宇野勝

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宇野 勝
Uno masaru.jpg
2012年8月28日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県八日市場市(現:匝瑳市
生年月日 1958年5月30日(58歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手外野手
プロ入り 1976年 ドラフト3位
初出場 1977年7月29日
最終出場 1994年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2008, 2012 - 2013)

宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手内野手外野手)、野球指導者、野球解説者。現役時代は中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズでプレーした。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

千葉県の強豪・銚子商業では1976年第58回全国高等学校野球選手権大会に遊撃手として出場。中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価して、同年のドラフトで3位指名したという話がある。同じ学年の神奈川・東海大相模原辰徳三塁手から電話で『東海大学で三遊間を組もう』と誘われたが、家が裕福でなかった宇野は、原より先にプロで金を稼がせてもらおうという理由で中日ドラゴンズに指名を受けて高校からプロ入りに踏み切ったと言われる[要出典]

プロ入り後[編集]

3年目の1979年からレギュラーとして定着した。

1981年8月26日の対読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てるエラーがあった(詳細は宇野ヘディング事件を参照)。

1984年は37本塁打で掛布雅之阪神)と本塁打王のタイトルを分け合った。この年の129試合目と130試合目(シーズン最終戦)は対阪神戦であったが、両軍投手による掛布、宇野の敬遠合戦の末、両者が本塁打王を獲得した。129試合目の7回裏2死満塁で打席が回ってきた際にも歩かされている。ただし、捕手が中腰で捕球したため敬遠とはならなかった。またベストナインにもこのシーズンを含め3度選出されている(その他に1982年1987年)。自身の1シーズン最多本塁打は1985年の41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高である。また、中日時代に打った334本塁打も球団史上最多記録となっている。中日の選手会長だった平野謙が西武ライオンズにトレードで移籍したため、その後任として選手会長を1988年から2年間務めた。

中日時代はシーズン20本塁打以上を9回(うち30本以上は3回、40本以上は1回)記録し、3度もベストナインに選ばれたが、当時のセントラル・リーグには他にも人気・実力を兼ね備えた遊撃手が数多くいたため(例として山下大輔高橋慶彦川相昌弘池山隆寛など)、オールスターゲームにはなかなか出場できなかった[1]

1988年立浪和義が入団すると前年のベストナインでありながら遊撃のポジションを立浪に譲り、ロッテに移籍するまで二塁手、三塁手としての出場が多くなった。

1992年、シーズン前に目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」とテレビカメラの前で宣言。しかし、立浪和義種田仁前原博之との定位置争いに敗れ、オフに千葉ロッテマリーンズトレードで移籍(中日の宇野・長嶋清幸、ロッテの今野隆裕横田真之の交換トレード)。

1994年オフ、成績不振・出場機会減少によりロッテから戦力外通告を受けたものの、移籍先が見つからなかったためこの年限りで現役を引退した。当初は星野仙一の監督復帰に伴い現役選手として中日復帰が内定していたが、高木監督10.8決戦で日本プロ野球を盛り上げた功績を評価された事により留任し立ち消えになった[要出典]。宇野が再び付ける予定だった背番号7は一緒にロッテ退団のメル・ホールが付けることになった。

引退後[編集]

引退後、名古屋テレビ(メ〜テレ)と東海ラジオで野球解説者を、またデイリースポーツ紙上で評論を務めていた。

2004年から2008年まで中日の打撃コーチを務めた。この間、2007年にペナントレース2位ながらもクライマックスシリーズ制覇で出場権を得た同年の日本シリーズで日本一(およびアジア一)となる。それまで1982年の日本シリーズ1988年の日本シリーズに選手として、2004年の日本シリーズ2006年の日本シリーズにコーチとして4度とも中日側から出場しているがいずれのシリーズも敗退して涙を呑んでおり、初の体験であった[2]。コーチ時代にはナゴヤドームの試合終了後、ベンチからスタンドにサインボールを投げ入れるサービスをしている。

2009年度より再び東海ラジオ、2010年度からはメ〜テレ(名古屋テレビ)の野球解説者となり、落合監督就任時からコーチとしてチームに在籍した経験を生かした解説を行っている。また、新たに日刊スポーツの野球評論家も務める。メ〜テレには中日のホームゲーム中継権がないため、ビジターゲームのみの出演となっている。2012年からは再び中日一軍打撃コーチに就任し[3]、シーズン後2軍打撃兼総合コーチに配置転換されることが発表された。

2013年10月4日に球団から来季の契約を結ばない事が発表された[4]

2014年からは再びメ〜テレ・東海ラジオ解説者、さらに東京スポーツ評論家を務める。

東京スポーツではコラム「フルスイングの掟」を担当。

選手としての特徴[編集]

