小谷正勝

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小谷 正勝
T kotani20140426.jpg
千葉ロッテマリーンズ二軍投手コーチ時代、ロッテ浦和球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 (1945-04-08) 1945年4月8日(76歳)
身長
体重
178 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年5月25日
最終出場 1977年7月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

小谷 正勝(こたに ただかつ、1945年4月8日 - )は、兵庫県明石市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ

現役引退後の1979年からは、セントラル・リーグ関東地区本拠地を置く全3球団(横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズヤクルトスワローズ読売ジャイアンツ[1]や、パシフィック・リーグ千葉ロッテマリーンズで投手コーチを務めた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

兵庫県立明石高等学校卒業後の1964年國學院大学へ進学したが、入学直後の東都大学野球春季1部リーグ戦で、2部への降格に見舞われた。在学中には1部への返り咲きに至らなかったものの、本格派の右腕投手として高く評価されていた。

1967年のNPBドラフト会議1位で、大洋ホエールズからの指名を受けて入団。入団後は、現役を引退するまで、背番号24を一貫して着用した。

プロ入り後[編集]

入団当初は先発・救援の双方でセントラル・リーグ(セ・リーグ)公式戦への登板を重ねていた。3年目の1970年にチーム史上初めてストッパーの役割を任されると、6試合の先発をはさみながら、リーグ最多の53試合登板で防御率2.11を記録。1971年にも、リーグ最多の58試合に登板した。

1971年には、公式戦での通算投球イニング(148回)がセ・リーグの最終規定投球回(130回)を上回っていた。最終規定投球回に到達したシーズンは現役生活でこの年だけだったが、実際には3試合で先発したほか、1試合で完投。また、リーグ4位の防御率2.13と、現役生活で唯一の2桁勝利(11勝)を記録した。さらに、オールスターゲームにセ・リーグの監督推薦選手として出場すると、江夏豊の9者連続奪三振で知られる7月17日の第1戦(西宮球場)に救援投手として生涯唯一の登板を果たした。この試合では、オールセントラルの投手陣が、先発の江夏から渡辺秀武高橋一三水谷寿伸への継投でオールパシフィック打線を無安打に抑えたまま、8回表の1死から小谷にバトンタッチ。小谷も、打者8人を4三振などで無安打に抑えた結果、NPBのオールスターゲーム史上唯一(2020年終了時点)のノーヒットノーランが継投で達成された。

しかし、1971年のシーズン終了後に病院で診察を受けたところ、肝臓が肥大していることが判明。診察した医師から、刺激物・アルコールの摂取と「過激な運動」を禁じられた。試合への登板についてもドクターストップが掛かったものの、小谷は試行錯誤の末に、練習を含めて1日に投げる球数を80球に制限[2]。その影響で、1972年には18試合の登板にとどまったほか、1974年までの3シーズンは白星に見放されていた。また、入団以来1974年までは公式戦で年に1試合は先発していたが、1975年以降は救援へ完全に専念している。

1975年には、36試合の登板で3勝をマーク。8月8日の対中日ドラゴンズ戦(中日スタヂアム)で公式戦初セーブを挙げたことを皮切りに、2つのセーブを記録した。9月15日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では、1 - 1の同点で迎えた延長12回裏に、阪神の三塁走者・末永正昭がホームスチールを敢行。このプレーに慌てた捕手の福嶋久晃が、小谷の投球に飛び付いてホームベース上で捕ったところ、打者の池辺巌と接触してしまった。一連のプレーに対して、審判団と公式記録員は、「小谷のボークによる末永のホームイン」と認定。公認野球規則では捕手に打撃妨害が記録されることになっているにもかかわらず、小谷はサヨナラ負けを喫したばかりか、現役時代で唯一のボークを記録される羽目になった。

1976年にはセ・リーグ公式戦で2勝と2セーブを挙げたものの、登板数は17試合で、入団後最も少なかった。18試合の登板で1勝1敗1セーブを記録した1977年限りで現役を引退。

現役引退後[編集]

