タイロン・ウッズ

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タイロン・ウッズ
Tyrone Woods
IMG 1874 Tyrone Woods.jpg
中日時代
(2008年6月1日、西武ドーム
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州ブルックスビル
生年月日 (1969-08-19) 1969年8月19日(50歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1988年 MLBドラフト5巡目
初出場 KBO / 1998年
NPB / 2003年3月28日
最終出場 KBO / 2002年
NPB / 2008年10月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ウィリアム・タイロン・ウッズWilliam Tyrone Woods , 1969年8月19日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

韓国プロ野球KBOを経て2003年から日本プロ野球NPB)のセ・リーグ球団横浜ベイスターズに2年間所属し、2005年中日ドラゴンズへ移籍すると2008年に退団するまでの6年間で通算240本塁打を記録し、本塁打王を3回・打点王を1回獲得した[1]

KBO・NPBの両方で本塁打王打点王の二冠王に輝いた唯一の選手である。

経歴[編集]

アメリカ時代[編集]

1988年エクスポズと契約した[2]。その後はオリオールズレッドソックスと移籍するが、守備面や打撃の確実性の面で問題を抱えていたため10年間で一度もメジャー昇格はならなかった。[2]

斗山時代[編集]

KBOリーグに外国人選手制が導入された1998年に第1回外国人選手ドラフトでOBベアーズ(1999年より斗山ベアーズ)から2位指名を受けて入団して以降[3]2002年に退団するまで5年間で通算打率.295・174本塁打・510打点の成績を残した[4][5]。中でも通算174本塁打は2016年時点でKBOリーグの歴代外国人本塁打記録であり[6]、横浜移籍後の2004年には『東亜日報』にてフェリックス・ホセロッテ・ジャイアンツ)とともに「韓国プロ野球史上最強の外国人選手」と紹介されたほか[7]、2016年に同紙がプロ野球ファン1,000人を対象に実施した「歴代最高の外国人選手を問うアンケート調査」でも348票を獲得して1位に輝いている[6]

登録名は「ウジュ(우즈)」で[6]、韓国時代はファンから「黒熊」のニックネームで親しまれていた[2]。1998年は来韓1年目で張鍾勲ピングレ・イーグルス1992年)が保有していた韓国記録のシーズン41本塁打を更新する歴代最多(当時)の42本塁打を放ち、本塁打王・打点王の二冠を獲得した。同年10月8日には韓国プロ野球記者協会により外国人選手としては初めて同シーズンの最優秀選手(MVP)に選出された[8]

2001年KBOオールスターゲームにてソロ本塁打を含め4打数4安打を記録してMVPに輝いたほか[9]、レギュラーシーズンで打点王を獲得して斗山ベアーズの韓国シリーズ優勝に貢献し、韓国シリーズでもMVPを獲得した。同年は韓国シリーズを観覧するため訪韓していた後の所属球団である中日ドラゴンズの打撃コーチ(当時)・佐々木恭介がウッズを高く評価していたが[10]、この時は入団には至らなかった。一方で年俸を不満とし、同年オフには斗山球団に対し「来季は韓国でプレーしない」と揺さぶりをかけたが、結局は斗山に残留している[3]

2002年は年俸23万1000ドル+オプション10ドルの報酬を受け取っていたが、同年は打率.256・25本塁打・82打点と期待外れの成績に終わり、シーズン終了後には米国に帰国して「最高の待遇をしてくれなければ韓国でプレーしない」として日本球界進出を模索するようになった[3]。これに対し斗山球団はウッズに対し電話で「年俸凍結で再契約する」と伝え、クァク・ホンギュ団長は『東亜日報』の取材に対し「去年と同じで『韓国でプレーしない』という発言はこけおどしだろうが、契約する気があるのなら保留選手締め切り期限の2002年11月30日までに返信してほしい。同日までにウッズから契約の意思が伝わってこなければ他の外国人選手を探す」と述べていた[3]

