掛布雅之

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掛布 雅之
阪神タイガース 二軍監督 #31
Kakefumasayuki 150829.JPG
2015年8月29日 阪神鳴尾浜球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市中央区
新潟県三条市生まれ)
生年月日 (1955-05-09) 1955年5月9日(61歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手
プロ入り 1973年 ドラフト6位
初出場 1974年4月7日
最終出場 1988年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 阪神タイガース (2016 - )

掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、阪神タイガースの二軍監督である[1]千葉県千葉市中央区出身の元プロ野球選手内野手)。スポーツ報知野球評論家およびスカイ・エー野球解説者であった。2013年10月21日からは、阪神タイガース(阪神)ゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター → 球団本部付育成&打撃コーディネーター(Development Coordinator、略称「DC」)[2]を兼務していた。

新潟県三条市の生まれで、大阪府豊中市在住。阪神の主力選手として活躍した現役時代から、阪神ファンやメディアの間で「(4代目あるいは3代目)ミスタータイガース」と呼ばれることがある。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

母親の実家・三条市で生まれ、生後一年から父親の郷里千葉市で育つ[3][4]。珍しい“掛布”姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかと話している[3]。“雅之”という名前は父親が俳優森雅之の大ファンだったことから名付けられた[3]。父親は戦前、千葉商業の教員を務め、野球部監督として甲子園まであと一歩のところまで進んだが、諸事情で野球とは縁を切っていた[4]。戦後は中国から引き揚げ、職業を変えた後、郷里で料理店を営んだ[4]。実家があった場所は現在、ミスタードーナツ京成千葉中央店となっている。父親は2006年に亡くなった[5]

アマ時代[編集]

幼少期に剣道を始め、警察署での稽古に励んでいたが、小学校時代に防具を買ってもらおうと親にねだったところ拒否され、やむなく辞めている。父親が中学の野球部監督として復帰した時期に、父のもとで野球を始める。この際、父親に利き手を矯正されたとする文献が多いが、実際は矯正はされておらず、本人でも右投げ左打ちになった理由はよく分からないとしている。なお、ペンを持つときは右手、箸を持つときは左手を使用する。[6]

習志野高2年生時には石井好博監督のもと、四番打者、遊撃手として1972年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会決勝で優勝候補筆頭の銚子商と対戦。根本隆投手から先制のきっかけとなる安打を放ち、2-0で快勝。しかし甲子園では1回戦で東洋大姫路高に敗退(東洋大姫路高にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)した。3年生時の1973年夏は県予選準々決勝で、エース古屋英夫を擁する木更津中央に、延長11回の熱戦の末1-2xでサヨナラ負け、甲子園には届かなかった。当時、掛布は竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていたと、2学年下の小川淳司(1975年夏優勝投手)は述べている[7]

同年秋、父親が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルト二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、千葉商の野球部監督経験者の篠田仁にプロ球団への仲介を依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガース安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり、2軍のキャンプに帯同した(事実上の入団テストと言われている)。ドラフト6位指名。契約金500万円、年俸84万円で契約。

プロ野球選手時代[編集]

入団後、1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられる。オープン戦初出場は対南海ホークス戦。掛布と同年の南海ドラフト1位野崎恒男から代打でオープン戦初安打を放つ。オープン戦初スタメンは3月21日の対太平洋クラブライオンズ戦(鳴門球場)。中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番・ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録した。そして3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)では内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が母を亡くして帰郷。再び掛布が代役で8番・三塁手として出場することになり、その試合で4打数4安打の大活躍を見せる。オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍で開幕1軍入りを果たし、高卒1年目にして1軍に定着する。同年のジュニアオールスターにも出場した。高卒新人としての1軍での本塁打は3本で、球団記録の8本(1957年並木輝男)には及ばなかった。

