中村紀洋

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中村 紀洋
20130818 Norihiro Nakamura, infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium.JPG
DeNA時代
(2013年8月18日、横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東淀川区(現・淀川区
生年月日 (1973-07-24) 1973年7月24日(43歳)
身長
体重
180 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1992年6月12日
MLB / 2005年4月10日
最終出場 MLB / 2005年5月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、大阪府大阪市東淀川区(現・淀川区)出身のプロ野球選手内野手)、アマチュア野球指導者。2014年に横浜を退団して以降生涯現役と称して活動中である。

2013年日本プロ野球名球会の会員となっている。

愛称は「ノリ」。家族は妻の浩子(元実業団バレーボール日立の選手)と3女。元プロ野球選手の村上隆行は義兄(妻の兄)。さらに広島東洋カープに所属する中田廉とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

大阪府大阪市出身。1985年4月17日阪神タイガース読売ジャイアンツの試合を観に行き、バックスクリーン3連発を観客席で見ていた[1]

大阪府立渋谷高等学校時代は、1990年全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。高校通算35本塁打。

高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。

1991年度ドラフト会議にて近鉄バファローズから4位指名を受けて入団。背番号66

近鉄時代[編集]

1992年、高卒新人ながら公式戦に出場しシーズン2本塁打を記録(パシフィック・リーグの高卒新人で本塁打2本以上は清原和博田中幸雄以来6年ぶり)。

1993年はわずか8試合の出場にとどまった。

1994年には故障した金村義明の代役として台頭。9月18日日本ハム戦(藤井寺)でサイクル安打を記録した。プロ入り後初の三塁打がこの記録に結び付いた。この年は規定打席不足だったが、打率.280と好調だった。

1995年からレギュラーに定着。この年は打率.228と前年より確実性を欠いたが、初の20本塁打をマークした。

1996年から左手首の故障に悩まされる(これまでに左手首の手術を3回受けている)。26本塁打を放ち、打率.273、26本塁打と前年より成績を上げた。

1997年には、背番号を石井浩郎の着けていた3へ変更。同年は不調で三振数も100を超えた。

1998年には、リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。

1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得。2000年にはシドニー五輪の野球競技日本代表として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王(本塁打王打点王)を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改シアトル・マリナーズに移籍したイチローに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。

2001年、開幕前に背番号を西武ライオンズへ移籍した義兄・村上嵩幸の着けていた5へ変更。4番打者として活躍し、打点王を獲得した[注 1]。3・4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年での阪神(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録を更新。さらに全試合出場を果たし、打率では.320と自己最高で初めての打率3割となった。また、打点132で打点王を獲得した。翌シーズンにFA権の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。大阪教育大附属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。

2002年7月14日にFA権を取得。右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。この年は3割は逃したが全試合出場を果たし、42本塁打、115打点と前年同様の打棒を発揮した。この頃「メジャー移籍はあまり頭にない」と話していたこともあったが、11月5日にはFA宣言し、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたという[2]12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の梨田昌孝らから慰留されたこともあり、12月21日に近鉄残留を表明した(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた音楽プロデューサーの茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)[3]

2003年は5月半ばに右を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断されるものの、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で打率.236、23本塁打、67打点だった。さらに1994年以来9年ぶりの100安打未満と前年を大きく下回る成績となってしまった。そして、チームもリーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。

2004年右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャーススプリングトレーニングに招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の野球競技には日本代表として参加して銅メダルを獲得した。しかし、試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。オリンピック招集とオリンピック終了後の負傷の影響もあり、105試合の出場に終わったものの、打率.274と前年ほど悪くはなかったが、本塁打は19本にとどまり、7年ぶりに20発に届かなかった。打点も前年の67から一つ下回り66だった。そして、この年限りで近鉄はオリックスブルーウェーブへの吸収合併により55年の歴史に幕を閉じた。

欠場中、団野村を代理人として、ポスティングシステムによるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。会見で近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたことを明かした[4]11月8日選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた[5][6]。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった[7]

2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースが落札した。

ドジャース時代[編集]

2005年2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった[8]。この移籍を皮切りに、中村はいわゆるジャーニーマンとして複数の球団を渡り歩くことになる。同年に発生した奈良小1女児殺害事件では、被害者の女子児童が近鉄ファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。

4月2日AAA級パシフィック・コーストリーグラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェーバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。

ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含む)が.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20失策を記録。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。

