中根仁

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中根 仁
Hitosi Nakane in 2010.08.15.JPG
2010年8月15日 横須賀スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県仙台市泉区
生年月日 (1966-08-28) 1966年8月28日(50歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1988年 ドラフト2位
初出場 1989年5月3日
最終出場 2003年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 横浜ベイスターズ
    横浜DeNAベイスターズ (2006 - 2013)

中根 仁(なかね ひとし、1966年8月28日 - )は、宮城県仙台市泉区出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校3年生の頃にリトルリーグで野球を始めた[1]。幼少期はロッテの試合を見に宮城球場によく行き、有藤道世のファンだったという[2]東北高校3年の1984年、1学年下の佐々木主浩葛西稔とともに四番・右翼手全国高校野球選手権に出場。柳井高校日大一高を破って3回戦進出の立役者となった。高校卒業後は法大へ進学。

大学でも右翼手を務め、クリーンアップを任されるようになった1987年東京六大学野球春季リーグ戦で初のベストナインに外野手として選出される[3]。続く3年秋のリーグ戦では打率.438で首位打者となってリーグ優勝に貢献し[4]、ベストナインにも選ばれた。4年となった1988年は主将を務めたが、春季リーグ戦の途中で骨折をしたため、戦線離脱[5]。秋季リーグ戦ではベストナインとなり、チームも3季連続のリーグ優勝を果たした[6]

4年間でリーグ戦に通算68試合出場、215打数71安打、打率.330、11本塁打、49打点の成績を残している。なお、大学で初本塁打を放った際には全力疾走して高校の先輩でもある一塁走者の金子誠一を追い抜いてしまった[7]同年のドラフト会議ではヤクルトスワローズ横浜大洋ホエールズが3位で指名するという話を聞いていた[2]が、近鉄バファローズから2位指名を受け、契約金5,300万円、年俸600万円(いずれも推定)[8]で入団。

近鉄時代[編集]

1989年は一軍キャンプラルフ・ブライアント鈴木貴久の打球を見て衝撃を受けたが、走塁や守備は一定の手応えを感じたという[2]。二軍に回ってからは佐々木恭介打撃コーチとともに手がボロボロになるほど練習を重ね[2]、4月のウエスタン・リーグ月間MVPを受賞し、一軍へ昇格。5月3日には対ロッテ戦で一軍初出場を果たし、6月13日の対ロッテ戦では2本塁打を放つ[9]など、1年目から一軍に定着してリーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズには代打代走として出場し、オフには年俸1,000万円(推定)で契約を更改した[10]

右打ちでパンチ力がある、中根とはタイプの近い外野手である[7]村上隆行と数年間にわたってポジションを争い続けたが、1990年のキャンプでは新井宏昌に師事してバント練習に励み[11]、オープン戦では三塁手にも挑戦する[12]など出場機会を増やすため努力を重ねた。1992年4月28日の対西武ライオンズ戦で左ヒザ半月板を痛めて6月に手術を受け、8月18日の対ロッテ戦で復帰したため[13]、同年は前年の約半分の52試合の出場に終わる。

1993年は外野手の鈴木貴久がひじの手術を受け、戦列を離れたことなどから出場機会が大きく増え、自己最多の112試合に出場する。調子の波が激しくレギュラー定着はならなかった[14]ものの、1,100万円増の年俸3,500万円で契約を更改した[15]。翌1994年はキャンプ序盤の2月14日に自打球を当てて右足親指を骨折した[16]が、レギュラーシーズンに入ると好調を維持。いてまえ打線の恐怖の九番打者と呼ばれ[17]、中堅手として64試合に先発出場するなど10本塁打、42打点を記録した。しかし1995年は左手首を故障し、治療のため全国の病院を回り、試合にはほとんど出場できなかった。さらに秋季キャンプでも再び手首を痛めた[18]。秋に手首の関節軟骨の手術を受け、翌1996年前半はリハビリに集中して、一軍昇格は7月となった[19]

1997年のシーズンオフに正外野手の波留敏夫プロ野球脱税事件に関わったことが発覚し、翌年開幕からの出場停止処分が下されたため、その代役を探していた横浜ベイスターズ権藤博監督が中根の獲得を強く要望[18]。これを受け12月、セットアッパーの佐野重樹が肘の手術で来季絶望となりリリーフの補強を目論んでた近鉄に、先発転向が失敗し右ひじを痛めて登板機会が減っていたが佐々木主浩とのダブルストッパーとして活躍していた盛田幸希を提示し交換トレードが成立し、横浜へ移籍。盛田は過去に最優秀防御率のタイトルを獲得し、さらに同年まで2年連続で開幕投手を務めていた横浜の主力投手であり、中根とは実績や年俸の面でギャップがあると、当事者の中根[18]やベイスターズ取締役の野口善男(法大の先輩)も認める[20]程の異例のトレードだった。

