コンテンツにスキップ

久慈次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
久慈 次郎
1921年(早稲田大学時代)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岩手県盛岡市
生年月日 1898年10月1日
没年月日 (1939-08-21) 1939年8月21日(40歳没)
身長
体重
179 cm
68 [1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1959年
選出方法 特別表彰

久慈 次郎(くじ じろう、1898年明治31年〉10月1日 - 1939年昭和14年〉8月21日)は、岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)[2]野球選手捕手)。

函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。

球聖」「捕手の神様」と称された。

経歴

[編集]
1921年の早稲田大学野球部(中列右から2人目が久慈次郎)

生いたち

1898年(明治31年)10月1日逓信省の役人だった父・清とツヤ夫婦の次男として青森県青森市に生まれる[3]。父は海外へ単身赴任となることが多かったため、岩手県盛岡市に住む兄の下で育てられた[4]

仁王小学校卒業後、盛岡中学を受験したが不合格となり、岩手師範学校に入学[4]。翌1912年の試験で合格し、盛岡中学に転校した[4]

盛岡は野球の盛んな街であり、久慈自身も小学4年生の頃に「ライオン軍」というクラブチームで活動していた[4][5]。そのこともあり、盛岡中3年のとき野球部に入部[5]1915年には主将に就任[3]1916年夏は岩手県予選を制し、東北大会へと駒を進めるが、決勝で一関中学に敗れ、在学中の甲子園出場は果たせなかった[3]

早稲田大時代

盛岡中時代、早稲田大OBで同郷でもある弓館小鰐獅子内謹一郎などから指導を受けたこともあり、1917年早稲田大学商科に進学[3]

入学当初は市岡忠男の控えにまわったが、1918年秋に市岡が負傷交代すると、レギュラーに定着。

身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格[6]と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。

函館オーシャン時代

1922年(大正11年)春の大学卒業後[7]、早大の先輩が多数在籍していたこともあり北海道函館市に移住[8]。ちょうど地元のクラブチームである函館太洋倶楽部(函館オーシャン)が捕手を探していたこともあり、久慈を勧誘する。函館太洋倶楽部のエースが早大出身で久慈と面識があったこともあり、同チームに入社[8]。また、函館水電社長が早大出身だったこともあり、社長の好意もあり同社に入社した[8]

入社早々主将に就任すると、同チームを北海道でも屈指の強豪チームに導く[9]。また1928年の第2回都市対抗に出場したのを皮切りに、1938年までの10年間で8度の出場に導き、同チームを都市対抗の顔にするが、全ての年で初戦敗退に終わっている。

1927年(昭和2年)には野球と仕事の両立による体調面の悪化を心配した妻の勧めにより函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍。

1931年(昭和6年)に開催された日米野球において、最多得票となる12万票を獲得[10]。日本代表の主将も務めた。

プロ入り

1934年(昭和9年)の日米野球でも主将に就任。全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、好リードでアメリカ選抜チームを苦戦させた。なお、アメリカチームを1失点に抑えた静岡草薙球場での一戦においてその1点となるルー・ゲーリッグの本塁打の球は、その試合で初めて沢村が久慈のサインに首を振ったものであったが、直後に久慈がマウンドに向かって沢村と相談しており、最終的にどちらの意図する投球であったかは現在になってもわかっていない。また、函館大火(後述)に苦しむ函館市民のために、函館での日米野球開催に尽力した。

同年、全日本チームを核とした日本初の職業(プロ)野球チーム、大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)を結成するにあたり、主将としての参加を要請される。給料面では、ほかの選手の月給が100円前後だったのに対し、久慈は500円(2019年換算で100万円程)と破格だった。

しかし、久慈はこれを辞退したため、正式な初代主将には二出川延明が就任。ただし、記録上では主将として久慈の名前が残っている。

辞退した理由として、すでに40歳近くになっており満足いくプレーができなくなっていたこと、恩師である飛田の「アマチュア精神」に強い影響を受けていたこと、また同年3月に函館を襲った函館大火により、久慈の自宅を含む市全域が全焼しており、そのような状態で函館太洋倶楽部のメンバーらと離れる踏ん切りがつかなかったためである。函館太洋は、この年の都市対抗野球大会第8回大会)の出場権を得ていたが、これを辞退した。

この年、函館市会に欠員が生じたため、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。函館市会議員としての久慈の功績として、野球場やテニスコート、スキージャンプ台を兼ね揃えた函館市民運動場の設計がある(ただし、あくまで代表者として久慈の名を使っただけであり、久慈本人は携わってはいない[11]。また完成したのは久慈の死後であった。1954年に廃止され、敷地は函館市立潮見中学校を経て、2018年4月1日からは函館市立青柳中学校になっている)。