オリックス時代[編集]

2005年12月21日、分配ドラフトからドジャース入団までの間に一時在籍したオリックスへの復帰を表明[注 2]。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は8[注 3]

2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.232でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12はチーム2位を記録したが、チームに大きく貢献できたとは言えなかった。期待外れの印象が強く、チームも主軸を固定できなかったことが響き、前年を下回るシーズン5位に終わった。9月に左手首を手術。

契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。

2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも獲得球団はなく、1月17日に正式に自由契約選手となった。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日日本プロフェッショナル野球組織日本プロ野球選手会との間で戦力外通告に関するルールが取り決められた。

2月12日中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加し[注 4]、ここで入団テストを行った。

中日時代[編集]

2007年2月25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。背番号は205。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着用していた中村に落合博満が配慮したものである[9]

中日時代(2008年)

育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円[注 5]で支配下選手契約を結び、背番号も99[注 6][注 7]に変更された。開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や6番を、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役として3番を、クライマックスシリーズ日本シリーズでは主に5番を任された。広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。11月1日の第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した[注 8]。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。 11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ[注 9]となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。

2008年6月15日父の日日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・北川博敏と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送開始。6月17日石川県立野球場での対西武戦で大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治若松勉を抜き歴代3位となった。この年は打率.274と前年より下がるもホームランは24本放ち、前年同様勝負強さを見せた。11月、中日残留も視野に入れつつ「他球団からの評価も聞いてみたい」として2度目のFA権行使。11月25日東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行った。

楽天時代[編集]

2008年11月29日に正式に楽天への移籍を表明。楽天球団初のFA加入選手となった。12月5日仙台市内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。

2009年4月5日札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだった。その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で佐藤誠から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の野村克也は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。

2010年、序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれ精彩を欠くプレーが目立つようになる。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。10月1日に球団から戦力外通告を受け、退団した。規定打席に到達した日本人選手がその年に戦力外通告を受けるのは極めて稀なケースである。12球団合同トライアウトには参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。

2011年2月には徳島インディゴソックスの合同自主トレに参加した[10]

横浜・DeNA時代[編集]

横浜時代(2011年)

2011年5月23日横浜ベイスターズへの入団が発表された[11]。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に加地隆雄球団社長より電話があったことが明らかにされた[12]。背番号は中日、楽天時代と同じ「99」となった。 6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日横浜スタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦で代打で出場し、杉内俊哉から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。この年は当初は代打要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦(横浜スタジアム)では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。

2012年は新加入のアレックス・ラミレスの故障により、「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、4月15日読売ジャイアンツ戦で、延長11回、サヨナラ本塁打を放つ。5月4日の中日戦で岩瀬仁紀から同点本塁打を打ち、史上22人目の全球団から本塁打を達成した(交流戦を除いた記録としては4人目)。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。後半戦開幕後も好調を維持していたが、8月15日対阪神タイガース戦で、自身の打席で内村賢介が盗塁をしたが、これに対して内村にベンチで説教した。だが、内村には首脳陣からグリーンライトの権利が与えられているため、中村の叱責は采配批判にあたるとして中畑清監督から厳しく注意されたが、翌日の試合で右肘痛を訴え、試合途中にベンチ裏に姿を消したことが造反とみなされ、1軍登録を抹消された[13][注 10]9月4日に1軍に再登録。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位[14]

2013年は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着[15]。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)でNPB/MLB通算2000本安打を本塁打で達成。イチロー、松井秀喜松井稼頭央に次いで史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった(「ドジャース時代の5安打は加算したくない」とも話していた。)[16]。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に中田賢一から左中間を破る2点二塁打を放ち、通算2162試合目で史上43人目のNPB通算2000安打を達成した[17]5球団に所属しての2000安打達成は加藤英司に次いで二人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成[注 11]。6月30日の中日戦では山本昌から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成した。同試合では9回裏にサヨナラ安打を放った。最終的にはこの年も安定した成績を残した。

