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フェルナンド・セギノール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェルナンド・セギノール
Fernando Seguignol
オリックス時代
(2010年7月4日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 ボカス・デル・トーロ県
生年月日 (1975-01-19) 1975年1月19日(51歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手指名打者
プロ入り 1993年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1998年9月5日
NPB / 2002年3月30日
最終出場 MLB / 2003年9月28日
NPB / 2010年7月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

フェルナンド・アルフレド・セギノール・ガルシアFernando Alfredo Seguignol Garcia , 1975年1月19日 - )は、パナマ出身の元プロ野球選手内野手)。右投両打。

NPBにおける通算左右打席本塁打世界記録保持者(9回)。

経歴

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ヤンキース傘下・エクスポズ時代

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1993年にニューヨーク・ヤンキースにドラフト外入団[1]、ヤンキース傘下のマイナーAAA級モントリオール・エクスポズなどでプレーした[2]1998年から2001年までの4年間でメジャー通算172試合に出場し[2]、通算で打率.251、17本塁打、40打点という成績を残していた[1]

オリックス時代

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2001年11月13日にNPBオリックス・ブルーウェーブがセギノールの身分照会を行い[1]、同年12月21日に獲得を発表した[2]。オリックスはその数年前からセギノールをリストアップしていたという[1]。また、後に所属することになる日本ハムファイターズもこのころからセギノールへの接触を図っていた[3]

日本プロ野球 (NPB) 1年目の2002年一塁手または指名打者として出場し、2002年5月5日の大阪近鉄バファローズ戦と翌5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で2試合連続左右両打席本塁打を記録、更にこの年の7月26日にもシーズン3度目の左右打席本塁打を達成(ともに日本プロ野球史上初)。8月26日までに打率.204・23本塁打の成績を残していたが同日に不調のため出場選手登録を抹消され[4]、そのまま一軍復帰はならず同年9月21日には球団から戦力外通告を受け、1年で解雇となった[5]

ヤンキース復帰

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2003年はヤンキース傘下の3Aコロンバスに所属して打率.341・28本塁打・87打点の成績を残し[6]、首位打者・本塁打王の2冠王を獲得したほか[7]、メジャー再昇格も果たして松井秀喜のチームメイトとして5試合に出場した[6]

北海道日本ハムファイターズの小嶋武士オーナー代行は2003年12月10日までに新外国人としてセギノールをライアン・ループ投手とともに獲得する方針を決め、同月12日以降のウインターミーティングで2人との契約交渉に乗り出した[8]

日本ハム時代

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2004年2月5日に北海道日本ハムファイターズへの入団が発表され、2年ぶりの日本球界復帰となった[7][6]。当時の契約内容は1年契約で推定契約金2,000万円・推定年俸7,000万円+出来高で背番号は5[6]

開幕直後の打率は4割を大きく越え、4月の月間MVPを受賞。打率.305、本塁打44本、打点108で福岡ダイエーホークス松中信彦と同数で本塁打王を獲得し、ベストナイン指名打者部門)にも選ばれた。

2005年は前半戦はいまひとつ調子が上がらず、7月までには16本しか本塁打を打てなかったが、後半戦になると調子を上げ、8・9月だけで15本と本塁打を量産した。前年110三振を記録したが、さらに30個以上多い141三振を喫した。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。

2006年は前半戦に極度の不振に陥り、一時は稲葉篤紀に4番の座を譲ることもあった。本塁打・打点は前年より少なく物足りなかったが、優勝争いを繰り広げていた9月に4割・8本塁打と盛り返し優勝に貢献した。日本シリーズで日本一になった際には歓喜の輪に入りながら人目をはばからず号泣していた(輪の中で同じく泣いていた新庄剛志と慰め合っていた)。日本一のあと一時帰国した際にパスポートが失効していることが判明し、アジアシリーズは出場していない。オフには日本ハム球団が2006年シーズンの契約に契約終了後の優先交渉権を盛り込んでおらず、セギノールの代理人とは契約終了前の11月中には一切連絡が取れない状態だったため、12月1日に日本ハムの支配下を一旦離れフリーエージェント自由契約)となった。日本ハム側はそれ以後も残留に向けた交渉を行い、他球団からのオファーも無く、2007年に入ってから金銭及び契約年数で双方の歩み寄りがあり、再契約を結んだ。

2007年はシーズン通して不振で調子が上がらず打率.249・本塁打21本と低調な成績に終わった。日本シリーズでは打率.333を記録、2本塁打を放つも、2億6,800万円と言う高年俸もネックとなり、来季の契約更改は行わない方針を球団が掲げ、この年限りで退団となった。その後オリックス・バファローズ横浜ベイスターズが興味を示したが、獲得には至らなかった。

ロッキーズ傘下時代

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2008年3月コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結ぶも、開幕直前に戦力外通告される。

メキシコ・DETタイガース傘下時代

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その後、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルタバスコ・キャトルメンを経て、デトロイト・タイガース傘下の3A・トレドでプレー[9]