高校時代は遊撃手であったが、当時の阪神では藤田平が不動のレギュラーだったことから、三塁手となる。掛布と同年のドラフト1位である佐野仙好も三塁手であったため、ポジション争いが生じた。1975年に監督に就任した吉田義男は当初、相手が右投手のときには左打者の掛布、左投手のときには右打者の佐野と起用を分けたが、やがて掛布が正三塁手として定着する[8]。佐野は外野手に移った。掛布は、ポジション争いでライバルだと感じたのはこのときの佐野だけだと語っている。1980年早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団し、マスコミが「ポジション争いか?」と騒いだときも、掛布はすでに中心選手としての余裕があり、佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという[9]

1976年王貞治を上回る打率5位に食い込んでブレイクし、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている[10]。さらに翌1977年にも大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初といわれる[要出典]。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1979年には、ミスタータイガースと呼ばれていた田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち、本塁打王となる。同年オフに結婚。しかし、翌1980年は左膝の負傷のために70試合の出場にとどまり、成績も低下した。同年オフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面に出たことがあった[11]。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。

1982年1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として人気を博した(なお、当時は移籍した田淵はミスタータイガースではないとして、掛布が藤村富美男村山実に続く3代目ミスタータイガースと呼ばれていたが、田淵が打撃コーチとして阪神に復帰して以降は、田淵を3代目、掛布を4代目と呼ぶことが増えている)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズ宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。また、吉田監督は日本シリーズ制覇の会見で、日本一になった要因を聞かれた際「ウチには日本一の四番(打者)がいますから」と答えている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキー斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという[12]。5月中旬に復帰するが、11日後には甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日には骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。

1987年は腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての2軍落ちも経験した。同年3月に飲酒運転で逮捕され当時オーナーだった久万俊二郎に「大ばか野郎」「欠陥商品」と厳しく断じられた[13]

1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトスワローズ監督の関根潤三からは、将来は阪神に戻ってもよいという条件で誘われた[14]横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われた。長嶋茂雄からは「一年間2軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあった[14]。しかし、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞[14]。引退試合のあとコーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている[14]

引退後[編集]

引退後は1989年から報知新聞の解説者、1989年から2008年まで日本テレビ読売テレビの解説者、2009年からはMBSラジオの解説者(2009年のみゲスト解説、2010年から専属)、2013年から2015年まではスカイ・エーの解説者を務めた。

2013年までは、アメリカマイナーリーグの臨時コーチを務めただけで、プロ野球を本格的に指導した経験はなかった。東北楽天ゴールデンイーグルスの発足当初(2004年秋)には監督の就任要請を受けたが[15]辞退。結果として、田尾安志が監督に就任した。掛布自身は後に、球団オーナーの三木谷浩史と会談していたことを告白。自身が望む監督像をめぐって、経営上の収益が出せることを強く求めた三木谷との間で意見が食い違ったことを、辞退の原因に挙げている[16]。また、出身地の千葉市に本拠地を置く千葉ロッテマリーンズのオーナー代行とも一度話したことがあったが、「野球観が合わない」との理由で物別れに終わったという[17]

指導者としての活動[編集]

2013年10月21日には、阪神球団からの発表で、掛布が新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが判明[18]。掛布は、現役引退から25年振りに阪神へ復帰するとともに、同年11月の秋季キャンプから打撃や内野守備の指導を始めた。ただし、DCは非常勤扱い・背番号およびベンチ登録なしの特別職であるため[19]、就任後も野球解説者・評論家としての活動を継続。また、契約上ユニフォームのうちズボンの着用しか認められなかったことから、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを上着に用いていた[20]

なお、現役引退当時のコーチでもあったゼネラルマネジャーの中村が2015年9月23日に急逝したことから、球団では同年10月1日付の人事異動で当面の間ゼネラルマネジャー職を廃止。この廃止を機に、掛布の役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」に変更した[21]

しかし、「掛布さんとは野球観が合う」という金本知憲[22]がその直後から一軍監督へ就任したことを受けて、球団社長の南信男が掛布に二軍監督への就任を要請。10月21日には、DCの立場でフェニックスリーグに帯同していた掛布が、前日(20日)にこの要請を受諾したことが一部で報じられた[23]