2014年アーロム・バルディリスが一軍確約契約で加入し、一塁手にはトニ・ブランコがいたため、開幕当初は1軍メンバーから外れたが、トニ・ブランコの故障もあり、戦力不足に喘いだ中畑監督自身が本人に懇願する形で直接電話で連絡して1軍昇格させた。沈んでいたチームにナイジャー・モーガンのTポーズを復活させ、チームを軌道にのせた[18]。しかし5月6日の対巨人戦で「チーム方針に従わない言動があった」として登録抹消される。コーチに「自分の打席では、場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」と相談したことが、中畑監督から采配批判とみなされた[19]。これ以降は一度も1軍に昇格することはなかった。10月3日に球団から戦力外通告を受けた[20]。DeNA球団は球界での実績や在籍時の貢献度が特に高かったことを改めて認め本拠地最終戦にあたる対ドラゴンズ戦で引退セレモニーを提案したが、中村は現役続行への強い意思があるとしてこれを拒否。最終的に同年は13試合の出場で打率.245、打席ではケースバッティングを心がけたため打点王ペースで打点を刻む10打点ながらも、2005年のドジャース時代を除けば1993年以来21年ぶりとなる本塁打0を記録。12月2日に自由契約公示された[21]

生涯現役[編集]

DeNAからの自由契約後には、現役続行を表明したが、NPB加盟球団からのオファーはなかった。中村自身も12球団合同トライアウトには毎年参加していない。

2015年5月5日には、居住地の西宮市内にあるスタジオで、小学校高学年および中学生の少年少女を対象にした野球教室「N’s Method(エヌズ・メソッド)」を開校。4月25日には、自身のFacebook公式アカウントで開校を報告するとともに、「生涯現役選手」であることを表明した[22]。以降もNPB12球団からのオファーを待ち続けたが、支配下選手登録の期限(7月31日)までに獲得を表明する球団は現れなかった。この結果を受けて、中村は現役続行の意思が強いことを改めて表明。「まだまだチャレンジを楽しんで続けると諦めず常に挑戦する」とも明言した。

2015年11月には高知市内で開かれたサンディエゴ・パドレス主催の野球教室に臨時コーチとして参加。28日には、プロ野球経験者による学生の指導に必要な学生野球資格の回復を視野に、NPB主催の大阪研修会へ参加した。研修会の終了後には、「現在野球教室で指導している小中学生が高校に進んでも、今の立場では高校へ足を踏み入れることができない。(高校時代の)恩師にも『早く来て(高校でも指導して欲しい)』と言われているので、何とか資格を回復させたい」と述べた。なお、自身の進退については、「まだ分からない」と話すにとどめている[23]

2016年には、1月11日に福岡 ヤフオク!ドームで催された名球会フェスティバルに参加。アレックス・ラミレスとのホームラン競争を2本塁打で制した。さらに、その後のセ・パ対抗試合では、最終回に投手として登板。駒田徳広を1球で左飛に打ち取った[24]

2016年1月下旬には、全日本野球協会主催の2015年度野球指導者講習会で、大久保博元と共に打撃実技指導の講師を担当[25]。中村自身も、同年2月2日付で日本学生野球協会から学生野球資格回復の適性認定を受けたことによって、高校・大学に在学中の野球選手を指導できるようになった[26]。雑誌『WEDGE』にて「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける」と、改めて生涯現役選手だと表明した。2016年には東海ラジオゲスト解説者としても出演。サントリードリームマッチ2016でプレミアムモルツ球団で現役続行とすることになり、打点4をあげる活躍をしてMVPに選ばれた。

2016年10月8日のセ・リーグクライマックスシリーズファーストステージ 巨人対DeNA戦をレフトスタンドで観戦している[27]

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

中村紀洋のスイング(2011年)

平均より重く長い88cm/900gのバットを使用する[28]。バットを高く放り投げるスタイルは、現役時代の中畑清を意識したものだと後に明かしている[29]

5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は40キロ程度になっている[30]

落合博満に憧れていた。落合が日本ハム所属時、中村が出塁時(一塁守備の落合に)「今の打席、どうでした?」と聞くと「遅い」と一言だけ言われた。次に出塁した時も「遅い」の一言だけ。中村は「何のことだろう?」と考えたが、後にこれは「スイングの始動が遅い」との意味で、そうなる原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだとわかったという[31]

守備[編集]

三塁手としてのゴールデングラブ賞を7度受賞している。逆シングルやイレギュラーバウンドへの対応でグラブ捌きが光る[32]。三塁手にこだわりがあり、中日からFA宣言をしたのも、2007年、2008年と三塁手のゴールデングラブを獲得したが、落合から「守備範囲が狭い」[33]ことを理由に三塁手失格と判断されたのが一因であった[34]