横浜大洋ホエールズでスカウト(1978年[3])・二軍投手コーチ(1979年 - 1981年)・一軍投手コーチ(1982年 - 1986年)を務めた。コーチとしては遠藤一彦斉藤明雄の一本立ちなどに尽力したが、古葉竹識の監督招聘に伴うコーチ陣の入れ替えを機に[4]退団した。

1987年から、関根潤三が監督を務めるヤクルトの一軍投手コーチに就任。大洋の一軍投手コーチ時代(1982 - 1984年)の監督でもあった関根からの招聘を受けての移籍だった。これに対して、小谷を失った大洋では投手陣が崩壊したため、大洋の投手陣が球団に対して「小谷コーチを戻して欲しい」との嘆願書を出したとされている。球審から「危険球」とみなされるボールを投げた投手への退場処分規定がセ・リーグに導入された1989年5月31日の対阪神戦(明治神宮野球場)では、ヤクルトのコーチとして、阪神の渡辺伸彦がヤクルトの打者へ2度にわたって危険なボールを投げたシーンをベンチから目撃。中西親志へのブラッシュボールが両チーム入り乱れての乱闘に発展すると、当時現役の選手であった栗山英樹と共に、渡辺を外野まで追い掛け回した。このシーンをとらえた映像は、以降にテレビで放送されたプロ野球関連番組で、「乱闘をめぐる珍プレー」として繰り返し紹介されている。渡辺はこの試合で一軍公式戦に初めて登板していたが、乱闘が収束した後に、同リーグで初めて前述の規定を適用された[5]

1990年に、一軍投手コーチとして大洋に復帰。関根のヤクルト監督退任と、大洋における古葉から須藤豊への監督交代に伴う復帰で、横浜ベイスターズ時代の1995年までコーチを務めた。在任中には斎藤隆[6]三浦大輔盛田幸妃佐々木主浩野村弘樹を一軍の戦力に育て上げた。

1996年からヤクルトに復帰すると、一軍投手コーチ(1996年、1999年2000年)、二軍投手コーチ(1997年1998年)、一軍・二軍巡回投手コーチ(2001年2002年)として、内藤尚行[7]加藤博人[7]鈴木平[7]川崎憲次郎[8]五十嵐亮太石川雅規[9]などの育成に貢献した。

2003年に、一軍投手コーチとして横浜に復帰した。現役時代のチームメイトだった山下大輔の一軍監督就任に伴う復帰だったが、山下が2004年限りで監督を退任すると、自身も再び退団した。

2005年からは、現役時代得意にしていた巨人の二軍投手コーチに就任。投球フォームの修正を通じて内海哲也越智大祐などを一軍でのブレイクに導くかたわら、同年に入団テストを受験した山口鉄也の獲得を球団に進言すると、山口も一軍の戦力に育て上げた。2009年には、ディッキー・ゴンザレスウィルフィン・オビスポも二軍で指導。ゴンザレスはチェンジアップの投げ方の習得、オビスポは投球技術と制球力の向上によって、一軍で大きく飛躍した。オビスポも、同年7月2日の対広島東洋カープ戦(東京ドーム)に先発投手として一軍公式戦初勝利を挙げた直後に、小谷を「感謝したい人」に挙げている。さらに、宮國椋丞が入団した2001年から2001年までは、一軍の投手陣も随時指導。宮國は、小谷からの指導がきっかけで、2012年に一軍公式戦で6勝を挙げた。

2012年には、現場を34年振りに離れて、『日刊スポーツ』で「小谷の指導論」という連載コラムを担当[10]2013年3月23日には、この連載をベースに執筆した自身初の著書『小谷の投球指導論―個性を伸ばす育成術』が日刊スポーツ出版社から刊行された。刊行に先立って、同年からロッテの二軍投手コーチとして現場に復帰[11]西野勇士古谷拓哉の台頭[12]二木康太などの育成[13]唐川侑己の球速アップなどに貢献したことから、球団の内部では「小谷クリニック」との異名を取っていた[14]。当時のエースだった涌井秀章からも技術指導を求められるほど信頼を置かれていた[10]が、2016年のシーズン終了後に自身の希望で退団した[15]

2017年から、巡回投手コーチとして巨人へ6年振りに復帰[16]2019年シーズン中の6月から体調が急激に悪化した[10]ため、同年10月15日に退団を申し入れたところ、球団に受理された[17]

