森祇晶
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「祇」の文字は公式の表記「![]() |
![]() 1955年撮影 | |
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 |
岐阜県岐阜市 (出生地は大阪府豊中市) |
生年月日 | 1937年1月9日(84歳) |
身長 体重 |
174 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1955年 |
初出場 | 1955年10月8日 |
最終出場 | 1974年10月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2005年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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森 祇晶(もり まさあき、1937年1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(捕手)・指導者・監督、野球解説者。本名「森 昌彦」(もり まさひこ)。
巨人V9時代の正捕手。「V9の頭脳」の異名を取った。西武監督時代は在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた。
来歴・人物[編集]
現役時代[編集]
岐阜高校では第36回全国選手権に捕手として出場したが、1回戦で泉陽高に完封負けを喫する。1954年11月14日に読売ジャイアンツへテスト入団。本人は東京大学への進学を考えており、一般入試でも問題なくできるといわれていたが、貿易商だった実家の経営が苦しくなったため、実家を助けるべく大学進学を断念してプロ野球に進んだ。同期は国松彰と馬場正平(後のジャイアント馬場)らがいる。
入団当時、まだ無名だった森は、当時ジャイアンツのエースだった別所毅彦の猛烈なピッチング練習につき合わされる。森によれば、雨で練習がない日になると必ず別所が車を運転して森の所にやってきて「お前受けろ!」といわれて、ジャイアンツ多摩川練習場の近くの丸子橋の下に連れていかれ、激しいピッチング練習の相手をさせられた。「あのころプロとは何であるかということを、別所さんとの猛練習から教えられた」と森は回想している。
入団4年目の1959年に正捕手だった藤尾茂からレギュラーを奪い(藤尾はセンターにコンバート)、以後引退するまで正捕手の座を守り続けた。監督の水原茂は森の守備力を評価し、森のレギュラー起用を決めた[1]。
水原の後を継ぎ、新しい監督となった川上哲治も捕手としての頭脳、インサイドワークを高く評価し、守りの要として信頼していた[1]。森を安住させないために野口元三、佐々木勲、大橋勲、宮寺勝利、吉田孝司、槌田誠などのアマチュア球界の有力捕手を獲得し、森にぶつけ続けた。森は「キャッチャーは俺がいるのに、球団はどうして次から次にいい捕手を入れるのか」と球団の補強策を批判していた[1]。ついに現役引退までレギュラーの座を死守し続け、8年連続ベストナインに輝くなどV9時代を支えた。
洞察力が鋭く、頭脳明晰、研究熱心であり、バッテリー間のリード力は当時のほかのプロ野球界のキャッチャーの中で、群を抜いて優れていた。相手チームのバッターの苦手コースや、一つの試合毎の味方相手チームのバッテリーの配球を全て正確に暗記している記憶力の持ち主だった。この記憶力を武器に、ボール球なども巧みに使った緻密な配球の組み立てを行ない、相手チームの打者を翻弄し続けた。キャッチングも優れており、現役通算でわずか42個のパスボールしか記録しておらず(1試合あたり0.022個)、里崎智也に抜かれるまで森のパスボール発生率は最も少なかった(里崎は1試合あたり0.019個)[注釈 1][2]。広岡達朗は「強肩ではなかった。パスボールが42しかないことから名捕手といわれるが、ワンバウンドが捕れなかった。ミットを上からかぶせるからだが、『あれは俺のいう通りに投げない。捕りやすい球を投げろ。ワンバウンドを投げるやつが悪い』と言い訳した。それに比べると、小林誠司をはじめ今のキャッチャーはワンバウンドを捕るのが上手い。今なら、森は通用しないだろう。しかし、森は野球をよく知っているし、捕手として他チームのこともよく研究していた。」[1]と述べている。城之内邦雄は、敵チームのサイン盗みに対抗して、サインと異なるボールを投げても平然と捕球してくれたと語っている[3]。また、盗塁阻止の能力にも優れており、クイックモーションの名手・堀本律雄とバッテリーを組んだ試合では、1960年から1962年の3年間に阻止率.706(51企図に対し36盗塁刺)という驚異的な数字を残し、特に1960年6月1日の大洋戦では一試合5盗塁刺(企図された5回全てを刺す)を記録した[4]。1971年-1972年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでもクイックモーションを活用し、堀内恒夫とのバッテリーで盗塁王・福本豊の足を封じ込めた。
試合外での情報収集にも熱心で、日本シリーズ対策としてパ・リーグで絶対的な強さを誇っていた阪急の話を聞くために、西宮にあった南海の正捕手・野村克也の自宅を訪ねて泊まり込み、情報収集とあわせて野球について徹夜で2人で語りあったという。これをきっかけに2人は親交を深め、盟友とも言えるほどの関係を結んでいく。また、ほかの名捕手の例に漏れず、森も現役時代は「ささやき戦術」の名人であったという。
投手の側からしても森は非常にすぐれた捕手であり、藤田元司によれば、望むコースに投げさせるために全身を使って狙いやすくする工夫をするなど、投手のコントロールを引き出す技術はずば抜けて優れていたという。試合では、投手が打たれてもサインを出した自分の責任を認めず、投手の欠点や投球ミスを首脳陣に報告したので、投手陣の不満は多かった[1]。ただし、川上は森のそのような面を認めつつも「彼の非情な報告は勝負を預かる上でとても貴重だった」と評価している。
大橋勲が引退して10年ほどして出席した巨人のOB会で「現役時代、なんとか森さんを追い抜こうと思っていろいろ質問した。森さんも親切に教えてくれたが、すべてウソだったことがあとでわかった」と暴露したことがあり、森の性格をよく知る知っているOBたちは爆笑した[1]。
打撃に関しては強打者とはいえず足も遅かったが、低打率ながら勝負強さを発揮する打者であった。1967年の日本シリーズではMVPを受賞している。王貞治・長嶋茂雄の後ろの5番を任されることもあり[注釈 2]、1964年から1965年にかけては6試合だけ4番を打ったこともあった。
広岡とは現役時代から親しかった[1]。