横浜時代[編集]

1998年はキャンプから中堅手右翼手のレギュラーの座を佐伯貴弘ホセ・マラベ井上純と4人で争い[21]、それぞれがオープン戦でも好調を維持していた。開幕戦では井上とマラベがスタメン起用されたものの、4月10日の対巨人戦で一番・中堅手として移籍後初の先発出場を果たす。しかし4月14日の対広島戦でダイビング捕球した際に左肩を痛めて1ヶ月半の長期離脱を余儀なくされ、チームも苦戦が続いた[22]。6月に復帰した後は波留も謹慎処分が解け、試合に出場していたため、相手先発投手の左右に応じて佐伯と6番打者・右翼手で起用された。9月6日の対中日戦で本塁に突入した際に右足首を痛めて登録を抹消された[23]が10日間で復帰し、シーズン通算では70試合に出場。得点圏打率.408の勝負強い打撃はマシンガン打線の中でも異彩を放ち、チームメイトからは「一人いてまえ」と呼ばれ、リーグ優勝に貢献した[24]同年の日本シリーズでは第3、4戦に先発出場し、第3戦では4打数2安打1打点の成績を残している[25]。オフには活躍が認められ、1,200万円増の年俸6,000万円(推定)で契約を更改した[24]

1999年フリーエージェントの資格を取得してオフに行使し、現状維持の年俸6,000万円で1年契約を結んだ[26]2000年は佐伯に加え田中一徳ともポジションを争うようになった[27]が、正一塁手の駒田徳広の不振で佐伯が一塁手に回った事もあり、7月以降は5番・右翼手に定着した[28]。自己最高の打率.325、109安打の打撃成績に加え、好捕賞をテーマとした6月のJA全農Go・Go賞も受賞し[29]、オフには2000万円増の年俸8,000万(推定)で契約を更改した[30]

2002年ストライクゾーンが高めに広がった影響などから打撃時に脇腹を痛め、シーズン序盤に登録を抹消された[31]。1999年頃には、将来多村仁が一軍に定着したら自身は引退すると権藤監督に話していたという[32][33]が、2003年、多村仁の成長や古木克明の外野転向などもあり、若手の出場機会を増やすべきだと感じたことなどから現役引退を決意[32]。10月9日の対広島戦が引退試合となり、3番右翼手として先発出場しクリス・ブロックから左飛を打って第一打席で退いた[34]

現役引退後[編集]

2004年からは横浜ベイスターズのスカウトとなり、2005年2月には業務提携先の天津ライオンズのキャンプに派遣されて河原隆一とともに臨時コーチを務めた[35]

2006年湘南シーレックスの打撃コーチに就任し、2010年にシーレックスの打撃兼外野守備走塁コーチとなる。2011年からは横浜ベイスターズ一軍打撃コーチに配置転換され、2013年10月1日付けでコーチ契約を結ばないことが通達された[36]。退団後は元アスリート達が経営する店舗を紹介するポータルサイトを運営しながら、プロ野球解説者(2015年までGAORA、2016年からJ SPORTS)として活動している。

選手としての特徴・人物[編集]

故障が多く年間を通じてレギュラーに定着する事はなかったが、俊足、強肩で守備勘が鋭く、長打力のある外野手として定評があった[19]。一方、体が開きやすいなど打撃の確実性についてはプロ入り当初に課題とされていた[11]。新井宏昌(法大の先輩)は新人時代の中根を見ていずれ自分が追い抜かれると感じたという[37]。左右とも握力は80kgあり、特に上半身の筋肉は入団時から中西太コーチから一人前と認められていた[7]

近鉄時代は石井浩郎光山英和と合同で北九州市でハードな自主トレーニングを行ない、結束の強さから「石井軍団」とも呼ばれた[38]。このトレーニングで培った体力が近鉄のハードなキャンプを乗り切るのに役立ったという[18]。2013年の退団後は、2014年3月3日から~引退後のアスリートとファンを永遠に繋ぐポータルサイト~『アスリート街.com』を立ち上げ運営している[39]

