吉村禎章
野球日本代表 打撃コーチ #77 | |
---|---|
![]() | |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
出身地 | 奈良県御所市 |
生年月日 | 1963年4月27日(59歳) |
身長 体重 |
180 cm 89 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト3位 |
初出場 | 1982年7月20日 |
最終出場 | 1998年10月3日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
吉村 禎章(よしむら さだあき、1963年4月27日 - )は、奈良県御所市出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ、解説者。2021年オフから読売ジャイアンツ球団編成副本部長兼国際部長を務める[1]。
1980年代後半の巨人の主力打者として活躍。プレー中に「交通事故レベル」と言われる大けがを負うも、不屈の精神で復帰を果たし代打の切り札として活躍した。
経歴[編集]
現役時代の愛称は「ポチ」[2]。
サッカー元日本代表の岩淵功は義父にあたる。また、中学時代の担任は後にラジオ関西のアナウンサーとなる岩崎和夫だった。
プロ入り、全盛期[編集]
PL学園高で西川佳明、若井基安らと共に1981年の第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たす。
高いバッティングセンスと身体能力を武器に2年目の1983年に84試合の出場を果たし、規定打席未到達ながら打率.326の好成績を挙げる。同年若手選手として活躍した駒田徳広、槙原寛己とともに、彼らの背番号にちなんで50番トリオ(2010年代には五十路トリオ)と呼ばれた。
その活躍をきっかけに、翌1984年から右翼手のレギュラーに定着。俊足強肩の選手として将来を嘱望されていた。
1985年、残り1試合を残して出塁率.432であり、同じく残り1試合を残したランディ・バースの.423に9厘差をつけて1位であった。最終戦の直接対決では、バースが本塁打のシーズン記録で王貞治に1本差に迫っていたため、勝負を避けられたことで5打席全部出塁(1安打、4四球)して.42807となった。これに対し、吉村は仮に3打席凡退で交代なら.42857で初のタイトルを獲得できたにもかかわらず、フル出場した結果4打席凡退して.42754となった。そのため、バースが.00053差で逆転し、吉村は最高出塁率のタイトルを逃した。この年からセ・リーグは最多出塁数ではなく最高出塁率で記録・表彰することになっており、出塁率の計算の仕方もこの年から犠飛を分母に入れる計算方法に変わっていたが、これらに馴染みのなかった巨人ベンチは気づいていなかったという(前年までの出塁率の計算方法だと、バースが.430、吉村が.433)。
1986年は主軸として128試合に出場。打率5位、23本塁打を記録。
1987年も打率5位、86打点を記録、30本塁打も達成。開幕戦の中日戦では杉本正から本塁打を放っている。30号目は、10月18日の対広島(後楽園球場)最終戦、4回裏の打席で、カウント2-2の際にスコアボードの表示(2-1)が球審山本文男の手元カウンター(2-2)と異なっていたことから、打者吉村、捕手の達川光男にカウント確認したところ捕手の達川よりスコアボードの表示が正しいとのアピールを受け、カウント2-1として白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定、プレーが続行され本来あり得ない「2ストライク4ボール」の状態から打ったものであり、この本塁打は後楽園球場のシーズン公式戦最後の本塁打でもあった[4]。1986年、1987年と2年連続でベストナインに選出され、若くして巨人の主力選手となった。その一方で当時から肩の弱さによる送球能力の低さが指摘され[5]、この年から代走や守備固めが送られることが多くなった。
1988年3月18日、阪神とのオープン戦で東京ドーム完成後の第1号本塁打を放つ。
札幌円山球場での事故[編集]
1988年7月6日の対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)では、3回に通算100号本塁打を記録した。ところが、8回の左翼手としての守備で中尾孝義の放った飛球を捕球した際、この回から中堅手の守備に入った栄村忠広と激突。左膝の4本の靭帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷するという、主治医曰く「交通事故レベル」という大怪我を負った[6][注 1]。この試合は、直前の7回裏に吉村に打席が回れば吉村に守備固めが送られる予定であったという[7][6]。
長い療養生活を余儀なくされ、それでも後遺症が確実に残るあまりにも深刻な負傷であった。
リハビリ、復帰、代打要員[編集]