なお李承燁サムスン・ライオンズ)とは当時からライバル関係で[11]、李は後に日本球界でも読売ジャイアンツ(巨人)に所属して2006年にウッズとセ・リーグ本塁打王を競い合ったが[12]、後に「当時の自分の目標は本塁打王や打点王ではなく『ウッズに勝つこと』だった」と述べている[6]

日本時代[編集]

横浜時代[編集]

2002年12月10日にスティーブ・コックスとともに横浜ベイスターズ監督山下大輔)との入団交渉が合意に達したことが発表された[4]。1年契約で[13]、当時の推定年俸は5,000万円・背番号は44[4]

2003年1月29日には神奈川県横浜市内の球団事務所内でコックスやマット・ホワイトサイドとともに3人で新外国人選手の入団会見に出席した[14]。シーズン開幕前はコックスの控えという位置付けだったが、コックスがキャンプ中に怪我で離脱すると代わって4番に定着し、最終的には100打点には届かなかったもののアレックス・ラミレスヤクルト)とともに40本塁打を放ち本塁打王を獲得した。またKBO・NPBで本塁打王を獲得した史上初の選手となったが、これを達成したのは2019年シーズン終了時点でウッズただ1人である。同年11月13日には前年から倍増となる年俸100万ドル(日本円で約1億1000万円)の1年契約で翌シーズンの契約を締結することに合意した[15]

2004年も45本塁打を放ち、タフィ・ローズ巨人)と分け合う形で2年連続の本塁打王を獲得したほか、打点も100を超え最終的に103打点をマークした。2004年10月8日に米国へ帰国する前に「来季も日本でプレーすることを希望する」とした上で「来シーズンからの2年契約・年俸大幅アップ」を要求したが、球団側は「2年目の契約を解除できる条項を盛り込んだ上でバイアウト方式による2年契約」を提示したため折り合わず、山中正竹球団専務は「現時点では2年契約はない。金銭面も外国人選手に甘すぎるところがあった」としてウッズの要求を受け入れなかったため、交渉が決裂する形となった[16]

結局は高齢・得点圏(チャンス)に弱いことなどから合意に至らず横浜を退団した。その後は中日ドラゴンズに加え、同年オフに主砲ジョージ・アリアスが退団した阪神タイガース[17]などがオファーを寄せていたが、横浜退団が決定的となった直後に『サンケイスポーツ』(産業経済新聞社)は「ウッズは前年(2003年)オフに横浜から中日へ移籍したドミンゴ・グスマンと代理人が同じ」という関係から「移籍先は中日が本命」と報道していた[18]。結局、中日球団(監督:落合博満)の白井文吾オーナー・西川順之助球団社長らは西武ライオンズとの日本シリーズで敗退した直後の2004年11月1日までにウッズの獲得競争に名乗りを上げ[19]、2004年12月2日には球団史上最高額となる年俸5億円・2年契約(総額10億円)でウッズを獲得したことを発表した[20]。中日移籍の背景としてはウッズ自身が「優勝できるチームでプレーしたい」と考えていたことに加え[21]、中日は翌2005年に球団史上初のリーグ連覇・1954年以来51年ぶり2度目の日本一を目指していた一方、レオ・ゴメス(1997年 - 2002年)が退団して以来は長距離打者不在が懸案となっていたことから、課題点の長打力を補強することを目標としており、ウッズと入団交渉を進めて獲得にこぎついた[20]。2004年12月14日には背番号が横浜時代と同じ44番に決まったことが発表された[22]

中日時代[編集]

2005年8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)で観客席の横浜ファンが出した「Money、Kaese!(金返せ)」の挑発的なプラカードに奮起し、来日初の1試合3本塁打を放つ。4番打者として、本塁打王こそ逃したがチーム1位の38本塁打を放ち、2年連続の100打点と初の打率3割も記録。しかし、5月5日の対ヤクルト戦で藤井秀悟の頭部付近への投球(死球ではない)に激怒。右頬を殴って退場処分を受け、さらに10試合出場停止という処分を課された(この2人は、後に和解している)。ウッズの不在が出場停止期間に始まった交流戦で大きく響き、中日もこの年セ・リーグ連覇を逃した。

