柏原純一

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柏原 純一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県八代市
生年月日 (1952-06-15) 1952年6月15日(71歳)
身長
体重
179 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手外野手二塁手
プロ入り 1970年 ドラフト8位
初出場 1973年8月9日
最終出場 1988年9月10日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1989 - 1995)
  • 中日ドラゴンズ (1996 - 1997)
  • 阪神タイガース (1999 - 2001)
  • 北海道日本ハムファイターズ (2014 - 2015)
柏原 純一
YouTube
チャンネル
活動期間 2021年5月5日 -
ジャンル 野球
総再生回数 14,545回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2021年10月3日時点。
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柏原 純一(かしわばら じゅんいち、1952年6月15日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ解説者評論家YouTuber

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

実家はイグサ農家で、母親は代用教員をしていたという家庭だった[1]。4人きょうだいの第3子(姉、兄、妹がいる)[1]八代東高校では3年次の1970年春の選抜にエースとして出場。1回戦で日大三高の渡部良克(日大)と投げ合うも0-2で完封負けを喫した。同年の夏の甲子園県予選では、準々決勝で熊本一工に延長15回の末、敗退した。

プロ入り後[編集]

同年のドラフト南海ホークスから8位指名を受け、外野手として入団。その年の秋季キャンプではのようなダブダブのジャージ姿で現れ、当時評論家として視察に来ていた青田昇に「あれは本当に野球選手か。早く地元に帰したらどうか」と酷評されたが、2年後一軍のレギュラーとなり、大洋の監督に就任した青田の前に野村克也選手兼任監督が柏原を連れて行った。「プロに二軍があるとは知らなかった」というほど、何も知らずに大阪へ来たという。

1973年に一軍に上がり、内野手に転向。

1974年には藤原満と併用され、三塁手として54試合に先発出場するが、ドン・ブレイザーヘッドコーチに失格の烙印を押される。

1975年からは一塁手に回る。

1976年にはレギュラーを獲得して規定打席(22位、打率.260)にも達した。

1977年に連続して2桁本塁打を打ち、南海のホープとして期待される。南海時代、ボサボサ頭で、合宿所の畳部屋に一升瓶と共に寝転がっていた姿を見た漫画家の水島新司が、柏原のその風貌を「あぶさん」のモデルの一人にした[2][3]。柏原は、1977年シーズン途中での野村の解任に際して球団に反旗を翻し、「ロッテじゃなければ引退する」などといった発言まで出して野村と同じロッテオリオンズへの移籍を直訴したが認められなかった[4]

1978年小田義人杉田久雄との交換トレードで日本ハムファイターズへの移籍が決定する。南海、日本ハムの両球団が対象選手の統一契約書のみの交換でトレードを成立(本人の合意を取り付けないままの書類上による強制トレード:プロ野球史上2例目)させたため、任意引退を覚悟した上で柏原も移籍を拒絶したが、野村夫妻に説得されるなどして最終的には承諾、移籍した[2]。日本ハムでは移籍1年目から4番を任され、全試合に出場して共にリーグ5位の24本塁打、84打点と自身最高の成績を記録し、11年ぶりのAクラス入りに貢献した。

1980年から1984年にかけて5年連続全試合出場を果たし、1980年には自己最高の34本塁打(リーグ7位)、96打点(リーグ5位)を記録。選手会長を務めた1981年には打率.310(リーグ8位)、16本塁打、81打点の成績を挙げ19年ぶりのリーグ優勝に貢献する。巨人との日本シリーズでは、19打数8安打2打点2本塁打と活躍した。

1980年6月首都高速道路を走行中に衝突事故を目撃し持っていたバットでドアガラスを割り、事故車両に閉じこめられていた負傷者らを救出した[5]

1981年7月19日西武ライオンズ戦(平和台)では、永射保から敬遠球を大根斬りしたような打法で本塁打を放った。柏原ばかりがクローズアップされる敬遠からの本塁打ではあるが、最初から本塁打を狙っていたわけではなく、きっかけには柏原の同僚だったトニー・ソレイタの存在が関わっていた。その場面は6回裏2死三塁、打者が柏原で、次打者のソレイタが永射を大の苦手としており[6]、西武ベンチは空いていた一塁を埋めるために柏原を敬遠してソレイタで抑える作戦で考えていたが、永射と捕手の吉本博はベンチの指示に従い、永射は立ち上がっていた吉本に1球目と2球目は外角への投球をしていた。「本塁打狙いより三遊間を抜ける安打を打てば1点は入るだろう」と事前に考えていた柏原が「永射の敬遠球が内角に来たら打ってやろう」と思い、永射の3球目が甘くなり内角気味に来たところ、バットをグリップエンドからしっかり握って思い切り振り込んだ結果、打球がバットの真芯に当たり左中間方向に大きく飛び、外野のフェンスを越えてスタンドに入ってそのまま本塁打となった。これは2017年12月2日NHK BS1球辞苑」で敬遠がテーマになった際、出演した柏原がこの本塁打についていろいろと語っていて、失敗をするリスクはなかったとも語っていた[7]。この経験は後に阪神タイガースで指導した新庄剛志にも生かされた[8][9]。ただ、2018年から日本プロ野球でも申告敬遠のルールが適用されているため、敬遠球を本塁打にしたプロ野球選手は巨人の長嶋茂雄[10]と唯一、外野スタンドまで打球を飛ばした柏原の2人のみとなる。

