安仁屋宗八

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安仁屋 宗八
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 沖縄県那覇市
生年月日 (1944-08-17) 1944年8月17日(76歳)
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1964年
初出場 1964年5月31日
最終出場 1981年4月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )は、沖縄県那覇市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家ラジオパーソナリティ

経歴[編集]

父・宗英、母・ミツ夫妻の六男として生まれた安仁屋は11人兄弟の第8子で、生まれた時は第2次世界大戦の真っ只中であり、生後数ヶ月の時に一家で大分県へ疎開[1]。安仁屋自身は記憶が全く無かったが、家族や親戚が集まって祝い事をする時に話を聞いた[1]。父と祖父が漁師をしていたため船を持っており、エンジンの付いていない手漕ぎの小型船2隻に分乗し、家族と親戚を合わせた14、5人で移動。日中に船を動かすと攻撃を受けるため、島影や洞窟に隠れて待機していた。移動は夜中に星を目印にしての航海であり、父と祖父の経験と勘だけが頼りであった。エンジンがある船でも沖縄県から鹿児島県まで25時間かかっていた時代で、目的地にたどりつくのに相当な日数を費やした[1]。大分に着くと寺に寝泊まりしたが、知り合いもいなかったため、父や兄たちは食料を調達するため大きなリュックを背負い汽車に乗り、和歌山県あたりにまで買い出しに行くなど物凄く苦労した[1]。ある日空襲に遭うが、警報が鳴って防空壕に身を寄せていると、近くに爆弾が落ちて壕が崩落。赤ちゃんであった安仁屋だけが土砂に埋もれたが、母は姉のお下がりで身に着けていた赤い着物が目に付き、救出に成功した[1]。戦後は沖縄に戻ったが、他の家庭よりも恵まれており、兄が米軍施設のコック長をしていたため食料には不自由しなかった。兄は普段から牛肉や鶏肉を家に持って帰り、当時はクリスマスを祝う風習はなかったが、七面鳥や豪華なケーキも食べさせてもらった[1]。少年時代は巨人ファンで、藤田元司に憧れを抱いていた。現在のような少年チームはなく、友達と校庭で野球を楽しんだ。物資が無い時代であったため、最初に使ったグラブは、テントの布きれに雑巾を入れて縫ったものを利用し、バットは焚き火にくべるような木材で、をボール代わりにしていた[2]。中学生になった1957年から本格的に野球に打ち込み、軟式野球部に入部。父がユニフォームと新しいグラブを買ってくれたのが嬉しく、抱いて眠った。ポジションは一塁手で2番手投手で、球威はそんなに無かったが、制球には自信があった。四球はほとんど出さず、中学2年次の1958年には県大会で優勝[2]。憧れていた選手はおらず、テレビ放送もなかったため、プロ野球も甲子園も知らなかった。遊び感覚で野球をやっていたが、中学卒業後の1960年沖縄高校へ進学[2]。安仁屋が入部した頃から強くなり、同校は監督を外部から招聘して3年計画で強化を始めた。同級生の部員は100人を超えたが、練習は走るだけであった。あまりの厳しさに1週間で50人くらい辞めたが、安仁屋は短距離走は苦手であったものの、長距離走は得意であったので辛くなかった。