2006年、来日当初から指摘され続けていた勝負弱さを克服[21]。開幕当初は不振も、自己最多の47本塁打を放ち、2年ぶりの本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献(球団としては、本塁打王は1996年山崎武司、打点王は1994年大豊泰昭以来で、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転後初)。古巣の横浜相手には特に強く、打率.372、本塁打12本を記録。マジック1で迎えた10月10日の対巨人戦では46号先制3ラン、47号満塁本塁打(2試合連続)を放ち7打点を挙げ、西沢道夫の持つシーズン本塁打球団記録(46本)を更新し優勝を決めた。144打点も球団新記録でプロ野球史上歴代6位の記録。北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでも全試合4番を務め、打率は.267(15打数4安打)と悪くはなかったものの本塁打0、打点は0で、日本一にはなれなかった。同年12月19日には優勝旅行先のアメリカ・ラスベガスで契約更改交渉を行い、1年契約・年俸6億円(1億円増)で合意した[23]

2007年、交流戦前まで打率.320など三冠王も狙えるペースだったが、持病の腰痛の影響もあり、打率は徐々に下降。8月16日の対阪神戦で、下柳剛から来日通算200号本塁打を放つなど、本塁打と打点では終盤までタイトルを争ったものの、9月14日の対阪神戦で藤川球児から勝ち越し安打を放って以降は18試合で本塁打1、打点7と精彩を欠き、無冠に終わった。巨人・阪神との三つ巴の優勝争いの時期、ウッズの不振は中日がセ・リーグ連覇を逃した一因にも挙げられた。しかし、この年よりセリーグに導入されたクライマックスシリーズでは、1stステージと2ndステージ合わせて3本塁打を放つなど、勝利に結びつく活躍を何度も見せ、球団史上初の2年連続日本シリーズ進出に大きく貢献した。日本シリーズでは日本一になった第5戦で、この試合の唯一の得点となる平田良介の犠牲フライでホームを踏み、最後の打者となった小谷野栄一の二塁ゴロでウイニングボールを掴んだ。同年オフには残留で基本合意し、2008年1月4日には現状維持の年俸6億円で1年契約を結んだ[24]

2008年交流戦前から調子が上がり始めたが、交流戦後に再び不振に陥り4番を森野将彦西武から移籍した和田一浩に譲り、時にはスタメンを外れた。来日以降6年連続35本塁打以上を記録したものの[1]、打点は来日以降最低の数字に終わった。また同年は得点圏打率.227と勝負弱さが際立ち、チャンスで凡退する場面が何度も見られ、高額な年俸に見合った成績とはいえなかった[1]クライマックスシリーズではチームトップの5本塁打[25]を放ち活躍したが、6億円という高額な年俸に加えて下降した成績で既に39歳で高齢という事情から[26]、2008年11月5日に中日は正式に来季の契約を結ばないことを発表した[1]。同年12月2日付で日本野球機構(NPB)より自由契約選手として公示された[27]

当時の中日打線にはシーズン30本以上の本塁打を打てる打者がウッズ以外にいない状態ではあったが、落合博満監督以下首脳陣はフリーエージェント(FA)選手の獲得・大物新外国人の補強はせず、既存戦力もしくはドミニカ共和国を中心とした将来性のある外国人選手などで「大砲不在」の状況を克服する方針を決めていた[1]。そのウッズの穴埋めとして獲得したのがドミニカ共和国生まれで米国下部リーグ出身のトニ・ブランコ[28]、ブランコは来日1年目の2009年シーズンこそ契約金500万円・年俸3,000万円の1年契約だったが[29]、同シーズンに全試合で4番打者を務め39本塁打・110打点で本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、ウッズの穴を埋める大活躍を果たしたことで同年オフには2年契約・年俸1億7000万円+出来高払い(2年総額約4億6000万円)と大幅な年俸アップを勝ち取った[30]

