長谷川良平

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長谷川 良平
Ryohei Hasegawa 1959 Scan10001.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県半田市
生年月日 (1930-03-25) 1930年3月25日
没年月日 (2006-07-29) 2006年7月29日(76歳没)
身長
体重
167 cm
56 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年3月16日
最終出場 1963年9月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2001年
選出方法 特別表彰

長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 - 2006年7月29日)は、愛知県半田市出身のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家

黎明期の広島カープを代表する投手であり、身長167cmという野球選手としては小柄な体格から、小さな大投手の異名を取り、通算197勝を記録した[1]

経歴[編集]

プロ入り[編集]

愛知県半田商工学校卒業後、安田商店(福井県)・安田繊維・新田建設・第一繊維など4つのノンプロチームを渡り歩く。1949年末に設立された広島カープの石本秀一監督が選手集めをしていたところへ、広島への入団が決まっていた内藤幸三が新田建設時代の監督・横沢七郎経由で聞いた長谷川の噂を石本へ伝えたところ、1950年1月に長谷川は広島の入団テストを受けることになる[2]。同年1月21日に石本の見守る中でシートバッティングの投手を務めるが、得意のシュートを連投して何人かのベテラン選手のバットをへし折り、入団が決まった[3]。同日中に入団契約し契約金は30万円、月給は25,000円であった[3]。1年目は初登板から6連敗ののち、4月27日西日本戦(甲子園)で初勝利を挙げると、5月14日同17日の西日本戦(鳴海後楽園)で立て続けに勝ち、特に17日は初完封を記録したこともあって、「パイレーツ殺し」と呼ばれた[4]。結局この年、新人ながらいきなりチームトップの15勝(27敗)を挙げる。

移籍騒動[編集]

1951年はチーム全体の勝利数32勝の半数を超える17勝(14敗)を記録し、オールスターゲームにも初出場した。しかし同年12月に新たに導入された統一契約書が印刷の遅れにより期限の12月15日までに長谷川(当時帰郷していた)の元に届かなかったため、石本監督は長谷川ら主力選手たちに取り急ぎ口頭で契約の意思を伝えていたが、長谷川は郷里で出身地・愛知県に本拠地を置く名古屋ドラゴンズの選手たちと軟式野球を楽しんでいた際に「統一契約書が届いていない」と軽い気持ちで話した[5]。しかしその後、名古屋球団がそのことを把握して(広島球団の)「統一契約書違反」を口実に長谷川獲得に乗り出し[注 1][7]、同月25日に長谷川は移籍を希望する声明を発表[注 2][9]。これに対し石本は1952年1月10日に「セントラル・リーグ(セ・リーグ)理事長である名古屋球団代表・中村三五郎が長谷川を操っている」と名指しで非難声明を出し、同14日には中村と広島球団代表・河口豪の会談の結果、中村は表向き「長谷川獲得を断念する」と意思表明したほか、26日にはセ・リーグ代表者会議で「リーグ内での選手の移籍は球団代表者間の円満な話し合い以外認めない」との決議もされが、問題は一向に収拾しなかった[注 3][11]

この間、新聞各紙は長谷川を批判する論調の記事を多数掲載したが、特に『読売新聞』(巨人の親会社・読売新聞社が発行)は名古屋(親会社は中日新聞社)に長谷川が加入することを恐れ、執拗に新聞紙上で名古屋球団・長谷川を非難した[12]。長谷川本人は名古屋球団に匿われて広島球団関係者と会わないよう各地を転々としていたほか[12]阪神タイガース[注 4]監督の松木謙治郎や、交友のあった国鉄スワローズのエース金田正一も直接移籍の誘いを掛けていた[6]。しかし結局、広島側は長谷川を慰留するべく市内の繁華街で割烹旅館・キャバレーを経営していた森田よし子(カープの女性後援会長)[注 5]に依頼して長谷川を説得させたほか、森田も「長谷川を名古屋に獲られたらカープの危機だから阻止しなければならない」と何度も広島と名古屋を往復して名古屋球団側と交渉し[注 6]、最終的に名古屋側を折れさせた[15]