森の現役時代の背番号「27」は日本プロ野球界において名捕手の背番号として定着しつつあり[注釈 3][注釈 4]、現役選手でもチームの正捕手に対して与えられることがある[注釈 5]。
1972年からはバッテリーコーチを兼任し、1973年10月22日、阪神甲子園球場での対阪神最終戦で、巨人が勝利してV9を達成した直後、乱入してきた阪神ファンに追われてベンチ裏に逃げようとしたが逃げ遅れ、負傷は免れたものの、マスクを奪われた。
V10を逃した1974年限りで現役引退。同年に引退した長嶋のようなセレモニーなどはなく、同年12月2日に球団に対して引退を申し入れ了承される形で静かに現役生活に別れを告げた。川上は長嶋に対して森をコーチで起用するように進言したが長嶋は断り[5]、森は退団した[6]。長嶋と森は犬猿の仲である[7]。
解説者・コーチ時代[編集]
1975年 - 1977年に日本テレビの野球解説者を務める。
1978年、ヤクルトスワローズ監督の広岡が前年2位に昇り、さらに上を目指す為に森をバッテリーコーチ兼作戦コーチ[8][注釈 6]に招聘した[1]。森は投手陣に「味方が点を取ったり逆転したら絶対に点を取られるな」と厳しく言うとともに、投手交代に口出すことはしなかったものの先発投手が「そろそろ交代か」という状況で広岡が森の顔を見ると「誰々の用意が出来てます」と適切に報告するなど、広岡と森は投手の調子や交代の時期について判断や意見が食い違うことがなかった[1]。「森は、私のそばでよくやってくれた」と広岡は述べている。当時のヤクルトの課題は万年Bクラスでしみついた巨人コンプレックスの克服だったが、森は選手たちに「巨人なんか怖くない」と洗脳するのが上手かった[1]。1978年には広岡の片腕として球団史上初となるリーグ優勝・日本一に貢献したが、翌1979年に一転してチームが低迷すると、8月17日の試合開始前に佐藤邦雄球団社長が「選手の評判が悪い」という理由で森を解任、投手コーチの植村義信を2軍降格させようとした[1]。この現場介入に激怒した広岡は指揮を拒否して退団の意向を表明し、29日には正式に辞任を宣言。森も広岡・植村と共にヤクルトを退団した[9]。広岡はあの騒ぎは武上四郎を次の監督にしたかった松園尚巳オーナーの指示ではないかと思う[1]と回顧している。
1980年 - 1981年にはTBS専属野球解説者を務める。
1982年 - 1984年には、やはり広岡のもと西武ライオンズのヘッドコーチとして迎えられた[1]。広岡が、「直接選手を指導するには、担当分野のない『ヘッド』の肩書きがないほうがいいのではないか」と森に伝えると「ヘッドコーチを外されると選手がいうことを聞かなくなる。このままヘッドを残してくれ」と森が反対したため、肩書はヘッドコーチとなった[1]。ヤクルト時代同様広岡をよく補佐し[1]、1982年は球団初のリーグ優勝、日本シリーズでは中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、西武になってから初めての日本一となった。1983年もリーグ連覇し日本シリーズは巨人との対戦であったが、広岡は全盛期でエースの江川卓対策に難儀をしていた。広岡は巨人を倒すには江川を倒すしかないと考えていたが、スコアラーの尾張久次に「今年の江川は絶好調で、つけ入るスキがない」と言われ、困りはてていた。そこで森に相談すると、森はシーズン中の江川のビデオ映像を集めて捕手の目で分析し、毎日選手たちにビデオを見せて江川の長所と短所を徹底的に教え込んだ。広岡は「森が江川必殺法を見つけてくれたおかげで、因縁の日本シリーズは先発2度、リリーフ1度の江川を攻め込んで白星を与えず、4勝3敗で競り勝った」[1]と述べている。
ヤクルト、西武コーチ時代には広岡の下、厳しく選手の私生活にまで管理をおこなったため、選手たちに「森CIA」「森KGB」などさまざまな陰口をたたかれるほどの嫌われ役となった。後にチャーリー・マニエルは週刊朝日の野村克也との対談の中で「広岡はいい監督だったがコーチの森は嫌な奴だった」と述べている。森は勝利のために広岡の考えを忠実に実行していたが、グラウンド上で厳しく接することは問題なくても、グラウンドから離れたところまで厳しく管理することは納得いかず、内面的にはつらい仕事であったと語っている。1984年に西武に在籍していた江夏豊は、週刊ベースボールのコラムにて、森がホテルにて全選手の部屋の見回りを終えた後、江夏の部屋に入室して「俺だってこんな役回りはしたくない」と自分の仕事を嘆いていたと証言した[要ページ番号]。広岡はコーチ時代の森については「私がヤクルトと西武の監督の時は森昌彦という有能なヘッドコーチがいた。川上巨人のV9に貢献した名捕手で、投手の事を知り尽くした名参謀だ」と記している[10]。一方で広岡は「知識はあるし選手は見る目も確かだったが、森の欠点は指導することができなかったことだ」[1]と述べている。広岡とのコンビで3度のリーグ優勝・日本一になったが、最終的には広岡と対立しコーチを辞任した。
西武監督時代[編集]
1985年12月5日に広岡の後任として一軍監督に就任。合わせて「祇晶」と改名した。当初、堤義明オーナーは前年に引退した田淵幸一が監督、森がヘッドコーチという希望であったが、森本人がヘッド格を固辞した為、監督要請した経緯がある。ここで広岡は森が監督をやりたかったということに初めて気づいた[1]。
前年に優勝したチームを引き継いだだけに、前監督の広岡からは「V9超えの夢はついえたが、誰が次の監督になっても、ある程度勝てるはずだと潔く身を引いたと」言われ[11]、常勝が義務付けられていた。当時西武の選手だった伊東勤は「広岡監督時代に鍛えられた選手達が主力になりチームが完成しつつあった時期に森さんが来られたので森さんは特にやることはなかったと思います」[12]、石毛宏典は「森さんは育てるというより、チームのマネジメントに優れた監督でしたね」と述べている[13]。「当たり前のことを当たり前にやる野球」を掲げ、チームプレーと確率を重んじ、ディフェンスを主体として走塁やバントを多用するなど、基礎を積み重ねた緻密な野球を展開し、9年間で8度のリーグ優勝(優勝を逃したのは1989年のみ)、6度の日本一に輝くなど西武黄金時代を築いた。とりわけ1990年から1994年までの5年連続のリーグ優勝はパ・リーグで未だに破られていない記録である。
広岡が取材のため森のもとに行くと、他の球界OBや野球評論家とは雑談しても、広岡が近づくと森はスッと離れていった[1]。
