緒方孝市

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緒方 孝市
広島東洋カープ 野手総合コーチ #79
2011.08.25緒方孝市.jpg
2011年8月25日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県鳥栖市
生年月日 1968年12月25日(45歳)
身長
体重
181 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1986年 ドラフト3位
初出場 1988年9月17日
最終出場 2009年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (2008 - )

緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、元プロ野球選手外野手)、プロ野球コーチ。現在は広島東洋カープ野手総合コーチ。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。

1986年のドラフト会議広島東洋カープが3位指名で交渉権を獲得し契約金3000万円、年俸360万円(金額は推定)で入団合意した[1]

若手時代[編集]

プロ入り直後に外野手へ転向し、走・攻・守揃った選手としてチームを牽引している。1988年に一軍出場を果たし、1989年オフにペニンシュラ・パイロッツへ野球留学した。1991年には100試合以上に出場。日本シリーズでも先発メンバーとして出場するなど、早くから期待を集めるが、毎年のように怪我に泣かされていた。

レギュラーに[編集]

1995年には母が死去する不幸に見舞われたが、悲しみを乗り越えて打撃でも開眼し、アキレス腱断裂によって離脱した前田智徳の穴を埋め、レギュラーに定着。監督の三村敏之は「緒方の母は緒方を二度生んだ」と発言、話題となった。規定打席不足ながら打率は3割を超えリーグ8年ぶりとなる40盗塁以上を記録し、47盗塁で盗塁王を獲得した。

1996年にはリーグ11年ぶりとなる50盗塁を記録し、オフに4歳年下の中條かな子と結婚。その後、1997年までリーグタイ記録(当時)となる3年連続盗塁王を獲得。この3年間で計146盗塁を記録したが、その間の盗塁失敗は僅か26だった(成功率.849)。

1998年は右方向への打撃を習得し、開幕から高打率を記録。6番という打順の関係もあったが盗塁数も順調に伸び、当時のリーグ新記録となる4年連続盗塁王に加え、首位打者打点王も視野に入る程の好調だった。本塁打も量産したことでトリプルスリーへの期待も高まったが、6月12日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)の9回裏に、八木裕が放った飛球を追って柵によじ登ろうとして跳び蹴りを加えた際に右足首を捻挫して離脱。1ヶ月半後に復帰し、復帰後も高打率は維持したものの、本塁打・打点・盗塁に関しては数字が伸びなかった。

1999年は開幕から本塁打を量産。打率も3割を越えて自身初の3割30本塁打を記録。また、この年だけで初回先頭打者本塁打を8本放ち、日本タイ記録を作った[2]が、前年の捻挫の影響から盗塁数は伸びなかった[3]。2年連続となる打率3割に加え、自己最多の36本塁打、4割を超える出塁率、さらに5年連続のゴールデングラブ賞を獲得したものの、「自分らしさがなく最悪のシーズンだった。打撃が良かったのがせめてもの救い」と、走塁への意識の高さが伺える発言をしている。

同年オフ、FA権を獲得した。読売ジャイアンツ福岡ダイエーホークスを筆頭に、多くの球団が「宣言すれば獲得に乗り出す」意思を表明した。長嶋茂雄も「一番欲しい選手」と熱烈なラブコールを送り、巨人入りが既定路線のように報道されたが、1996年に結婚した中條かな子が広島出身で、彼女の希望もあって残留した。残留に際し、「広島という土地柄にもファンにも愛着があるし、熱いものを感じる」と語った[4]

現役時代
(2004年、日南キャンプにて)

2000年から選手会長に就任し、チームの顔となった。しかし2001年にかけて大きな故障に苦しみ、出場試合数が激減した。故障箇所の多くが下半身だったこともあり、この2年間を境に盗塁数が激減する。2002年には中堅手のレギュラーとして復活した。怪我や年齢的な衰えが懸念された打撃は、開幕から安定した数字を残し、打率.300と自身3度目の3割を記録。本塁打も25本放った。カムバック賞こそ、同じく復活を果たした前田に譲ったものの、成績的には緒方が受賞してもおかしくない位の数字を残している。

2003年は開幕から極度の不振に落ち込むも、4月末に放ったサヨナラ本塁打を機に急上昇し、2年連続の3割(.300)、29本塁打を放ち、自身最多となる82打点を記録した。最終戦となった10月12日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では、試合前時点での成績は打率.297、29本塁打で、3割には最低でも4打数3安打以上の成績が必要だった。2打席目から3打席連続安打を放って3割を達成、3本目の安打は柵最上部に直撃する二塁打で、あと少し飛距離が伸びていたら30本塁打も同時に達成していた。