毎日、練習の最後は校外を20km走ったが、周囲は畑だらけで、真っ暗になるとトマトサトウキビを取って食べるのが楽しみで苦にならなかった[2]。大会に優勝すると、理事長がレストランで食事をご馳走してくれるため、目の色を変えて頑張った。レギュラーには栄養費も出たため、毎日10セントを貰い食堂で蕎麦天ぷらを食べていたので、他のスポーツ部からは羨ましがられた[2]。1年次の秋に新人戦で先発した2年生がストライクが入らず、18球連続四球を出してしまい、安仁屋は控え選手としてバケツに飲み水を汲みに行っている時に監督から声が掛かる。打撃練習で投手をしていて制球が良かったのが監督の目に留まり、いきなり投げて抑え、更にその大会で優勝[2]。突然エースに抜擢されて以降はエースとしてずっと投げ続け、沖縄では敵無しの存在となり、投げた試合で負けたのは2年次の1961年夏の甲子園沖縄大会準決勝で中指の爪が割れた首里高戦だけであった[3]。3年次の1962年の沖縄大会決勝で再び首里高と対戦したが、安仁屋自身は雪辱とは思わずに楽しむ気持ちしかなかった[3]。スリークォーターのフォームで球種は直球とカーブの2種類であったが、直球が8割程度で、カーブはカウントを取るだけであった[3]。毎日200球を投げていた成果が出て見事優勝するが、当時は南九州大会に勝たないと夏の甲子園には出られなかった。その試合前日に宮崎県入りし、監督に内緒で宿舎近くの川からボートに乗って海に出た。戻ろうと思った時には引き潮で、漕いでも漕いでも進まず、パンツ一丁で胸まで漬かってボートを押して返したたころ手は豆だらけになった[3]。エース・5番打者として宮崎大淀高と対戦して見事に降し、沖縄県の高校として初めて実力で夏の甲子園本大会に出場[3]。当時の沖縄ではほぼ学校で試合していたため、安仁屋は甲子園練習の前日に球場外壁のツタやスタンドの大きさに驚き、鳥肌が立つ[3]。1回戦で山本英規(のち巨人)らのいた広陵高と対戦するが、1球目は初めてカーブから入った。スタンドはほとんど沖縄高校への応援であり、地元では電器店に人だかりができ、道路には車がほとんど通らなかった。広陵の選手は沖縄の選手と比べて背が10cmくらい高く、安仁屋曰く「大人と子供」であった[3]。チームは敗退したが[4]、沖縄に戻った選手たちはオープンカーでパレードした。甲子園の土は1958年に沖縄勢で初出場した首里高の選手が検疫に引っかかって海に捨てられていたため、靴底に入れて持ち帰り、学校のマウンドに撒いた。野球は高校で終わってもいいかなと思っていたが[3]、卒業後は兄に誘われて1963年琉球煙草へ入社し、同年の都市対抗九州予選の初戦で先発し8回3失点であった[5]。チームは延長18回で競り負けたが、予選を突破した大分鉄道管理局から補強選手にと声が掛かる[5]。大会があった大分県から沖縄へ帰るために鹿児島県へ移動している最中であり、安仁屋は「沖縄訛りがあって人と話もできないから断ってくれ」と監督に伝えたが、兄にも行ってこいと勧められて参加を決めた[5]。チームへ合流した際に捕手から「シュートを覚えたら面白いのでは」と投げ方や握りを教わり、が少し下がったスリークォーターで手首を少し捻ると、右打者の懐にガッと食い込む様になった[5]。本大会では沖縄出身選手として初めて後楽園の土を踏み、2回戦(初戦)の日本生命戦で5回からリリーフ登板。覚えたばかりのシュートを早速使ってバットを3本くらい折り[5]、3回を無失点に抑えるが、日生のエース・高畑武雄に完封を喫し0-2で惜敗[6]。