森西武の野球の凄みをよく示すエピソードは巨人と対決した1987年の日本シリーズ第6戦である。この試合、8回裏二死から辻発彦が安打で一塁に出塁した。この二死一塁の場面で、続く秋山幸二はセンター前へ安打を放つ。ところが巨人の中堅手ウォーレン・クロマティの緩慢な返球の間に辻はなんと一気にホームまで駆け抜けて西武が得点してしまった。実は森はじめ西武側は、クロマティの送球に難がありながら、そのことに巨人が何も手を打っていないことを事前のデータ収集とミーティングで知り抜いていた。その緻密な事前研究を監督の森が選手各人に徹底していたことがこの辻の劇的な好走塁に結びついたのである。このシリーズは、事前予想では攻撃力に勝る巨人の優位といわれていたが[要出典]、この辻の走塁にみられる西武の緻密なディフェンス野球が逆に巨人を圧倒し、西武が2年連続日本一を獲得している。
西武監督時代は、厳しい基本指導の一方で、選手を前面に押し出し、選手の自由も考慮したのびのびとした野球をやらせる面もあり、選手たちの多くに慕われていた[要出典]。当時の主力選手の一人だった辻が自著「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で語ったところによると、試合でエラーをして落ち込んだ辻のところに深夜、森から気遣いの電話があったり、遠征先や合宿先で選手が食事に満足しているかどうかを気にして尋ねたりということがよくあったという[要ページ番号]。広岡の監督時代も経験した辻によれば「広岡さんは選手をほめることがそもそもなくてそれが持ち味だった監督だけど、森さんは選手のいいプレーを必ずミーティングでほめてくれた」という[要出典]。また選手達がゲームボーイなどの新しい遊び道具に熱中しているのをみると、叱るより前にまず森自身が買ってやってみて、その面白さを自分で体感してから「ほどほどにしなさいよ」というような穏当な理解者の面ももっていた。森は選手の管理について「時代背景というものはどんどん変わっていく。若い選手の時代背景を理解しないままに、『あれをやってはいけない・これをやってはいけない』ということは指導者として絶対に言ってはいけないことだ」と言っている[要出典]。
この森のやり方は、管理野球に徹し選手からかなりの批判にさらされた広岡の監督方針と大きく異なったものである。森は、広岡が監督時代に強制的におこなっていた健康食管理も監督就任後すぐにやめさせている[要出典]。また有名な逸話として、優勝時にチャンピオンフラッグを持って球場を一周するときの様子があげられる。通例ではたいてい監督がフラッグを持って先頭を歩くものだが、森はそれをせず、石毛宏典・辻などの主力選手にフラッグを持たせ、自身は常に列の一番後ろを歩いていた。これは「選手が主役、監督は脇役」のポリシーを森がずっと持っていたことを示している[要出典]。
清原和博をルーキーイヤーの年から、周囲の批判に抗してスタメンで使い続けたのは森の強い意向による[要出典]。コーチ陣や野球評論家の多くは清原を二軍でしばらく鍛えることを主張していた[要出典]。しかし森は清原のスター性からして、華やかな実戦舞台で使い続けた方が伸びるというふうに判断した[要出典]。開幕当初は不振だった清原であるが、次第に森の期待に応え始め、ついに新人王を獲得、プロ野球を代表する選手になっていく。清原は今なおこの時の森の起用を深く恩義に感じており、今でも森とは家族ぐるみでの付き合いが続いている。2005年の森の野球殿堂入りの際は祝賀式に駆け付け、一番に森に対し祝辞を述べている。
しかし当時打撃コーチだった土井正博は、「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところが堤義明オーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」と語っている[14]。また土井は4月下旬に清原の門限破りが発覚した時、ミーティングで最初に森が「ケジメだから下に落とさなければ」と発言した時、土井一人が反対し、最終的に当時コーチだった近藤昭仁が擁護してくれることで残留できたと述べている[15] 。
広岡は西武監督時代の森について、「根気よく時間をかけて選手を育てることは苦手だが、できあがった選手とチームを指揮して勝つことのうまい監督だった。森が監督して育て上げた選手はどれだけいるだろうか。清原は森が育てたのではなく、優れた素質に任せて甘やかし、放任しただけ。人気とカネに溺れる清原を甘やかして、人間としての教育・指導をしなかったことが、結果として清原を引退後、覚醒剤逮捕という地獄に落とした。オーナー、フロントともに甘やかし、放任した監督の責任は重い」[1]、広岡によると、清原の扱いにてこずり将来を心配したコーチたちが森に「一度、社会常識など厳しく教え込むべきではないか」と進言したが、森はこれを無視して放任したという[16]。さらに清原によれば、森は清原に対してはサインらしいサインは出さず基本ノーサインだった[17]。
2016年に清原が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されたのを受けて、広岡は「コーチを責めるよりも、やっぱり監督だね。清原は高校を卒業してドラフト1位で西武に入った。当時の森監督は野球は教えたけど、社会人としての常識を教えなかった。親ができなかったことを球団が教えないといけなかった。森監督がしっかりしていれば、清原はタイトルを取ってますよ。清原は「無冠の帝王」だもん。清原はまれにみる才能を持った男だったんですよ。僕が西武の監督だったころに入団していたらよかったが」[18]、「その中でも特に当時の指揮官だった森祇晶監督の責任は大きかったのだろう。清原は森監督の悪口は絶対に言わない。それは清原にとって耳障りなことを口にしなかったからだろう。森監督が野球だけではなく、立派な人間になるために必要なことをたたき込むべきだった。そのようなことを教育しておけば、清原も引退までに打撃3冠のタイトルを何か取っていただろう。あれだけの能力を持ちながら「無冠の帝王」のままで終わってしまったということは、そういった点にも理由があったはずだ。 」[19]、野村は「清原が西武1年目か2年目のときに、俺は森に言ったんだよ。清原は野球に対する思想、哲学が何もない奴だ、天性だけでやっている。お前が悪い。ちゃんと教育しろって。野球の指導はコーチがやる。監督の仕事で大事なのは人間教育、社会教育ですよ。」[20]、とそれぞれ森による放任が逮捕の遠因になったのではないかと述べている。
ただし、清原のPL学園時代の2年後輩であり、在学時は清原のルームメイト兼付き人であった片岡篤史は清原が逮捕後に森が清原を甘やかしていたという話が事実なのかを当時の西武関係者に聞いたら、森は清原を甘やかせてはいなく、相当清原には厳しく説教していたと言われたと自身のYouTubeに清原が出演した際に話しており、清原本人もそれを認めている[要出典]。
田尾安志は「勝負師だった森さんとは馬が合わなくて、球団管理部長だった根本さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになった」と語っている[21]。
