衣笠祥雄

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衣笠 祥雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市東山区
生年月日 (1947-01-18) 1947年1月18日
没年月日 (2018-04-23) 2018年4月23日(71歳没)
身長
体重
175 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1965年
初出場 1965年5月16日
最終出場 1987年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1996年
選出方法 競技者表彰

衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - 2018年4月23日[1])は、日本プロ野球選手内野手)。引退後は野球解説者野球評論家タレント。所属事務所はキャスト・プラス広島東洋カープオーナー付スタッフ。京都府京都市東山区馬町出身[2][3][4]。旧名は衣笠 幸雄。愛称は「鉄人」。国民栄誉賞受賞者。息子は俳優の衣笠友章[5]

連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代3位、通算安打数歴代5位、通算本塁打数歴代7位(通算504本は張本勲とタイ)の記録保持者。赤ヘル打線の主砲として1970年代後半から1980年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である[6][7]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた[8]

京都市立洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した[9]1964年平安高等学校3年時、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、植木一智(後に阪神)であった。

現役時代[編集]

1965年広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向。

1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着。1974年までの背番号28から、「鉄人横山光輝漫画鉄人28号』より)」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら、正反対に飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで大相撲の幕内力士青葉城と並び称されたこともある。

1975年にはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人長嶋茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、三塁手にコンバートされる[10](本当はゲイル・ホプキンスが「一塁手がいい」と言ったのがコンバートの原因だった)[11]。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている[10][12]

1976年盗塁王のタイトルを獲得。

1970年10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、1979年はシーズン序盤から極度の不振に陥った。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあり、手当たり次第に物を投げ飛ばしたという[13]。この年は代打代走守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた[14]江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた[14]

1980年7月29日の対ヤクルト戦は飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、ノーゲームが宣告された。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された[14]

1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った[14]

1983年4月9日の開幕戦の対中日戦では堂上照から満塁本塁打を放ち、同年は3本の満塁打を放った。8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成。日本プロ野球名球会会員となる。

1984年には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点の成績を残した。打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。

1986年6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった[14]

メジャーリーグベースボールルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった[14]。6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。6月13日の対中日戦で2131試合に到達。この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた[15]6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞を授与された。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。この試合では2回に新浦寿夫から先制の17号2点本塁打を放ち、3回にも二塁打を叩き、ベンチへ退いた[14]。功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。

同時代のチームメイトに山本浩二という強打者がおり、引退後も鉄人のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長嶋茂雄ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。

引退後[編集]

引退後は、1988年から東京放送(TBS。その後、企業再編によりTBSラジオ&コミュニケーションズ→TBSラジオ[16]TBSテレビに分立)の野球解説者を務める[17]。一方で、朝日新聞社嘱託(1988年 - 2017年1月)で運動面のコラムを受け持つ他、日本テレビ系『午後は○○おもいッきりテレビ』のコメンテーターなどタレント活動も行ったほか、ラジオで不定期に『鉄人ミュージック』というコーナーを担当していた。またソニーPCVAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択[リンク切れ]」でVAIO愛好家としても紹介されている。

現役時代から引退後にかけて、広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めていた。

引退後は球団の監督もコーチもやることはなかった。衣笠は新聞社の取材にてその理由を問われ、自分一人ではどうこうできない人間関係の問題であることを示唆している[18]

1996年野球殿堂入り。

死去[編集]

2018年4月23日、上行結腸がんのため死去した[1]。71歳没。

死去4日前の19日にBS-TBSTBSチャンネル2で生放送された横浜DeNAベイスターズ読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)で解説を行ったのが最後のメディア出演となった。2017年頃から解説における衣笠の声のかすれが心配されており、この日の放送でも画面に映る衣笠の表情が硬く時折声が聞き取れない部分もあったため[19]、視聴者らが衣笠の声の異変や体調を不安視していた矢先の訃報であった[20]。TBSも衣笠の体調を考慮しこの日の中継は急遽槙原寛己とのダブル解説体制としていた。その槙原もこの日の衣笠は体調が思わしくなくなかなか声が出ない状態だったと語っている[21]。なお本人の希望もあり4月26日にも同局で解説者として出演する予定だったという。

同年4月28日から4月30日まで、広島球団は対阪神タイガースとの3連戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)を衣笠の追悼試合とし、広島の監督・コーチ・選手・スタッフが喪章を着用して試合に臨んだ[22]。28日の試合前には黙祷が捧げられた[23]

逸話[編集]

衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑(広島市中区旧広島市民球場跡地敷地内)