結局、移籍騒動は3か月間にも及んだが[14]、1952年2月11日には鈴木竜二セ・リーグ会長が「広島球団の承諾なくして他球団への移籍は認めない」との裁定を下した[10]。これはプロ野球史上初のコミッショナー裁定で[12]、長谷川側はこれを不服としてコミッショナーに提訴したが[10]、当初こそ名古屋移籍を希望していた長谷川も徐々に憔悴し「広島に帰りたい。名古屋には手を引いてほしい」と考えるようになり[13]、3月10日には福井盛太コミッショナーが「統一契約書の存在意義は選手の引き抜きを防ぐためであり、球団間の信義に反する」と長谷川側の提訴を却下した[10]。このコミッショナー裁定により長谷川は広島への残留が決定し、事態は収束した[16]。1952年の開幕戦前日(3月20日)に広島駅に降り立った長谷川は出迎えてくれたファンの大歓声を受け、駅前のやぐらでファンに謝罪の挨拶をした上で「俺はカープ一筋に生きる。カープのためなら腕が折れてもいい」と決意を固めた[17]

松永郁子(2001)はこの一連の移籍騒動(長谷川問題)と1978年江川事件江川卓の去就をめぐる騒動)を対比して強い類似性を指摘している[12]

1953年以降[編集]

1952年は春先の移籍騒動のためにシーズンを迎えるための準備が不十分だったことから、開幕投手を新人の大田垣喜夫に譲ったが、その後も調子が上がらず11勝に終わる[18]

1953年になると、2年目を迎えて力を付けてきた大田垣がエースという周囲の声に発奮し、勝ち星を重ねる[19]。17勝まで勝ち星を伸ばすが、夏の北海道遠征で帰塁時に足を捻挫し、これが思いのほか重傷で、しばらく勝ち星から遠ざかる[20]。巨人戦で40日ぶりに18勝目を挙げると閉幕までに2勝を重ね、初の20勝を達成[21]防御率もリーグ7位の2.66を記録した。

最盛期は1955年で、開幕前のセ・リーグトーナメント大会で優勝してMVPを獲得すると、大洋ホエールズとの開幕戦にも勝利し、初の開幕戦勝利を飾る[22]。その後も順調に勝ち星を重ね、10月20日の中日ドラゴンズとの最終戦で30勝目を挙げ、巨人の大友工と並んで最多勝利タイトルを獲得した。防御率もキャリアハイの1.69でリーグ4位に入る。30勝のうち13勝を最下位の大洋から荒稼ぎし、負け数はわずか1であった[23]。またこの年、8月21日の対阪神戦で通算100勝を達成している[22]

1956年(22勝)[24]1957年も(21勝)と3年連続20勝、入団から8年連続の二桁勝利を記録する。なお、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を1人で挙げている[16]。この間の1956年6月24日の阪神戦では藤村富美男に代打逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び[24]、翌1957年7月24日広島市民球場こけら落としの試合に先発登板している[25]

1958年を故障し9勝に終わり、以降は一度も20勝以上を挙げられなかった(最多は1960年の13勝)[26]この年のオールスターの第2戦が広島市民球場で開催された際、長谷川は肩痛で投球練習もできない状態の中で麻酔を打って強行登板するが、わずか9球でノックアウトされている[26]。1959年6月24日には太陽戦で完投したことでNPB史上7人目の通算200試合関東を達成したほか、1960年6月18日の国鉄線で通算500試合登板を達成した[27]

その後はリリーフに回り投手陣の主軸として活躍する[16]。コーチ兼任となった1963年限りで現役を引退[16]。通算197勝は北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった。なお、名球会入りの条件とされる200勝に史上最も近い勝ち星で引退した投手でもある。

長谷川自身が引退を確信した2つのシーンがあったという[27]