阪神球団では、2015年同月26日に、掛布を二軍監督として正式に契約[1]。翌27日には、二軍監督へ就任することや、現役時代と同じ背番号31を着用することを正式に発表した[24]。掛布が阪神のユニフォームを正式に着用するのは、現役引退以来27年振り。阪神の選手や首脳陣が背番号31を着用するのは、林威助外野手の退団(2013年)以来2年振りである。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

若手の時期はどちらかといえば中距離打者であった。しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による肉体改造と打法の改良に取り組み、強靱な体と長距離打者としての打法を身に付けることで打球をスタンドまで叩き込んだのである。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている[25]。甲子園球場で本塁打を量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへ本塁打を量産する独特の芸術的な流し打ちを身に付けた[26]。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。

本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた[25]。ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(現役時代の最高記録)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという[27]。掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。(1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかなという思いが今でも強い」という[27]

セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球 審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として掛布を高く評価している。特に打撃面では、掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えたと証言している。これは、掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないかと推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。

投手の癖を観察して球種を判断することを途中からしなくなった。これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている[28]

江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている[29]。しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた[29]。引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている[12]

手首の保護目的でリストバンドを着用してプレーした野球選手は、掛布が初めてである。一方、父親の教えもあり、バッティンググローブを使用せず素手でバットを持つことに引退までこだわり続けた。ただし守備時はグラブの下に手袋をはめており、バッティングの際はその手袋を尻ポケットに入れていた。その様子がサルのしっぽに似ているとやくみつるが漫画のネタにしたことがある。現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となった。

プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦から第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。現役最終年の1988年4月26日にはプロ時代唯一のランニングホームランを記録している[30]

守備[編集]

守備については、現役時代にダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。これに関して、プロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している[31]。吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れたりした一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している[32]

好敵手・江川卓[編集]

高校時代、練習試合で作新学院と対戦する機会があったが、江川が登板する前に掛布は死球を受けて交代したため、直接の対戦はなかった。もしこのとき打席に立っていたらトラウマになってプロ入り後も打てなかったのではないか、と掛布は語っている[33]。プロ入り後、ある時期まで江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという[34]。また、一度だけ江川が掛布を敬遠したとき(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速かったという[35]。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

掛布は江川について「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれた唯一の投手」という評価をしている[36]。また、お互いが相手との対戦が自身の調子を測る「バロメーター」となっていたことを認めている[37]

人物[編集]

人物像[編集]

酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして知られる。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れていたほどである。現役時代は車内が「一人になれる空間」として大事で、独身時代にはガレージの車にしばらく座って合宿所の部屋に戻ることもしていたという。

現役時代には、美津和タイガーが製造・販売する「虎印」ブランドのバットやグラブを愛用。同社のアドバイザリースタッフとして、事あるごとに職人へ細かい注文を出しつつも、野球用品メーカーとしての技術や対応を高く評価していた。1985年には、シーズン前の2月20日に同社が破産した後も、シーズン終了まで「虎印」のバットを使用。その経験から、解説者や阪神のDCに転身してからも、野球道具にこだわりを持つことを若手選手に求めている。ちなみに、DCへの就任直後には、「虎印復活」と銘打った美津和タイガー(破産後新たに設立した会社)の記者発表会へ同席。自身の名を冠した復刻モデルの製造・販売のPRに一役買っていた[38]

現役時代の1985年から、債務処理に関する問題(詳細は後述)が報じられるようになった2009年頃までは、サイドビジネスを手広く展開していた。そのきっかけは、美津和タイガーの破産で再就職先を探す必要に迫られた元社員への一時的な受け皿として、大阪府豊中市にある自宅の近くにスポーツカジュアル用品店の「スポーツハウス・フィールド31」を開いたことにある。ただし、阪神選手としての年俸ではスタッフとして雇用した元社員全員の給料を賄い切れなかったことから、自宅近くの通称「ロマンチック街道」沿いに個人事務所の「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼き店も開いた[39]。広島風お好み焼き店になったのは、プロ入り後初めての広島遠征をきっかけに、本場の広島風お好み焼きを好んだことによるという[40]。なお、一時は京阪電気鉄道天満橋駅付近で「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を営んだほか、「掛布企画」とは別に「掛布」というプロダクション会社を設立。「スポーツハウス・フィールド31」については、スタッフ全員の進路が決まったことを機に閉店している[39]