このようにチームは常勝であり、表立ったチーム内の不協和音もほとんどなかった反面[要出典]、観客動員数は伸び悩み、1989年に僅差でリーグ優勝を逃した事を報告し監督続投を志願した際には当時のオーナー堤義明からテレビカメラの前で「(監督を)やりたいんだったら、おやりになればいいんじゃないですか。どうぞ。」という言葉を投げつけられるなど、球団首脳からの評価は意外に低かったといわれている。ショックを受けた森は川上哲治に相談、「監督は誰でもやれる仕事ではない。チャンスがあるのなら続けたほうがいい。」と諭されて留任・続投した[1]。
1994年11月1日、正式に勇退を表明した。この年の日本シリーズ対巨人第6戦(10月29日東京ドーム・試合開始予定時刻午後1時)開始前の正午前、巨人の親会社である読売新聞社に「西武・森監督辞任」という一報が報じられる(共同通信社による配信)。森は同年限りで辞任することが内々で決定していたが、日本シリーズ終了前に辞任報道が流れるという憂き目にあった[注釈 7]。20年前と同様、長嶋が監督として初めて日本一を決め脚光を浴びている中、静かに退任となってしまった。
監督辞任に至るきっかけとなったのは1994年10月2日、近鉄に勝ちリーグ優勝を決めた日のことだったと語っている。「晴れがましい祝宴を期待していたら[要出典]、ただ食べ物が置かれているだけで普段の遠征と変わらない光景であった。優勝を決めても祝福せずに東京に帰ってしまうフロントの態度に怒りを通り越して悲しくなるほど愕然とした[要出典]。特に夏場になっても例年なら来るはずの翌年のドラフト、外国人選手の情報が自分の元に降りて来ず、フロントの様子がおかしかったことなどから、今期限りだと覚悟を決めていた」と述べ、あと2~3年自分が我慢をして石毛にバトンタッチする考えも持っていたことを吐露している[要出典]。さらに同著書の中で、コーチの中に森に対して良い顔をする一方で、次期監督候補に対し「森監督退任後は俺をコーチに据えてくれ」と、手当たり次第に売り込み自己保身する者がいたことに触れ、「一緒に優勝を目指してやってきた中にそんな人間がいたことが情けない。」と述べている[要出典]。
森の辞任直後、次期監督と目されていた石毛と工藤公康がダイエーへFA移籍、翌1995年オフには後任監督の東尾修が「同じ成績ならベテランより若手を起用」という方針で辻が自由契約に(辻はヤクルトに移籍し1999年まで在籍)、1996年オフには清原がFAで巨人へ移籍し、渡辺久信も1997年オフに自由契約になる(1998年にヤクルトに移籍しその年のオフに戦力外となった)等、立て続けに西武の日本一時代の主力選手が去り、レギュラークラスでは伊東勤、郭泰源、潮崎哲也、西武生え抜きではないが鹿取義隆のみが西武で現役を全うした。
その後は1995年から2000年にはNHK解説者、日刊スポーツ評論家。1995年にはグリコ協同乳業「Bigヨーグルト健康」のCMに父親役として出演。庭で素振りをしたり、バッティングセンターでピッチングマシンから放たれるボールを捕球したりと、現役時代を髣髴とさせるシーンがあった。息子役は岡田義徳(森と同じく岐阜県出身)、娘役はデビュー直後の広末涼子だった。1998年には巨人次期監督内定の記事が朝日新聞に掲載されたものの、反森派のOBによる反対や読売新聞グループ内の思惑が影響したために実現しなかったと一部週刊誌に報道されている[22]。
横浜監督時代[編集]
2000年10月13日、横浜ベイスターズ監督に就任[注釈 8]。森は就任会見で「マシンガンという攻撃力は表立っているが、一本のヒットによる得点という意味ではリーグで一番効率が悪いのではないか。巨人の大砲にピストルで向かっていくのに、その巨人より犠打が少ないとは。大砲を持っているように錯覚して戦っていたのではないか。バントが多いと言われるが、競り合ったらそれも武器。面白いとか面白くないとかではない。谷繁(元信)をもう一度叩き直していく必要がある。」と次々に容赦なく前体制への批判とも取れる発言をした[23]。コーチ陣は、ヘッドコーチには現役時代の同僚で、1990年から5年間西武でコンビを組んだ黒江透修が就き、OBからは高木豊が内野守備走塁コーチに就任し[23]、投手コーチの遠藤一彦、打撃コーチの高木由一は留任した。
2001年は主砲のロバート・ローズが退団するなどにより序盤から最下位に低迷。監督主導で優勝時のレギュラーだった波留敏夫を中日へ放出[24]、またかつて西武時代に重宝した杉山賢人を近鉄から獲得するなど率先して巻き返しをはかり、中盤にオールスターを挟み10連勝したことで、勝率は4位の広島東洋カープより7厘低いも関わらずこの年のみ勝ち数優先というルールの恩恵を受けて三位となった[23]。チーム防御率は3.92から3.75まで向上し[23]チームは5年連続Aクラス入りを果たすが、10月6日の試合にて対戦相手のヤクルトが4年ぶり優勝となり、西武の監督時代に経験がない相手チームの胴上げを目の前で見届けることとなる。8月16日のヤクルト戦では審判の判定に抗議し、現役時代も通じて初の退場処分を受け、一時ベンチから選手を引き上げさせた[25]。
2002年は共に西武時代の教え子の森繁和を投手コーチ、辻発彦を内野守備走塁コーチに招聘。しかし森との確執で正捕手の谷繁[26] や前年のチーム最多勝投手の小宮山悟がFA移籍をするなど戦力が低下。開幕から記録的な低迷を続け16年ぶりの13連敗を喫するなど最下位を独走し全日程で最下位となり、シーズン途中の2002年9月25日に契約を一年残して解任が通告された[27]。解任翌日の9月26日には森が「今日限りでユニフォームを脱ぐことになりました。ファンに対して申し訳ない成績で一番それに心痛めています。本当にわずかな期間でしたがお世話になり、ありがとうございました。」と述べるだけの質疑応答が一切認められない前代未聞の会見が開かれ、一分ほどで打ち切られた[23]。メディアでは森監督更迭論が飛び交い、セオリー通りの詰将棋でも見ているかのような重い采配に観客動員も大幅に減った(1998年約32万、前年15万減)[23]。監督代行は森が横浜の監督になる際に横浜のコーチに就任したヘッド兼打撃コーチの黒江がシーズン最終戦まで務めた。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。投手陣は唯一11勝で新人王争った2年目の吉見祐治が唯一の明るい材料で[23]、チーム防御率・失点リーグ5位、打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わった。サヨナラ勝ちも12球団で唯一なかった。
(以下、黒江のコメント)