2004年以降も打撃面では安定した成績を残した。同年オフに椎間板ヘルニア手術を行なったため、2005年の開幕戦出場が危ぶまれたが、オープン戦で復帰。開幕直前の試合で、中堅への大飛球を好捕した際に肩を打撲したことで出場が絶望視されたが出場を果たし、9回表にダン・ミセリから決勝本塁打を放った。

この年からセ・パ交流戦が開始されたが、5月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で戸叶尚から顔面に死球を受け、左眼窩を骨折した。しかし、翌日から通常通り練習に参加、その次の試合では代打で復帰するなど鉄人ぶりも見せている[5]

2006年は4月だけで2本の初回先頭打者本塁打を放つが、5月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦で五十嵐亮太から死球を受けて負傷退場。検査の結果、右手薬指開放骨折で全治4週間の診断を受け、登録を抹消された。同年7月16日の対横浜ベイスターズ戦でプロ初の抗議[6]を行なったが、マーティ・レオ・ブラウンが制して退場は免れた。

コーチ兼任時代の緒方

2007年は開幕から先発出場するものの、調子が上がらずに控えに回ることも多かった。復調し始めた矢先に右肘を痛めて登録を抹消されるなど、苦難のシーズンとなった。そのため契約更改では、球団側に引退を考えていることを告げたが引き止められ、翌年からコーチ兼任ながら現役を続行することとなった。

2008年5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦(広島市民球場)で8回に代打として出場し、ウィンストン・アブレイユから逆転本塁打を放った。この本塁打は、セントラル・リーグ通算代打本塁打1500号となった。

2009年には加齢と積年の怪我による足腰の衰えや、新たな右肘の故障による不振によって活躍できず、同年10月1日に現役引退を表明[7]。翌年から野手総合コーチ就任を打診された。引退試合となった10月10日の対読売ジャイアンツ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で8回表より守備に就き、木村拓也が放った中堅飛球を捕球した。その裏の現役最終打席では三塁打を放ち、有終の美を飾った[8][9]

引退後[編集]

2010年は野手総合コーチとして一塁コーチ、2011年から2012年までは守備走塁コーチとして三塁コーチ、2013年から一軍打撃コーチを務め、2014年からは野手総合コーチを担当する。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1988 広島 1 5 5 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .800 1.000
1989 2 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1990 32 15 14 9 5 0 1 2 13 4 2 0 0 0 1 0 0 3 0 .357 .400 .929 1.329
1991 102 240 200 26 37 3 0 5 55 11 12 6 8 0 30 0 2 37 2 .185 .297 .275 .572
1992 86 127 115 25 26 3 0 3 38 10 18 1 3 0 8 0 1 21 2 .226 .282 .330 .613
1993 93 180 150 25 36 7 3 4 61 21 14 3 8 1 20 1 1 36 4 .240 .331 .407 .738
1994 57 141 126 16 35 2 2 5 56 14 12 5 2 1 10 0 2 25 3 .278 .338 .444 .783
1995 101 335 272 56 86 11 2 10 131 43 47 7 4 3 50 2 6 45 3 .316 .429 .482 .911
1996 129 597 516 95 144 25 6 23 250 71 50 10 9 1 61 1 10 129 7 .279 .366 .484 .850
1997 135 615 528 103 143 26 5 17 230 57 49 9 9 2 70 1 6 93 9 .271 .361 .436 .797
1998 107 442 380 67 124 24 3 15 199 59 17 12 5 6 47 0 4 61 6 .326 .400 .524 .924
1999 132 592 495 111 151 23 3 36 288 69 18 12 2 2 86 7 7 76 6 .305 .414 .582 .995
2000 21 76 66 11 12 3 0 3 24 10 1 1 1 1 8 0 0 15 2 .182 .267 .364 .630
2001 64 192 159 17 39 7 0 8 70 29 1 0 5 4 21 1 3 26 3 .245 .337 .440 .777
2002 130 539 476 77 143 24 0 25 242 73 4 2 5 2 46 0 10 95 8 .300 .373 .508 .881
2003 136 599 530 75 159 35 0 29 281 82 8 4 13 3 42 2 11 100 8 .300 .362 .530 .892
2004 122 512 456 91 133 20 2 26 235 64 4 3 3 3 41 0 9 87 11 .292 .360 .515 .875
2005 122 490 431 60 132 22 2 21 221 57 3 5 2 3 46 6 8 65 2 .306 .381 .513 .894
2006 81 242 215 28 61 13 0 6 92 29 2 4 1 3 17 1 6 33 6 .284 .349 .428 .776
2007 33 91 83 5 15 5 0 0 20 4 1 1 1 1 6 0 0 19 5 .181 .233 .241 .474
2008 69 88 76 5 15 3 0 2 24 10 2 1 0 1 11 0 0 10 2 .197 .295 .316 .611
2009 53 60 49 2 9 1 1 0 12 7 2 0 0 1 9 0 1 2 0 .184 .317 .245 .562
通算:22年 1808 6178 5342 906 1506 257 30 241 2546 725 268 86 82 38 630 22 87 980 89 .282 .365 .477 .841
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