解説を行う際は選手の名を言うときは語尾に「~君」と敬称を付けることが多いが、外国人選手のときにはそれが付かないことが主[41]。ただ阪神のDCになってからは阪神の選手に関して敬称をつけて呼ばなくなっている。また、「非常にこう」「やはりこの〜」「〜ですね、ええ」などといったフレーズを多用。末尾は「ええ」「はい」で完了することが多い[42]

サイン色紙に常に記す言葉は「いつもあこがれ」である。

人間関係[編集]

2年目の1975年6月に甲子園球場の対ヤクルト戦で、1点ビハインドの6回表2死満塁の場面に三塁ゴロをトンネルし、そこから大量失点を招いて敗れた。試合後、ロッカールームに入れず、扉の前でしゃがみ込んでいたところに先発投手の江夏豊が通りがかり、「なにしてんだ、バカ。気にするな」と声を掛けたという[43]

長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。長嶋は掛布の結婚披露宴で「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。だが、君は千葉の後輩なんだ。悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」とスピーチし、掛布も「長嶋巨人を倒すことが長嶋が最も喜ぶことだ」と考えたという[44]

新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「いつあんなバッティング覚えたんだ」と声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ」と自信がついたという。王とあまり言葉は交わさず、そのときだけ声をかけられた。一方、長嶋茂雄は三塁で「君はいくつなんだ?」などといった声をかけてきたとのこと[45]

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある? あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという[46]

ライバルであった江川卓とは、現役当時はオールスターゲームの際に会話する程度であった[47]。しかし、引退後にともに解説者として仕事をするようになってから親交が深まり、現在は親友の間柄となっている。

現役時代、ともに主力選手であった岡田彰布との間で不仲説やそれぞれの「派閥」があるような記述が当時のスポーツ紙などでみられた。これについて岡田は2008年の著書で、入団後に飲食をともにしなかったことは事実としながらも不仲説は否定しており、そうしたマスコミの記述を「一緒に行かないから=仲が悪いと決めつけられても困る」と批判的に記している[48]。岡田は、掛布の引退試合の際に「後は頼むぞ」と言われたことが、「初めての2人の本音の会話だったかもしれない」と述べている[48]

巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた[7]。3年生時に主将だった掛布は、後輩に厳しく当たる役は阿部の父に「押しつけていた」と後年述べている[7]。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子供の頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

ものまねタレント松村邦洋によくものまねされている。初期の頃は「阪神よりも下半身がいいですねー。」や「昼は解説・夜はワイセツ」といったダジャレに下ネタを織り込んだものまねをしていたため、本人は少々迷惑がっていたが、これをきっかけに親交は深くなった。松村の話によると、自分の家に一般人が平気で訪れたり悪戯電話をかけるなど嫌がらせが絶えなかった時代に、掛布の声で電話があり、はじめは悪戯と思ったが、本物の掛布であることが分かり感動したという。掛布自身もバラエティ番組にゲスト出演した際に様々なタレントから松村の事で突っ込まれており、『いつみても波瀾万丈』にゲスト出演した際に間寛平から「野球中継で顔出ししない時は松村に(替え玉で野球解説を)やらせてみては?」と言われている。

家族[編集]

現夫人は米田哲也に紹介された。

長男は大阪学院大学高等学校から大阪学院大学を経て社会人野球三菱重工神戸で2008年までプレーしていたが、彼がつけていた背番号も31だった。大阪学院大学時代にも、主将を務めた4回生時を除けば、1回生から3回生までは背番号31をつけた(4回生時には主将の慣例で1をつける)。

債務問題[編集]