妻は元タレントの堀一美堀ちえみの妹)。甥は東京ヤクルトスワローズ中根佑二

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1989 近鉄 59 157 144 25 34 5 0 10 69 21 2 1 3 0 10 0 0 44 3 .236 .286 .479 .765
1990 86 213 189 29 41 12 1 3 64 23 3 3 3 2 17 0 2 47 5 .217 .286 .339 .624
1991 103 262 230 47 67 18 1 6 105 18 7 2 7 1 23 1 1 39 3 .291 .357 .457 .813
1992 52 94 81 8 12 4 0 1 19 5 2 0 7 0 6 0 0 21 0 .148 .207 .235 .441
1993 112 324 293 36 77 13 5 8 124 35 18 10 11 1 19 0 0 73 13 .263 .307 .423 .730
1994 103 344 299 52 87 20 3 10 143 42 12 3 8 2 35 0 0 74 5 .291 .363 .478 .841
1995 4 13 10 2 3 1 0 0 4 0 2 1 0 0 3 0 0 2 0 .300 .462 .400 .862
1996 80 257 238 30 58 12 2 8 98 23 0 4 1 2 16 1 0 53 5 .244 .289 .412 .701
1997 45 133 112 10 21 5 1 1 31 9 2 1 2 2 16 1 1 21 1 .188 .290 .277 .567
1998 横浜 70 205 176 25 53 15 1 4 82 31 2 1 1 5 22 0 0 38 6 .301 .369 .466 .835
1999 71 211 191 23 52 12 1 5 81 25 0 1 0 2 17 0 1 38 3 .272 .332 .424 .756
2000 103 381 335 38 109 15 1 11 159 61 1 1 0 5 41 4 0 77 8 .325 .394 .475 .868
2001 104 305 259 38 68 11 0 7 100 33 1 2 7 0 37 3 2 69 4 .263 .359 .386 .745
2002 58 106 88 6 19 5 0 3 33 12 0 1 1 1 14 6 2 28 0 .216 .333 .375 .708
2003 42 74 69 3 16 4 1 1 25 13 0 0 0 1 4 0 0 27 2 .232 .270 .362 .633
通算:15年 1092 3079 2714 372 717 152 17 78 1137 351 52 31 51 24 280 16 9 651 58 .264 .332 .419 .751

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 27 (1989年 - 1993年)
  • 7 (1994年 - 1997年)
  • 6 (1998年 - 2003年)
  • 80 (2006年 - 2013年)

脚注[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール、1990年4月16日号、P.103
  2. ^ a b c d 週刊ベースボール、2003年12月15日号、P.121
  3. ^ 読売新聞、1987年6月3日付朝刊、P.16
  4. ^ 読売新聞、1987年10月28日付朝刊、P.16
  5. ^ 読売新聞、1988年8月25日付朝刊、P.18
  6. ^ 読売新聞、1988年11月3日付朝刊、P.19
  7. ^ a b c 週刊ベースボール、1989年3月13日号、P.53
  8. ^ 読売新聞、1988年12月5日付朝刊、P.19
  9. ^ 読売新聞、1989年6月14日付朝刊、P.18
  10. ^ 朝日新聞、1990年1月12日付夕刊、P.2
  11. ^ a b 読売新聞、1990年3月2日付朝刊、P.19
  12. ^ 読売新聞、1990年3月2日付朝刊、P.15
  13. ^ 読売新聞、1992年8月31日付朝刊、P.22
  14. ^ 読売新聞、1993年12月13日付夕刊、P.3
  15. ^ 読売新聞、1993年12月9日付朝刊、P.20
  16. ^ 読売新聞、1994年2月14日付朝刊、P.21
  17. ^ 週刊ベースボール、1996年6月12日号、P.58
  18. ^ a b c d 週刊ベースボール、2003年12月15日号、P.122より。なお、権藤は中根が近鉄に入団した当時の一軍投手コーチだった。
  19. ^ a b 週刊ベースボール、1996年6月12日号、P.57
  20. ^ 読売新聞、1997年12月2日付朝刊、P.23
  21. ^ 読売新聞、1998年2月19日付朝刊、P.19
  22. ^ 毎日新聞、1998年10月9日付朝刊、P.24
  23. ^ 毎日新聞、1998年9月6日付朝刊、P.21
  24. ^ a b 毎日新聞、1998年11月25日付朝刊、P.21
  25. ^ NPB公式記録 1998年度日本シリーズ 第3戦
  26. ^ 読売新聞、1999年11月26日付朝刊、P.22
  27. ^ 朝日新聞、2000年4月2日付朝刊、P.26
  28. ^ 読売新聞、2000年8月30日付朝刊、P.21
  29. ^ 毎日新聞、2000年7月12日付朝刊、P.21
  30. ^ 週刊ベースボール、2003年12月15日号、P.123
  31. ^ 読売新聞、2002年6月22日付朝刊、P.17
  32. ^ a b 週刊ベースボール、2003年12月15日号、P.120
  33. ^ 中根の引退後、背番号6は多村が引き継いでいる。
  34. ^ 毎日新聞、2003年10月10日付朝刊、P.19
  35. ^ 読売新聞、2005年2月5日付朝刊、P.20
  36. ^ 2014年度 コーチ契約について”. 横浜DeNAベイスターズ公式サイト (2013年10月1日). 2013年10月3日閲覧。
  37. ^ 週刊ベースボール、1996年6月12日号、P.58
  38. ^ 読売新聞、1997年7月1日付夕刊、P.4
  39. ^ ~引退後のアスリートとファンを永遠に繋ぐポータルサイト~『アスリート街.com』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]