1985年に就任した高田繁監督の構想から外れる。

1986年に阪神に金銭トレードで移籍。同年は主に左翼手として起用されるが、シーズン終盤には掛布雅之の故障離脱に伴い三塁手もこなした。規定打席には届かなかったが打率.313、17本塁打を記録。

1987年は打撃が低迷。

1988年には村山実監督による若手への世代交代策によって出場機会も減少[11]。同年引退。引退を判断したのはランディ・バースの守備固めで一塁で1試合2失策を記録し、守備には自負があったからこれがこたえ限界だと思って自分で判断したと述べている[12]

現役引退後[編集]

引退後は阪神で一軍守備・走塁コーチ(1989年)→二軍打撃コーチ(1990年 - 1995年)を務め、在任中は新庄を育て、亀山努を1軍に送り出したが[12]、解任[13]

阪神退団後は阪神コーチで一緒だった島野育夫ヘッドコーチに声掛けで[12]中日ドラゴンズ一軍打撃コーチ(1996年 - 1997年)を務め、本拠地のナゴヤ球場最終年とナゴヤドーム元年に在任をしていたが、狭いナゴヤ球場から広くなったナゴヤドームに移転してからのチーム打率・得点がリーグ最下位、安打もリーグ5位と成績が前年より低迷をしてしまい、その責任を取らされる形で退団。

中日退団後は朝日放送テレビ朝日放送ラジオサンテレビ野球解説者(1998年)を経て、1999年から2001年まではかつての恩師である野村に請われ、古巣・阪神の一軍打撃コーチを務めたが、3年連続チーム打率・得点がリーグ最下位に低迷。2001年10月8日解任[14]。当時球団社長の野崎勝義によると「打撃担当の柏原コーチが外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気選手の新庄選手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」と語り、当時オーナーの久万俊二郎も「打撃コーチは能力的に無理なのではないか?」と指導力を問題視された[15]

阪神退団後はTigers-ai野球解説者・サンケイスポーツ(関西版)野球評論家(2002年 - 2003年)を経て、2004年に日本ハムチーム強化部プロスカウトに就任。2006年よりアマ担当「西日本統括スカウト」となり、2014年からは一軍打撃コーチとして13年ぶりに現場復帰[16]。自身29年ぶりにファイターズのユニフォームに袖を通すこととなり、大谷翔平を指導し[12]2015年10月13日に退任が決まり、2016年からはチーム統轄本部プロスカウトに就任[17]2017年12月27日に日本ハムから同シーズン限りでの退団が発表され[18]2018年からは北海道テレビGAORA野球解説者。

人物[編集]

南海時代、ナイター前の休息時に大阪にある自宅マンションの近所の小学生達に請われてキャッチボールや簡単な野球の指導もした。夕方になり辺りが暗くなった際には、自宅にその近所の子供達を呼び、柏原の奥さんが作った晩ご飯を振る舞った。

日本ハム時代には、ブラザーの電子レンジのCMに夫婦で出演したことがある。掛布雅之も著書の中で、「安芸キャンプの宿舎のロビーにいた美人を大野久がナンパしようとしたところ、『いつもお世話になっています。柏原の妻です』と挨拶され、慌てて逃げた」というエピソードを紹介している。