2020年には、日刊スポーツで「小谷の指導論」の執筆を再開。再開後最初のコラム(同年1月31日付紙面の「小谷の指導論~放浪編1」)では、前年9月の検査で大腸がん細胞が見付かったことによって、巨人からの退団や、退団後3ヶ月の入院加療を余儀なくされたことを初めて公表した[10]。その一方で、2021年2月には、前年(2020年)に巨人から戦力外通告を受けていた宮國の「自主キャンプ」に参加。宮國が他球団での現役続行を目指していることを受けて、手術後初めての指導へ踏み切った[18]

選手としての特徴[編集]

セ・リーグ公式戦でシーズン最多登板を記録した時期(1970年・1971年)に「関取」との異名を取るほどのスタミナと、強気な投球で活躍。この時期には「太陽が出ない日があっても、小谷の投げない日はない」とまで言われていたが、後に肝臓肥大の影響で投球数の制限を余儀なくされたこと[2]から、NPBでの実働年数は10年に過ぎなかった。ストッパーの力量を示すセーブについても、現役後期の1974年から公式記録としてNPBに導入されたため、通算で6個にとどまっている。

巨人が「V9」の後期に差し掛かっていた1970年代前半に、巨人打線との対戦成績がとりわけ良かったことから、引退後も「V9時代に救援専門で巨人と対戦した右投手では最強の巨人キラー」と呼ばれている。現に、通算32試合の救援登板で被打率を.180(239打数43安打)、防御率を1.26にとどめていたほか、当時の4番打者・長嶋茂雄を通算打率.182(22打数4安打)に抑え込んでいた[19]。さらに、肝臓の肥大に伴うドクターストップを公然と拒否してからは、後楽園球場での対戦で以下のピッチングによってチームの勝利に貢献している。

  • 1972年4月19日の対戦では、2点リードの6回表無死満塁から救援で登板すると、1点を失いながらも自責点0で9回まで投げ切った。この間の投球数は(自ら制限を課していた)80球をはるかに超えていたが、試合後には、「マウンドに上がれば打者のことしか考えないから、(80球を超えていても)別にどうってことはない。これだけ投げられたら、まあ、いいでしょう」とのコメントを残している[2]
  • 1973年10月1日の対戦では、3点ビハインドの7回裏2死満塁で打席に迎えた長嶋を1ボール2ストライクと追い込んだ後の4球目に、ストレートを外角へ投げ込んだ。ストライクゾーンの境目を狙った1球で、長嶋はこの球を見送ったものの、球審の山本文男は「ボール」と宣告。小谷は激高したあげく、自分でマウンドを降りようとして青田昇監督(当時)になだめられた。気を取り直した小谷が5球目にストレートで内角高めに投げ込んだところ、長嶋はいわゆる「大根斬り」のようなスイングで空振り三振。この1球で逆転のピンチを凌ぐと、チームのリードを保ったまま9回まで投げ切った。ちなみに、試合後には長嶋に対して「『どこでもいいから高めに投げれば手を出してくれる』と思ってはいたが、三振とはねぇ・・・」という捨て台詞を残したが、引退後には長嶋が終身名誉監督を務める巨人にコーチとして延べ10年間在籍している[20]

指導者としての評価[編集]

NPB球団での指導歴が39年に及んだほか、球史に残る投手や主力級の投手を数多く育てたことを背景に、在籍した4球団の関係者から以下のように高く評価されている。小谷自身は、指導で最も苦慮した投手に、ヤクルト時代の石井弘寿、巨人時代の越智、ロッテ時代の田中英祐京都大学硬式野球部から初めて輩出したNPB選手)を挙げている[21]