- フロントが選手と直接電話やメールで仲良くしている。監督・コーチへの不満を言い出した選手がいて、フロントが「そんなのほっとけ」と言えば、選手たちは僕らの言うことなんて聞いてくれません。それに森さん自身も「自分の野球」のイメージから抜けられなかった。だから、僕が途中から代理監督になって以降は「これまでの観念を捨てて思い切った采配をしていく」と足の遅い走者でもエンドランを仕掛けました。球団からは「森さんも黒江さんみたいな野球をしてくれれば、最下位にならなかったのに」と言われましてね。[28]
谷繁曰く「これがプロの世界かと思ったから、あれ以来、絶対自分の場所を守ろうという気持ちになった。横浜を出たのも、金銭とかではなく、この監督(森)の下ではいずれ自分のいる場所が相川(亮二)に奪われると思ったから。監督の思惑が見えていたからね」とのこと[29]。谷繁はシーズン中、ベンチでは森の横に座り素直に話を聞いていたが、いつしか離れて座るようになったという。森が『あのリードで、よく正捕手が務まってたな』と陰でグチグチ言っているのを人づてに聞き、森の性格に嫌気が差すとともに、森は谷繁がFA移籍しても相川で穴埋めできると考えていたという[30]。2001年の横浜一軍投手コーチだった遠藤一彦によると、谷繁は森監督との折り合いが悪く、試合中はベンチで背後から「あのリードはねーよな」とブツブツと散々、ボヤキを聞かされたりしていたという[31]。 森との確執により谷繁は2001年オフに退団し移籍したが、佐々木主浩、野村弘樹、石井琢朗、鈴木尚典、進藤達哉など大洋・横浜OB・現役の選手に対して「ベイスターズが弱くなったポイントはどこですか?」という質問に対して全体の8割が谷繁放出を挙げている[23]。実際、谷繁をFAで獲得した中日は山田久志、落合博満両監督から絶大な信頼を受けた谷繁が正捕手として君臨した期間に黄金時代を築く事になる。
当時横浜の選手だった中根仁は「難しかったですね。今まで自分で考えてやれていたものが、森さんが来てこれはダメあれはダメというな流れになって、これまでの自主性が失われていく方向になりました。それとベンチにいるとね、監督がブツブツと愚痴らしきものを言ってるのが聞こえてくるんですよ。特に神宮球場は良く聞こえるんだ。」、石井琢朗は「権藤さんの野球しか知らない若い世代には森さんの野球には戸惑いがありましたが、須藤(豊)さんや近藤(昭仁)さんの野球を経てきた僕らの世代にとっては、森さんになっても野球が戻るだけというか同じ延長上にあるので違和感はないんです。僕としては優勝後勝てなくてなって、ここに森さんの緻密さが加わればもう一度強くなれる期待したんですがやっぱり噛み合わなかったですね。」と述べている[23]。
金城龍彦の打撃は森政権の2年で急低下、石井義人、古木克明など守備難の選手は敬遠される傾向にあった[23]。
森を招聘した大堀隆は「この人事によりチーム成績を悪くしただけでなく、森さんを傷つけてしまう最悪の結果を招いてしまった。これは森さんが悪いのではなく、キャスティングした僕のミスだよ。あの当時成績はAクラスでもチーム力は落ち始め、世代交代が急務になっていた。森さんは強いチームを日本一にすることができる監督であって、当時のベイスターズにはミスキャストにしかなり得なかった。本来は森さんではなく、強いチームも指揮できて、育成もできる野村克也さんだよ。僕は野村さん嫌いだったけど。」と述べている[23]。川上哲治は自著で、「意の広岡(達朗)、知の森(祇晶)、情の藤田(元司)」と分類しており、森に対しては「ある程度できあがっているチームには森のような監督の知力を使えば常勝チームになる」と評価している。これは大堀の分析とはほぼ合致している。
広岡は「敗因は森の選手起用だった。監督として初めての弱小球団で森がやったのは、現役時代を過ごした巨人の野球だった。巨人は優秀な人材が多かったうえに選手たちのプライドが高く、レギュラーの座を目指して必死に努力した。そして一度手にしたイスを守るために研究と練習を怠らなかった。だから歴代の監督は育てる必要がなく、その時調子のいい選手、力のある選手を使うだけで良かった。西武の黄金時代は、私が築いた基礎の上で成熟したチームを、試合巧者の森がうまく指揮して完成させた。ところが若くて未熟な横浜では、結果を出せない選手を「お前もダメ、お前もダメ、下でやり直しと次々と二軍に落としたので、一軍に使える選手がいなくなった。森に未熟な選手を時間かけて育てる根気と熱意があれば。古巣・巨人の監督も務める立派な指導者になるはずだった。」[1]と述べている。
特に成績が低迷した横浜監督の2年目はファンや地元マスコミの批判にさらされることが多かった。横浜では過去に森と同じく優勝実績があり鳴り物入りで就任した古葉竹識が、就任3年目に最下位に転落し契約を2年残しての辞任に追い込まれたという類似ケースがあったことや、森の前任監督である権藤博が放任野球を標榜して1998年に日本一を達成しており、森が標榜したバントを多用する手堅い采配がそれとは対極のものであった(うえに結果が出なかった)ことも、横浜ファンからの森の評価を下げる要因となった。
一方で小川博文、種田仁を獲得してチームの主力として定着させた他、斎藤隆の抑えへの転向を成功させたり、相川の正捕手への起用など、後の横浜の基礎となる選手の育成、チームの再編成も見られた。森は、戦力差を埋めようと補強に動いていたが実現しなかったことを、退任後に明かしており、のちに阪神優勝特集の書籍にて、西武では自由にやらせてくれたと称える一方、横浜では選手の起用法で介入されたと、フロント批判を展開している。
監督退任後[編集]
アメリカ合衆国の永住権を取得したため、2003年からハワイに移住しており、現在は海外の野球についての評論が主である。2005年に野球殿堂入り。結婚を3回・離婚を2回している[32]。
2018年2月10日、宮崎サンマリンスタジアムでの「ジャイアンツ対ホークスOB戦」に参加。
2018年7月20日、ライオンズ フェスティバルズ 2018の初戦ゲストとして、試合前セレモニーと始球式、試合後トークショーに登場。メットライフドーム(監督在任当時は西武ライオンズ球場)への来場は、1994年以来24年振りとなる[33]。
出場日本シリーズ20連勝[編集]
森は日本シリーズに24回=現役時代に13回(巨人)、コーチ時代に3回(ヤクルトで1回、西武で2回)、監督時代に8回(全て西武)出場している。3回目の出場の1961年から、22回目の出場の1992年まで20回連続優勝(日本一)を経験している。(個人としての出場であり、所属球団が日本シリーズに出場していても、本人が出場していない場合は含まれていない。)
- 現役時代 11連勝 1961年・1963年・1965年~1973年(V9)
- コーチ時代 3連勝 1978年(ヤクルト)・1982年・1983年(以上西武)
- 監督時代 6連勝 1986年〜1988年・1990年〜1992年
- シリーズ敗退 4回 1957年・1959年(以上現役時代)・1993年・1994年(以上西武監督時代)