試合後に東映のスカウトが宿舎に来たが、安仁屋はスカウトが何か分からず、同席した監督から「人買いよ」と冗談半分で言われた。当時の沖縄ではプロ野球の放送がほとんど無かったため興味も無く、存在すら知らなかった[5]。沖縄に帰る途中に福岡に寄り、東映の招待で西鉄とのナイターを観戦。安仁屋は「こんな所で野球ができるんだ」と一瞬は思ったものの、自分だけでは決められないため、プロに入るとは考えられなかった[5]広島カープの選手であった日系2世の平山智がスカウトとして沖縄入りすると状況が変わり、言葉遣いが柔らかくて優しい平山の人柄に父親が引かれ、安仁屋は「絶対、最後まで面倒を見る」と言われて不安の方が大きかったが[5]1964年に広島へ入団。当時アメリカの統治下にあった沖縄出身プロ野球選手第1号として注目された。甲子園、都市対抗、プロ野球、全てが沖縄県人で初となった。同期の苑田聡彦と一緒に白石勝巳監督の下へ挨拶に行くが、安仁屋は白石に「お前、ほんまに野球をやっとったんか」と言われてショックを受ける。当時は身長177cmで体重56kgと体が細く、対照的に苑田はがっしりとした体格で「楽しみがあるの」と声を掛けられていたので、なおさらであった[7]。練習はきつく、藤村隆男二軍投手コーチは鬼軍曹といわれていた。ウォーミングアップを終えると400mトラックを20周、うさぎ跳びに馬跳び、ノックも外野の両翼のポール間を走らされてボールを追った。藤村は「安仁屋がいつ倒れるか見とけよ」と言っていたらしかったが、安仁屋は長距離走に自信があったため、何とか耐えられた[7]。「ホームシックになってはいけない」と心配した球団の特別措置で、寮には父親が1ヶ月間、特例で付き添って寝泊まりした。言葉は沖縄訛りがあり、人見知りな性格であったので2週間は誰とも話をしなかった[7]。食事も口に合わず、沖縄の濃い味付けに慣れていたため、広島の料理はあっさりで味が全くしない感じがした。特に甘い卵焼きは吐き出しそうになり、味付けはうま味調味料と塩だけにしてほしいと、父が寮に頼んだ。魚や野菜も食べられず、喉を通ったのは肉とカレーハヤシライスチャーハンぐらいであった[7]。父が帰る時は寂しくて「辞めて帰るかもしれない」と言うと、「契約金を半分使ったから、1年頑張れ」と励まされた。徐々に選手とも話ができるようになり、同学年8人ぐらいとも友達になった[7]。寮生活は大変なもので、挨拶しない新人がいたら「連帯責任、全員来い」と呼び出され殴られた。何でプロに入ってからも殴られないといけないのかと嫌になったが、当時の沖縄への電話は国際電話になるので、両親とも話はできなかった。特に母が心配し、実家に逃げて帰ってくる夢を見て目が覚めることもあった[7]。そんな中でも1年目から一軍に定着し、主に中継ぎとして起用される。5月31日国鉄戦(東京)で初登板・初先発を果たしたが、5回4失点で敗戦投手となった。6月14日の巨人戦(広島市民)で2度目の先発登板となり、9回1失点で初完投・初勝利を挙げる。プロに入ってから長嶋茂雄王貞治の存在を知り、正捕手の田中尊のサイン通りに投げるだけで「勝ちたい」という考えは無かった。守っていた古葉竹識阿南準郎が頭を叩いて祝福し、安仁屋曰く「優勝した時みたいな」雰囲気になった[8]。当日はラジオで生中継され、那覇市内の電器店の前には黒山の人だかりが出来た。翌15日には沖縄タイムスが1面で「安仁屋 待望の初勝利」と掲げ、運動・社会面でも詳報を伝えた。琉球新報では試合経過のほか、社会面で留守宅の様子を伝えた。勝利の瞬間に安仁屋の留守宅は親戚や兄弟が踊り出し、町中の各所でも抱き合って初快挙を喜ぶ姿もあった。