2009年には週刊誌において、経営していた店舗の不振により多額の負債を抱え、自宅も2008年11月に差し押さえを受けていると報じられた[49]。このことが関係してかは不明ではあるが、2008年いっぱいで長らく担当していた日本テレビ及び読売テレビの野球解説者としての契約を解除された。この債務について、掛布は、債務保証したコンサルタント会社から大阪地方裁判所訴訟を起こされた。掛布は「コンサルタント会社が実質経営していた」と主張したが受け入れられず、同地裁は2009年9月11日に、掛布側全面敗訴の判決を言い渡した[50][51]。2010年3月31日、大阪府豊中市にある自宅を大阪地裁が競売開始を決定。家財道具13点も同時に競売にかけられた。競売申し立ては兵庫県尼崎市の金融機関である。不動産登記簿によると、対象は延べ床面積約600平方メートルで鉄筋4階、地下1階の建物と土地約320平方メートルで、豊中市が同年2月に差し押さえていた。競売の結果、自宅は2011年6月に第三者に売却された[52]

2011年7月27日、実質的に経営している掛布企画が2回目の手形不渡りを出し、銀行取引停止処分になったことが明らかになった(事実上倒産)。負債総額は約4億円に上るという[53]。掛布はその直前のオールスター戦からシーズン終了まで解説者として専属契約していたMBSラジオの『MBSタイガースライブ』への出演を自粛。2012年シーズン開幕時から一度は復帰したが、5月以降再び出演しなくなった。

なお、2013年からはスカイ・エーの野球解説者に転身。『サンテレビボックス席』(サンテレビの阪神戦中継)や『サンデーモーニング』(TBS)にもゲストで出演するなど、阪神の二軍監督へ就任するまで、野球解説者としての活動を続けていた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1974 阪神 83 194 162 13 33 8 0 3 50 16 1 1 0 2 28 0 2 38 3 .204 .325 .309 .633
1975 106 344 317 34 78 15 3 11 132 29 0 0 3 0 22 3 2 68 8 .246 .299 .416 .716
1976 122 469 406 69 132 20 7 27 247 83 5 7 2 3 54 4 4 52 7 .325 .407 .608 1.015
1977 103 439 381 59 126 18 4 23 221 69 4 4 0 6 50 1 2 58 9 .331 .405 .580 .986
1978 129 532 465 73 148 17 2 32 265 102 7 5 0 2 63 7 2 86 5 .318 .400 .570 .970
1979 122 530 468 107 153 20 3 48 323 95 10 4 0 4 58 0 0 61 13 .327 .398 .690 1.088
1980 70 288 258 27 59 7 0 11 99 37 2 1 0 2 26 1 2 47 9 .229 .302 .384 .686
1981 130 549 458 84 156 25 1 23 252 86 1 1 0 4 85 18 2 54 8 .341 .443 .550 .993
1982 130 549 464 79 151 27 0 35 283 95 6 6 0 4 79 16 2 69 11 .325 .423 .610 1.033
1983 130 560 483 72 143 25 2 33 271 93 6 3 0 3 72 8 2 81 5 .296 .388 .561 .949
1984 130 549 442 79 119 14 1 37 246 95 3 2 0 3 102 8 2 83 11 .269 .406 .557 .963
1985 130 579 476 102 143 16 4 40 287 108 3 1 0 6 94 6 3 62 12 .300 .415 .603 1.017
1986 67 285 254 33 64 11 1 9 104 34 0 2 0 3 25 0 3 40 7 .252 .323 .409 .732
1987 106 424 387 33 88 14 3 12 144 45 0 1 0 3 33 2 1 61 9 .227 .288 .372 .660
1988 67 283 252 28 63 13 0 5 91 32 1 0 0 3 28 0 0 37 7 .250 .322 .361 .683
通算:15年 1625 6574 5673 892 1656 250 31 349 3015 1019 49 38 5 48 819 74 29 897 124 .292 .381 .531 .913
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1979年4月21日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に遠藤一彦から左越ソロ ※史上99人目
  • 150本塁打:1980年6月14日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、7回表に山根和夫から2ラン ※史上54人目
  • 200本塁打:1982年7月18日、対広島東洋カープ15回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に山本和男から2ラン ※史上37人目
  • 1000本安打:1982年8月24日、対ヤクルトスワローズ19回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に立野政治から右越ソロ ※史上125人目
  • 1000試合出場:1983年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(阪神甲子園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上233人目
  • 250本塁打:1984年4月12日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に門田富昭から左中間ソロ ※史上21人目
  • 300本塁打:1985年6月23日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(横浜スタジアム)、7回表に広瀬新太郎から右越ソロ ※史上17人目
  • 1500本安打:1986年8月19日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(横浜スタジアム)、6回表に遠藤一彦から左越二塁打 ※史上51人目
  • 1500試合出場:1987年7月18日、対中日ドラゴンズ16回戦(阪神甲子園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上85人目
  • 1000打点:1988年5月24日、対ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)、2回表に梶間健一から2点適時二塁打 ※史上19人目
  • 3000塁打:1988年6月18日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に欠端光則から中前安打 ※史上28人目
その他の記録
  • 1イニング2本塁打:1982年8月24日、対ヤクルトスワローズ19回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に立野政治から右越ソロ、井原慎一朗から右越3ラン ※史上9人目(10度目)
  • 4打数連続本塁打 (1978年8月31日 - 9月1日) ※日本タイ記録
  • 10打席連続四球 (1984年10月3日 - 10月5日) ※セ・リーグ記録
  • 10打数連続安打 (1981年8月5日 - 8月7日)
  • 12打席連続出塁 (1981年8月5日 - 8月7日)
  • オールスターゲーム出場:10回 (1976年 - 1985年)

