河村英文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
河村 英文 (河村 久文)
Kawamura Hisafumi.JPG
ライオンズ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県
生年月日 (1933-08-30) 1933年8月30日
没年月日 (2005-02-16) 2005年2月16日(71歳没)
身長
体重
176 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年4月2日
最終出場 1963年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

河村 英文(かわむら ひでふみ、1933年8月30日 - 2005年2月16日)は、大分県出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

「英文」は「えいぶん」という読み方もさせており、著書の著作権表示にも「Hidefumi Kawamura」ではなく、「Eibun Kawamura」の表記が見られる。

本名・旧登録名(1953年 - 1958年、1962年 - 1963年、1972年 - 1973年)は河村 久文(かわむら ひさふみ)。

来歴・人物[編集]

大分県立別府緑丘高等学校(当時の監督に小嶋仁八郎がいる)から東洋高圧大牟田を経て、1953年西鉄ライオンズへ入団(高校の後輩に後の同僚となる稲尾和久がいる)。シュートを武器に1954年に25勝12敗、翌1955年も21勝9敗の好成績を挙げるなど、西鉄の主力投手として活躍。1960年広島カープに移籍後、1963年に現役引退。野村克也が初打席(1954年6月17日)の対戦投手は河村である[1]。河村は野村を3球三振で打ち取っている[1]

引退後は1972年から1973年まで西鉄・太平洋一軍投手コーチ、1983年から1985年まで南海ホークス一軍投手コーチ、1999年から2000年までオリックス・ブルーウェーブ一軍投手コーチを務めた。

1972年に一軍投手コーチとして西鉄に復帰した際、当時人材不足のためほぼ毎試合登板していた東尾修と同年入団の加藤初、後に近鉄へ移籍する柳田豊を指導。ふがいない投球をしようものなら容赦なく鉄拳を飛ばす指導をし、東尾にはインコースのシュート攻めを伝授している。河村は投手には厳しかったが新人捕手の若菜嘉晴にはピッチャー目線で丁寧に指導し、若菜はボールを捕り続けることでキャッチング投球を磨いたという[2]。南海コーチ時代には選手にレポートを提出させることで知られ[3]加藤伸一藤本修二井上祐二を一人前に育てた[4]。オリックスコーチ時代に指導した小倉恒は「河村さんから、インコースを投げるように教わって、ピッチングの幅が広がりましたし、良くなりました。」と語り、小倉は当時自己最多の48試合に登板した[5]戎信行2000年春のキャンプで河村から「おれについてきたらタイトルをとらせてやる」と言われ[6]、戎は「正直言って、それまでは人の意見はまったく聞きませんでした。信頼感というんでしょうか。ヨシ、この人についていこうと心に決めたんです」と述べている[6]。河村の言葉通り[6]最優秀防御率のタイトルを獲得した。戎は「周りのアドバイスを聞くことが、いかに大事か。いまの自分があるのも、それを教えてくれた河村さんのおかげです」 と述べている[6]

また、九州朝日放送解説者1964年 - 1971年, 1974年 - 1982年, 1986年 - 1998年)としてライオンズ、ホークス戦の中継解説も担当。語り口は柔らかかったが、その辛口ぶり・厳しさは「仏の杉浦・鬼の河村」と言われ、多くのアナウンサーを困らせた。アナウンサーがピントが合わない振りをすると黙り込む事も多かった。また、当時の平和台球場の放送ブースには「精神注入棒」なる孫の手のような棒が置いてあり、CMに入るとすぐにその棒で容赦なく鉄拳が飛んだ。その「くだらない質問をした瞬間」机の下の足がアナの足を蹴ったという。だが、実況アナウンサーに「野球」というものをしっかり教え込みたかったとも言われ、中継終了後は若手アナを中洲で自身が経営する「MEET15」で奢り、野球講座を行う一面もあった(穴吹義雄監督時代の南海へコーチ就任が決まった際、KBCのスポーツ部長が「出向だから」と語り、南海退団時には同球団と縁のある毎日放送に誘われていたにもかかわらず、福岡に戻った。その後南海がダイエーに売却され福岡へ移る事になる)。

西鉄ライオンズ黄金時代に関する著書などを刊行したが、それらはいずれもゴーストライターを使わない純然たる自著であった[3]

2005年2月16日呼吸不全のため死去。満71歳没。解説者時代には直言家で知られる豊田泰光が唯一嫌がった存在であったという。ライオンズやホークスの取材に豊田が訪れた際、河村は「おおっ、トヨ。元気にしているか?」と声を掛けたが豊田はそそくさと逃げた。しかし、豊田とは悪友であり、豊田は週刊ベースボールの連載コラムで河村を追悼した。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1953 西鉄 24 8 2 1 0 3 4 -- -- .429 346 82.1 65 3 41 -- 3 58 2 1 35 23 2.51 1.29
1954 61 21 4 3 0 25 12 -- -- .676 1079 276.0 183 4 88 -- 8 169 0 1 71 61 1.99 0.98
1955 58 30 10 2 0 21 9 -- -- .700 1136 279.1 211 9 118 3 6 225 5 1 89 73 2.35 1.18
1956 46 25 5 2 1 18 12 -- -- .600 824 201.2 151 7 67 3 7 123 3 0 70 57 2.54 1.08
1957 55 29 5 3 0 17 8 -- -- .680 918 225.0 200 7 73 3 4 127 3 0 71 56 2.24 1.21
1958 52 31 6 2 0 14 11 -- -- .560 892 220.0 173 7 68 3 8 122 6 1 74 63 2.58 1.10
1959 20 12 0 0 0 4 5 -- -- .444 272 64.0 63 3 23 2 2 26 4 0 33 29 4.08 1.34
1960 広島 25 15 2 1 0 4 5 -- -- .444 443 104.2 105 4 35 1 2 58 3 0 38 32 2.75 1.34
1961 44 20 3 1 0 7 9 -- -- .438 546 128.2 134 11 42 1 3 71 3 1 65 59 4.13 1.37
1962 14 11 0 0 0 0 4 -- -- .000 176 40.1 40 4 13 1 1 24 1 0 24 21 4.69 1.31
1963 15 8 0 0 0 0 4 -- -- .000 177 38.0 51 11 12 2 1 13 1 0 33 31 7.34 1.66
通算:11年 414 210 37 15 1 113 83 -- -- .577 6809 1660.0 1376 70 580 19 45 1016 31 5 603 505 2.74 1.18
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1955年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

記録[編集]

背番号[編集]

  • 15 (1953年 - 1958年)
  • 18 (1959年)
  • 20 (1960年 - 1963年)
  • 60 (1972年 - 1973年)
  • 65 (1983年 - 1985年)
  • 88 (1999年 - 2000年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 西鉄ライオンズ―最強球団の内幕(葦書房 1983/4)
  • これでいいのかダイエー野球(葦書房 1991/4)
  • 西鉄ライオンズ―伝説の野武士球団(葦書房 1998/8)

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988、ベースボール・マガジン社、2012年、P19
  2. ^ 読む野球-9回勝負-No.7 (主婦の友生活シリーズ)、2015年、P79
  3. ^ a b 玉木正之『プロ野球大辞典』新潮文庫、1990年、P133
  4. ^ ベースボールマガジン 2017年4月号、P29
  5. ^ 週刊ベースボール、2008年12月1日号、P38
  6. ^ a b c d 【球界今昔物語】2000年パ・最優秀防御率投手 オリックス・戎信行 2009年3月5日、産経新聞

関連項目[編集]

外部リンク[編集]