入る(セ・リーグ9位)。1969年には打率.283、18本塁打を記録して1964年以来となるチームのAクラス入りに貢献。1970年には右翼手にコンバートされ、ベストナインの外野手部門に選出。1972年からはシピン・江藤慎一・ボイヤーの加入もあり、1、2番を打つことが多くなる。1973年にも2度目のベストナインに選出されるなど、勝負強い打撃と運動機能学に立脚した外野守備で活躍していたが、1977年の巨人戦で加藤初投手から頭部に死球を受け、36時間にわたり[2]昏睡状態に陥る。これを機に右翼の定位置を高木嘉一に奪われ先発出場が激減、選手生命を大きく縮めた。横浜移転後は代打で活躍し、1979年に引退。
その後も大洋に残留し、一軍打撃コーチ(1980年 - 1981年)・二軍打撃コーチ(1982年 - 1984年)・二軍監督(1985年 - 1986年)・スカウト(1987年 - 1989年)・ヘッドコーチ(1990年 - 1992年)・監督(1992年)・フロント(1993年 - 1994年)を歴任。二軍監督に就任した1985年には15歳以上も年下の女性と結婚し、話題となる。スカウト時代は進藤達哉・石井琢朗など他球団がノーマークだった後年の名選手を発掘し、ドラフト外で入団させる。1992年のシーズン途中、須藤豊監督の休養により監督代行に就任し、須藤が退団した後正式に監督となった。就任後は先発の柱だった盛田幸妃を中継ぎに転向させ、1990年から抑えに転向していた遠藤一彦を先発に再転向させるなど投手陣を建て直し、野手陣も自身がスカウト時代に獲得した石井・進藤を積極的に起用。最終的には5位に終わるが、優勝したヤクルトに勝ち越すなど健闘し、勝率5割で乗り切る。「翌年も引き続き江尻監督に指揮を」という声もあったものの、辞退して退任した。この年、盛田と佐々木主浩のダブルストッパーが誕生。盛田は中継ぎとしての適性を十二分に発揮し、大車輪の活躍でリリーフながら最優秀防御率を受賞。また、投手から野手に転向した直後で、守備に不安はあるものの強肩・俊足とシュアな打撃が売り物だった石井を三塁手で起用。石井はシーズン後半に清水義之から定位置を奪うなど活躍した。1992年のオフにチームが「横浜ベイスターズ」に改称したため、「横浜大洋ホエールズ」最後の監督となった。
1995年、早大の先輩である広岡達朗ゼネラルマネージャーの誘いを受け、千葉ロッテマリーンズの二軍ヘッドコーチに就任。シーズン途中、一軍ヘッドコーチへ昇格。1996年からは、ボビー・バレンタイン監督の解任に伴いロッテの監督に就任。前年2位のチームは低迷し、江尻自身もシーズン中に体調を崩し途中休養した時期があった。シーズン終了後、成績不振の引責や、自分を招聘した広岡GMの解任もあり、わずか1年で辞任。その後はロッテの編成部長に就任し、2001年退団。その後はサンディエゴ・パドレスの極東スカウトを経て、現在は横浜スタジアムの室内練習場で開催されている「ジャパンアスレチックアカデミー」のチーフインストラクター。
人物・エピソード[編集]
早稲田大学時代[編集]
- 早大時代は一時投手兼代打要員という中途半端な立場だった。厳しい練習に耐えかねて何度か部を抜け出そうとしたこともあったと本人が述懐している。ところが4年時に就任間もない石井藤吉郎監督に投手専任を申し出て認められた。石井が選手に好きなポジションをやらせるという方針だったのだが、これが直後のリーグ無失点記録につながった。
- 前述のようにプロ入り後にも頭部死球を受けているが、早大時代にも頭部に死球を受け、48時間にわたり生死の境をさまようという不幸な事故に遭っている[3]。
現役時代[編集]
- 1978年、前年に頭部死球を受けた加藤が先発した試合で別当薫監督は代打に江尻を送り「このままで終わりたくないだろう。ケリをつけてこい」とハッパをかけた。この言葉で江尻は奮起し、加藤からプロ生活最後のホームランを放った[4]。
- 大卒でプロ入り後に打者転向し、1000本安打を達成した数少ない選手の一人である。
その他[編集]
- 詩と読書を趣味にし、同人誌に短歌を発表していたこともある。詩人のヴェルレーヌを愛しており、「柏人」という俳号で俳句にも造詣が深かった。また、コーチ時代には合宿所に図書室を作ったりもした。
- 1964年、東京六大学野球春季リーグでシーズン防御率0.00を記録しているが、これは2008年秋季リーグで野村祐輔(明治大学)が達成するまで44年間達成する者がいない記録であった。
- 1975年、川崎球場での広島戦、外木場義郎のノーヒットノーラン達成をホームランを打って阻止、その試合唯一の安打となった。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1965 | 大洋 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | ---- | 48 | 11.1 | 10 | 4 | 3 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 5 | 4 | 3.27 | 1.15 |
1966 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 30 | 6.1 | 9 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | 4.50 | 1.58 | |
通算:2年 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | ---- | 78 | 17.2 | 19 | 5 | 4 | 0 | 0 | 7 | 1 | 0 | 9 | 7 | 3.50 | 1.3 |
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965 | 大洋 | 27 | 27 | 25 | 5 | 7 | 0 | 0 | 1 | 10 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .280 | .333 | .400 | .733 |