テレビはマイクロ回線がまだ通じていないためにネット局から飛行機で運ばれるビデオが数日後に流された。琉球放送が2日後の同16日昼、更に2日後の同18日午後11時過ぎと2度も放映した[9]。全国各地で沖縄県出身者による後援会が次々と誕生し、投げる前から話題が先行、そのプレッシャーたるや大変なものであったという。サイドスローから沈むシュートと伸びるシュート、カーブスライダーを投げ分ける投球が持ち味で、2年目の1965年から先発の一角に定着。5月11日の巨人戦(兼六園)では安仁屋に当たったライナーを捕手の久保祥次が処理したことによりキャッチャーライナーという珍しい記録になっている(飛球#珍記録参照)。同年途中に監督となった長谷川良平に「名前を残すか。実績を残すか」と問われ、どういう意味か質問すると、「巨人戦中心に投げれば名前が残る。実績を残すならローテーション通りに投げろ」と返ってきた[8]。安仁屋が「自分では決められないから、任せます」と答えると、巨人戦中心に投げることになった。3連戦の場合、1戦目に先発したら2、3戦目は中継ぎ待機と3連投は当たり前であり、その分、球団は巨人に1勝したら2勝分の評価をしてくれた[8]1966年に32試合、1967年にはチーム最多の25試合に先発するが、チームの不調もあって両年とも8勝に留まる。1966年7月31日の巨人戦(広島市民)では8回まで無安打無四球に抑えたが、9回には池沢義行に四球、2死後に黒江透修に初安打を許し、あと一歩のところでノーヒットノーランを逃す。当時唯一ラジオ中継があった巨人戦では死ぬ気で投げたという。その甲斐もあって巨人キラーとして知られるようになり、1968年には根本陸夫新監督の下、得意のシュートを武器に強気の投球で初の2桁勝利となる23勝・防御率2.07(リーグ2位)を記録。先発と救援の両方をこなし、57試合で投球回は300を超えた。この年の春季キャンプでは根本の方針で1日に500球以上投げたが、最後は疲れて捕手に球が届かないほどであった。21勝を挙げた外木場義郎と共に球団初のAクラス入りに貢献したが、チームが3位になると、街は優勝したような雰囲気で盛り上がった[10]1969年1970年と2年連続10勝を挙げたが、1969年春のキャンプで痛風を患ったこともあり[11]1971年以降は4年連続1桁勝利に留まるなど低迷。さらに、1974年には春のオープン戦期間中にジョー・ルーツ一軍打撃コーチと投球フォームの変更を巡って対立してしまい、同年オフにルーツが監督に昇格すると、若生智男とのトレード阪神タイガースに移籍した[12]。阪神移籍後は中継ぎエースとして活躍し、1975年は12勝7セーブ・防御率1.91で最優秀防御率カムバック賞のタイトルを獲得。この復活は投手の意向を重視する田淵幸一捕手の組み立てによるところが大きかったと後年振り返っている[13][14][15]1976年には10勝10セーブを記録した。1979年に就任したドン・ブレイザー監督と対立し[16][17]、オフには球団から二軍投手コーチ就任を打診されたが、金銭トレードで広島に復帰[18]。酒の飲み過ぎが祟って春先に十二指腸潰瘍を発症し、大きく出遅れてしまう[19]。復帰後は公式戦での登板機会に恵まれなかったが、1980年の日本シリーズ第1戦にリリーフ登板。1981年引退。現役中から酒豪で鳴らし、二日酔いで練習中に腹筋をしながら居眠りをしたという逸話も残した。球界きっての麻雀の名人という顔も持っていた。通算119勝は幼い頃に憧れていた藤田と同じであり、巨人から通算34勝を挙げている。