左膝靭帯断裂は重度の障害者認定を受けるほどの大怪我であり、一旦北海道大学病院に入院したが、後に渡米し、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀を受けた。ジョーブに「野球選手でこんな大けがは見たことがない」と言わしめるほどの大怪我であったが[8]、2度の手術と神奈川県厚木市の神奈川リハビリテーション病院にて1年以上の苦しいリハビリ生活を経て、最終的には特注品のレガースとシューズを付け、直線であれば100メートルを11秒台前半で走れるまでに復活した。リハビリで使用したギプスはジャイアンツの選手寮に飾られている。
1989年9月2日に斎藤雅樹の代打で復帰(当時ルーキーの川崎憲次郎と対戦し、結果は二塁ゴロ[9])。「バッター、斎藤に代わりまして吉村」というアナウンスがかき消されたほどの大歓声に東京ドームが包まれた。
1990年9月8日、チームのリーグ優勝を自らのサヨナラ本塁打で決めた(このときの相手投手も同じく川崎であった)[注 2]。1990年代前半は貴重な打てる外野手として貢献。
1994年のシーズンは打率1割台と不振だったが、同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは、故障により欠場した落合博満に代わり、第4戦と第5戦は4番・指名打者で先発出場。いずれの試合も2安打を放ち、特に第5戦は渡辺久信から本塁打を放つなど、チームの勝利に貢献した[10]。
けがによって、中長距離ヒッターにとってオーソドックスな軸足(左脚=けがをした脚)に体重を乗せる打ち方が不可能になり、リハビリを通じて前脚(右脚)を軸に回転する打ち方に取り組むことになったが、以後の数字は吉村がその非凡なセンスでそのイレギュラーな打ち方で中長距離ヒッターとして復帰したことを物語っている。
その後も、踵から足をついて歩けないという状態ながら[9]、主に左の代打の切り札として活躍した。
1998年シーズンには長嶋茂雄監督から第16代キャプテンに指名された。同年限りで現役を引退。10月3日のシーズン最終戦で引退試合が行われた[11]。
現役引退後[編集]
1999年から日本テレビ野球解説者およびスポーツ報知野球評論家を務めた。
2002年に巨人一軍打撃コーチに就任。
2003年シーズン終了後に退団。
2004年から日本テレビ野球解説者およびスポーツニッポン野球評論家を務める。
2006年に巨人二軍監督に就任。シーズン後半、怪我人が続出した一軍へ脇谷亮太を1番打者として送り出すなど貢献。
2007年は世代交代を受け坂本勇人など4人のルーキーを優先起用した。
2009年からは一軍野手総合コーチに就任。(2011年は一軍打撃コーチ)木村拓也一軍内野守備走塁コーチ急逝後の一塁ベースコーチも担当した。
2011年のシーズン終了を持って退団。打線の不振の責任をとったとの報道がある一方[12]、複数回に及ぶ女性問題が辞任の原因とも報じられた[13]。その後、2017年に巨人に復帰するが、女性問題は解決したとの声が出ている[14][15]。
2012年からは日本テレビ野球解説者、スポーツニッポン評論家に復帰。2013年からアール・エフ・ラジオ日本の野球解説者も兼務。
2015年、侍ジャパンのアンダー世代である15U(中学生以下)代表監督にも就任した[16]。
2017年11月1日より、一軍打撃総合コーチとして巨人に復帰[17]。一軍作戦コーチを経て2022年より編成業務に就くことになった[18]。
プレースタイル[編集]
怪我をする前は強打力と確実性を兼ねそろえた好打者として高い評価を得た。原辰徳ではなく吉村を4番打者に推す声もあったといわれる。復帰後は代打として活躍するものの「もし怪我がなかったら」と繰り返し惜しまれる選手である[19]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 巨人 | 4 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1983 | 84 | 104 | 95 | 26 | 31 | 1 | 4 | 5 | 55 | 11 | 3 | 0 | 1 | 0 | 8 | 1 | 0 | 11 | 1 | .326 | .379 | .579 | .958 | |
1984 | 115 | 298 | 260 | 56 | 89 | 26 | 3 | 13 | 160 | 34 | 8 | 8 | 4 | 1 | 29 | 1 | 4 | 30 | 0 | .342 | .415 | .615 | 1.030 | |
1985 | 120 | 418 | 344 | 57 | 113 | 19 | 1 | 16 | 182 | 56 | 8 | 6 | 4 | 6 | 59 | 3 | 5 | 36 | 4 | .328 | .428 | .529 | .957 | |
1986 | 128 | 534 | 474 | 84 | 148 | 25 | 6 | 23 | 254 | 72 | 10 | 4 | 7 | 5 | 41 | 3 | 7 | 68 | 8 | .312 | .372 | .536 | .908 | |
1987 | 127 | 464 | 428 | 76 | 138 | 21 | 2 | 30 | 253 | 86 | 5 | 1 | 8 | 3 | 24 | 3 | 1 | 62 | 9 | .322 | .357 | .591 | .949 | |
