松永浩美
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 | 福岡県北九州市八幡東区 |
| 生年月日 | 1960年9月27日(58歳) |
| 身長 体重 |
180 cm 78 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投両打 |
| ポジション | 三塁手、遊撃手 |
| プロ入り | 1978年 ドラフト外 |
| 初出場 | 1981年5月10日 |
| 最終出場 | 1997年5月4日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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松永 浩美(まつなが ひろみ、1960年9月27日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(内野手)。史上最高のスイッチヒッターと称される[1]。
目次
経歴[編集]
野球を始めるまではサッカー少年であり、ポジションはFWだった。当時の夢は「ワールドカップ出場」だったと1997年に週刊ベースボールにて伝えられたことがある。ニックネームは出身地の玄界灘に因み「玄海マツ」、日本人選手初の左右両打席本塁打を達成した事から「ビックリ松」。
福岡県立小倉工業高等学校では外野手兼控え投手であった。1978年に高校を中退し、ドラフト外で阪急ブレーブスに入団する[2]。しかし、野球協約に触れたため選手登録ができず、練習生兼用具係を経て1979年に支配下選手となった。
持ち味の俊足を生かしてスイッチヒッターに挑戦。1981年に一軍デビューし、打数は少ないものの打率.326を記録。以降、阪急・オリックスにわたってチームの主軸打者として活躍。1985年には38盗塁で盗塁王を獲得。1988年、高沢秀昭との首位打者争いで敬遠作戦に遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球、1試合4敬遠四球(ダブルヘッダーで2試合連続)の日本記録となる。松永は最終打席で、到底届かない敬遠のボールに向かってバットを投げて当てにいくことを3度試みたが、いずれもボールには当たらず三振した。1991年にも.0004差で首位打者を逃した(首位打者はロッテ・平井光親(打率.3144)が獲得)。
左右打席本塁打を日本人では初めて記録した選手である(1982年5月15日、対日本ハムファイターズ戦)。1試合左右打席本塁打は通算6回記録し、現役当時は単独1位記録であった(引退後の2007年、日本ハムのフェルナンド・セギノールが通算7回目の左右打席本塁打を記録し、松永の記録を更新した)。
1993年、V9野球論を展開する土井正三監督との確執[3]もあり、野田浩司とのトレードで阪神タイガースに移籍した。開幕から6打席連続ヒットを打つなど華々しいデビューを飾ったが開幕三戦目に早々に怪我でリタイア。5月頭に復帰したが僅か1ヶ月で二度目の長期離脱。オールスター戦明けに復帰し8月後半には3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立したものの、すでにチームはペナントレースは逸していた。故障でわずか80試合の出場にとどまり11年続いていた規定打席もクリアできなかった。阪神在籍時に一旦は背番号2をつけていたが、1991年~1992年に阪神に在籍していて「スイッチヒッターの先駆け」とも言われた高橋慶彦がケガをして引退したため、縁起が悪いという理由で自分を鬼(02)のように強くと縁起をかつぎ、背番号を02に変更した。0番、00番以外に0で始まる背番号で登録されたのは日本プロ野球の公式戦に出場した選手で唯一(ただし、オレステス・デストラーデが、ユニフォームを忘れてチームスタッフの背番号05のユニフォームを借りて試合に出たことはある)。なお、現在では規定の変更により支配下登録選手は00・0~99番以外はつけられなくなった。
オフに日本球界初のFA権を行使。マスコミから追われる中、「甲子園は幼稚園の砂場」という暴言を吐いたと報じられ、物議を醸した。
1994年より、この第1号FA宣言で福岡ダイエーホークスに移籍し、チームリーダーになった。ダイエーでは移籍1年目に打率.314と結果を残し、翌年にもオールスターゲームに出場したが、その後は怪我や不振で満足のいく成績を挙げることができず、1997年に自由契約を申し入れ、球団側も戦力外と判断したことから容認された。プロでは打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録した。1996年4月27日、対西武3回戦(西武球場)で新谷博から通算200本塁打(プロ野球史上66人目)。同時に全打順本塁打も達成している(史上2人目)。
ダイエー退団後、メジャーリーグベースボールへの挑戦を表明。オークランド・アスレチックスの入団テストを受け、プレシーズンゲームに出場するが、27打席ノーヒットなどの不振で引退することになった。
引退後[編集]
2006年6月、埼玉県三郷市に「松永浩美ベースボールアカデミー」を設立。阪神時代の後輩の鮎川義文(松永が阪神時代に怪我で離脱中代わりに三塁を主に守っていた)と元ヤクルト投手の矢野和哉と共に小・中学生を対象としてプロ野球選手の育成に乗り出した。別冊宝島のインタビューで本人は「プロの選手は完成されているから、興味がない。プロとしてのプライドもあるだろうし。それよりも無限の可能性のある少年の方がいい」などと述べていた[4]が、後に独立リーグのコーチとなる。
2010年12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。