中日退団後[編集]

一時、「福岡ソフトバンクホークスがウッズの獲得を検討している」と報道されたが、高年俸や高齢であることもあり、実際にはオファーはされなかった。中日スポーツの電話取材では「まだ日本でやりたいという気持ちが強い。他球団からのオファーを待つ」と語っている。また、阪神タイガースが打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役候補としてウッズの名を挙げていたが、球団はクレイグ・ブラゼルと契約したため実現しなかった。

2010年プロ野球シーズン開幕前(3月24日)にテレビ番組収録のため来日して退団後初めてナゴヤドームを訪れ、次代の4番であるトニ・ブランコらを激励した[31]

中日退団後は米国で不動産業を営み、正式な表明をしてはいないが野球選手としては完全に引退状態にある。2010年11月には『中日スポーツ』(中日新聞社)の取材に対し[32]「パ・リーグよりよく知っているセ・リーグの方が力になれる」と語り、セ・リーグ球団(特に中日)からのオファーがあれば検討する意志を示したが[33]、オファーはなく2019年現在に至るまで復帰していない。

人物[編集]

韓国時代から「打撃に起伏がなく大きな短所がない。他の選手と異なり大舞台でも緊張せず普段通りの力が出せる」点に加え、野球に真摯に打ち込む誠実な態度が高く評価されていた[10]

高校時代はアメリカンフットボールをやっていたといい、がっしりとした体つきをしている。

ドレッドロックスが特徴。好物はキムチラーメンもつ鍋

アレックス・カブレラとはメキシカン・リーグ時代からの旧知の仲である。また、李承燁とは韓国時代本塁打王を争っていた。

同じアフリカ系アメリカ人のシェリル夫人と一人の息子がいる。

本塁打を打った後、ホームベース付近で右手拳で胸を2回叩き、顔を上に向け右手人差し指に口づけをする。これは神に感謝するという意味を込めているといわれている。

同じアフリカ系アメリカ人タイガー・ウッズと名前・イニシャルが似ているため、中日入団決定時に中日スポーツ紙で「タイガー・ウッズ選手が中日入団決定」と、名前を間違えて報じられた。一時期は野球選手版「タイガー・ウッズ」と呼ばれていた。誤解を招かないよう、球場のアナウンス、テレビでの呼称ともに単に「ウッズ」ではなく「タイロン・ウッズ」とフルネームで呼んでいる。本塁打を打った時は、その「タイガー・ウッズ」にかけられて、「ナイスショット!!」といわれたこともある。

2003年発売の『週刊ベースボール』の選手名鑑号によると、初めて覚えた日本語は「ミズ、クダサイ」。日本にいる年数が長くなるにつれて日本語も上達してきて、報道陣に会うと「う~す」と挨拶したり、「日本語に直すと私の名前は森ね、筋肉モリモリよ」と冗談を言ったり、ヒーローインタビューで「ソウデスネェ、アノー・・・」と日本語で答えようとすることがあった。

中日に移籍後、その長打力から「巨人の星」に中日の選手として登場してくるアームストロング・オズマに例えられることがあった。ただしオズマは左打ちで、ウッズは右打ちである。

東海ラジオ ガッツナイター』には、2005年はタイトルコールとジングル、2007年からはジングル・ガッツナイタースペシャル(デーゲーム中継など)時のタイトルコールに登場している。

スコアボードの「T.ウッズ」という表記は中日移籍後もそのまま引き継がれた(背ネームは引き継がれず「WOODS」のみ)。応援時のコールも「タイロン」が引き継がれた形だが、これは「ウッズ」がコールしづらいからということもある。