一塁 二塁 三塁 外野
















































1988 - 1 1 2 0 0 1.000 - -
1990 - - 3 2 4 0 0 1.000 22 5 0 0 0 1.000
1991 - 8 11 14 0 2 1.000 - 84 99 4 2 0 .981
1992 - 1 1 0 0 0 1.000 3 1 2 1 1 .750 78 59 3 2 0 .969
1993 - - - 75 90 3 0 1 1.000
1994 - 6 5 10 1 1 .938 - 42 55 0 0 0 1.000
1995 - 3 4 3 0 1 1.000 - 97 181 6 3 1 .984
1996 - 1 0 0 0 0 - - 128 260 15 3 1 .989
1997 - - - 134 317 10 5 1 .985
1998 - - - 103 201 8 3 1 .986
1999 - 2 0 0 0 0 - - 132 277 3 2 2 .993
2000 - - - 18 25 0 0 0 1.000
2001 - - - 43 7 1 1 1 .986
2002 - - - 126 194 6 3 0 .985
2003 - - - 136 259 8 2 1 .993
2004 - - - 109 194 8 3 2 .985
2005 - - - 113 203 4 2 3 .990
2006 2 11 0 1 0 .917 - - 54 104 1 1 0 .991
2007 - - - 22 33 1 0 0 1.000
2008 - - - 4 1 0 0 0 1.000
2009 - - - 4 3 0 0 0 1.000
通算 2 11 0 1 0 .917 22 22 29 1 4 .981 6 3 6 1 1 .900 1524 2567 81 32 14 .988

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 通算初回先頭打者本塁打:28本(表22本、裏6本) ※歴代5位、表22本はセ・リーグ記録
  • シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1999年) ※歴代2位タイ
  • 10試合連続盗塁(1995年) ※セ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:1回(1999年)

背番号[編集]

  • 37 (1987年 - 1995年)
  • 9 (1996年 - 2009年)
  • 79 (2010年 - )

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日新聞』1986年12月3日付朝刊 (14版、19面)
  2. ^ 2007年に高橋由伸読売ジャイアンツ)が9本を放って新記録を達成した。しかし右打者の記録としては緒方が石毛宏典デイヴ・ヒルトンと並んで歴代最高である。
  3. ^ 3割30本達成が確定的になると、30盗塁を目指して積極的に企図を試みるも、相手バッテリーも盗塁を警戒していたため失敗が目立った。結局30回盗塁を試みて成功は18回で、この年の盗塁成功率は.600だった。1997年までの通算成功率が.833と、200盗塁以上を記録した選手の中では史上最高の数字を誇っていた緒方にとって、この数字はかなり低いものであった。
  4. ^ 決断前の当時の心境を振り返って、「残留が1で、移籍が9だった。」と回顧している。
  5. ^ ちなみにこのシーズンを振り返って緒方は、「大きな怪我もなくやれた」と振り返っている。
  6. ^ 緒方はこの時まで審判に抗議したことは一度もない。本人曰く「(判定の有利不利は)お互い様であるため、抗議はしない」とのこと。
  7. ^ 広島:緒方孝市選手が引退発表毎日新聞、2009年10月1日閲覧、コイ一筋、駆け抜けた 緒方引退中国新聞、2009年10月2日閲覧
  8. ^ http://www.daily.co.jp/baseball/carp/ogata_retire/2009/10/11/0002435743.shtml
  9. ^ http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200910100331.html

関連項目[編集]

外部リンク[編集]