横浜時代の2012年には一塁手として75試合に先発したことから、ファーストでのゴールデングラブ獲得にも意欲を見せた[35]。但し2013年には、こちらも故障を抱える左膝の負担の関係から三塁手のポジションを狙う発言もしている[36]

大阪近鉄時代には遊撃手としても出場している[37]。横浜時代には2試合ながら二塁手も務めた[37]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 近鉄 11 27 27 4 6 1 0 2 13 5 0 0 0 0 0 0 0 8 0 .222 .222 .481 .704
1993 8 12 9 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 2 1 0 4 0 .111 .250 .111 .361
1994 101 215 192 23 54 13 1 8 93 36 0 0 2 2 19 1 0 49 2 .281 .343 .484 .827
1995 129 528 470 62 107 19 1 20 188 64 0 1 3 1 51 1 3 92 12 .228 .307 .400 .707
1996 110 454 411 60 112 15 1 26 207 67 4 1 0 0 39 3 4 89 7 .273 .341 .504 .845
1997 128 519 455 54 109 22 3 19 194 68 3 2 2 3 54 5 5 105 13 .240 .325 .426 .751
1998 132 564 481 74 125 14 1 32 237 90 1 1 2 2 74 3 5 114 12 .260 .363 .493 .856
1999 135 601 514 83 134 23 0 31 250 95 3 0 1 3 79 0 4 116 21 .261 .362 .486 .848
2000 127 564 476 82 132 26 0 39 275 110 1 1 0 5 80 5 3 112 17 .277 .381 .578 .959
2001 140 637 525 109 168 25 0 46 331 132 3 2 0 3 104 8 4 106 26 .320 .434 .630 1.064
2002 140 602 511 87 150 27 1 42 305 115 2 1 0 0 86 10 5 136 10 .294 .400 .597 .997
2003 117 456 381 54 90 14 1 23 175 67 1 1 0 2 72 4 1 96 18 .236 .357 .459 .817
2004 105 462 387 59 106 16 1 19 181 66 0 0 0 1 73 8 1 88 13 .274 .390 .468 .857
2005 LAD 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
2006 オリックス 85 359 328 39 76 22 0 12 134 45 0 1 0 2 26 2 3 70 10 .232 .292 .409 .701
2007 中日 130 521 457 64 134 24 0 20 218 79 2 1 4 8 51 3 0 87 18 .293 .359 .477 .836
2008 140 557 493 56 135 20 0 24 227 72 0 1 10 3 50 4 1 119 11 .274 .340 .460 .800
2009 楽天 77 294 263 16 58 11 0 2 75 26 0 1 1 1 29 2 0 41 11 .221 .297 .285 .582
2010 129 521 473 51 126 23 0 13 188 64 0 1 1 2 44 2 1 84 18 .266 .329 .397 .726
2011 横浜
DeNA
62 126 115 6 24 3 1 1 32 14 0 1 0 2 9 0 0 27 1 .209 .262 .278 .540
2012 126 500 442 50 121 24 1 11 180 61 1 1 0 6 50 1 2 72 14 .274 .346 .407 .753
2013 122 473 431 37 121 19 1 14 184 61 1 0 0 5 32 1 5 66 20 .281 .334 .427 .761
2014 13 56 49 5 12 2 0 0 14 10 0 0 0 1 6 0 0 10 3 .245 .286 .321 .607
NPB:22年 2267 9048 7890 1076 2101 363 13 404 3702 1348 22 17 26 53 1030 64 47 1691 257 .266 .352 .469 .824
MLB:1年 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1998年9月16日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、9回裏に河本育之から中越逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
  • 150本塁打:2000年5月26日、対日本ハムファイターズ9回戦(大阪ドーム)、1回裏に新谷博から左越2ラン ※史上113人目
  • 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦(福岡ドーム)、7回表に吉田修司から右越ソロ ※史上72人目
  • 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上375人目
  • 1000本安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏にネイサン・ミンチーから左中間へ3ラン ※史上209人目
  • 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦(西武ドーム)、1回表に張誌家から左越2ラン[注 13] ※史上43人目
  • 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に斉藤和巳から ※史上33人目
  • 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に高木晃次から右越2ラン ※史上29人目
  • 1500試合出場:2007年5月6日、対横浜ベイスターズ9回戦(ナゴヤドーム)、5番・三塁手で先発出場 ※史上151人目
  • 1000打点:2007年7月5日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏にジャレッド・フェルナンデスから左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目
  • 1500本安打:2007年9月26日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1回表に高橋尚成から左前安打 ※史上95人目
  • 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に星野八千穂から左越2ラン ※史上22人目
  • 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(石川県立野球場
  • 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(函館オーシャンスタジアム)、5回表にダルビッシュ有から右翼線二塁打 ※史上55人目
  • 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に近藤一樹から ※史上10人目
  • 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に一塁手で出場 ※史上43人目
  • 1000得点:2012年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に唐川侑己から左越2ラン ※史上38人目
  • 3500塁打:2012年9月28日、対読売ジャイアンツ戦20回戦(横浜スタジアム)、2回裏に内海哲也から右前安打 ※史上26人目
  • 1000四球:2013年4月27日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に川﨑雄介から ※史上14人目
  • 2000本安打:2013年5月5日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、8回表中田賢一から左中間2点適時二塁打 ※史上43人目
  • 350二塁打:2013年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、2回表に大隣憲司から中越二塁打 ※史上36人目
  • 400本塁打:2013年6月30日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、2回裏に山本昌から左越ソロ ※史上18人目
NPB、MLBにまたがった記録
その他の記録
  • 通算満塁本塁打:14本(歴代3位タイ
  • 通算サヨナラ本塁打:10本(歴代単独3位[注 14]
  • 通算サヨナラ安打:17本(歴代単独3位[39]
  • サイクル安打:1回=1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)
  • 代打満塁本塁打:1回=2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、6回表に花田真人から
  • シーズン満塁本塁打:3本 2回(2000年、2001年)
  • 17試合連続安打(2010年5月4日 - 5月29日)
  • 5試合連続本塁打(2000年6月3日 - 6月9日)
    • 全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
  • 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
  • オールスターゲーム出場:9回 (1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年、2012年、2013年)
    • 両リーグで本塁打:史上5人目
  • 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム) ※リーグタイ記録
  • 1試合3本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
  • 3打席連続本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日(球宴期間明け))
    • 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初であり、広角に打てる証明といえる。
  • 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄ローズ55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
  • 全球団から本塁打[注 15]:2012年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(横浜スタジアム)、9回裏に岩瀬仁紀から左越同点ソロ ※史上22人目