  • 2020年4月に93歳で永眠した関根は生前、「僕が認める(野球人の)一人が小谷正勝。ピッチングコーチとしてはピカイチで、指導の引き出しがいくらでもあるところがすごい。引き出しが多いから、いろんな選手に『右向け右』をさせられる。しかも、指導がわかりやすい。その選手が一番理解できる言葉で話すから、選手にとってこんなありがたいことはない」という評価を著書[22]に記している。小谷も、「最も強く影響を受けた人物」に関根の名を挙げていて、「『コーチっていうのは"話せる鏡"にならなきゃ駄目なんだ』と言われたことが、長きにわたるコーチ生活の支えになった」と明かしている[23]
    • ニッポン放送のスポーツアナウンサー時代に大洋・ヤクルトの両球団を頻繁に取材していた栗村智は、「1982年に横浜大洋の監督へ就任した関根にとって、小谷は『懐刀』のような存在だった。刀鍛冶が刃こぼれを嫌うように、小谷は投手を育てることが好きで、酷使によって投手を潰すことを嫌っていた。(今日の)横浜(DeNAベイスターズ)の礎を作ったのは小谷さんだったと思う」と述べている[24]
  • 関根のいたヤクルトから横浜へ復帰してからは、1990年の入団以来腰痛に悩まされていた佐々木を、先発からクローザーに転向させた[24]。また、奈良県内の公立高校(大和高田市立高田商業高等学校)からドラフト6位で入団していた三浦には、入団3年目(1994年)の春季キャンプで二段モーションを指導。三浦からの提案によるものだったが、当時の投球動作で見られた欠点(両腕をテークバックからトップの位置へ移動中に頭が背中の方向へ必要以上に反り返る癖)の解消につなかったばかりか、20年以上にわたって現役生活を続けられた[24][25]。ちなみに、三浦は現役最後期の3年間(2014年以降)に一軍投手コーチを兼務。2016年の引退記者会見では、小谷からの「己を知れ」というアドバイスに大きく影響を受けたことを明かしている。
    • 大洋・横浜コーチ時代の正捕手だった谷繁元信は、当時の小谷について「投手陣に最も慕われていたコーチ」と証言。「小谷が1995年に退団した後も、横浜から相談に行く投手が多かったのではないか。そのように推測できるほど、選手個々の全てを把握していた。長所を伸ばしながら短所を修正させる教え方で、投球メカニズムに関する見識も高く、(捕手である自分にも)具体的に指導してくれた」[26]と述べている。
  • ヤクルトへ再び移籍してから指導した川崎は、「入団1年目に小谷さんと出会えたのは良かった。グラウンド上ではほとんど喋らない方だが、調子が落ちている時に(小谷から)ワンポイントアドバイスを受けて、その通りに投げると(調子が)良くなっていた」と記している[27]。五十嵐は、「今の自分があるのは小谷さんのおかげ」として、MLBニューヨーク・メッツへの移籍が決まった際に国際電話で小谷にその旨をいち早く報告。NPB・MLBで通算22年間にわたる現役生活をヤクルトで終えた2020年にも、小谷に対して、丁寧な言葉で引退を伝えたという。小谷は、このような五十嵐を「剛球に加えて、誰からも好かれる人柄の持ち主」として高く評価している[28]
  • 巨人コーチ時代の2019年に8勝を挙げたクリストファー・クリソストモ・メルセデスは、小谷がこの年限りで退団した直後に開かれたスピードアップ賞表彰式に母国のドミニカ共和国から寄せたコメントで、この年夏場の二軍調整中に小谷から受けたアドバイスを紹介。「自分は投球時のテンポが良い方」としながらも、「テンポのいい投手というのは、いわゆる『ちぎっては投げる』ピッチャーではなく、勝負所でベンチもキャッチャーもバックで守っている野手の念じた通りのコースで(相手の打者を)抑えられるピッチャー」と言われたことを噛み締めながら、母国でトレーニングに励んでいることを明かした[29]