人物[編集]

「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった[24]。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された[10]

1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという[10][25]

1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した[10]。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた[26]。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は泣きながら朝まで素振りを続けたが、関根は2008年9月27日フジテレビ739プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。

1979年の「江夏の21球」で知られる日本シリーズ(対近鉄バファローズ)第7戦では、9回裏の近鉄の攻撃の際にブルペンでリリーフ投手を用意させていた古葉竹識監督の采配に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた[27][28][29]BS朝日ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』でこの場面を振り返り、「江夏が怒っているのはよく分かったが、どうしても勝ちたくて、江夏に何を言ったら効果的か、マウンドに行く間、考えていた」と話した[30][31]。広島でチームメイトになった江夏とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた[32]

極度の偏食で、魚が苦手で肉しか食べられない[33]下柳剛との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を「野菜は牛が食うとる」と一蹴したという[34][35]

無類のワイン好きであり、高価なワインを多数所蔵していたが、ドクターストップをかけられていたこともある。

野球[編集]

現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面、三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割以上はたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働22年で100三振以上のシーズンが9回あったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。

シーズン打率3割到達経験なしの通算2000安打達成者は柴田勲田中幸雄の2名のみだが、2000安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズン(1984年)が2000安打達成後のためである。また、打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治イチローの2人のみ)。

阪神タイガース江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠にとっても通算1000個目となる三振であった。

その一方で球史に残る強打者でありながら通算犠打数は88と、本塁打を500本以上を記録した打者の中でも突出して多い[36]。衣笠がチームプレイに徹していた証左でもある。

通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、振る舞いは非常に紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら一塁へ向かっていた。1979年8月1日の対巨人戦で西本聖から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。

連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」という言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日カル・リプケン・ジュニアオリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。

本人は自分の記録を抜いてくれたことを非常に喜んでいたといい、後々リプケンとは親友にもなった。

一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。1986年以降は成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年当時、三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。

広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。また、長崎県長崎市布巻町(旧:三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。