1988 | 65 | 256 | 222 | 33 | 67 | 12 | 1 | 13 | 120 | 39 | 4 | 0 | 1 | 5 | 26 | 1 | 2 | 23 | 3 | .302 | .373 | .541 | .913 | |
1989 | 17 | 31 | 28 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .179 | .226 | .179 | .404 | |
1990 | 84 | 241 | 208 | 26 | 68 | 11 | 0 | 14 | 121 | 45 | 0 | 0 | 0 | 1 | 29 | 6 | 3 | 25 | 4 | .327 | .415 | .582 | .997 | |
1991 | 93 | 271 | 242 | 25 | 55 | 6 | 0 | 10 | 91 | 42 | 0 | 1 | 0 | 1 | 27 | 2 | 1 | 31 | 6 | .227 | .306 | .376 | .682 | |
1992 | 91 | 248 | 224 | 25 | 71 | 10 | 0 | 6 | 99 | 32 | 1 | 0 | 0 | 2 | 20 | 2 | 2 | 22 | 5 | .317 | .375 | .442 | .817 | |
1993 | 94 | 351 | 311 | 26 | 84 | 14 | 1 | 8 | 124 | 43 | 0 | 1 | 1 | 6 | 28 | 1 | 5 | 46 | 6 | .270 | .334 | .399 | .733 | |
1994 | 81 | 174 | 160 | 14 | 28 | 6 | 0 | 3 | 43 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 20 | 9 | .175 | .241 | .269 | .510 | |
1995 | 53 | 75 | 66 | 5 | 19 | 2 | 0 | 4 | 33 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 8 | 4 | .288 | .373 | .500 | .873 | |
1996 | 53 | 65 | 61 | 2 | 15 | 0 | 0 | 2 | 21 | 11 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 9 | 1 | .246 | .277 | .344 | .621 | |
1997 | 69 | 69 | 62 | 2 | 16 | 6 | 0 | 1 | 25 | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 1 | 0 | 11 | 3 | .258 | .290 | .403 | .693 | |
1998 | 71 | 76 | 65 | 2 | 17 | 2 | 0 | 1 | 22 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 2 | 0 | 12 | 1 | .262 | .368 | .338 | .707 | |
通算:17年 | 1349 | 3678 | 3253 | 459 | 964 | 161 | 18 | 149 | 1608 | 535 | 40 | 22 | 26 | 35 | 334 | 27 | 30 | 418 | 64 | .296 | .364 | .494 | .858 |
表彰[編集]
- ベストナイン:2回(外野手部門:1986年、1987年)
- 月間MVP:2回(1987年9月、野手部門:1990年9月)
- JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞:1993年4月)
- カムバック賞(1990年)
- オールスターゲームMVP:1回(1986年 第3戦)
- 東京ドームMVP:2回(1985年、1990年)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回(1986年)
記録[編集]
- 初記録
- 初出場:1982年7月20日、対広島東洋カープ19回戦(後楽園球場)、3回裏に加藤初の代打として出場
- 初安打:1983年4月15日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、7回表に新浦壽夫の代打として出場、小林繁から
- 初先発出場:1983年4月17日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、1番・右翼手として先発出場
- 初本塁打・初打点:1983年6月29日、対阪神タイガース13回戦(後楽園球場)、8回裏に浜田知明から3ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1988年7月6日、対中日ドラゴンズ15回戦(札幌市円山球場)、3回裏に米村明からソロ ※史上153人目