  • 渾身の力で投げたシュートを大洋の松原誠に詰まりながらもレフト前に打ち返され、生命線である決め球に不安を感じた[28]
  • 元来守備が好きで、素早いバント処理で走者をよく二塁で刺していたが、前述と同時期の阪神戦で二塁へ送球しようとした際にがガクッと折れ、バネが弱ったことを痛感した[28]

1965年3月7日に引退記念表彰式が行われた[27]

引退後[編集]

1964年からは広島の一軍投手コーチ専任となり、1年目の森川卓郎西川克弘安仁屋宗八を指導。1965年途中からは白石勝巳の後を受けて監督を務め[16]1966年には正式に就任。初代監督の石本秀一をヘッドコーチに招聘し、初代スコアラーの川本徳三を後任の一軍投手コーチに抜擢。補強に頼らない「戦力の2割アップ」を掲げ、大味な野球からの脱却を目指した[16]。この年は5月に三週間首位に立ち、6月にも再び首位に返り咲くなどファンを期待させた。9月までは優勝の巨人に大差をつけられながらも3位と奮闘し球団初のAクラス入りは目前であったが、主力打者の故障などが相次ぎ後半戦に連敗が多くなる。終盤の10連敗が影響して終始Bクラスの阪神に抜かれ、最後は借金返済どころか借金16の4位でシーズンを終えた[16]。投手陣では前年ノーヒットノーランの外木場義郎が伸び悩んだものの、池田英俊安仁屋宗八などはそれなりの成績を収めた。打撃陣でも古葉竹識が自慢の足で走りまくり、興津立雄藤井弘といった強打者たちもそれなりの成績を収めた。この年後に黄金時代の一翼を担い、1978年に首位打者を獲得する水谷実雄が入団するが腎臓病のため一軍出場もなかった。1967年は近鉄から根本陸夫を参謀役に招いたが、出足からつまずく。4月はまずまずの滑り出しも6月中旬から最下位に定着すると、8月以降は最下位が確定し優勝の巨人に37ゲームを、2位の中日に25ゲーム差を付けられた。結局1963年以来4年ぶりの最下位となり、そのままシーズンを終えた。投手陣では大石清との「大石トレード」で阪急からやってきた大石弥太郎が10勝をあげて投手陣の柱となり、白石静生もそれなりの成績を収めるなど奮闘した。打撃陣では興津や大和田明、古葉などが奮闘したが好不調の波が激しかった。同年退任[16]

その後は中日の一軍投手コーチ(1968年)、二軍投手コーチ(1969年 - 1970年)を歴任。再び広島の一軍投手コーチ(1973年)・ヘッドコーチ(1974年)を務めた後は、1975年から広島市中区を拠点にRCC解説者(中日退団・広島復帰までの間の1971年1972年も担当)、日刊スポーツ評論家として長きに渡って活躍した。

1995年に解説業を退いた後は球界から遠ざかり、極たまに広島ローカルのテレビ番組で顔を見せる以外、公の場に姿を現すことはなかった。2001年野球殿堂入り。

2006年7月29日に肺炎のため広島市内の病院で死去。76歳没。なお、この日広島市民球場で行われた広島対横浜ベイスターズ戦(12回戦)において、長谷川の生前の功績を偲び、両軍選手によって試合前に黙祷が捧げられた(試合は広島が6-3で勝利)。

選手としての特徴[編集]

サイドスローで、投げた直後に跳ね上がるような投球フォームからのストレートシュートボールは威力抜群で、同期のテスト生で仲が良くしばしばバッテリーを組んでいた長谷部稔は、長谷川の投球を長く受け続けて左手の人差し指にいくつもひびが入り、あるときには捕球のたびに皮膚の裏側から血が噴き出したこともあったという[29]

特にシュートについては、あまりの変化の鋭さに相手打者のバットがへし折られることが再三あった。実際に1試合でバットを3本折られた打者(西沢道夫だと言われている)がいて、試合後慌てて、「頼むからシュートを投げないでくれ。バット代がかかってしようがない」と真顔で頼み込んできたという逸話が残されている。