NHK特集で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。

田淵幸一阪神)が1970年8月26日の対広島戦(阪神甲子園球場)で外木場義郎から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負ったことをきっかけとして、安全対策から日本野球機構が耳あて付きヘルメットの導入を決めた際には、衣笠は「視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と反対した。この主張が認められ、プロで一定年数活躍した選手には例外的に耳なしヘルメットが認められた[37]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1965 広島 28 46 44 3 7 1 0 1 11 2 0 0 1 0 0 0 1 4 1 .159 .178 .250 .428
1966 32 40 34 3 5 3 1 0 10 2 1 0 0 0 4 0 2 9 1 .147 .275 .294 .569
1967 28 52 48 6 12 2 0 2 20 5 1 1 0 0 3 0 1 13 2 .250 .308 .417 .724
1968 127 463 395 52 109 19 2 21 195 58 11 4 1 2 54 0 11 76 11 .276 .377 .494 .872
1969 126 485 428 43 107 12 0 15 164 46 32 15 5 1 40 1 11 73 17 .250 .330 .383 .713
1970 126 459 406 44 102 10 3 19 175 57 13 5 2 1 42 3 8 81 14 .251 .333 .431 .764
1971 130 543 460 72 131 18 2 27 234 82 12 11 2 2 64 3 15 71 10 .285 .390 .509 .898
1972 130 565 498 67 147 18 1 29 254 99 12 7 0 6 49 5 12 77 16 .295 .372 .510 .882
1973 130 529 454 52 94 12 1 19 165 53 6 3 4 3 65 6 3 73 17 .207 .310 .363 .674
1974 130 529 471 72 119 10 1 32 227 86 7 5 0 4 48 2 6 78 14 .253 .330 .482 .811
1975 130 532 479 66 132 22 1 21 219 71 18 4 0 4 44 2 5 61 21 .276 .343 .457 .800
1976 130 569 522 82 156 26 2 26 264 69 31 14 5 1 31 2 10 84 19 .299 .350 .506 .856
1977 130 582 514 88 136 22 2 25 237 67 28 15 8 1 53 1 6 81 11 .265 .340 .461 .801
1978 130 547 461 81 123 18 1 30 233 87 9 13 2 4 69 8 11 83 14 .267 .375 .505 .881
1979 130 478 410 82 114 21 2 20 199 57 15 4 4 0 55 4 9 72 9 .278 .376 .485 .861
1980 130 549 489 79 144 20 0 31 257 85 16 6 6 2 42 2 10 89 6 .294 .362 .526 .888
1981 130 553 495 82 134 23 2 30 251 72 7 7 8 2 40 3 8 83 16 .271 .335 .507 .842
1982 130 551 483 74 135 22 0 29 244 74 12 2 12 2 44 0 10 89 10 .280 .352 .505 .857
1983 130 557 496 86 145 25 1 27 253 84 8 4 6 2 49 4 4 89 10 .292 .361 .510 .871
1984 130 542 490 79 161 25 1 31 281 102 11 1 6 7 34 2 5 83 13 .329 .378 .573 .952
1985 130 540 480 77 140 16 0 28 240 83 10 5 6 5 46 2 3 77 12 .292 .354 .500 .854
1986 130 520 477 42 98 11 0 24 181 59 4 2 4 0 32 2 7 80 10 .205 .266 .379 .645
1987 130 403 370 40 92 17 0 17 160 48 2 2 6 1 23 3 3 61 13 .249 .297 .432 .730
通算:23年 2677 10634 9404 1372 2543 373 23 504 4474 1448 266 130 88 50 931 55 161 1587 267 .270 .345 .476 .820
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1972年7月18日、対阪神タイガース14回戦(岡山県野球場)、3回裏に江夏豊から左越2ラン ※史上35人目
  • 150本塁打:1974年6月9日、対中日ドラゴンズ9回戦(中日スタヂアム)、8回表に三沢淳から左越逆転決勝3ラン ※史上68人目
  • 1000試合出場:1975年4月24日、対大洋ホエールズ3回戦(広島市民球場)、5番・三塁手で先発出場 ※史上178人目
  • 1000本安打:1976年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、4回表に三沢淳から中前安打 ※史上95人目
  • 200本塁打:1976年8月28日、対大洋ホエールズ20回戦(川崎球場)、1回表に根本隆から中越先制ソロ ※史上25人目
  • 250本塁打:1978年6月8日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、2回表に田村政雄から先制2ラン ※史上14人目
  • 1500試合出場:1978年9月25日、対ヤクルトスワローズ24回戦(広島市民球場)、7番・三塁手で先発出場 ※史上60人目
  • 1500本安打:1980年4月9日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、3回裏に野村収から中前安打 ※史上37人目
  • 300本塁打:1980年6月1日、対中日ドラゴンズ9回戦(広島市民球場)、1回裏に藤沢公也から左中間へ先制ソロ ※史上13人目
  • 1000三振:1980年9月6日、対阪神タイガース18回戦(広島市民球場)、1回裏に江本孟紀から ※史上6人目
  • 3000塁打:1981年7月21日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦からソロ ※史上17人目
  • 1000打点:1982年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、7回裏に水谷啓昭から2ラン ※史上14人目
  • 350本塁打:1982年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、4回裏に野村収から左越3ラン ※史上11人目
  • 1000得点:1982年6月4日、対読売ジャイアンツ10回戦(広島市民球場)、5回裏に山本浩二の適時打で生還し記録 ※17人目
  • 2000試合出場:1982年8月29日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手で先発出場 ※史上18人目
  • 3500塁打:1983年7月10日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦から左中間へ先制ソロ ※史上12人目
  • 2000本安打:1983年8月9日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、5回裏に小林繁から左前安打 ※史上16人目
  • 300二塁打:1983年9月1日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、4回表に野村収から ※史上24人目
  • 400本塁打:1983年9月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、4回表に宮本賢治から左越ソロ ※史上9人目
  • 4000塁打:1985年7月5日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に福間納から左中間二塁打 ※史上9人目
  • 450本塁打:同上、8回表に山本和行から左越ソロ ※史上8人目
  • 350二塁打:1986年5月11日、対読売ジャイアンツ7回戦(広島市民球場)、4回裏に西本聖から右翼線二塁打 ※史上16人目
  • 2500試合出場:1986年8月10日、対中日ドラゴンズ15回戦(広島市民球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上4人目
  • 1500三振:同上、7回裏に都裕次郎から ※史上初
  • 2500本安打:1987年6月14日、対中日ドラゴンズ11回戦(徳山市野球場)、4回裏に江本晃一から左越ソロ ※史上4人目
  • 500本塁打:1987年8月11日、対ヤクルトスワローズ15回戦(広島市民球場)、4回裏に尾花高夫から左越ソロ ※史上5人目
その他の記録
  • 2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録[39]
  • 678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位
  • サイクル安打:1976年7月7日、対読売ジャイアンツ16回戦(札幌市円山球場) ※史上28人目、初回先頭打者本塁打でのサイクル安打達成はNPB史上初[40]
  • 22年連続シーズン盗塁(1966年~1987年)※広瀬叔功と並んで日本タイ記録
  • 20年連続シーズン2桁本塁打(1968年 - 1987年)※歴代4位タイ
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ
  • 5試合連続本塁打(1971年6月6日 - 6月10日)
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1977年10月4日 - 10月5日)
  • 1イニング2死球:1976年8月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、3回表に青山久人金井正幸から ※日本記録
  • 代打の代打で満塁本塁打:1973年10月10日、対ヤクルトスワローズ戦 ※NPB史上初[41]
  • オールスターゲーム出場:13回 (1971年、1974年 - 1977年、1980年 - 1987年)