背番号[編集]

  • 31 (1974年 - 1988年、2016年 - )
長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われることがあるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。小学館月刊コロコロコミック』に掲載された漫画「掛布選手物語」(たがわ靖之)では掛布の父の教えとされる「人の3倍練習しろ、それで初めて一番になれる」という教訓と上記「長嶋と王の番号」説を兼ねた感動的な説明になっている。掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。また、入団当時の選手名鑑には上田二朗のユニフォームを借り、背番号「16」で写っているものもあった。本人はゲン担ぎで、よく試合前に背番号31にあやかりサーティワンのアイスクリームを食べていたらしい。
サッカーの大黒将志が2005年に初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だったことに「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。ちなみに所属していたガンバ大阪での背番号は岡田彰布のつけていた16であった。
なお1976年オフ、掛布は球団首脳から「背番号を『3』に変更しないか」と打診を受けている。憧れの長嶋と同じ背番号ということで掛布は悩んだが、「入団時にもらった背番号『31』を自分の顔として育てていきたい」として固辞している[54]
2010年5月5日に大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)で開かれた山田雅人のトークショーにゲスト出演した掛布は、山田の「31番を永久欠番にして監督に復帰してほしい」という発言に対して「31番はグラウンドで動いている選手が背中につけて、生きてる方がいいと思う」と返答した[55]。空き番号になっていた阪神のDC時代にも「現役の選手が競争を通じて31番を奪い取って欲しい」という期待を寄せていた[20]が、該当する選手が現れないまま、二軍監督への就任を機に自身で27年振りに着用することになった。

関連情報[編集]

出演番組[編集]

主なゲスト出演[編集]

過去[編集]

[編集]

  • 1977年、遠藤良春が掛布の応援歌「GO!GO!掛布」(作詞・作曲:中山大三郎)を歌い、関西を中心に126万枚の大ヒットとなった[56]。掛布本人も1978年、はらたいらのプロデュースで「掛布と31匹の虫」(作詞:はらたいら、作曲:長戸大幸)を発売したが、こちらはヒットには至らなかった。なお、「掛布と31匹の虫」はオムニバスCD「えっ!あの人がこんな歌を・・・。」(1990年7月21日発売)にも収録されている。