1958年の日本シリーズで、巨人は西鉄に3連勝から4連敗を喫しているが、森はこのシリーズには出場しなかったため、1958年は出場回数には数えない。
また西武は1985年の日本シリーズで阪神に敗れているが、森は前述の通り前年にコーチを辞任しており、監督就任でチームに復帰したのは翌年(1986年)だったので、自身のシリーズ連勝記録は止まらなかった。
V9後の巨人は1976年の日本シリーズで阪急に敗れ、1959年以来17年ぶりにシリーズ敗者となった。一方、森は20連勝の後、1993年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、34年ぶりにシリーズ敗者となった。
座右の銘[編集]
好きな言葉は「忍」。1989年に優勝を逃した後、空いた時間に、妻の希望もあって中国を旅した。洛陽で高僧に「あなたはどういう言葉が好きですか」と尋ねられた森は「忍」と答えた。高僧は膝を打って言った、「大変な言葉ですね。忍という字は、心臓の上に刃をのせている。つまり、心の上に刃をのせている。これは苦しいことですよ」。さらに、「忍の字が好きだということは、あなたはそれができる、ということです。きっと、いい仕事ができますよ」。森はこの言葉を聞いて、全身に力がみなぎるのを感じたという。著書の『覇道―心に刃をのせて』のタイトルは、このエピソードによる。この著書は『週刊ベースボール』連載を元にしているが、連載時のタイトルはそのまま『心に刃をのせて』だった。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 巨人 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1956 | 13 | 14 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | .077 | .143 | .077 | .220 | |
1957 | 42 | 105 | 97 | 5 | 21 | 3 | 0 | 1 | 27 | 12 | 1 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 20 | 1 | .216 | .269 | .278 | .548 | |
1958 | 30 | 66 | 64 | 6 | 19 | 6 | 1 | 1 | 30 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 17 | 2 | .297 | .318 | .469 | .787 | |
1959 | 105 | 363 | 329 | 17 | 75 | 7 | 1 | 3 | 93 | 26 | 5 | 0 | 3 | 2 | 28 | 3 | 1 | 52 | 8 | .228 | .291 | .283 | .573 | |
1960 | 115 | 384 | 355 | 18 | 70 | 14 | 0 | 2 | 90 | 18 | 5 | 2 | 6 | 3 | 20 | 6 | 0 | 46 | 11 | .197 | .240 | .254 | .494 | |
1961 | 113 | 344 | 323 | 17 | 72 | 15 | 1 | 4 | 101 | 29 | 0 | 4 | 1 | 1 | 17 | 3 | 2 | 24 | 6 | .223 | .266 | .313 | .579 | |
1962 | 134 | 508 | 469 | 43 | 116 | 24 | 1 | 6 | 160 | 44 | 4 | 6 | 3 | 2 | 32 | 4 | 2 | 35 | 15 | .247 | .298 | .341 | .639 | |
1963 | 132 | 452 | 419 | 26 | 83 | 10 | 2 | 4 | 109 | 38 | 3 | 0 | 2 | 4 | 27 | 4 | 0 | 30 | 11 | .198 | .247 | .260 | .507 | |
1964 | 123 | 459 | 426 | 35 | 115 | 17 | 1 | 12 | 170 | 65 | 1 | 1 | 3 | 2 | 27 | 1 | 1 | 22 | 8 | .270 | .315 | .399 | .714 | |
1965 | 135 | 511 | 484 | 47 | 134 | 19 | 2 | 5 | 172 | 58 | 2 | 0 | 3 | 3 | 19 | 0 | 2 | 25 | 18 | .277 | .307 | .355 | .662 | |
1966 | 125 | 454 | 425 | 25 | 103 | 13 | 2 | 5 | 135 | 62 | 1 | 1 | 3 | 4 | 21 | 8 | 1 | 19 | 12 | .242 | .280 | .318 | .597 | |
1967 | 109 | 360 | 331 | 28 | 92 | 10 | 0 | 6 | 120 | 31 | 3 | 0 | 1 | 3 | 22 | 6 | 3 | 22 | 11 | .278 | .329 | .363 | .691 | |
1968 | 127 | 468 | 439 | 35 | 100 | 10 | 1 | 11 | 145 | 46 | 2 | 2 | 3 | 2 | 21 | 1 | 3 | 31 | 15 | .228 | .268 | .330 | .598 | |
1969 | 115 | 372 | 340 | 22 | 87 | 13 | 0 | 8 | 124 | 39 | 0 | 1 | 1 | 2 | 26 | 6 | 3 | 29 | 11 | .256 | .314 | .365 | .679 | |
1970 | 97 | 272 | 243 | 11 | 51 | 10 | 0 | 0 | 61 | 15 | 0 | 3 | 1 | 4 | 23 | 8 | 1 | 21 | 8 | .210 | .281 | .251 | .532 | |
1971 | 95 | 285 | 256 | 19 | 55 | 8 | 2 | 4 | 79 | 22 | 1 | 1 | 1 | 2 | 26 | 8 | 0 | 28 | 8 | .215 | .287 | .309 | .596 | |
1972 | 120 | 372 | 338 | 20 | 71 | 10 | 0 | 4 | 93 | 33 | 0 | 0 | 0 | 3 | 26 | 6 | 5 | 27 | 13 | .210 | .276 | .275 | .552 | |