中日のウッズの応援では、応援歌に入る前に私設応援団による入場テーマが演奏され、それのリズムに合わせメガホンダンス(メガホンを振り回した後、レフトとライト方向へ振り向ける。これを2回)、Tコール(3回メガホンを打ち鳴らし、メガホンをT字型に垂直に合わせ"T!"と言う。これを8回。応援によっては最初からここまでを何度も繰り返す)をする応援がある。ちなみに「T」はウッズが中日入団の際、インタビューで「ファンには(ウッズを)何と呼んでほしい?」との問いに答えたものである。原曲はエミネムの『Without Me』。打席に立っている間は、現在の本塁打数だけ背番号と背ネームを模したボードが外野応援席に立てられる(ちなみに入場テーマは愛知県内高校野球の応援でも使われることがある)。

中日移籍後の2005年4月の試合ではユニフォームを忘れたためにブルペンキャッチャーの藤井優志のユニフォームを借りて背番号「97」で試合に臨んだこともあった。

2005年5月5日、対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)、5回裏の打席で顔付近への投球に怒り、更に藤井秀悟から舌を出して挑発をされたと受け取り(藤井は投球時に舌を出す癖がある)、同投手の右頬を殴って退場処分になり、10試合の出場停止と50万円の罰金処分を受けた。これに関しては、2005年4月6日の対ヤクルト戦(神宮)で3番手投手の五十嵐亮太の投球を左手小指に受け、骨折(亀裂骨折で全治6週間と診断)させられていた中でもチームのために出場を続けていた状況下で、同じように前日の対ヤクルト戦で死球を省みない内角高めのコースを攻め続けられた配球に対して怒りを示しており、その変化の無い危険な配球も伏線に繋がったと考えられる(捕手は五十嵐の時と同じ古田敦也)。この時は二塁ベース上の立浪和義らグランドに居た選手が止めたので事なきを得た。出場停止の影響で、その時点で首位を走っていた中日が直後に始まった交流戦で大きく負け越し、この年の優勝を逃す結果となった。ウッズの抜けた穴は大きく、交流戦で連敗している間スポーツ紙には「ウッズ・ショック」の見出しが躍った。なお藤井は2008年3月5日更新の自身のブログにおいて、ウッズとのツーショット写真を掲載し和解している。

2006年6月4日の対楽天戦でフルキャストスタジアム宮城初のエンタイトルツーベースを放った。

2006年のオールスターゲーム中に、ナゴヤ球場での練習中スキンヘッドを披露した。これは残って一緒に練習していたチームメイトから驚かれた。

2007年から東海地区の宅配ピザチェーンアオキーズ・ピザの夏のイメージキャラクターに起用される。2007年は限定メニュー「ドラマヨ」のTVCMに落合監督の息子・福嗣と、翌2008年は同じく「でらうま」のCMで元中日選手の大豊泰昭ドアラと共演。タイロン自身が名古屋弁で「とても美味い」を意味する「でらうめぇがや!!」とセリフを言うシーンもあった。

背番号の44は、少年時代の憧れの選手だったレジー・ジャクソンにちなんだものとされている。一説には1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定にちなんで、という説もあるが詳細は不明。また、在籍した横浜・中日共に退団後の背番号44は小池正晃がいずれも継承している。

2006年は3・4番を組んで以降た福留孝介と共に「FW砲」と中日スポーツで名づけられた事があった。また、和田一浩が移籍してきた2008年は「WW砲」と名づけられた。

2007年に日本一になった際、MLBでは一般的だったチャンピオンリングを作って欲しいと報道陣に語ったことがある。当初は製作予定はなかったが後に球団が製作することとなった。日本では他に2005年千葉ロッテマリーンズが日本一になったのを記念して製作し、選手やスタッフに贈られたことがある。