80年代が全盛期で主に5番を打ち、長距離打者として活躍したが、強振するスタイルの影響もあり本塁打王を獲得した年はリーグ最多の117三振もあわせて記録する(前年も97三振でリーグ最多を記録)など、三振が多かった。一般的には遊撃手は守備での負担が大きいといわれるが、宇野の場合は三塁手や外野手として出場すると打撃不振になることが多かった。全盛期には、8月に調子を上げて本塁打を量産することからファンやマスコミから「ミスターオーガスト」と呼ばれた。現在でも当時でも、数少ない遊撃手の長距離打者であり、85年の41本塁打は遊撃手部門における歴代最多本塁打記録であると同時に、遊撃手唯一の40本塁打。前年の84年に本塁打王を獲得しているが、これは遊撃手唯一の本塁打王。通算本塁打も遊撃手部門の歴代1位である。燃えよドラゴンズ!79では「8番宇野がスクイズバント」という歌詞があるが、スクイズをしたことがないとコメントしている。

そもそもは守備を評価されての入団であり、守備範囲はまずまずで強肩だったもののリーグ最多失策を7回記録している。

また、成功率の低い盗塁を度々敢行し、78盗塁に対し96の盗塁死を数えている。

日米野球に強く、4試合出場して5本塁打を放っている。さらに1試合2本塁打を2回記録しており、これは日米野球で1試合2本塁打を達成した5名(宇野の他に川上哲治王貞治江藤愼一松井稼頭央)の中では4回を記録している王に次ぐ記録である。

珍プレーなど[編集]

1982年4月24日の対大洋戦(横浜)ではユニフォームを忘れたため、背番号77をつけていた飯田幸夫コーチから借りて試合に出場した。相手チームの野次の中、宇野はその試合で本塁打を放つ。後に、宇野は2003年オフに打撃コーチとして中日復帰した際に、その背番号77をつけている。

1984年5月5日の対大洋戦(横浜)でライトへの浅いフライを打ち、ライト高木由一のエラーで出塁したものの、一塁走者の大島康徳を追い抜いてアウトになり、やはり年末の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に大きく取り上げられることとなった。これも宇野の珍プレーとして、特に前述のヘディングと共に、フジテレビ系の番組でみのもんたのナレーションで放送されることが多く、フジ系のゲストに呼ばれることが多い。 なお、このプレーに関しては打球の行方を追い続けて走り出そうとしなかった大島のミスであったという説もあるが、ライトが取れそうな浅いフライの行方を追い続けて走り出そうとしなかった大島の判断は当然のプレーであり、一塁で止まらなかった宇野の方がミスを犯しているという見方の方が強い。また、大島自身も後日、自身が打ったレフトへの平凡なフライを、レフトが落球してしまい、一塁走者の谷沢健一が慌てて二塁へ走り出したが、大島が谷沢を追い抜いてアウトになり、宇野と同様のプレーを犯してしまっている。

ヘディング事件の後、本人は好珍プレーで毎回の如く紹介されるのを嫌がっているが(その一方で「他人の珍プレーは面白い」とも発言している)、著書『ヘディング男のハチャメチャ人生』では「(ヘディングは)やって良かった。感謝している」と書いている。著書は現在絶版である。1988年のオールスターゲーム後に放映された日本テレビ系の珍プレー番組に出演した際には、自身のヘディング事件の映像を見て「忘れてましたね」とコメントした。

ロッテ時代、先発投手の吉田篤史が打球を受けてベンチで手当てを受けている間、遊撃手の守備位置を離れマウンドで投球練習を開始。これを見た日本ハムの小川浩一が打席に入り、宇野の投じた球を打ち返した。打球は両手を広げた右翼手・マックス・ベナブルの頭上を越えて行き、場内が笑いに包まれる中、苦笑を浮かべた宇野は膝をついていた。

コーチ時代、2004年の落合監督初優勝の翌日、川崎憲次郎の引退試合で、1回終了後、川崎の胴上げを中日、ヤクルトの両チーム選手がしようとした時、コーチでは宇野のみが飛び出し、しばらくしてから気づいてベンチへ戻っていった。

人物[編集]

愛称は「ウーやん」。現役時代の応援歌の原曲は「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊のテーマ。ロッテ移籍後もこのテーマが使用された。

高い人気を誇っていた選手であり、打席に立つとスタンドには宇野の顔を模造した巨大な『宇野人形』が現れ、チベットの “ マスクダンス ” さながらの熱狂的な応援が繰り広げられていた[5]

成績もさることながら、あまりにも上記のヘディング事件の印象が強く、現在まで続く「珍プレー好プレー」の番組誕生となる礎を作ったともいえる点で、プロ野球がバラエティ番組の素材となる傾向を結果的に後押しした選手である。

人間関係[編集]

1987年に中日に移籍した落合博満と打撃の話で何度も徹夜したという。落合は打撃に関して宇野をかなり信頼しており、監督就任時真っ先に打撃コーチとして声をかけている。宇野自身も「落合さんが来て初めてチームバッティングというものを教わった」と発言するなど、落合を尊敬している。退任後も互いに笑顔で会話を交わす等、その関係は尚も良好であった。

家族[編集]