背番号[編集]

  • 28 (1965年 - 1974年)
  • 3 (1975年 - 1987年)(永久欠番)

関連情報[編集]

CM[編集]

出演番組[編集]

連載[編集]

コラム
  • カープモバイルサイトRCC広島カープ『衣笠祥雄の鉄人の流儀』 - 6年に渡り連載された。

著書[編集]

共著
  • 『昭和プロ野球の裏側 友情と歓喜のドラマの裏に何があったのか?』 (廣済堂新書)(廣済堂出版・2018/3/31) ISBN 978-4331521519
    江夏豊二宮清純との共著

関連書籍[編集]

写真集
祥雄・友章親子の写真が掲載。

関連映像作品[編集]

テレビ番組
  • 『17年間休まなかった男〜衣笠祥雄の野球人生〜』(『NHK特集』No.980。1986年6月6日、NHK総合テレビジョン放送。放送時間:45分) ※NHKアーカイブスでも一般公開されている[44]。2018年4月30日に追悼番組『"鉄人"の闘志 永遠に〜追悼・衣笠祥雄さん〜』(17:10 - 18:00)として放送された[45]
  • 『追悼 衣笠祥雄さん』(2018年4月23日、RCCテレビ)[46]
  • 『追悼特別番組 ありがとう 鉄人 衣笠祥雄さん』(2018年4月28日、広島テレビ
ビデオグラムVHS

漫画・アニメ[編集]

  • 野球狂の詩 水原勇気とドリームボール対決をしている。

所属事務所[編集]

  • スポーツ・マネジメント・システム(SMS。TBSビジョンスポーツ事業部。2000年頃まで所属)
  • キャスト・プラス(クリエイティブ・メディア・エージェンシー=CMA時代の2001年頃より所属)

脚注[編集]