現役からの引退直後は横浜大洋球団でスカウトを務めていたが、1年でコーチに転身してからは、「スカウトは『仕入れ屋』であって、スカウトが仕入れた『素材』を『商品』に変えるまで磨き上げることがコーチの仕事」というスタンスで投手の指導に当たっていた。そのため、コーチを務めていた球団では、基本としてスカウトの『仕入れ』(有力投手の視察から獲得までのプロセス)に口を出さなかった。もっとも、巨人二軍投手コーチ時代の2005年には、末次利光スカウト部長(当時)からの依頼で入団テストを視察。横浜と東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストで不合格になっていた山口鉄也がチェンジアップを操りながらストライクを簡単に取っている姿を目にしたことから、山口の獲得を末次に進言している。巨人は、小谷からの進言をきっかけに、この年初めて開かれたNPB育成ドラフト会議1巡目で山口を指名[30]。山口は育成選手として入団すると、支配下選手登録(2007年)やセントラル・リーグ新人王(2008年)などを経て、左のセットアッパーとして球史に名を残した。現役引退後の2020年からは、小谷と同じく、巨人で投手コーチを務めている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1968 大洋 5 1 1 0 0 1 0 -- -- 1.000 56 13.1 10 4 7 0 0 8 0 0 6 5 3.46 1.28
1969 10 3 0 0 0 2 1 -- -- .667 93 20.1 20 1 14 0 2 18 0 0 11 8 3.60 1.67
1970 53 6 0 0 0 4 4 -- -- .500 455 115.0 78 6 36 4 4 85 2 0 32 27 2.11 0.99
1971 58 3 1 0 0 11 9 -- -- .550 578 148.0 91 9 51 4 4 110 1 0 39 35 2.13 0.96
1972 18 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 111 27.0 30 7 8 1 0 22 0 0 15 15 5.00 1.41
1973 37 3 0 0 0 0 3 -- -- .000 270 64.0 53 6 30 2 2 43 0 0 24 23 3.23 1.30
1974 33 1 0 0 0 0 4 -- -- .000 232 54.1 51 9 20 0 3 37 0 0 30 28 4.67 1.31
1975 36 0 0 0 0 3 4 2 -- .429 244 59.2 49 8 26 5 0 44 3 1 21 19 2.85 1.26
1976 17 0 0 0 0 2 0 2 -- 1.000 118 25.0 28 5 17 1 0 10 0 0 17 14 5.04 1.80
1977 18 0 0 0 0 1 1 2 -- .500 101 22.2 20 4 16 2 1 14 1 0 15 13 5.09 1.59
NPB:10年 285 19 2 0 0 24 27 *6 -- .471 2258 549.1 430 59 225 19 16 391 7 1 210 187 3.07 1.19
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す

記録[編集]

初記録
  • 初登板:1968年5月25日、対中日ドラゴンズ6回戦(中日スタヂアム)、5回裏に3番手で救援登板、1回無失点
  • 初奪三振:1968年9月26日、対サンケイアトムズ24回戦(川崎球場)、9回表に加藤俊夫から
  • 初先発・初勝利・初完投勝利:1968年10月15日、対中日ドラゴンズ27回戦(川崎球場)、9回4失点
  • 初セーブ:1975年8月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(中日スタヂアム)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を1失点
その他の記録

背番号[編集]

  • 24 (1968年 - 1977年)
  • 80 (1979年)
  • 84 (1980年 - 1981年、1990年 - 1995年)
  • 76 (1982年 - 1986年)
  • 74 (1987年 - 1989年、2018年)
  • 78 (1996年 - 2002年)
  • 72 (2003年 - 2004年)
  • 81 (2005年)
  • 70 (2006年 - 2011年、2013年 - 2016年)
  • 103 (2017年)
  • 100 (2019年)

著書[編集]

  • 「小谷の投球指導論―個性を伸ばす育成術」(日刊スポーツ出版社2013年3月23日初版刊行、ISBN 978-4817203021) - 刊行の時点でロッテの二軍投手コーチを務めていたため、表紙には、「投手コーチ 34年」というフレーズが肩書代わりに使われている。

脚注[編集]