2007年に放送された『プロ野球握力王決定戦』という企画では右手69.9kgを記録。

ヒーローインタビューは「You know(えっと…)」で話し始めることが多い。

2003年と2004年は横浜、2005年から2008年は中日に在籍し、計6年間日本でプレーし長期離脱することなく6年連続で規定打席に到達した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1998 OB
斗山
126 521 452 77 138 14 1 42 280 103 1 2 0 2 65 5 2 115 13 .305 .393 .619 1.013
1999 124 544 454 90 135 20 0 34 257 101 5 2 0 3 83 8 4 126 14 .297 .406 .566 .972
2000 127 565 479 91 151 22 0 39 290 111 4 1 0 3 77 5 6 132 13 .315 .414 .605 1.020
2001 118 525 436 101 127 16 2 34 249 113 12 3 0 5 83 4 1 114 11 .291 .402 .571 .973
2002 119 469 407 53 104 18 3 25 203 82 5 2 0 7 50 3 5 123 11 .256 .339 .499 .838
2003 横浜 136 551 479 73 131 17 0 40 268 87 2 3 0 4 66 2 2 132 14 .273 .361 .559 .921
2004 130 551 476 84 142 15 0 45 292 103 2 1 0 0 74 8 1 142 16 .298 .394 .613 1.007
2005 中日 135 584 506 92 155 20 0 38 289 103 3 0 0 4 67 3 7 139 24 .306 .392 .571 .963
2006 144 614 523 85 162 29 0 47 332 144 1 2 0 6 84 4 1 151 22 .310 .402 .635 1.037
2007 139 593 466 85 126 16 0 35 247 102 3 1 0 5 121 19 1 153 15 .270 .418 .530 .948
2008 140 573 490 77 135 18 0 35 258 77 0 1 0 2 78 3 3 138 18 .276 .377 .527 .904
KBO:5年 614 2624 2228 412 655 90 6 174 1279 510 27 10 0 20 358 25 18 610 62 .294 .393 .574 .967
NPB:6年 824 3466 2940 496 851 115 0 240 1686 616 11 8 0 21 490 39 15 855 109 .289 .391 .573 .964
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • OB(OBベアーズ)は、1999年に斗山(斗山ベアーズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

NPB
KBO
  • 本塁打王:1回 (1998年)
  • 打点王:2回 (1998年、2001年)

表彰[編集]

NPB
KBO

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 33 (1998年 - 2002年)
  • 44 (2003年 - 2008年)

