福良淳一

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福良 淳一
オリックス・バファローズ 監督 #78
Fukura junichi.jpg
2016年5月17日 こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県東臼杵郡北浦町(現:延岡市
生年月日 (1960-06-28) 1960年6月28日(57歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手
プロ入り 1984年 ドラフト6位
初出場 1985年4月23日
最終出場 1997年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

福良 淳一(ふくら じゅんいち、1960年6月28日 - )は、宮崎県東臼杵郡北浦町(現:延岡市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・コーチ2015年6月2日からオリックス・バファローズ一軍監督代行を担当し、2016年シーズンからは一軍監督に昇格した[1]

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

中学校で野球部に入り本格的に野球を始めた[2]

延岡工業高では2年生の時、1977年秋季九州大会準々決勝に進むが、佐世保工業高白武佳久に抑えられ敗退[2]。在学中の甲子園出場はならなかった。

高校卒業後は、社会人野球大分鉄道管理局に進み6年間プレーした。当時は二塁手を務め、一番や三番打者を任されている[2]1984年都市対抗には新日本製鐵大分に補強され出場。2回戦の三菱重工神戸との対戦では、西村基史新日本製鐵広畑から補強)から本塁打を放つなど中心打者として活躍する。準々決勝に進出したが、この大会に優勝した日産自動車に惜敗した[3]。この時のチームメートに山下和彦がいた。同年のプロ野球ドラフト会議阪急ブレーブスに6位指名されて入団。年俸は360万円(推定)で、当時レギュラーだった福原峰夫の控えとなる事が期待されていた[4]

プロ野球選手時代[編集]

プロ1年目の1985年上田利治監督が課す厳しい練習に音を上げて3日で辞めようかとも考えたが、4月23日の対日本ハム戦で早くも一軍初出場を果たしている[5]。この試合では9回から松永浩美に代わって三塁の守備に就いたが、ファウルフライを落球して1か月ほど起用されなくなった[5]。同年は16打数4安打の成績に終わり、神勝寺での秋季キャンプではコーチの大橋穣からの指導により守備を中心に激しい練習を積んでいる。

2年目の1986年は春季キャンプで猛練習を重ね、オープン戦で好成績を残した[6]。レギュラーの岩本好広が不調だったこともあり、福原峰夫を含めた3人によるポジション争いの末に、二塁手のレギュラーの座を獲得している[6]。同年は122試合に出場して打率.309を記録し、一時は新人王争いで清原和博(西武)の対抗馬の一人に挙げられた[4]。オフには120%増の年俸960万円(推定)で契約を更改している[7]

1988年読売ジャイアンツへ移籍した簑田浩二の後を継ぐ形で背番号が1に変更された。オールスターゲームに初めて出場し[8]、7月30日の対西武戦では山根和夫からサヨナラ満塁本塁打を放った。同月は打率.328、5打点ながらこの本塁打が評価され、自身初の月間MVPを受賞している[9]。またシーズン終盤には9月初旬に3割前後だった打率を約2週間で3割2分台まで急上昇させ、高沢秀昭と松永浩美の首位打者争いに割って入る活躍を見せた[4]。10月初旬の対ロッテ戦で左肩脱臼により戦線離脱し、打率は.320でリーグ3位にとどまったが、自身初のベストナインに選出されている。この活躍が評価されてオフの契約更改で年俸が3,000万円を超え、第一子も同年に生まれるなど公私ともに充実した一年となった[10]

年末に湯布院でオーバーホールをして迎えた1989年は開幕戦で4回表に阿波野秀幸から先制ソロ本塁打を放ち、親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったチーム元年にあって、オリックス第1号本塁打を記録した。この年はオールスターゲームまでチームが首位戦線を走っていたが、7月16日の対近鉄戦で本塁突入の際に山下和彦と激突し、再び左肩を脱臼して1か月ほど戦線離脱した[11]。同年は西武を交えたデッドヒートの末に近鉄が優勝したため、福良にとって悔いの残る一年になったという[6]。翌1990年オープン戦死球を受けて右手首を骨折し、回復を急いで早期にギプスを外して試合に出場したことが原因で同じ箇所をもう一度骨折した。このため同年は出場機会が大きく減り、オフには手首を手術している。