これまでに2度結婚している。本塁打王獲得の翌年(1985年)に前夫人(宇野の熱烈なファンであったと言われる[5])と離婚したが、その原因は前夫人の浪費によるものだった。給料を球団管理に置くなどしたが、結局離婚に踏み切る。この際、前夫人の借金(約8000万円といわれる)を宇野は全て自分で引き受けたが、前夫人の悪口は一言も口にしなかった。心労もあってかこの1986年の成績は不振だったが、星野監督が就任した翌1987年には30本塁打と見事に復活している。後に中部日本放送(CBC)アナウンサーだった寺嶌しのぶと再婚している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1977 中日 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1978 26 55 48 6 10 2 0 3 21 7 1 0 1 0 6 0 0 14 1 .208 .296 .438 .734
1979 122 395 359 42 95 14 2 12 149 37 4 8 5 2 21 6 8 74 4 .265 .318 .415 .733
1980 121 444 408 40 100 22 0 12 158 44 3 7 9 0 21 4 6 71 10 .245 .292 .387 .679
1981 128 475 429 62 121 18 3 25 220 70 6 7 12 5 26 2 3 85 8 .282 .324 .513 .837
1982 125 481 446 57 117 15 0 30 222 69 4 8 1 2 29 3 3 91 8 .262 .310 .498 .808
1983 129 516 457 71 123 21 2 27 229 64 9 7 4 3 47 4 5 97 9 .269 .342 .501 .843
1984 130 531 458 74 116 8 0 37 235 87 13 7 7 5 59 7 2 117 14 .253 .338 .513 .851
1985 130 550 486 82 133 17 2 41 277 91 5 6 2 4 56 6 2 98 14 .274 .349 .570 .918
1986 83 340 308 31 65 10 0 10 105 26 7 8 1 2 29 1 0 71 7 .211 .277 .341 .618
1987 130 534 471 72 127 20 0 30 237 80 9 10 0 2 61 4 0 75 21 .270 .352 .503 .855
1988 130 528 465 68 129 28 0 18 211 76 8 12 3 6 54 1 0 78 15 .277 .349 .454 .802
1989 119 488 437 66 133 22 0 25 230 68 2 7 6 5 39 3 1 82 15 .304 .359 .526 .885
1990 119 510 454 66 131 22 0 27 234 78 4 2 1 2 52 2 1 105 14 .289 .361 .515 .877
1991 125 478 428 56 102 18 3 26 204 74 2 3 2 3 43 2 2 112 11 .238 .309 .477 .785
1992 110 378 335 32 80 8 1 11 123 52 1 4 0 1 42 1 0 86 5 .239 .323 .367 .690
1993 ロッテ 59 185 166 12 30 3 1 3 44 9 0 0 2 1 16 0 0 43 1 .181 .251 .265 .516
1994 14 38 33 3 8 1 0 1 12 4 0 0 1 0 4 0 0 7 0 .242 .324 .364 .688
通算:18年 1802 6926 6188 840 1620 249 14 338 2911 936 78 96 57 43 605 46 33 1306 157 .262 .329 .470 .799
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1983年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(明治神宮野球場)、6回表に酒井圭一から中越ソロ ※史上126人目
  • 150本塁打:1985年5月6日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に池田親興から左越ソロ ※史上76人目
  • 1000試合出場:1987年4月14日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6番・遊撃手として先発出場 ※史上268人目
  • 200本塁打:1987年4月18日、対阪神タイガース2回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に池田親興から2ラン ※史上51人目
  • 1000本安打:1987年10月8日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、1回表に伊藤文隆から中前安打 ※史上149人目
  • 250本塁打:1989年5月10日、対広島東洋カープ4回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に長冨浩志から先制ソロ ※史上29人目
  • 1500試合出場:1991年4月14日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(長良川球場)、7番・三塁手として先発出場 ※史上98人目
  • 300本塁打:1991年5月3日、対ヤクルトスワローズ6回戦(ナゴヤ球場)、4回裏にティム・バートサスから右越2ラン ※史上21人目
  • 1500本安打:1991年10月15日 対広島東洋カープ25回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に川島堅から ※史上62人目
その他の記録
  • 10試合連続打点(1984年8月2日 - 8月14日)
  • 10打席連続四球(1984年10月3日 - 10月5日)
  • 23試合連続三振(1991年6月9日 - 7月14日)
  • オールスターゲーム出場:3回 (1987年、1989年、1993年)

背番号[編集]

  • 43 (1977年 - 1978年)
  • 7 (1979年 - 1992年)
  • 2 (1993年)
  • 49 (1994年)
  • 77 (2004年 - 2008年)
  • 73 (2012年 - 2013年)

関連情報[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

著書[編集]

  • 『ヘディング男のハチャメチャ人生』(海越出版社, 1986年1月)ISBN 4-906203-31-0

ディスコグラフィー[編集]

  • 「ビクトリー」(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし
原辰徳岡田彰布高橋慶彦遠藤一彦荒木大輔と共にコーラス参加。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 逆にロッテ移籍後には、不振にもかかわらずファン投票で選ばれたことがある。
  2. ^ 1988年に出場した日本シリーズでは敢闘選手賞を受賞している。
  3. ^ 来季のコーチングスタッフについて”. 中日ドラゴンズ (2011年11月21日). 2011年11月21日閲覧。
  4. ^ 来季の契約について中日球団公式サイト2013年10月4日配信
  5. ^ a b 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社) P.262。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]