引退後は広島で二軍投手コーチ(1982年 - 1983年, 1993年)・一軍投手コーチ(1984年 - 1992年, 2005年)・二軍監督(1994年 - 1997年)を歴任し、3度のリーグ優勝(1984年, 1986年, 1991年)と1984年の日本一に貢献。コーチ時代は投手陣を引き連れて流川でのハシゴは勿論の事、遠征中も夜にホテルの部屋の選手を見回り、部屋に選手が残っていると「遊びに出ろ!」と命令。川口和久は公私ともお世話になった恩師と名前を挙げている[20]。当初は先発だった津田恒実を抑えに起用した[21]。退団後は中国放送解説者デイリースポーツ評論家1998年 - 2004年)も7年間務めた。2005年に復帰した際は春季キャンプで投手全員に先発としての調整を指示し、2500球もの凄まじい投げ込みを命じて投手陣再建を計った。タフな黒田博樹大竹寛はキャンプを無事乗り切り自身最高の成績を残したが、選手層は厚くならず投手陣全体としては失敗に終わった。この年の安仁屋はあごに白いヒゲを蓄え、赤い広島のユニフォームと相まって「安仁屋サンタ」と一部から呼ばれていた。

2006年からはRCC解説者・デイリースポーツ評論家の活動を再開し、郷里・沖縄にクラブチーム安仁屋ベースボールTRY」を結成。2012年からは『平成ラヂオバラエティごぜん様さま』の月曜パーソナリティとしてレギュラー出演もしている。解説や評論の仕事をするようになっても、毎年広島の春季キャンプで臨時投手コーチを務めている。市民球場へは毎試合1日も欠かさず観戦に行っており、新球場(マツダスタジアム)に移転後も毎試合行くという[22]。引退したら沖縄に帰るつもりでいたが、選手、コーチ、解説者として半世紀以上、広島に居住。広島の人や土地も自身によく合い、広島は第二の故郷というより第一の故郷と思っているという[23]2018年現在も精力的に野球評論活動を続けており、第100回全国高等学校野球選手権記念大会では終戦の日の8月15日にレジェンド始球式に登板した[24][25]