1973 | 97 | 241 | 223 | 11 | 49 | 5 | 0 | 3 | 63 | 19 | 1 | 0 | 2 | 1 | 14 | 2 | 1 | 10 | 7 | .220 | .269 | .283 | .551 | |
1974 | 56 | 118 | 111 | 7 | 27 | 2 | 0 | 2 | 35 | 19 | 0 | 1 | 0 | 2 | 5 | 1 | 0 | 5 | 6 | .243 | .276 | .315 | .591 | |
通算:20年 | 1884 | 6149 | 5686 | 392 | 1341 | 196 | 14 | 81 | 1808 | 582 | 29 | 23 | 34 | 40 | 363 | 67 | 26 | 469 | 171 | .236 | .285 | .318 | .603 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績[編集]
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | 昭和61年 | 西武 | 1位 | 130 | 68 | 49 | 13 | .581 | ― | 185 | .281 | 3.69 | 49歳 |
1987年 | 昭和62年 | 1位 | 130 | 71 | 45 | 14 | .612 | ― | 153 | .249 | 2.96 | 50歳 | |
1988年 | 昭和63年 | 1位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | ― | 176 | .270 | 3.61 | 51歳 | |
1989年 | 平成元年 | 3位 | 130 | 69 | 53 | 8 | .566 | 0.5 | 150 | .271 | 3.86 | 52歳 | |
1990年 | 平成2年 | 1位 | 130 | 81 | 45 | 4 | .643 | ― | 162 | .263 | 3.48 | 53歳 | |
1991年 | 平成3年 | 1位 | 130 | 81 | 43 | 6 | .653 | ― | 155 | .265 | 3.22 | 54歳 | |
1992年 | 平成4年 | 1位 | 130 | 80 | 47 | 3 | .630 | ― | 159 | .278 | 3.52 | 55歳 | |
1993年 | 平成5年 | 1位 | 130 | 74 | 53 | 3 | .583 | ― | 114 | .260 | 2.96 | 56歳 | |
1994年 | 平成6年 | 1位 | 130 | 76 | 52 | 2 | .594 | ― | 122 | .279 | 3.81 | 57歳 | |
2001年 | 平成13年 | 横浜 | 3位 | 140 | 69 | 67 | 4 | .507 | 8 | 94 | .267 | 3.75 | 64歳 |
2002年 | 平成14年 | 6位 | 140 | 49 | 86 | 5 | .363 | 35.5 | 97 | .240 | 4.09 | 65歳 | |
通算:11年 | 1436 | 785 | 583 | 68 | .574 | Aクラス10回、Bクラス1回 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1986年から1996年までは130試合制
- ※3 2001年から2004年までは140試合制
- ※4 2002年、9月26日より休養。監督代行は黒江透修
- ※5 2002年、欠場した14試合(6勝8敗)は通算成績に含まない
表彰[編集]
- ベストナイン:8回(1961年 - 1968年)
- 野球殿堂競技者表彰(2005年)
- 日本シリーズMVP:1回 (1967年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回 (1965年)
- 正力松太郎賞:2回(1986年、1990年)※監督として表彰
- 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:3回 (1987年、1988年、1990年)[34]
- 都民文化栄誉賞(1991年)[35]
- 岐阜市民栄誉賞(1995年)[36]
記録[編集]
- 節目の記録
- 1000試合出場:1966年6月30日 ※史上109人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:11回(1960年 - 1970年)
背番号[編集]
- 27 (1955年 - 1974年)
- 72 (1978年 - 1979年)
- 81 (1982年 - 1984年、1986年 - 1994年、2001年 - 2002年)
登録名[編集]
- 森 昌彦 (もり まさひこ、1955年 - 1985年)
- 森 祇晶 (もり まさあき、1986年 - 1994年、2001年 - 2002年)
関連情報[編集]
解説者として出演していた番組[編集]
- Fun!BASEBALL!! - 出演していた日本テレビのプロ野球中継の現行タイトル。
- SAMURAI BASEBALL - 出演していたTBSテレビのプロ野球中継の現行タイトル。
- TBSラジオ エキサイトベースボール - 出演していたTBSラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- 文化放送ライオンズナイター
- 文化放送ホームランナイター
- NHKプロ野球
著書・書籍[編集]
- 『勝つための参謀学―球界きっての知将が明かすリーダーと参謀の条件』講談社文庫
- 『人間怒り方しだい』青春出版社
- 『「勝ち続ける」ために何をすべきか』講談社
- 『男は不器用でいいじゃないか』講談社
- 『覇道―心に刃をのせて』ベースボール・マガジン社
- 『森祇晶の知のリーダー学』ごま書房
- 『責任者の条件』青春出版社
- 『「一流になる」ために何をすべきか』講談社
- 『監督―悪ガキこそ戦力だ』藤田元司との対談、光文社、1997年
- 『悪役の正論―我思う。ゆえに我あり』ザ・マサダ
- 『捕手的人間の時代』ザ・マサダ
- 『情の野球 知の野球―プロ野球がもっと面白くなる考え方』PHP研究所、2001年3月、ISBN 4-569-61243-1
- 『不敗の監督学(インサイドワーク)―西武ライオンズ森祇晶 常勝の秘密』松下茂典著、オーエス出版、1991年8月、ISBN 4871902986
- 『野球力再生 名将の「ベースボール」思考術』ベースボール・マガジン社、2009年3月、ISBN 9784583101613