1991年土井正三が監督に就任すると、土井の信頼もあり試合途中で交代させられることが減少し[6]、翌1992年守備率.992を記録。さらに1993年4月28日の対ダイエー戦から1994年7月31日の対西武戦まで、連続守備機会無失策836(刺殺334、補殺502)の日本記録を樹立している[12]。1994年4月13日の対日本ハム戦で篠塚和典白井一幸の持つ当時の日本記録550に並ぶときは意識したが、その後はプレッシャーを感じなかったという[6]。なお記録が途切れたのは西武球場での対西武戦の7回裏で、降雨中断後に星野伸之の投球を清原和博が一二塁間に打ち上げ、これを福良がグラブの真ん中で弾いた。その後一死満塁となった場面でイチローにもエラーが出て一挙6点を奪われて逆転されたが、8回に一番・イチローと二番・福良の連打で同点に追いつき、逆転勝利を収めた。この試合で福良は、記録よりも勝てた事が印象に残っていると後に述べている[6]

またこの年の8月20日に1000試合出場を達成している。福良は疲労性の腰痛が慢性化したほか、打球や死球による打撲も多く鎮痛剤を常用していた[12]が、6年ぶりに打率が3割を超えるなど攻守にわたる活躍で2度目のベストナインを獲得し、年俸も1億円を突破した。翌1995年は6月8日の対日本ハム戦で本塁に突入した際に捕手と激突し、右膝十字靱帯を断裂する大怪我を負った[6]。9月中旬に一軍に復帰したものの、膝が万全でなかったため自身初のリーグ優勝はベンチで迎えている。しかし同年の日本シリーズでは全試合に二番・二塁手として先発出場し、オフにはFA権を取得したが翌年の日本一を目指して迷わず残留を決め[13]、FA宣言した上で再契約金3,000万円、現状維持の年俸1億200万円で再契約している[14]

1996年は膝にブレースを装着したままのプレーが続き、移籍してきた大島公一と併用される形となった。この年から三塁手として起用されることが多くなった。同年の日本シリーズでは三塁手や代打として起用され、念願の日本一となっている。前年との2回の日本シリーズが現役時代最高の思い出だったという[13]1997年は春先からヒザの状態は良かったものの、若返りを目指すチームの方針もあって出場機会が減少。10月10日のグリーンスタジアム神戸最終戦だった対ダイエー戦が福良にとって現役最後の出場となり、代打で安打を放った。さらに中嶋聡小林宏が配球に配慮し、バッテリーの狙い通りの三塁ゴロを福良が処理してゲームセットになっている[13]

現役引退後[編集]

日本ハムコーチ時代(2010年5月13日)

1998年にオリックスの二軍打撃兼内野守備走塁コーチに就任し、1999年に二軍守備走塁コーチ、2000年にスカウトへ転身した。

2005年からは日本ハムのコーチに就任し、2007年には二軍監督を務めている。福良は一軍で通用する選手の育成を第一目標とし、個々の選手指導はコーチの裁量に任せながら手薄な野手の成長などを目指した[15]2008年には一軍ヘッドコーチに就き、2009年からは打撃コーチを兼任。日本ハムの2009年のリーグ優勝に貢献している。2012年にはヘッドコーチへ専念したが、同年のシーズン終了後に日本ハムを退団した。