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  1. ^ a b “鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事”. 日刊スポーツ (2018年4月24日). 2018年4月24日閲覧。
  2. ^ 衣笠祥雄さん死去 平安高出身 府内惜別の声「子供たちに夢与えた」/京都 毎日新聞、2018年4月25日
  3. ^ 『データバンクにっぽん人』、佐藤正弥編、現代書林、1982年、13頁
  4. ^ 『限りなき挑戦』より、リポーターの山際淳司が出身地として馬町を取材するシーンを見ることができる(テロップでも馬町の名が表示されている)。馬町は京都女子大学付近に位置している。
  5. ^ 『テレビ・タレント人名事典』第6版(2004年、日外アソシエーツ編・発行/紀伊國屋書店発売)ISBN 9784816918520
  6. ^ 「鉄人」衣笠祥雄さん死去 赤ヘル黄金期支えたレジェンド スポニチアネックス、2018年4月25日。
  7. ^ 山本浩二、古葉竹織らが語る“鉄人”衣笠祥雄の真実「監督をしなかったことが残念」 AERA、2018年4月28日。
  8. ^ プロ野球を創った名選手・異色選手400人194p、新宮正春、米田厚彦、1999年、講談社、ISBN 978-4062645218
  9. ^ 『限りなき挑戦』
  10. ^ a b c d e 偉業 2215試合連続出場 衣笠祥雄さん死去 骨折中も休まず 東京新聞、2018年4月25日。
  11. ^ ナンバー豪打列伝2 P.95~96
  12. ^ 【掛布雅之氏特別観戦記】広島・菊池に若き日の衣笠さんの野性味を見た スポーツ報知、2018年4月29日。
  13. ^ 江夏豊左腕の誇り P.292
  14. ^ a b c d e f g 宇佐美徹也プロ野球データブック P.118~121
  15. ^ ついに2131試合 衣笠祥雄 世界記録に自ら祝砲 - スポニチアネックス 日めくりプロ野球 2010年6月配信
  16. ^ 2016年4月1日に商号変更。
  17. ^ 『TBS50年史』資料編P234掲載の「主なスポーツ番組解説者」においても、1988年から2001年現在のプロ野球解説者としてリスト内に明記されている。
  18. ^ “衣笠氏、監督もコーチもしない「理由」 ぎりぎりの本音に感謝”. スポーツニッポン. (2018年4月25日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180425s00001173074000c.html 2018年5月8日閲覧。 
  19. ^ “衣笠祥雄さん死去 今月19日に解説したばかり 声かすれ ネット上では心配の声も”. スポニチアネックス (スポーツニッポン). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/24/kiji/20180424s00001173175000c.html 2018年5月15日閲覧。 
  20. ^ 衣笠祥雄、異様な「かすれ声」に心配続出 テレビ局・事務所に聞くと... J-CASTニュース、2018年4月20日、2018年4月24日閲覧
  21. ^ 衣笠氏と最後に解説の槙原氏「本当に声が出なかった、喋りたくても喋れない…」 デイリースポーツ、2018年4月24日
  22. ^ 4月28日(土)~30日(休) 阪神戦について 広島東洋カープ公式サイト
  23. ^ プロ野球:背番号「3」で黙とう 衣笠さん追悼試合 広島 毎日新聞、2018年4月28日
  24. ^ 安仁屋宗八氏 衣笠氏訃報に「鉄人なんだから元気でいてほしかった」 デイリースポーツ、2018年4月25日。
  25. ^ 衣笠氏 思い知った野球できる幸せ…ベトナム戦争時、死覚悟の米兵に「目覚めた」 スポニチアネックス、2018年4月25日。
  26. ^ 衣笠さん、豪快すぎる鉄人伝説 深夜2時に泥酔パンツ一丁で素振り… (2/3ページ) ZAKZAK、2018年4月25日。
  27. ^ 衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった スポーツ報知、2018年4月25日。
  28. ^ 【急逝・衣笠氏追悼秘話】「江夏の21球」生んだ鉄人の気配り 東京スポーツ、2018年4月25日。
  29. ^ 名作ノンフィクション 「江夏の21球」はこうして生まれた 【連載第2回】 Sports Graphic Number、2009年4月2日。
  30. ^ 『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』バックナンバー10月10日(土) ゲスト:衣笠祥雄(野球解説者)
  31. ^ 【『江夏の21球』対談 衣笠祥雄 後編】 | カドブン カドブン、2017年7月21日。
  32. ^ 江夏氏、衣笠氏の一言で生まれた「21球」…訃報に沈痛「宝物だった」 スポニチアネックス、2018年4月25日。
  33. ^ 【追悼 衣笠祥雄氏】華麗なる文化人との交流 文壇バーの常連だった 東京スポーツ、2018年4月25日。
  34. ^ ガンバレ日本プロ野球!?J SPORTS)2011-2012シーズン・第6回放送での下柳の発言。
  35. ^ 村田修一も『ズームイン!!サタデー』(「プロ野球熱ケツ情報」2017年6月24日放送分)にて同様の発言をしている。
  36. ^ 2位は山本浩二の49であり、他の打者は軒並み10以下である
  37. ^ 二宮清純「田淵幸一、“頭部死球”の産物」 現代ビジネス 2013年6月7日付
  38. ^ 京都市市民栄誉賞”. 京都市. 2017年12月4日閲覧。
  39. ^ 達成当時は世界記録だったが1996年6月12日にMLBのカル・リプケンによって塗り替えられた
  40. ^ 週刊ベースボール2014年9月22日号109ページ
  41. ^ 週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ
  42. ^ 『TBS50年史』資料編P198掲載ラジオ番組一覧表または『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』収録ラジオ番組リストより、『サンデーTOKYO』を参照。
  43. ^ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録のラジオ番組リストより、『衣笠祥雄のほっとひといき』を参照。
  44. ^ NHK特集 17年間休まなかった男~衣笠祥雄の野球人生~ NHK名作選(動画・静止画)_NHKアーカイブス
  45. ^ “衣笠さん追悼し「NHK特集」32年ぶり放送”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2018年4月26日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180426-OHT1T50201.html 
  46. ^ 広島地元局RCC 衣笠祥雄さん追悼特番を緊急編成 安仁屋宗八氏と山崎隆造氏が出演 スポニチアネックス、2018年4月24日

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

インターネットアーカイブの保存キャッシュも含む。