  1. ^ 巨人、ヤクルト、横浜の3球団でコーチを務めたのは小谷と八木沢荘六の二人のみ
  2. ^ a b c 太陽が出ない日があっても小谷の投げない日はない/週べ回顧1972年編 - 2020年12月21日、週刊ベースボールONLINE
  3. ^ 日刊スポーツ、33年ひと筋名投手コーチ(1)小谷の指導論、2012年1月17日
  4. ^ 古葉は広島時代の腹心的立場のコーチ(寺岡孝小林正之佐野嘉幸・福嶋久晃等。ただし福嶋は現役では大洋在籍がほとんど)・スカウト(木庭教)・マネージャー(中村光良=大洋ではコーチ、等)を大量に入団させ、その皺寄せとして元からのコーチ陣が退団または配置転換を余儀なくされた(出典:ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史Ⅱ』、1992年刊)。小谷が移籍したヤクルトからは伊勢孝夫が広島に移籍している(伊勢は当時の広島監督阿南準郎と、現役時代に近鉄で同僚だったことがある)。
  5. ^ 「日めくりプロ野球」【5月31日】1989年(平元) 騒然!神宮 パリッシュ暴れ、9分後にはセ初の危険球退場 - 2011年5月31日、スポーツニッポン
  6. ^ 相手に恐れられた強打の8番打者 COLUMN by 福嶋 久晃 横浜DeNAベイスターズ
  7. ^ a b c 日刊スポーツ 1989年10月24日7版
  8. ^ 困ったら原点へ DeNA三浦、25年の現役生活の支えとなった恩師の金言 full-count
  9. ^ ロッテ二軍投手コーチに小谷氏招聘 日刊スポーツ
  10. ^ a b c d 「小谷の指導論~放浪編1」名伯楽・小谷正勝氏がん告白「まだ死ねない」 - 2020年1月31日、日刊スポーツ
  11. ^ 小谷正勝氏 二軍投手コーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ 2012年11月6日
  12. ^ 首脳陣インタビュー “COACH'S BOX”小谷正勝二軍投手コーチ・ロッテ - 週刊ベースボール
  13. ^ 愛のムチで“エース候補”が遂に。本気の二木康太はロッテを救うか。 - number
  14. ^ ロッテの重鎮・小谷二軍投手コーチは新聞記者をも育てる名伯楽/球界ここだけの話(12) - サンケイスポーツ 2014年11月28日
  15. ^ 小谷正勝二軍投手コーチの退団について - 2016年10月31日、千葉ロッテマリーンズ
  16. ^ 来季の一、二、三軍コーチングスタッフについて
  17. ^ 【巨人】小谷投手コーチ退団、体調面の不安で…内海ら多くの選手が慕う名伯楽 - 2019年10月15日、スポーツ報知
  18. ^ 元巨人宮国“小谷塾”でガラリと変化「指にかかる」 - 2021年2月1日、日刊スポーツ
  19. ^ 小野俊哉『プロ野球ヒーロー伝説の真実 ~170キロの速球、180メートルの本塁打~』(2011年、扶桑社)第1章 投手編「原辰徳を巨人で支える小谷正勝は右の巨人キラー」
  20. ^ 昭和48年10月1日 “長嶋ボール”の判定にぶち切れて自らマウンドを降りた「伝説の男」 - 2020年2月3日、デイリー新潮
  21. ^ 「小谷の指導論」ロッテ田中英祐は性格見抜いての指導が必要だった - 2020年4月9日、日刊スポーツ
  22. ^ 関根潤三著、いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、ベースボール・マガジン社、2012年、P129-130
  23. ^ 乾坤一筆 - サンケイスポーツ
  24. ^ a b c ベースボールマガジン、2021年 01 月号 特集:横浜大洋ホエールズ マリンブルーの記憶 (ベースボールマガジン別冊新年号)、ニッポン放送ショウアップナイター元担当アナウンサーの横浜大洋回顧録 64頁
  25. ^ 2段モーション プロ中のプロがたどり着いた個性 - 2020年10月31日、日刊スポーツ
  26. ^ ベースボールマガジン、2021年 01 月号 特集:横浜大洋ホエールズ マリンブルーの記憶 (ベースボールマガジン別冊新年号) 、連載 谷繁元信[元大洋・横浜、中日]、仮面の告白、第42回 横浜大洋への郷愁、72頁
  27. ^ 川崎憲次郎著、野村「ID」野球と落合「オレ流」野球、KKロングセラーズ、2012年、P141-142
  28. ^ 小谷氏「誰からも好かれる人柄」ヤクルト五十嵐引退 - 2020年10月12日 日刊スポーツ
  29. ^ 巨人メルセデス スピードアップ賞受賞…恩師の教え - 2019年11月27日、日刊スポーツ
  30. ^ 二宮清純「山口鉄也の成功に見る“人を見る目”」 - 2012年7月6日、現代ビジネス

関連項目[編集]