人物[編集]

野球漫画テレビドラマ映画などで知られる「ROOKIES」の安仁屋恵壹の苗字は安仁屋からとったものである。また、津田恒実の現役時代や闘病の模様をテレビドラマ化した「最後のストライク」(フジテレビ)において宇崎竜童が演じた安仁屋の役は、酒乱で誰も寄せ付けず酒場では独壇場であるが、その反面情に脆いという役であり、安仁屋の人の良さが浮き彫りになった役柄であった。見舞いに行った安仁屋に、ほとんど口もきけない状態だった津田が「あにやさん、のみすぎんように」とつぶやいたエピソードが知られている。

シーズン開幕前にカープ投手陣の勝ち星予想を求められると、非常にポジティブな予想を行う傾向があり、その結果勝ち星の合計が100勝を超えてしまうことが多い。そのため、ファンの間では安仁屋の勝ち星予想が通称「安仁屋算」と呼ばれている[26]

かつてはヘビースモーカーであったが現在はすっぱり禁煙し、早朝ウォーキングを日課にしている[27]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1964 広島 38 7 1 0 0 3 8 -- -- .273 390 92.1 86 10 31 1 5 74 1 0 38 36 3.52 1.27
1965 53 20 3 1 0 9 13 -- -- .409 804 201.1 161 22 62 8 10 127 3 0 73 67 3.00 1.11
1966 40 32 5 2 0 8 14 -- -- .364 704 172.0 150 15 43 3 7 124 1 0 76 71 3.72 1.12
1967 45 25 8 1 0 8 16 -- -- .333 776 189.2 167 27 61 9 4 131 1 0 78 63 2.98 1.20
1968 57 32 20 5 5 23 11 -- -- .676 1198 313.1 218 26 55 3 11 237 5 0 84 72 2.07 0.87
1969 40 15 4 1 0 10 9 -- -- .526 564 135.1 115 16 41 4 9 100 1 0 59 53 3.53 1.15
1970 44 27 7 3 1 10 14 -- -- .417 860 209.1 193 18 53 1 9 167 2 1 85 84 3.62 1.18
1971 12 1 0 0 0 2 2 -- -- .500 121 29.0 26 4 14 0 0 19 0 0 11 11 3.41 1.38
1972 32 14 8 2 2 8 10 -- -- .444 549 139.1 114 21 32 1 2 93 1 0 52 49 3.17 1.05
1973 40 18 2 0 0 5 5 -- -- .500 567 139.2 132 18 32 3 3 73 0 0 63 53 3.41 1.17
1974 33 1 0 0 0 4 4 2 -- .500 318 74.2 71 12 32 2 3 49 0 0 36 33 3.96 1.38
1975 阪神 66 0 0 0 0 12 5 7 -- .706 542 140.2 111 9 22 2 7 87 3 0 31 30 1.91 0.95
1976 53 0 0 0 0 10 4 10 -- .714 372 91.2 71 12 31 3 3 63 1 0 30 23 2.25 1.11
1977 48 0 0 0 0 4 5 2 -- .444 284 67.1 54 10 27 2 4 37 0 0 32 29 3.90 1.20
1978 39 0 0 0 0 3 2 1 -- .600 294 71.2 63 4 17 1 4 38 1 0 33 27 3.38 1.12
1979 12 0 0 0 0 0 2 0 -- .000 82 18.0 20 3 8 2 1 7 0 0 12 10 5.00 1.56
1980 広島 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 14 4.0 1 0 2 0 0 4 0 0 0 0 0.00 0.75
1981 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 1.0 4 2 1 0 0 2 0 0 4 4 36.00 5.00
通算:18年 655 192 58 15 8 119 124 22 -- .490 8447 2090.1 1757 229 564 45 82 1432 20 1 797 715 3.08 1.11
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000奪三振:1972年5月27日、対大洋ホエールズ7回戦(広島市民球場)、5回表に江藤慎一から ※史上42人目
  • 100勝:1975年8月14日、対読売ジャイアンツ16回戦(後楽園球場)、6回裏1死に4番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点 ※史上65人目
  • 500試合登板:1975年10月11日、対読売ジャイアンツ24回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回1失点 ※史上33人目
  • 600試合登板:1977年10月9日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、1回2/3を3失点で敗戦投手 ※史上16人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 16 (1964年 - 1974年)
  • 18 (1975年 - 1979年)
  • 15 (1980年 - 1981年)
  • 88 (1982年 - 1988年、1996年 - 1997年、2005年)
  • 80 (1989年 - 1995年)

関連情報[編集]

現在の出演[編集]

テレビ
ラジオ

過去の出演[編集]

テレビ
  • アンガールズのオールナイトカープ~まだ寝ちゃあいけんでえ、爆笑ネタ投げ込んじゃるけえ (2014年11月21日、RCCテレビ) - ゲスト出演
  • 元就。
    • 元就。スペシャル 夏のオススメスポットを探すんじゃ~の巻 (2015年6月27日、RCCテレビ)
    • 元就。外伝 もみぢまんじゅうが驚きの大変身じゃ~の巻(2016年10月9日、RCCテレビ) 菓子組 番頭
  • Veryカープ!祝!カープ優勝V7(2016年9月10日深夜、RCCテレビ)
  • Veryカープ!連覇は一日にしてならず! ~黄金時代への秘策~(2017年7月16日、RCCテレビ)
  • Veryカープ!安仁屋倶楽部 ANIYA-CLUB(2017年7月5日 - 10月25日、毎週水曜深夜23:56~24:11、RCCテレビ) MC(部長):安仁屋宗八
    部員No.1:谷原章介、部員No.2:山崎隆造(カープOB)、部員No.3:坂上俊次(RCCアナウンサー)、部員No.4:横山竜士(カープOB)、部員No.5:ボールボーイ佐竹、部員No.6:アンガールズ田中、部員No.7:アンガールズ山根、部員No.8:廣瀬純、部員No.9:うえむらちか、部員No.10:世界のうめざわ、ナレーション:河村綾奈(RCCアナウンサー)
  • Veryカープ!安仁屋倶楽部 ANIYA-CLUB 色んなカープファンに密着したらいい話になっちゃったSP(2017年12月10日、RCCテレビ) MC(部長):安仁屋宗八
    司会:河村綾奈(ナレーションも担当) 部員:アンガールズ
    2017年10月28日「RCC開局65年記念 Veryカープ王!決定戦」の模様を放送。
  • RCCテレビ緊急特別番組 追悼 衣笠祥雄さん(2018年4月24日、RCCテレビ)
ラジオ
イベント
  • アニヤの純真(2017年8月30日、弘法市スタジアム広島) 安仁屋宗八 カープ生解説・観戦イベント。司会:さいねい龍二桑原しおり