2014年よりBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの野手総合特別コーチに就任。2015年2月、任期満了に伴い退団。以後は「夢グループ野球塾 川越校」の塾長として、鮎川らとともに、小中学生を対象とした後進の指導にあたっている。
「FA騒動」の経緯[編集]
概要[編集]
松永は、阪神タイガースへのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。開幕前の過熱振りはまさに「松永フィーバー」とも言うべき盛り上がりを見せ、関連グッズの数量も他選手をはるかに超えるものだった。さらに、開幕戦は5打数5安打でその過熱振りは頂点に達した。しかし、開幕3戦目で早くも故障して期待を裏切ってしまい、シーズンオフにFA権を行使して福岡ダイエーホークスへ移籍してしまった。松永のFA宣言は日本球界初のものでもあり、全国的な注目を集める話題となった。
FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、FA交渉にもかかわらず阪神球団側から600万円のダウン提示と「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至った[5]。
このFA宣言の直後の記者会見で、松永が阪神からのFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」、「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答える姿や、また自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答える姿が、フジテレビの『プロ野球ニュース』や、NHKなど各局のニュース映像で流された。
これに対し、入団時の松永の言葉とはまるで違うこともあり、次シーズンでの挽回を信じていた阪神ファン達は、球団や関係各所にその真意を求める問い合わせが殺到することとなった。騒ぎが拡大したのを受けて松永は行方をくらまし、故郷の福岡に雲隠れをする。さらにこの「FA宣言第1号」による過熱報道の渦中に、松永が「甲子園は幼稚園の砂場」と発言したとの報道が流れた。
そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。松永自身へのインタビュー[6]によると、そのきっかけは1988年のドラフト最大の目玉だった慶應義塾大学・志村亮の指名拒否騒動だったという。ドラフト外から入団し、練習生から這い上がった松永にとって、ドラフト指名を拒否する者の登場は衝撃的で「そこまでプロ野球に夢がなくなってしまったのか」という危機感から、当時の労働組合事務局長と相談の上、選手会総会にてFA制度導入を提案したという。同時に「出身地である福岡でプレーすることも頭にあった」とも語っている。
「砂場発言」への反論[編集]
現在、「甲子園は幼稚園の砂場」発言は、一部マスコミによる捏造だったとされている。
当時、阪神の野手で盗塁を得意とする選手はほとんどおらず、加えて貧打に泣いて投手陣の防御率も悪かった阪神サイドとしては、せめて相手チームの攻撃力を下げようと、安打性の当たりを弱め、ダッシュが効かないようにするために内野全体を柔らかくしていた。
前年まで二桁盗塁をコンスタントにキープしていた松永は、当時阪神の正遊撃手だった久慈照嘉と相談して「もっと一塁ベースからのランニングエリアを硬くしてほしい」とグラウンドキーパーに要望を出したら「要望で軟らかくしている」と言われたので、誰の要望なのか聞き返したところ平田勝男の要望で軟らかくしたと言われ、「試合に出ない人の要望を聞いてどうするの。柔らかすぎて滑るんだよ」と言ったら、その柔らかさについてグラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問し、松永は「いや、そんなには…」と答えた(その後甲子園は、赤星憲広の入団によって硬めの仕様となっている)。この一連のやりとりが松永のFA宣言当時、一部マスコミによって「松永が『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」と歪曲報道され、火に油を注ぐことになってしまった[7]。
これは、松永の「言いたいことは不満だとしても濁さずハッキリと言う」性格上、阪急在籍時代から記者などのマスコミと発言趣旨の行き違いによるトラブルが頻発し、徐々に一部マスコミの間で松永を問題児・トラブルメーカーとして扱うようになったために起きた騒動である。その結果、松永の様々な発言は大多数がネガティブな物に変換されてしまい、阪急時代からスポーツ新聞を賑わせていた。
FA宣言当時、松永は滞在先のホテルで記者に質問を受けたとされているがこれは誤報である。松永はFA宣言当初、阪神ファンを突き放す発言をしたために、友人から「阪神ファンを逆撫でするような事は言わない方がいい」とアドバイスを受け、夫人を実家に帰らせ、自身は匿名でホテルに宿泊した上で一ヶ月の間新聞記者には全く誰にも会わなかったと断言している。それにもかかわらず、当時の新聞には松永のコメントが連日のように掲載され、「俺は話さなかったのに、これはどういうことなんだ?」とマスコミに対して恐怖を覚えたという[7][6]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1981 | 阪急 オリックス |
73 | 105 | 92 | 15 | 30 | 1 | 1 | 2 | 39 | 15 | 4 | 3 | 1 | 0 | 8 | 0 | 4 | 10 | 4 | .326 | .404 | .424 | .828 |