- 1000試合出場:1993年8月10日、対ヤクルトスワローズ19回戦(東京ドーム)、3番・左翼手として先発出場 ※史上312人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:4回(1986年、1987年、1991年、1993年)
背番号[編集]
- 55(1982年 - 1985年)
- 7(1986年 - 1998年)
- 87(2002年 - 2003年、2018年 - 2021年)
- 77(2006年 - 2011年)
関連情報[編集]
書籍[編集]
- 『打撃の天才児・吉村禎章 才能を練習で開花させた男(熱球文庫シリーズ)』(国松彰著、恒文社、1984年10月、ISBN 978-4770405876)
- 『不屈の男 吉村禎章』(東京読売巨人軍・巨人軍選手会(編著)、ベースボールマガジン社、1998年12月、ISBN 978-4583035635)
- 『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(橋本清(著)、ぴあ、2009年3月、橋本清が第7章で吉村を取材、ISBN 978-4835617282)
ビデオ[編集]
- 『奇跡の背番号7 吉村禎章 再起不能からの復活物語 [VHS]』(バップ、1999年3月)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “宮本和知氏、巨人・球団社長付アドバイザーに 今季限りで投手チーフコーチ退任”. スポーツニッポン. (2021年11月16日) 2021年11月16日閲覧。
- ^ “大怪我を乗り越えた早熟の天才打者【吉村禎章・最後の1年】”. BASEBALL KING (2020年4月6日). 2021年4月16日閲覧。
- ^ 過去のドラフト 第17回(1981年) 日刊スポーツ
- ^ 【10月18日】1987年(昭62)やっぱ老朽化?後楽園最後の公式戦に飛び出した“怪弾” - スポーツニッポン(2008年10月18日)
- ^ 「肩の弱さの原因は対外的には1986年のシーズン中の練習によって痛めたためとされていたが、真の理由は自らの飲酒運転に起因する交通事故によるものである」とする記事が1987年9月発行の月刊現代に掲載され(ロバート・ホワイティング著・玉木正之訳『和をもって日本となす』306頁、角川書店、1990年3月30日)
- ^ a b “「巨人を変える」と言われた“天才”吉村禎章の悲劇と再生/プロ野球20世紀・不屈の物語【1988~89年】”. 週刊ベースボールONLINE (2020年5月31日). 2022年1月20日閲覧。
- ^ 『不屈の男吉村禎章』ベースボールマガジン社
- ^ “【7月6日】1988年(昭63) 通算100号本塁打の日に…2人の運命を変えた外野フライ”. スポーツニッポン. (2008年7月1日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2016年7月26日閲覧。
- ^ a b 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.70~ 優勝決定サヨナラ本塁打、p.9 徳光和夫のメッセージ
- ^ ベースボール・レコードブック1995
- ^ “【あの名場面の裏側】G戦士編 不屈の魂持つ男・吉村禎章が引退 「よくぞ、ここまで…」栄光と挫折を味わい尽くした真のリーダー (1/3ページ)”. zakzak (2020年12月3日). 2022年1月20日閲覧。
- ^ 巨人吉村、香田コーチ退団 秦氏ら入閣へ 日刊スポーツ 2011年11月1日
- ^ 巨人・吉村コーチ 不可解退団の陰に愛人への不倫暴行事件 NEWSポストセブン 2012年4月2日
- ^ “巨人&阪神の「知られざる内情」を番記者がブチまける!”. 日刊大衆 (2017年11月29日). 2022年1月20日閲覧。
- ^ “由伸ジャイアンツ、空前絶後の「粛清と補強」スッパ抜き”. 日刊大衆 (2017年10月24日). 2022年1月20日閲覧。
- ^ 侍ジャパンU-15代表メンバー発表!吉村禎章監督が意気込み語る
- ^ “来季のコーチングスタッフについて”. 読売巨人軍公式サイト (2017年10月10日). 2022年1月20日閲覧。
- ^ “【巨人】吉村禎章1軍作戦コーチ、来季からフロント入りで編成業務に”. スポーツ報知. 2021年11月4日閲覧。
- ^ “プロ野球界におけるケガに泣いた選手の代表格・吉村禎章”. www.badge-of-pride.com. 2020年11月2日閲覧。
関連項目[編集]
- 奈良県出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 中村順司 - PL学園高校在籍時の野球部監督
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 吉村禎章 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
|