2013年からはオリックスで一軍ヘッドコーチを務めていた。だが、2015年にはチームが開幕から最下位に低迷し、自力でのパシフィック・リーグ優勝の可能性が消滅した6月2日に一軍の森脇浩司監督が休養に入ったことから一軍監督代行としてシーズン終了まで指揮を執った[16]。森脇監督の退任(8月31日)・シニアアドバイザー就任(9月1日)[17]を受けて、シーズン終盤の10月1日には2016年から一軍監督へ昇格することが球団から発表された[1]。阪急の選手だったことがある人物がオリックスの監督になったのは初の出来事である。また、同球団生え抜きの監督は梶本隆夫以来およそ35年ぶりとなった。ちなみに福良の一軍監督代行期間中のチーム成績は、89試合42勝46敗1分けでレギュラーシーズンを5位で終えている。翌2016年は現役時代から親交のあった同郷の西村徳文をヘッドコーチとして招聘[18]、成績は4年ぶりの最下位に終わった。 監督代行に就任後、試合前のスターティングラインナップ発表後に歌われる選手応援歌(1-9)の最後に福良の現役時代の応援歌(後段は「花の子ルンルン」OPの替え歌)が歌われるようになっている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 阪急
オリックス
37 19 16 3 4 0 0 0 4 1 1 0 0 0 3 0 0 1 0 .250 .368 .250 .618
1986 122 468 404 68 125 23 4 12 192 44 14 5 11 2 36 1 15 43 12 .309 .385 .475 .860
1987 130 536 463 58 122 23 1 8 171 40 12 1 14 2 45 0 12 49 12 .263 .343 .369 .712
1988 110 483 410 74 131 17 2 7 173 33 12 4 15 4 49 0 5 31 8 .320 .395 .422 .817
1989 115 498 394 61 102 16 0 8 142 47 8 7 29 4 62 0 9 39 9 .259 .369 .360 .729
1990 53 140 114 13 24 4 1 1 33 11 7 3 6 1 16 0 3 12 3 .211 .321 .289 .610
1991 104 433 355 53 97 13 1 2 118 26 15 7 22 6 43 1 7 24 5 .273 .358 .332 .690
1992 114 492 409 57 116 16 4 3 149 37 13 5 24 3 50 1 6 52 5 .284 .368 .364 .732
1993 130 555 453 63 121 16 1 2 145 30 20 9 31 3 65 0 3 42 8 .267 .361 .320 .681
1994 114 477 386 49 116 23 1 3 150 50 4 5 33 2 49 0 7 39 5 .301 .387 .389 .776
1995 53 201 162 24 45 3 0 4 60 19 0 1 11 1 23 0 4 14 4 .278 .379 .370 .749
1996 92 348 289 25 82 7 2 0 93 26 0 0 22 5 28 0 4 38 5 .284 .350 .322 .671
1997 66 175 144 14 31 4 0 0 35 8 0 1 6 2 22 0 1 18 7 .215 .320 .243 .563
通算:13年 1240 4825 3999 562 1116 165 17 50 1465 372 106 48 224 35 491 3 76 402 83 .279 .366 .366 .732
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 二塁手連続守備機会無失策804:1993年4月28日 - 1994年7月31日 ※日本記録
  • オールスターゲーム出場:1回 (1988年)

背番号[編集]

  • 51 (1985年 - 1987年)
  • 1 (1988年 - 1997年)
  • 85 (1998年 - 2000年)
  • 78 (2005年 - )

通算監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2015年 オリックス 5位 89 42 46 1 .477 30.0 94 .249 3.59 55歳
2016年 オリックス 6位 143 57 83 3 .407 30.0 84 .253 4.18 56歳
2017年 オリックス 4位 143 63 79 1 .444 15.0 127 .251 3.81 57歳
通算:2年 375 162 208 5 .478 Aクラス0回、Bクラス3回

※2015年森脇監督休養のため監督代行(6月2日から閉幕まで)

脚注[編集]

  1. ^ a b “オリックス、福良代行が監督昇格 2軍監督に田口氏”. 日刊スポーツ. (2015年10月1日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1546634.html 2015年11月9日閲覧。 
  2. ^ a b c 週刊ベースボール 1997, p. 46.
  3. ^ 『都市対抗野球大会60年史』 日本野球連盟毎日新聞社 編、毎日新聞社、1990年[要ページ番号]
  4. ^ a b c Number 1989, p. 38.
  5. ^ a b 週刊ベースボール 1997, p. 47.
  6. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール 1997, p. 48.
  7. ^ 読売新聞、1986年12月2日付朝刊、P.17
  8. ^ 当時のパリーグ二塁手は辻発彦大石大二郎でほぼ決まりだった。また、阪急最後の年であり西宮球場で開催される最後のオールスターでもあった。
  9. ^ 読売新聞、1988年8月7日付朝刊、P.19
  10. ^ 『週刊ベースボール』1989年1月16日号、ベースボール・マガジン社、1989年、 57頁。
  11. ^ 読売新聞、1989年7月17日付朝刊、P.19
  12. ^ a b 週刊ベースボール 2001, p. 29.
  13. ^ a b c 週刊ベースボール 1997, p. 49.
  14. ^ 読売新聞、1995年11月1日、P.21
  15. ^ 『週刊ベースボール』2008年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2008年、 76頁。
  16. ^ 森脇浩司監督休養のお知らせ”. オリックス・バファローズ球団公式サイト (2015年6月2日). 2015年11月9日閲覧。
  17. ^ “オリックス森脇監督が退任、シニアアドバイザー就任”. 日刊スポーツ. (2015年8月27日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1529223.html 2015年11月9日閲覧。 
  18. ^ “オリックス来季スタッフ 西村ヘッドらロッテ色強く”. 日刊スポーツ. (2015年10月16日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1553414.html 2015年10月16日閲覧。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]