| 1982 | 128 | 451 | 398 | 58 | 94 | 13 | 4 | 12 | 151 | 44 | 21 | 6 | 11 | 1 | 37 | 2 | 4 | 57 | 9 | .236 | .307 | .379 | .686 | |
| 1983 | 122 | 493 | 427 | 58 | 120 | 23 | 7 | 21 | 220 | 74 | 20 | 13 | 5 | 5 | 49 | 1 | 7 | 40 | 9 | .281 | .361 | .515 | .876 | |
| 1984 | 125 | 525 | 458 | 84 | 142 | 24 | 6 | 19 | 235 | 70 | 21 | 5 | 4 | 3 | 55 | 3 | 5 | 57 | 10 | .310 | .388 | .513 | .901 | |
| 1985 | 130 | 572 | 481 | 94 | 154 | 26 | 1 | 26 | 260 | 87 | 38 | 12 | 1 | 3 | 81 | 6 | 6 | 70 | 8 | .320 | .422 | .541 | .963 | |
| 1986 | 130 | 567 | 492 | 80 | 148 | 31 | 3 | 19 | 242 | 75 | 20 | 9 | 1 | 1 | 70 | 7 | 3 | 88 | 15 | .301 | .390 | .492 | .882 | |
| 1987 | 114 | 444 | 393 | 59 | 114 | 22 | 2 | 11 | 173 | 45 | 9 | 4 | 2 | 1 | 45 | 1 | 3 | 64 | 12 | .290 | .367 | .440 | .807 | |
| 1988 | 130 | 551 | 473 | 78 | 154 | 27 | 3 | 16 | 235 | 77 | 11 | 4 | 0 | 5 | 72 | 16 | 1 | 52 | 13 | .326 | .412 | .497 | .909 | |
| 1989 | 124 | 573 | 470 | 106 | 145 | 30 | 3 | 17 | 232 | 60 | 14 | 6 | 2 | 0 | 96 | 12 | 5 | 78 | 8 | .309 | .431 | .494 | .924 | |
| 1990 | 128 | 602 | 518 | 103 | 147 | 26 | 4 | 21 | 244 | 70 | 26 | 8 | 1 | 2 | 78 | 8 | 3 | 120 | 10 | .284 | .379 | .471 | .850 | |
| 1991 | 130 | 568 | 484 | 74 | 152 | 22 | 10 | 13 | 233 | 76 | 20 | 4 | 1 | 6 | 75 | 4 | 2 | 81 | 11 | .314 | .404 | .481 | .885 | |
| 1992 | 118 | 540 | 473 | 72 | 141 | 34 | 4 | 3 | 192 | 39 | 15 | 6 | 2 | 2 | 62 | 7 | 1 | 70 | 3 | .298 | .379 | .406 | .785 | |
| 1993 | 阪神 | 80 | 339 | 303 | 51 | 89 | 16 | 0 | 8 | 129 | 31 | 3 | 2 | 0 | 4 | 31 | 2 | 1 | 70 | 5 | .294 | .357 | .426 | .783 |
| 1994 | ダイエー | 116 | 541 | 477 | 74 | 150 | 20 | 4 | 8 | 202 | 55 | 8 | 7 | 2 | 2 | 60 | 2 | 0 | 73 | 5 | .314 | .390 | .423 | .813 |
| 1995 | 87 | 363 | 320 | 28 | 76 | 13 | 2 | 3 | 102 | 21 | 5 | 3 | 3 | 1 | 38 | 0 | 1 | 61 | 6 | .238 | .319 | .319 | .638 | |
| 1996 | 66 | 236 | 207 | 19 | 45 | 12 | 1 | 3 | 68 | 13 | 3 | 1 | 5 | 2 | 21 | 0 | 1 | 48 | 3 | .217 | .290 | .329 | .619 | |
| 1997 | 15 | 34 | 24 | 6 | 3 | 1 | 0 | 1 | 7 | 3 | 1 | 1 | 2 | 0 | 8 | 0 | 0 | 7 | 0 | .125 | .344 | .292 | .635 | |
| 通算:17年 | 1816 | 7504 | 6490 | 1059 | 1904 | 341 | 55 | 203 | 2964 | 855 | 239 | 94 | 43 | 38 | 886 | 71 | 47 | 1046 | 131 | .293 | .380 | .457 | .837 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
タイトル[編集]
表彰[編集]
- ベストナイン:5回 (三塁手部門:1988年 - 1991年、1994年)
- ゴールデングラブ賞:4回 (三塁手部門:1984年、1989年、1990年、1994年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1985年 第3戦)
記録[編集]
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1981年5月10日、対近鉄バファローズ前期7回戦(阪急西宮球場)、七番・三塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、4回裏に谷宏明から適時打