多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種ストレートと速い遅い2種類のカーブ、縦横2種類のシュートボールで、これらを上手、横手、下手から投げ分けていた[16]

人物[編集]

普段の生活では健康面や身体の手入れを重要視した。右を大事にして、列車の座席では必ず左肩の方を窓際に寄せた。寝る時は右肩にを当てて冷えるのを防いだ。どんな暑い夜でも扇風機は勿論、窓を開けて寝ることを避けた。同部屋の選手が暑さにたまりかねて起きても長谷川は寝入っていたという。

は嫌いだったこともあるが、贔屓や同僚からどんなに勧められても断り、相手の感情を害しようが決して飲まなかったためキャバレーで「失礼な態度だ」とブランデーを投げかけられ、球団内部で問題になったこともあった[30]。なお、当時かわいがってもらっていた力道山が同席していても頑なに拒否し、そのうち力道山も理解したのか酒を勧めなくなったとされる[30]

もともと酒が苦手な上に、貧しい実家に送金する必要から余分な出費を嫌って、酒席を避けるようになったことや、長谷川自身も、自分が懸命に投げているのに、負けても遊びに行ったり麻雀をするばかりで練習しない彼らの姿に我慢できなかったことで、チームメイトとはあまり仲が良くなかった。だが、そのような態度が周りと軋轢を生み、特に酒豪の武智修にはよくいじめられ、わざとエラーされたり村八分にされた頃もあった。友人は捕手の長谷部稔ら数人しかいなかった。

その長谷部とは2001年5月1日に放映された「プロジェクトX〜挑戦者たち〜 史上最大の集金作戦 広島カープ~市民とナインの熱い日々~」で共にゲスト出演。当時71歳ながらNHKのスタジオ内で長谷部とキャッチボールをして、見事なコントロール振りを披露した。

また「プロジェクトX~挑戦者たち~」では球団の資金難を克服するべく選手達と共に広島県内の劇場を周り、「湯島の白梅」を歌って資金調達に奔走した事を明かしている。

交友関係[編集]

尊敬する選手は巨人の川上哲治と阪神の藤村富美男で、長谷川自身この二人との対決を何よりも楽しみにしていた。巨人戦で川上を見逃しの三振に打ち取った時、直後の座談会で川上から「ハセ!これでわしと同格やな。」と声をかけられ、長谷川は「何いうてますか。わしには大きな宝じゃ。」と感激の言葉を述べた。阪神戦では長谷川に手を焼いた藤村がスクイズバントを試みたことに、後年「あの藤村さんがねえ。わしを見て打てんと見てやったんかいな。」と述べている。ただし、藤村には代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれており、これには「ちょっと悔しかった。・・・藤村さんには、わし、ファンやし、尊敬してるからわざと打たしたわけじゃないんじゃが・・」と複雑な胸中を述べている。

入団時の監督であった石本秀一から非常にかわいがられており、移籍問題の際も石本は「若い長谷川の心を誑かした」と名古屋球団を悪者にして長谷川を擁護した[31]。また、石本の自宅によく呼びつけられて、下半身を鍛えるための練習や投球時の足の蹴り方を徹底的に教え込まれた。