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 森とよく対比される野村克也は、現役通算で206個のパスボールを記録している(1試合あたり0.068個)
- ^ 柴田勲や高田繁などは俊足ということもあって1番・2番を任せられていたため、消去法で森が5番に回ることが多かった。
- ^ 例:大矢明彦・古田敦也(いずれもヤクルト。ただし両者の背番号の由来は国鉄スワローズの正捕手・根来広光)、森の西武監督時代の教え子でもある伊東勤。
- ^ 横浜DeNAベイスターズと千葉ロッテマリーンズでは、投手の背番号として定着しているため(ロッテ=八木沢荘六・牛島和彦・河本育之など、大洋→横浜→DeNA=平松政次・江尻慎太郎・久保康友など)、平成となって以降両球団で捕手が着用したのは清水将海(ロッテ)だけであり、その他の野手を含めてもナイジャー・モーガン(DeNA・外野手)がいる程度である。ロッテでは大毎オリオンズ~東京オリオンズ時代に2人捕手が着用したが(谷本稔・吉田英司)、DeNAでは洋松(大洋松竹)ロビンス時代の1953年に神崎安隆が着用しただけである。
- ^ 例:谷繁元信(中日、2004年 - 2016年)、炭谷銀仁朗(西武、2012年 - 2018年、巨人、2019年 - )。なお西武では2019年からFAで巨人に移籍した炭谷の人的補償として獲得した内海哲也(投手)が着用するため、1981年の大原徹也(内野手)以来以来38年ぶりに捕手以外が着用することになった。
- ^ ヤクルト球団の常務を務めた徳永喜男の著書では、森の肩書をヘッドコーチとしている[9]。
- ^ 西武監督辞任報道に関しては、堤オーナーの指示により西武球団側が情報を意図的に流したとする見方もあった。
- ^ 横浜は近藤昭仁が退任した1995年オフと大矢明彦が退任した1997年オフにも、森に監督就任を要請している。
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 広岡達朗著、プロ野球激闘史、森昌彦、選手を育てられなかった名参謀、196-208頁、幻冬舎、2020年
- ^ 1833試合で42捕逸だけの森昌彦捕手(第749回)
- ^ 巨人&阪神の大物OBが理想と考える捕手の起用方法は
- ^ 『スポーツ報知』2012年1月16日号<9版>2面
- ^ 長嶋VS川上(上) リアルライブ 2009年06月23日 15時00分
- ^ 【12月2日】1974年(昭49) 巨人V9の頭脳、森昌彦退団 長嶋新監督から声かからず
- ^ 長嶋、森「覇道」野球を敵対視、夕刊フジ2001年01月29日
- ^ 『1978ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1978年)62頁
- ^ a b 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』282-283頁
- ^ 広岡達朗著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道、P6、2016年、幻冬舎
- ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P137、2015年
- ^ ベースボールマガジン 2018年07月号 特集:埼玉西武ライオンズ40周年黄金の記憶 [完全保存版:一軍全選手写真名鑑1979-2008] (ベースボールマガジン別冊薫風号)、23頁
- ^ 週刊ベースボール2018年10月22日号、週刊ベースボール60周年記念企画西武ライオンズLEGEND対談廣岡達朗×石毛宏典、111頁
- ^ 永谷脩著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将、廣済堂出版、2013年、P127
- ^ 「教えられなかった死球の避け方」 - 2009年2月16日
- ^ 巨人への遺言プロ野球 生き残りの道、P24
- ^ 『清原和博 告白』文藝春秋、2018年、93頁、ISBN 9784163908762
- ^ 元西武ライオンズ監督・広岡達朗 清原逮捕に「この事件は球界に対する警告。指導者が常識教えなかった」 週刊朝日 2016年2月11日
- ^ 清原和博を語る第3回 広岡達朗の証言「巨人の伝統をしっかりと清原に教え込まなければいけなかった」
- ^ 野村克也 清原逮捕に「天才だが考えられないバカ。野球人としての復帰は難しい」 週刊朝日 2016年2月10日
- ^ 田尾安志 プロ野球チームをつくろう - [リンク切れ]
- ^ 『週刊宝石』1998年10月1日号他
- ^ a b c d e f g h i j k 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P58-81
- ^ 【4月20日】2001年(平13) 横浜と中日 掟破りの同一リーグのシーズン中トレード
- ^ 【8月16日】2001年(平13) 横浜、試合放棄寸前!“誤審”でマジック点灯
- ^ “中日・谷繁vs西武・伊原”新監督同士をめぐる意外な「因縁」とは… - 2014年2月23日
- ^ 横浜が森監督を今季限りで解任、2002年9月26日、日刊スポーツ
- ^ 日本プロ野球監督列伝―1936ー2014 (B・B MOOK 1069)、ベースボール・マガジン社、2014年、P64
- ^ 中日・谷繁“布石を打って勝つ”新リーダー術(6)「兼任監督が機能する条件」
- ^ 引退の谷繁「中日移籍」秘話 陰に横浜・森監督との確執が…2015年9月30日、日刊ゲンダイ
- ^ 横浜大洋時代の先輩・遠藤一彦氏が明かす「谷繁監督兼捕手の知られざる顔」
- ^ 新連載 「時代」を彩った男と女・あの人は今 元西武監督・森祇晶さん リアルライブ 2009年9月1日配信
- ^ 稀代の“名将”森祇晶が見たライオンズ BASEBALL KING 2018年7月23日配信
- ^ “歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。
- ^ “東京都文化賞・都民文化栄誉章”. 文化振興. 東京都生活文化局. 2017年12月4日閲覧。
- ^ “岐阜市民栄誉賞”. 岐阜市. 2017年12月4日閲覧。
参考文献[編集]
- 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』(ベースボール・マガジン社、1992年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 森昌彦 - NPB.jp 日本野球機構
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