CM[編集]

  • 大日本除虫菊 - 『コックローチS』(1978年 - 1979年)、『金鳥蚊取りマット』(1980年 - 1987年)
プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」という印象が強かった時代に、当初から三枚目的な役どころとして起用され、好感度を上げた。しかし、1980年に放映された同CMでは「これで安心して眠れるなぁ」と三塁ベース上で居眠りする場面があった。

テレビゲーム[編集]

漫画作品[編集]

なお、飛雄馬と掛布には「少年時代から高校まで父親によって野球漬けの生活を送る」、「プロ入りの際も父親が大きく関わった」、「テスト生として入団後一年目から活躍」という共通点がある。
  • いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』にも長期にわたって登場した。当初は「若トラ」のイメージ通りのスマートな姿であったが、現役晩年には顔や体がいかついデザインに変わっていた。
このほか、水島新司の『野球狂の詩』や、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などにも登場している。後者では千葉県ネタに絡むシーンがあった。

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 阪神掛布2軍監督が契約、金本監督サポートへ意欲 日刊スポーツ 2015年10月26日閲覧
  2. ^ 就任後初めて指導した2013年の秋季キャンプからは、報道各社の申し合わせによって、同年11月4日付の新聞記事から「DC」という略称が使われるようになった。詳細は、同日付の『サンケイスポーツ』記事阪神・掛布氏の呼称「DC」に決定!などを参照。
  3. ^ a b c 『猛虎が吼えた―熱球悲願』P159 - 161
  4. ^ a b c 『豪打爆発!われらが掛布雅之―背番号31はタイガースの宝だ!』講談社、1982年、P50 - 51
  5. ^ 【関西笑談】掛布さん、おやじに投げ飛ばされた「1人で野球はできない」 - 産経デジタルiza(2014年1月22日)
  6. ^ [1]
  7. ^ a b c 掛布雅之×小川淳司 習志野高OB対談 「あの当時“集合”がイヤでしたね」 - 週刊ベースボールONLINE(2016年1月27日)
  8. ^ 吉田によると、当時の一枝修平コーチからの強い勧めがあったという(『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、P161)。
  9. ^ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝2」文藝春秋社
  10. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」文藝春秋社
  11. ^ 『巨人 - 阪神論』では、門田博光との「御堂筋トレード」だったと述べている(同書P180)。掛布はもしトレードが成立したら引退するつもりだったという。
  12. ^ a b 『巨人-阪神論』P127。また1989年に早稲田大学大隈講堂で谷沢健一(元中日)と講演会をした際には「斉藤君の制球力は知っていた。危ないぞ、来るぞ、と分かっていながら避け切れなかったのが残念だ」と語ったが恨みがましい発言はなかった。
  13. ^ 阪神の元名物オーナー久万氏、不振当時の中村勝広監督に「スカタン」デイリースポーツ2013年10月1日配信
  14. ^ a b c d 『巨人 - 阪神論』P133 - 134。
  15. ^ 楽天、掛布氏に監督就任を正式要請 朝日新聞 2004年10月16日
  16. ^ 『巨人-阪神論』P207 - 208。
  17. ^ 『巨人-阪神論』P210。
  18. ^ 掛布雅之氏のGM付育成&打撃コーディネーター就任について阪神タイガース公式サイト 2013年10月21日配信
  19. ^ 前代未聞の超大役!阪神・掛布氏、コーチも“コーチ”する!!(『サンケイスポーツ2013年10月22日付記事)
  20. ^ a b 虎掛布DC「栄光の背番号」後継者の条件(『日刊スポーツ2013年11月5日付記事)
  21. ^ 阪神がGM制廃止 10月1日付の異動で、掛布氏は本部付に(『スポーツニッポン2015年9月30日付記事)