背番号[編集]

  • 66 (1992年 - 1996年、2005年)
  • 3 (1997年 - 2000年)
  • 5 (2001年 - 2004年)
  • 8 (2006年)
  • 205 (2007年 - 同年途中)
  • 99 (2007年途中 - 2010年、2011年途中 - 2014年)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 優勝決定の数日前に優勝争いをしていた対西武戦(大阪ドーム)で松坂大輔から打った右中間への本塁打のシーンは今でも名勝負の代表的な場面として挙げられる。
  2. ^ 中村はドジャースと2006年1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。
  3. ^ ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。
  4. ^ その前に、MLBのミネソタ・ツインズが中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。
  5. ^ ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。
  6. ^ 中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手・落合博満が使用中であることや、球団と落合の方針で、一から出直すために99を着けさせた。
  7. ^ 中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号(66)をひっくり返したもの」と語った。
  8. ^ 中日の野手としては史上初の受賞であり、近鉄に入団及び在籍経験者の獲得においても初めてである。
  9. ^ 日本球界歴代3位、セ・リーグでは歴代1位となる年俸アップ率
  10. ^ 登録抹消直後は右肘痛が原因と発表された。
  11. ^ 同一チームの野手2人が同じシーズンで名球会入りとなるのは、1987年南海ホークス加藤英司門田博光以来となる。
  12. ^ パ・リーグのオープン戦MVP。[38]
  13. ^ 右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。
  14. ^ 10本目は2012年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(新潟県立野球場)、11回裏に西村健太朗から。
  15. ^ 達成時に存在の全球団であり、自身が所属した近鉄からは記録していない。

出典[編集]