友人には国鉄スワローズのエース金田正一がいる。マウンドでは二人はライバルとして投げ合い、大男で正統派左腕の金田と小男でサイドスロー右腕の長谷川という対照的な両エースの対決であったが、同じ愛知県出身、弱小球団の屋台骨を支えるエースとしての接点から、私生活ではよく連れ立って遊んだ。1951年オフの長谷川の移籍騒動では金田は「どや、わしと組まへんか。」と強くスワローズへの移籍を勧めた。2000年の長谷川の野球殿堂入りを、金田はわがことのように喜び、東京の祝賀パーティはもちろん、地元広島の祝賀パーティにも駆け付け関係者を感激させた。「殿堂入りが遅すぎる。上のもんは何しとる!もっと強いとこ行っとったら300勝したかもしれん。今の若いピッチャーはハセの爪の垢でも煎じて飲んどけ!」との金田節に長谷川は「カネは、旧友というより球友じゃ。」と喜んだ。また、2001年1月の野球殿堂入りのセレモニーでは、本人の希望で金田正一と小山正明を左右に真中に立って記念写真を撮っている。大男両名に挟まれる形になって長谷川の小柄さが目立ってしまうのだが、「ボクは小さいから『この体でようあれだけ投げたな』と言われる。金田とか小山君とかやって当たり前と思われる。だから、ボクはこの体ですごく得をしたんじゃ。」との理由で、あえて選んだ。

エピソード[編集]

広島球団においては、長谷川の後に太田垣(備前)喜夫安仁屋宗八外木場義郎北別府学佐々岡真司大瀬良大地と、漢字三文字の投手が代々活躍していることから、現在でも「三文字の姓はカープのエースの証」(三文字エース伝説)と言われている。

長谷川は中沢啓治の原案のアニメ映画かっ飛ばせ!ドリーマーズに長谷川は石本秀一監督役として出演している。 

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1950 広島 56 37 27 3 1 15 27 -- -- .357 1518 348.1 345 24 170 -- 6 146 5 2 190 150 3.87 1.48
1951 41 22 17 1 0 17 14 -- -- .548 1150 263.1 266 15 108 -- 7 115 4 1 128 102 3.48 1.42
1952 55 29 15 2 0 11 24 -- -- .314 1289 306.0 302 6 97 -- 4 138 7 0 142 113 3.32 1.30
1953 45 24 18 3 0 20 10 -- -- .667 1024 253.2 217 11 58 -- 5 99 3 0 97 75 2.66 1.08
1954 46 30 28 4 6 18 17 -- -- .514 1248 310.2 273 8 65 -- 5 112 1 0 83 63 1.82 1.09
1955 54 36 32 6 5 30 17 -- -- .638 1540 387.1 305 10 93 12 8 207 3 0 93 73 1.69 1.03
1956 58 32 25 8 2 22 22 -- -- .500 1392 351.0 283 14 86 2 10 194 4 0 106 84 2.15 1.05
1957 59 33 22 6 2 21 23 -- -- .477 1374 340.1 289 13 97 5 8 167 1 0 115 95 2.51 1.13
1958 33 18 8 2 2 9 11 -- -- .450 713 178.0 144 7 56 2 2 103 2 0 60 42 2.12 1.12
1959 38 19 11 1 3 12 11 -- -- .522 716 179.2 138 5 49 5 3 73 2 0 54 43 2.15 1.04
1960 46 15 8 2 0 13 15 -- -- .464 790 193.1 158 8 62 8 2 90 0 0 58 47 2.18 1.14
1961 35 9 1 0 0 1 7 -- -- .125 454 108.2 109 8 32 3 1 42 1 0 47 44 3.63 1.30
1962 32 11 1 0 0 6 7 -- -- .462 445 106.1 103 11 34 3 2 54 0 0 46 41 3.45 1.29
1963 23 0 0 0 0 2 3 -- -- .400 212 49.2 45 7 19 3 5 24 0 0 23 21 3.78 1.29
通算:14年 621 315 213 38 21 197 208 -- -- .486 13865 3376.1 2977 147 1026 43 68 1564 33 3 1242 993 2.65 1.19
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
1965年昭和40年) 広島 5位 76 31 43 2 .412
1966年(昭和41年) 4位 136 57 73 6 .438
1967年(昭和42年) 6位 138 47 83 8 .362
通算:3年 350 135 199 16 .404
  • ※1 1965年は140試合制
  • ※2 1966年から1996年までは130試合制