  22. ^ 再建へ金本新監督とタッグ!掛布氏2軍監督就任、28年ぶり縦じま(『スポーツニッポン2015年10月21日付記事)
  23. ^ 掛布DCが阪神2軍監督「断る理由はないからね」(『日刊スポーツ2015年10月21日付記事)
  24. ^ 金本監督背番号6、掛布二軍監督は31/阪神組閣一覧(『日刊スポーツ2015年10月27日付記事)
  25. ^ a b 『巨人 - 阪神論』P87
  26. ^ 『巨人-阪神論』P19。
  27. ^ a b 『巨人-阪神論』P88 - 89。「田淵がもし残っていれば」と思うことが多いとも話している。
  28. ^ 『巨人-阪神論』P58 - 59。
  29. ^ a b 『巨人-阪神論』P69 - 70。ただし江川は同書で「他の人から比べると下手ではない」と述べている。
  30. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」423ページ
  31. ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、P972。
  32. ^ 『牛若丸の履歴書』P162。
  33. ^ 『巨人-阪神論』P44。
  34. ^ 『巨人-阪神論』P74 - p76。ただし、江川が肩を痛めた1983年頃からはその「暗黙の了解」はすでになくなっていたのではないかと両者は語っている。
  35. ^ 『巨人-阪神論』P54 - 56。江川は「おそらく怒っていたと思う」と述べている。
  36. ^ 『巨人-阪神論』P113。
  37. ^ 『巨人-阪神論』P129 - 131。
  38. ^ 「こだわりの強い男」掛布DC 復活、虎印バットに感謝(『スポーツニッポン2013年12月17日付記事)
  39. ^ a b 【田所龍一の球界よもやま話】「掛布監督」阻む“金銭トラブル”の実像はこうだ…誤解でイメージ悪化した「阪神の宝」がタテジマを着る日(「産経ニュースwest2013年6月11日付記事)
  40. ^ 虎党お好み焼き店 元祖へんくつや(『デイリースポーツ2013年9月23日付記事)
  41. ^ 掛布DC 横田に「松井君より上」”. デイリースポーツ (2015年1月25日). 2015年7月18日閲覧。掛布雅之 気になる各球団外国人選手の去就(1)”. アサ芸プラス (2014年10月25日). 2015年7月18日閲覧。他多数、各著書でも散見。
  42. ^ 非常にツライですね~掛布リストラ!ギャラ800万円”. 夕刊フジ (2009年3月13日). 2015年7月18日閲覧。掛布雅之 オリックス好調の理由は盤石の救援陣にあり(2)”. アサ芸プラス (2014年7月20日). 2015年7月18日閲覧。
  43. ^ 【わたしの失敗】プロ野球解説者・掛布雅之さん(2)MSN産経ニュース2007年12月5日。
  44. ^ 『巨人-阪神論』P148 - 149。
  45. ^ 『巨人-阪神論』P141。
  46. ^ 『巨人-阪神論』でもこの電話が事実であると掛布が述べている(同書P149 - 150)。ただし、スランプから脱出したかどうかには触れていない。
  47. ^ 『巨人-阪神論』P96。
  48. ^ a b 岡田彰布『頑固力』角川SSC新書、2008年、P96 - 97。飲食をともにしなかった理由については「やはり気の合う者同士が飲みに行く」からと説明している。
  49. ^ 週刊新潮』2009年5月7・14日号
  50. ^ 掛布さん側会社に1億5300万円賠償命令 産経新聞 2009年9月11日
  51. ^ 掛布雅之さん:大阪地裁 約1億5000万円の返済命令 毎日新聞 2009年9月11日
  52. ^ ミスタータイガース掛布氏倒産、負債4億 日刊スポーツ 2011年7月27日
  53. ^ 掛布雅之さん:経営の会社が2回目の不渡り 負債4億円 毎日新聞 2011年7月27日
  54. ^ プロ野球チームをつくろう!ONLINE2特別インタビュー
  55. ^ 掛布氏、独演会にゲスト出演も競売問題語らずMSN産経ニュース2010年5月6日。
  56. ^ 一ツ橋猛虎会『阪神タイガースへぇ~77連発!!』小学館、2003年、37-38頁。ISBN 4-09-102354-1

関連項目[編集]