- 初本塁打:1981年5月12日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(阪急西宮球場)、3回裏に仁科時成から
- 通算記録
- 100本塁打:1987年4月14日、対西武ライオンズ1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に渡辺久信から ※史上147人目
- 1000安打:1989年5月23日、対日本ハムファイターズ6回戦(阪急西宮球場)、2回裏に津野浩から ※史上154人目
- 1000試合出場:1989年6月17日、対ロッテオリオンズ11回戦(川崎球場)、一番・三塁手として先発出場 ※史上284人目
- 150本塁打:1990年6月5日、対福岡ダイエーホークス8回戦(平和台野球場)、8回表に村田勝喜から ※史上91人目
- 1500試合出場:1993年9月8日、対ヤクルトスワローズ20回戦(阪神甲子園球場)、三番・三塁手として先発出場
- 300二塁打:1994年4月30日、対日本ハムファイターズ2回戦(東京ドーム)、3回表に今関勝から ※史上32人目
- 1000得点:1994年9月18日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表にカズ山本の本塁打で得点 ※史上27人目
- 1000三振:1996年4月14日、対近鉄バファローズ2回戦(福岡ドーム)、5回裏に池上誠一から ※史上22人目
- 200本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上66人目
- その他の記録
- サイクル安打:2回
- 1982年10月8日、対南海ホークス後期13回戦(阪急西宮球場)
- 1991年5月24日、対ロッテオリオンズ6回戦(グリーンスタジアム神戸)
- 3試合連続初回先頭打者本塁打 (1993年8月20日 - 8月22日)
- 11打席連続四球 (1988年10月22日 - 10月23日)
- 13打席連続出塁 (1988年10月22日 - 10月23日)
- 全打順本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上2人目
- 左右打席本塁打 ※史上6人目(日本人選手初)、6度は歴代2位(1位はフェルナンド・セギノールの9度)
| 日付 | 対戦球団 | 球場 | 回 | 打席 | 相手投手 | 回 | 打席 | 相手投手 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1982年5月15日 | 日本ハム前期5回戦 | 阪急西宮球場 | 6回裏 | 左 | 工藤幹夫 | 9回裏 | 右 | 江夏豊 |
| 2 | 1983年9月23日 | 南海21回戦 | 阪急西宮球場 | 3回裏 | 右 | 竹口昭範 | 5回裏 | 左 | 矢野実 |
| 3 | 1985年4月13日 | 近鉄1回戦 | 藤井寺球場 | 2回表 | 右 | 村田辰美 | 8回表 | 左 | 高橋里志 |
| 4 | 1987年10月15日 | 日本ハム25回戦 | 阪急西宮球場 | 2回裏 | 右 | 河野博文 | 9回裏 | 左 | 松浦宏明 |
| 5 | 1990年5月9日 | ロッテオリオンズ3回戦 | 川崎球場 | 2回表 | 左 | 平沼定晴 | 9回表 | 右 | 今野隆裕 |
| 6 | 1990年8月12日 | 福岡ダイエー20回戦 | 山形県野球場 | 1回裏 | 右 | 濱中英次 | 5回裏 | 左 | 高島覚 |
- オールスターゲーム出場:11回 (1983年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1995年)
背番号[編集]
- 87 (1978年)
- 48 (1979年 - 1982年)
- 8 (1983年 - 1992年)
- 2 (1993年 - 同年6月28日)
- 02 (1993年6月29日 - 同年終了)
- 3 (1994年 - 1997年)
- 87 (2014年 - )
出演[編集]
映画[編集]
- ダイヤモンド(オールインエンタテインメント、2013年8月3日公開)[8]
参考文献[編集]
- 『元・阪神』 竹書房、2004年 ISBN 978-4-8124-1665-5
- 「プロ野球スーパースター 引退劇の真実」 宝島社、2008年 ISBN 978-4-7966-6417-2
- 「プロ野球 最後のサムライ」(斉藤直隆) コアマガジン、2005年 ISBN 4877348190
脚注[編集]
- ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P78
- ^ 松永がアルバイトをしていた喫茶店で九州地区担当スカウトである山本公士から入団要請を受けた。
- ^ オリックス本社から出向してきた球団フロントとの確執もあった。
- ^ プロ野球球界からのコーチ打診があったかどうか自体も定かではない
- ^ 「プロ野球トレード大鑑」(ベースボールマガジン社)
- ^ a b 「プロ野球最後のサムライ」(コアマガジン刊)の松永のインタビューより
- ^ a b 「別冊宝島 プロ野球スーパースター 引退劇の真実」(宝島社刊)の松永のインタビューより
- ^ “劇場公開作品|オールイン エンタテインメント”. オールイン エンタテインメント 2017年5月9日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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