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100勝:1955年8月21日 ※史上20人目
  • 1500奪三振:1962年6月17日 ※史上9人目
その他の記録
  • シーズン27敗 (1950年) ※セ・リーグタイ記録
  • シーズン190失点 (1950年) ※セ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:7回 (1951年、1953年 - 1958年)

背番号[編集]

  • 32 (1950年)
  • 18 (1951年 - 1963年)
  • 62 (1964年 - 1965年)
  • 30 (1966年 - 1967年)
  • 66 (1968年 - 1970年)
  • 60 (1973年)
  • 81 (1974年)

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の長谷川の身分は「保留選手」だった[6]
  2. ^ 長谷川本人は前年に父を亡くし、上の姉も結婚したため下の姉が老母の面倒を見ていたため「跡取りとして故郷に帰りたい」と考えており、当時は名古屋への移籍を望んでいた[7]。また当時は移籍騒動が大きくこじれることは想像しておらず「『望むチームに行きたい』と言えば球団同士で簡単に話がつくだろう」程度にしか考えていなかった[8]
  3. ^ 当時は「名古屋が小林恒夫(大洋)をトレードで獲得して広島へ譲渡し、その見返りに長谷川を獲得する」(三角トレード)という密約や金銭の授受に関する噂も流れていた[10]
  4. ^ 長谷川は当時阪神に在籍していた藤村富美男の大ファンで、松木から勧誘を受けた際には藤村の援護を受けて投げられることを想像して期待していた[6]
  5. ^ 森田は選手たちから信頼が厚く、長谷川からは「広島のお母さん」と慕われていた[13]
  6. ^ 森田はこの時「広島だと長谷川は安い給料で酷使される立場だ」と主張する名古屋に対し「長谷川は広島だからエースでいられる。名古屋に移籍すると杉下茂近藤貞雄の次の立場だ」と反論した[14]

出典[編集]

  1. ^ “【世代別ベストナイン】「1926〜29年」豪華な少数精鋭の“昭和初期世代””. ベースボールONLINE. (2018年3月29日). http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180329-10 2020年2月21日閲覧。 
  2. ^ 松永 2001, pp. 17-20.
  3. ^ a b 松永 2001, p. 21.
  4. ^ a b 松永 2001, p. 22.
  5. ^ 松永 2001, pp. 46-47.
  6. ^ a b c 松永 2001, p. 50.
  7. ^ a b 松永 2001, p. 47.
  8. ^ 松永 2001, pp. 50-51.
  9. ^ 松永 2001, p. 239.
  10. ^ a b c d 松永 2001, p. 48.
  11. ^ 松永 2001, pp. 48-49.
  12. ^ a b c d 松永 2001, p. 49.
  13. ^ a b 松永 2001, p. 51.
  14. ^ a b 松永 2001, p. 52.
  15. ^ 松永 2001, pp. 51-52.
  16. ^ a b c d e f g h i カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P35、P125
  17. ^ 松永 2001, pp. 53-54.
  18. ^ 松永 2001, p. 54-55.
  19. ^ 松永 2001, p. 59.
  20. ^ 松永 2001, pp. 59-60.
  21. ^ 松永 2001, p. 60.
  22. ^ a b 松永 2001, p. 67.
  23. ^ 松永 2001, p. 69.
  24. ^ a b 松永 2001, p. 76.
  25. ^ 松永 2001, p. 79-80.
  26. ^ a b 松永 2001, p. 81.
  27. ^ a b c 松永 2001, p. 83.
  28. ^ a b 松永 2001, p. 84.
  29. ^ 松永 2001, pp. 22-23.
  30. ^ a b 松永 2001, pp. 24-25.
  31. ^ 松永 2001, p. 64.

参考文献[編集]

  • 松永郁子、監修:駒沢悟『カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』宝島社、2001年11月16日(原著2001年9月8日(第1刷発行))、第2刷発行。ISBN 978-4796623858
  • 堀治喜『全身野球魂 長谷川良平』文工舎、2007年7月29日。ISBN 978-4990176631

関連項目[編集]

外部リンク[編集]