日本ハム在籍当時はまだトランペットを使う応援がなく、笛を使った応援がされていたが柏原のみリズムの異なる「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった。柏原の阪神移籍後、トランペット応援が主流でありながらも、柏原は個人応援歌は作成されずに笛応援が継続されていた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1973 南海 25 70 65 7 18 3 1 1 26 6 2 0 0 0 3 0 2 8 1 .277 .329 .400 .729
1974 82 210 188 24 45 10 1 6 75 21 7 2 0 1 19 3 2 31 2 .239 .314 .399 .713
1975 70 212 186 20 41 3 1 6 64 29 6 6 0 3 20 0 2 14 6 .220 .299 .344 .643
1976 124 487 435 48 113 18 4 16 187 55 26 7 4 2 40 1 6 59 9 .260 .329 .430 .759
1977 129 507 462 65 118 19 3 18 197 54 12 4 2 2 38 0 3 58 12 .255 .315 .426 .741
1978 日本ハム 130 555 500 72 147 18 4 24 245 84 15 10 0 4 49 3 2 64 12 .294 .357 .490 .847
1979 123 546 487 77 139 18 3 22 229 90 18 2 0 3 54 4 1 47 10 .285 .356 .470 .826
1980 130 578 503 82 133 17 3 34 258 96 8 3 0 4 68 6 3 61 10 .264 .353 .513 .866
1981 130 563 468 92 145 22 3 16 221 81 15 3 1 6 84 3 4 39 11 .310 .415 .472 .887
1982 130 529 470 71 134 22 1 22 224 75 3 4 0 5 50 3 3 41 16 .285 .354 .477 .831
1983 130 557 490 68 138 21 0 26 237 89 6 4 2 7 57 2 1 39 21 .282 .353 .484 .837
1984 130 526 454 67 103 15 1 18 174 68 13 4 0 3 68 3 0 57 16 .227 .326 .383 .709
1985 94 223 185 26 40 5 0 5 60 18 3 0 3 1 32 2 2 19 5 .216 .336 .324 .661
1986 阪神 107 345 310 49 97 20 1 17 170 46 3 2 0 2 31 0 2 49 11 .313 .377 .548 .925
1987 57 100 91 4 16 3 0 1 22 5 1 0 0 0 9 0 0 23 3 .176 .250 .242 .492
1988 51 68 59 3 10 5 0 0 15 1 2 0 1 1 7 1 0 9 1 .169 .254 .254 .508
通算:16年 1642 6076 5353 775 1437 219 26 232 2404 818 140 51 13 44 629 31 33 618 146 .268 .346 .449 .796
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 53 (1971年 - 1974年)
  • 9 (1975年 - 1977年)
  • 6 (1978年 - 1985年)
  • 2 (1986年 - 1988年)
  • 85 (1989年 - 1995年)
  • 75 (1996年 - 1997年)
  • 77 (1999年 - 2001年)
  • 71 (2014年 - 2015年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b スポーツニッポン 2022年3月6日 26面「柏原純一『我が道』(6)」
  2. ^ a b 【11月7日】1985年(昭60) 日本ハム・柏原、名簿に名前なし 100%トレード”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ “「あぶさん」モデルの元南海・柏原純一氏も「BIG BOSSを描いてほしかった」と水島さん惜しむ”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2022年1月17日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/01/17/kiji/20220117s00001000236000c.html 2022年1月17日閲覧。 
  4. ^ スポーツニッポン 2022年3月17日 20面「柏原純一『我が道』(16)」
  5. ^ 山崎武は乳幼児を火事から救出/メモ 2013年12月9日8時3分 日刊スポーツ
  6. ^ 前年の1980年にソレイタの5打席連続本塁打を阻止した時の投手が、左キラーの永射であったこともあり、通算打率が1割台で本塁打が0のソレイタの苦手意識は相当なものであった。
  7. ^ 打たれた永射はその当時は柏原と同僚で後に西武で同僚となる江夏豊にこの本塁打について指摘をされていたという。
  8. ^ サヨナラゲーム#敬遠球をサヨナラ安打」を参照。
  9. ^ 阪神新庄が敬遠球打った!ビックリサヨナラ打/復刻野球 : 日刊スポーツ、2016年6月12日閲覧。
  10. ^ 長嶋の場合は1960年7月17日に大洋戦(後楽園)で敬遠球を打ちランニング本塁打を記録。
  11. ^ 当時同僚だった田尾安志によると「オープン戦の終盤、東京での試合の前にミーティングで、監督が『何とか、この苦境を打開したい』とベテランに意見を求めた。最初に指名された掛布は『監督の考えが選手に伝わりにくい感じがします』と話した。新聞を通じてしか監督の考えを知ることが出来ない状況を述べたものだった。次に柏原さんが『ベテランでも、悪かったら叱って下さい』と言い、3番目に意見を求められた私は『勝つための野球をしてほしいです』と答えたところ、場が静まり返った」とのことだった。(日本経済新聞 2019年2月24日『球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ』より)
  12. ^ a b c d スポーツニッポン2022年3月26日、11版、柏原純一の我が道㉕ 引退と同時、フロリダでコーチ修業
  13. ^ わがままの果ての迷走 「新庄引退」のカラ騒ぎ
  14. ^ 阪神、松井ヘッドら3コーチ解任へ、時事通信2001年10月8日
  15. ^ 野崎勝義著「ダメ虎を変えた!ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年」朝日新聞出版、2011年、P72
  16. ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト|2014コーチングスタッフについて
  17. ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト|コーチ退任のお知らせ
  18. ^ 退団のお知らせ - 北海道日本ハムファイターズ・オフィシャルサイト 2017年12月27日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]