イメージキャラクター[編集]

  • ジーンズ企画工房(株式会社ヤスダ)

CM[編集]

  • 株式会社SAWADA(2020年1月 - )岡崎花帆子と出演

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f <2> 誕生そして疎開 大分で空襲、九死に一生
  2. ^ a b c d e f <3> 野球との出合い 制球のよさでエースに
  3. ^ a b c d e f g h <4> 甲子園  聖地で緊張 初戦敗退
  4. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  5. ^ a b c d e f g h <5> 広島入団 鋭いシュート、プロ注目
  6. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  7. ^ a b c d e f <6> プロ生活 猛練習と食事に戸惑い
  8. ^ a b c <7> 巨人キラー 「勇姿見せたい」と発奮
  9. ^ 山室寛之『巨人V9とその時代』中央公論新社、2014年、110-111頁
  10. ^ <8> 全盛期 23勝、チームも3位に
  11. ^ 安仁屋宗八、二宮清純「「飲み過ぎ」とトレードの真相-安仁屋宗八「酒とインコース」(3)(新日本野球紀行147)」『本』第42巻第8号、講談社、2017年、 50-52頁、 ISSN 03850366
  12. ^ 「安仁屋宗八傳・沖縄の星25」ルーツとモメて…阪神移籍(前編)
  13. ^ カープOB・安仁屋宗八、監督の「無茶ブリ」にキレて阪神へ
  14. ^ 【野球】安仁屋宗八氏の野球人生“外国人監督との衝突”が転機に
  15. ^ 【虎戦士回顧録、あの時は…】安仁屋宗八氏「今があるのも阪神での5年間が大きい」/阪神タイガース/デイリースポーツ online
  16. ^ 「安仁屋宗八傳・沖縄の星27」今度はブレーザーと衝突(前編)
  17. ^ 【野球】安仁屋宗八氏の野球人生“外国人監督との衝突”が転機に
  18. ^ トレードの経緯は、安仁屋宗八、二宮清純「津田の一言、黒田の逸話……投手コーチ秘話-安仁屋宗八「酒とインコース」(4)(新日本野球紀行148)」『本』第42巻第9号、講談社、2017年、 50-52頁。を参照。
  19. ^ わがピッチングとお酒の師匠、安仁屋宗八さん(川口和久WEBコラム)
  20. ^ 川口和久『投球論』講談社現代新書、1999年
  21. ^ 悲願の優勝!かつての主力たちが明かす「広島カープ」最強秘話
  22. ^ 『野球小僧』、2009年2月号、196-197頁
  23. ^ “プロ野球広島東洋カープ元投手 安仁屋宗八さん 生きて <1> 沖縄の星から広島人に”. 中国新聞アルファ (中国新聞社). (2017年1月25日). オリジナルの2017年4月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170427090647/http://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=313969&comment_sub_id=0&category_id=757 2017年10月7日閲覧。 
  24. ^ 沖縄出身の安仁屋氏がレジェンド始球式「いい日に登板できた」
  25. ^ 安仁屋宗八氏 終戦の日に平和への祈りを込めて「一生の思い出」
  26. ^ 黒田博樹の男気完封に男泣き! 豪快で熱い男、元広島・安仁屋宗八氏が残した数々の伝説とは? - マイナビニュース・2016年4月17日
  27. ^ 健康わたし流安仁屋宗八さん 毎朝2時間川沿い散歩
  28. ^ 吉田は安仁屋の阪神移籍と同時期に監督就任(1度目・1975年 - 1977年)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]