1966 | 71 | 209 | 201 | 24 | 61 | 18 | 2 | 4 | 95 | 16 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | 1 | 3 | 22 | 2 | .303 | .327 | .473 | .800 | |
1967 | 117 | 316 | 297 | 36 | 73 | 11 | 4 | 7 | 113 | 21 | 4 | 5 | 2 | 1 | 10 | 0 | 6 | 22 | 7 | .246 | .283 | .380 | .664 | |
1968 | 127 | 463 | 435 | 56 | 108 | 20 | 7 | 14 | 184 | 44 | 10 | 10 | 6 | 0 | 19 | 0 | 3 | 52 | 3 | .248 | .284 | .423 | .707 | |
1969 | 113 | 411 | 382 | 53 | 108 | 17 | 2 | 18 | 183 | 43 | 5 | 6 | 5 | 1 | 16 | 3 | 7 | 60 | 5 | .283 | .323 | .479 | .802 | |
1970 | 128 | 497 | 458 | 53 | 124 | 23 | 3 | 11 | 186 | 51 | 13 | 6 | 12 | 1 | 24 | 2 | 2 | 40 | 8 | .271 | .309 | .406 | .715 | |
1971 | 127 | 505 | 464 | 49 | 130 | 14 | 3 | 6 | 168 | 31 | 17 | 3 | 1 | 2 | 32 | 1 | 5 | 38 | 9 | .280 | .332 | .362 | .694 | |
1972 | 127 | 468 | 423 | 57 | 112 | 18 | 4 | 12 | 174 | 39 | 11 | 8 | 1 | 3 | 38 | 6 | 3 | 47 | 7 | .265 | .328 | .411 | .739 | |
1973 | 122 | 474 | 433 | 54 | 126 | 18 | 1 | 15 | 191 | 44 | 8 | 3 | 1 | 5 | 27 | 0 | 8 | 41 | 8 | .291 | .340 | .441 | .781 | |
1974 | 120 | 464 | 426 | 54 | 120 | 9 | 4 | 10 | 167 | 37 | 4 | 2 | 5 | 1 | 29 | 0 | 3 | 34 | 6 | .282 | .331 | .392 | .723 | |
1975 | 123 | 474 | 430 | 48 | 119 | 12 | 2 | 7 | 156 | 36 | 6 | 4 | 14 | 3 | 22 | 3 | 5 | 30 | 8 | .277 | .317 | .363 | .680 | |
1976 | 114 | 381 | 360 | 38 | 90 | 13 | 1 | 8 | 129 | 33 | 3 | 1 | 0 | 1 | 18 | 0 | 2 | 31 | 11 | .250 | .289 | .358 | .647 | |
1977 | 68 | 190 | 166 | 19 | 44 | 10 | 1 | 1 | 59 | 21 | 1 | 1 | 0 | 5 | 16 | 2 | 3 | 11 | 2 | .265 | .332 | .355 | .687 | |
1978 | 59 | 69 | 61 | 4 | 16 | 2 | 0 | 2 | 24 | 13 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 1 | 0 | 11 | 0 | .262 | .333 | .393 | .727 | |
1979 | 42 | 45 | 42 | 1 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 2 | .262 | .311 | .286 | .597 | |
通算:15年 | 1485 | 4993 | 4603 | 551 | 1249 | 186 | 34 | 116 | 1851 | 436 | 82 | 51 | 48 | 24 | 267 | 19 | 50 | 449 | 78 | .271 | .317 | .402 | .719 |
年度別監督成績[編集]
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | 大洋 | 5位 (※1) |
109 | 54 | 54 | 1 | .500 | 8.0 | .249 | 3.75 | 49歳 |
1996年 | ロッテ | 5位 (※2) |
128 | 60 | 65 | 3 | .480 | 15.5 | .252 | 3.68 | 53歳 |
通算:2年 | 237 | 114 | 119 | 4 | .489 |
- ※1 5月3日から閉幕まで
- ※2 開幕から8月22日、8月30日から閉幕まで
表彰[編集]
- ベストナイン:2回 (1970年、1973年)
記録[編集]
- 節目の記録
- 1000試合出場:1974年6月9日 ※史上173人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1970年、1973年)
背番号[編集]
- 19 (1965年 - 1979年)
- 91 (1980年 - 1986年、1990年 - 1992年)
- 90 (1995年 - 1996年)
脚注[編集]
関連項目[編集]
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