1939年の都市対抗では、9回目の出場にして悲願の初勝利を掴む。また、チームを初勝利へと導いたことが評価され「ファインプレー賞」を受賞した。

急死

久慈次郎の墓

都市対抗終了後、全北海道・樺太実業団野球大会出場のため、北海道へ帰県。都市対抗終了直後ということもあり、周囲の人々は休養のため出場辞退を勧めたが「義理は果たさなければならない」と耳を貸さなかった。8月19日札幌市円山球場での札幌倶楽部[12]との試合で、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、0死2塁の場面で打席に立ち敬遠気味の四球を選んだ久慈が一塁に歩く前に、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かなくなった。そのまま市立札幌病院に運ばれたが、2日後の8月21日、頭蓋骨破損による脳出血で死去した。享年40。久慈の葬儀の参列者は1,000人を超え、棺を乗せた列車が札幌から函館に向かう際も、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが詰めかけ、彼の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は函館市の称名寺に建てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。

死後

函館市オーシャンスタジアムにある「球聖久慈次郎の像」

久慈の闘志あふれるプレーを讃え、都市対抗野球大会では、第18回大会(1947年(昭和22年))から敢闘賞として「久慈賞」を設けている[13]

1959年(昭和34年)に創設された野球殿堂では、正力松太郎沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった[14]

函館オーシャンスタジアムには久慈がミットを構えている銅像が建てられているが、その銅像は、全日本で一緒にプレーし、東京巨人軍入りを強く推薦したヴィクトル・スタルヒンの銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いている。

エピソード

[編集]
  • 少年時代は絵を好み、画家を目指していたこともあった。
  • 早大野球部時代に大隈重信との背比べに勝ち(久慈:5尺9寸、大隈:5尺8寸余)、大隈から「我輩より高いとはたのもしい」と賞賛された[6]
  • 2022年10月11日、開運!なんでも鑑定団において、久慈が日米野球に出場した際にアメリカ側から受け取ったグリーティングカードと直筆のメンバー表が息子の妻により鑑定に出され、1千万円の価値があるとの結果が出た[15]

家族

[編集]

妻・嘉代との間に一男二女を設けた。

久慈の死から2ヶ月後に生まれた長男に対し、嘉代は同じ「次郎」の名を付けている[16]

脚注

[編集]
  1. 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年。
  2. 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年。
  3. 1 2 3 4 中里 2006 p38-44
  4. 1 2 3 4 久慈次郎展:社会人野球に生きた名捕手(第5回盛岡市先人記念館企画展示)
  5. 1 2 『野球界 1月号「小学時代の思い出」』博文館、1921年、29頁。
  6. 1 2 飛田穂洲 『早稲田大学野球部史』 明善社、1925年、375頁
  7. 『早稲田大学野球部史』 377頁
  8. 1 2 3 中里 2006年 p62-64
  9. 『スコアボードが見ていた:函館太洋倶楽部80年のあゆみ』幻洋社、1986年。
  10. 中里 2006 p92-105
  11. 『凍野の残映:北海道人物誌』みやま書房、1982年、57頁。
  12. 現在札幌市に本拠地を置いて活動している札幌倶楽部とは別チーム。現在活動しているチームは1985年に発足している。当時の札幌倶楽部は函館太洋倶楽部の隆盛と市の繁栄を見た当時の札幌市長が、当時函館市議も務めていた久慈に依頼し、久慈の後輩である広瀬誠一を主将に据えて創設されたチームである。
  13. 都市対抗野球について”. 日本野球連盟. 2016年9月22日閲覧。
  14. 久慈次郎”. 野球殿堂博物館. 2016年9月22日閲覧。
  15. 1934年 日米野球のメンバー表”. 2026年8月14日閲覧。
  16. 中里 2006 p176

参考文献

[編集]
  • 中里憲保『北の球聖 久慈次郎』草思社、2006年。
  • 伏見敏郎『北海の三球人』函館春秋社、1956年。
  • 久慈雅子『義父久慈次郎と家族のお話』文芸社、2022年。
  • 弓館小鰐『名選手物語』毎日新聞社、1956年。
  • 大道文『プロ野球・謎とロマン:グラウンドに消えた青春1』恒文社、1978年。
  • 大和球士『真説日本野球史 昭和編 その3』ベースボール・マガジン社、1978年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]