  1. ^ 内野手|東北楽天ゴールデンイーグルス|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャルコンテンツ”. 日本野球機構 (2010年8月9日). 2011年5月24日閲覧。
  2. ^ オフは忙しい!?中村紀洋、幻の巨人入り - 日めくりプロ野球,スポニチ
  3. ^ 日本人メジャー&候補生―それぞれのオフ『月刊スラッガー』2003年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、52頁。
  4. ^ 【復刻】ノリ、晴れてメジャー挑戦を宣言 nikkansports.com 2013年5月5日
  5. ^ 近鉄が中村に“功労金”3億円…契約途中の球団消滅で”. サンケイスポーツ. 2005年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月7日閲覧。
  6. ^ 元オリックス、中村紀洋の契約と事情.All About(2007年01月31日)。
  7. ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ
  8. ^ 【復刻】ノリがドジャース入団会見 nikkansports.com 2013-05-05
  9. ^ 【復刻】ノリ、中日と育成選手契約 nikkansports.com 2013年5月5日
  10. ^ 前楽天の中村、インディゴソックスの自主トレ参加”. 徳島新聞 (2011年2月24日). 2011年2月25日閲覧。
  11. ^ 選手獲得のお知らせ”. 横浜ベイスターズ公式サイト (2011年5月23日). 2011年5月23日閲覧。
  12. ^ 年俸500万円から再スタート 中村紀「電話切った後泣いてしまった」”. スポーツニッポン (2011年5月24日). 2011年5月24日閲覧。
  13. ^ 中村紀 2軍落ちは懲罰降格だった!采配批判に中畑監督が決断Sponichi Annex
  14. ^ 中村紀“ロビー活動”実らずGグラブ賞落選
  15. ^ “中村紀 あと5本は「谷繁さんとかぶらないように、5月5日もやめよう」”. Sponichi Annex. (2013年5月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/02/kiji/K20130502005723120.html 2013年5月2日閲覧。 
  16. ^ “DeNAの中村紀洋、日米通算2000本安打”. YOMIURI ONLINE. (2013年5月2日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20130501-OYT1T01000.htm 2013年5月2日閲覧。 
  17. ^ DeNA・中村が2000安打 史上43人目 - サンケイスポーツ 2013年5月5日
  18. ^ “ブランコ、復帰は早くても5月下旬…代役でノリが1軍昇格”. http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/17/kiji/K20140417007992200.html 
  19. ^ “ノリが登録抹消 DeNA中畑監督「チーム方針に従わない言動があった」”. http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/263878/ 
  20. ^ 2015年度選手契約についてDeNA球団公式サイト2014年10月3日配信
  21. ^ 2014年度 自由契約選手 日本野球機構オフィシャルサイト 2014年12月5日閲覧。
  22. ^ 中村紀洋氏が野球教室開校を報告「生涯現役を胸に様々な勝負に挑み続けていく」BASEBALLKING 2015年4月25日
  23. ^ 学生指導資格回復へ中村紀洋が研修会受講「何とか取得したい」スポーツニッポン 2015年11月28日
  24. ^ 野茂氏ら熱投 名球会夢の対決 セ・パ対抗戦/詳細”. 日刊スポーツ (2016年1月11日). 2016年1月15日閲覧。
  25. ^ 2015年度 野球指導者講習会/BASEBALL COACHING CLINIC受講のご案内全日本野球協会公式サイト
  26. ^ 学生野球資格回復に関する規則第4条による適性認定者日本学生野球協会公式サイト
  27. ^ 公式Twitterより
  28. ^ 企画展|公益財団法人野球殿堂博物館
  29. ^ 中畑DeNA初サヨナラ!ノリ劇的2ラン(2/2ページ)”. SANSPO.COM. 2012年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月2日閲覧。
  30. ^ 39歳ノリ2度の引退危機超え2000安打 nikkansports.com 2013-05-06
  31. ^ 二宮清純レポート 横浜DeNA・内野手中村紀洋 嫌われても、笑われても自分の道を歩いてきた(5/7ページ)”. 週刊現代 (2013年6月12日). 2014年11月17日閲覧。
  32. ^ 【楽天】ノリの守備に指揮官「スゴイヨ」 nikkansports.com 2010年2月13日
  33. ^ 落合竜「守りの野球」ノリ一塁コンバート nikkansports.com 2008年11月1日
  34. ^ ノリFA宣言「単年」と「三塁失格」理由 nikkansports.com 2008年11月16日
  35. ^ ノリ一塁で8度目Gグラブだ nikkansports.com 2012年11月1日
  36. ^ DeNA中村ブラに白旗…筒香には負けん nikkansports.com 2013年1月22日
  37. ^ a b Norihiro Nakamura BASEBALL-REFERENCE.COM 2014年11月18日閲覧。※英語
  38. ^ 『ベースボール・レコード・ブック1997』ベースボール・マガジン社、1996年12月、42頁。
  39. ^ DeNA・中村、通算サヨナラ安打歴代単独3位”. 読売新聞 (2013年6月30日). 2013年7月3日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]