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 『中日新聞』2008年11月5日朝刊第二運動スポーツ面19頁「プロ野球 中日・ウッズの退団決定 落合監督と3年契約、2度目更新」(中日新聞社)「大砲不在 チーム改造へ第一歩 自前の4番育てる好機に」(記者:村井博美)
  2. ^ a b c 【9月4日】2008年(平20) T・ウッズ、外国人初の6年連続!それでもイヤな予感が…」『Sponichi Annex(スポーツニッポン)』スポーツニッポン新聞社、2009年9月1日(原著2008年9月4日)。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  3. ^ a b c d 金相洙「来シーズンプロ野球外国人選手 とくに懸命なロッテ」『東亜日報』東亜日報社、2002年11月22日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  4. ^ a b c 毎日新聞』2002年12月10日東京朝刊スポーツ面18頁「[プロ野球だより]横浜 2外国人野手との入団交渉が合意」
  5. ^ 『毎日新聞』2002年12月10日大阪朝刊スポーツ面21頁「[プロ野球だより]9日(金額は推定)」
  6. ^ a b c d ファン・ギュイン「ファンが選ぶ歴代最高の外国人選手は「黒熊」ウッズ」『東亜日報』東亜日報社、2016年2月17日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  7. ^ 張桓壽「私が史上最強の傭兵打者」『東亜日報』東亜日報社、2004年6月4日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  8. ^ 中日新聞』1998年10月9日朝刊第一運動スポーツ面33頁「【ソウル・共同通信社】最多本塁打ウッズ 初の外国人MVP 韓国プロ野球」(中日新聞社
  9. ^ 今日、2002韓国プロ野球オールスター戦」『東亜日報』東亜日報社、2002年7月16日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  10. ^ a b 金相洙「「黒熊」ウッズ、優勝を狙う」『東亜日報』東亜日報社、2001年10月26日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  11. ^ キーワードで見た06シーズンの李承鎏」『東亜日報』東亜日報社、2006年10月11日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  12. ^ 李承鎏、本塁打王の夢あきらめる」『東亜日報』東亜日報社、2006年10月9日。2019年8月4日閲覧。, オリジナルの2019年8月4日時点によるアーカイブ。
  13. ^ 『中日新聞』2002年12月10日朝刊第一運動スポーツ面29頁「横浜 現役大リーガー コックスを獲得」(中日新聞社)
  14. ^ 東京新聞』2003年1月30日朝刊第二運動スポーツ面18頁「【横浜】外国人3選手会見」(中日新聞社)
  15. ^ 『中日新聞』2003年11月14日朝刊第二運動スポーツ面24頁「ウッズ倍額 横浜に残留」(中日新聞社)
  16. ^ 『中日新聞』2004年10月9日朝刊第一運動スポーツ面23頁「ウッズ、横浜退団が濃厚」(中日新聞社)
  17. ^ 毎日新聞』2004年12月2日東京朝刊第一スポーツ面17頁「プロ野球:横浜退団のウッズ、中日へ移籍--2年で10億円」(毎日新聞社、記者:仁瓶和弥)
  18. ^ 横浜・ウッズの退団が決定的…複数年契約ならどこでも” (日本語). 産業経済新聞社 (2004年10月9日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月5日閲覧。
  19. ^ 『中日新聞』2004年11月2日朝刊第一運動スポーツ面23頁「ウッズ獲得へ 中日が名乗り」(中日新聞社)
  20. ^ a b 『中日新聞』2004年12月3日朝刊第一運動スポーツ面27頁「本塁打王ウッズ中日入り 球団史上最高年俸5億円・2年契約」(中日新聞社)
  21. ^ a b 『中日新聞』2006年10月11日朝刊第12版第一スポーツ面25頁「球心 ウッズ満塁弾トドメ 『この瞬間のため、呼ばれた』」(記者:西沢智宏)
  22. ^ 『中日新聞』2004年12月15日朝刊第一運動スポーツ面21頁「プロ野球短信 ウッズ背番号は44」(中日新聞社)
  23. ^ 『中日新聞』2006年12月20日朝刊第一運動スポーツ面25頁「プロ野球 中日 ウッズ単年6億円」(中日新聞社)
  24. ^ 『中日新聞』2008年1月5日朝刊第二運動スポーツ面26頁「プロ野球 中日・岩瀬 4億3000万円 1年契約、現役投手で最高年俸」(中日新聞社)
  25. ^ このうちの1本塁打は第1ステージ・阪神戦の第3戦の0-0で迎えた9回に抑えの藤川球児から打った2ラン本塁打でこれが決勝点となった。
  26. ^ 鈴木忠平「落合監督新たに3年契約、ウッズ退団決定」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2008年11月5日。, オリジナルの2019年8月5日時点によるアーカイブ。
  27. ^ 公示 自由契約選手 2008年度” (日本語). 日本野球機構(NPB) (2008年12月2日). 2019年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月5日閲覧。
  28. ^ 『中日新聞』2009年6月9日夕刊E版運動スポーツ面7頁「スポーツが呼んでいる 中日・ブランコ 格安の大砲“大当たり”」(中日新聞社。スポーツライター:藤島大が寄稿)
  29. ^ 『中日新聞』2008年12月16日朝刊第一運動スポーツ面29頁「プロ野球 中日、2外国人と契約 ブランコ内野手、パヤノ投手」(中日新聞社)
  30. ^ 『中日新聞』2009年10月27日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中日 ブランコと2年契約 年報1億7000万円 李は退団へ」(中日新聞社)
  31. ^ 『中日新聞』2010年3月25日朝刊第一運動スポーツ面29頁「脱衣室」(中日新聞社)
  32. ^ あるぞ、ウッズ復帰」『中日スポーツ』中日新聞社、2010年11月9日。2019年8月9日閲覧。, オリジナルの2010年11月11日時点によるアーカイブ。
  33. ^ 東京中日スポーツ』2010年11月9日付1面(中日新聞社)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]