楽天時代

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同年7月東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。背番号は日本ハム時代と同じ5。楽天の背番号5は2006年9月にエリック・バレントが解雇されて以来、球団と野村克也監督の方針で空き番となっていたため、入団決定と同時に背番号5を貰うことができた。8月にチームに合流してからは、持ち前のパワーを遺憾なく発揮。(打撃のインパクトの瞬間「ハウッ」と雄叫びを上げながら本塁打を打ったことも)9月には月間MVPパ・リーグ打者部門)に輝いた。最終的にはわずか39試合の出場ながら、打率.324・本塁打13本・打点40点の好成績を収めた。12月、球団から2009年シーズンの契約が合意に達したことが発表され、同年も楽天でプレーすることが決まった。

2009年は開幕戦に4番ファーストでスタメン出場。開幕1打席目でダルビッシュ有から両リーグ一番乗りとなる第1号2ランを放ったが、打率が.165と2割にも満たないなど極度の不振が続き、5月24日に一軍登録を抹消された。その後、7月4日に一軍登録されてからは復調し、最終的には打率.253、14本塁打、54打点の成績を残したが、結局、シーズン終了を以って自由契約となり退団。

アトランティックリーグ時代

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2010年からは米国のプロ野球独立リーグアトランティックリーグニューアーク・ベアーズでプレーしていた。

オリックス復帰

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2010年6月3日にオリックス・バファローズと契約。2002年以来、8シーズンぶりに古巣への復帰(ただし球団は合併している)となった[10]。交流戦後の6月18日に一軍登録され、絶好調だった北川博敏に代わり試合に出ていたが、わずか6試合の出場で、打率.130、0本塁打1打点と調整不足を露呈し、6月26日に登録抹消。7月16日に再昇格したが、またも結果は残せず、7月29日に再度登録抹消。その後、一軍に再登録されることはなく、11月11日に自由契約となった。結局オリックスでは前回在籍の2002年を下回る結果に終わった。

アトランティックリーグ復帰

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2011年は、アトランティックリーグランカスター・バーンストーマーズでプレーした。

引退後

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2011年12月、読売ジャイアンツの駐米スカウトに就任[11]。2016年2月からシカゴ・カブスの国際スカウトを務める[12]。2019年からマイアミ・マーリンズ国際スカウト部長を務める。

2016年6月28日の日本ハム対埼玉西武ライオンズ戦の始球式に、稲村亜美の対戦相手として登場。真剣勝負で行われたこの対決では、稲村の投じた102km/hの直球をセンター前に弾き返した[13]

2021年11月2日、埼玉西武ライオンズ国際業務担当(駐米)に就任[14]。2023年時点の役職は国際スカウト(駐米)。

2024年8月12日、エスコンフィールドHOKKAIDOでの日本ハム対埼玉西武ライオンズ戦のファーストピッチセレモニーに登場して投球。その後3回表・裏に解説席に座り、通訳を通じてコメントを提供[15]

選手としての特徴

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2001年オフのオリックス入団時は当時26歳と若く、変化球にも確実に対応できると評されていた[1]

エピソード

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  • 2007年6月19日の広島戦で両打席本塁打を達成したときのバットのモデルはスポーツ用品メーカーではなく、モントリオールの家具メーカーが気まぐれで作ったものだった。素材は硬いメープルで「折れないのがなにより」と1本のバットでシーズンを乗り切ったこともあった[16]
  • 2019年5月23日に古巣日本ハムに所属する杉谷拳士が両打席本塁打を達成した際、「セギノール以来ですよね。これから『スギノール』と呼んでください」とアピールしたことがある[17]。これに関連し、2024年にはホクレン「北海道スポーツ応援メシ」のCMにて杉谷と共演している[18]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1998 MON 1646426114022130001300151.262.304.500.804
1999 35119105142790551100002517331.257.328.486.813
2000 761751622245801083220101903465.278.326.512.838
2001 46545007200950001211174.140.185.180.365
2002 オリックス 893262803957802313447100040461045.204.316.479.795
2003 NYY 5870100010000010030.143.250.143.393
2004 日本ハム 125530443861352404429110801037081411015.305.413.6571.070
2005 1335444897214120031254861101455914112.288.358.519.878
2006 1325404856014337026258770006403911913.295.356.532.888
2007 13454647050117210212016800026511913014.249.350.428.777
2008 楽天 3915713624447013904000011416405.324.408.6621.069
2009 1043613163780180141405410013925838.253.343.443.787
2010 オリックス 113837173001030000001110.189.211.270.481
MLB:5年 1784023664291230171654001052021111411.249.303.451.754
NPB:8年 767304226563697241380172137848332014313345973872.273.360.519.879
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁(1B)左翼(LF)右翼(RF)




































1998 MON 7445031.0008200001.000110001.000
1999 2317211220.9896100001.000310001.000
2000 3014411216.987169020.818148110.900
2001 720323.920771001.000710001.000
2002 オリックス 4232421223.994--
2003 NYY 393001.000--
2004 日本ハム 7660339659.991--
2005 4133326439.989--
2006 18142100161.000--
2007 3930016232.994--
2008 楽天 28198120101.000--
2009 8766643468.994--
MLB 7038933642.9863746120.9592511110.923
NPB 331256616718247.993--

タイトル

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NPB

表彰

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NPB
MiLB

記録

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NPB初記録
NPB節目の記録
両打席本塁打に関する記録
  • 左右打席本塁打通算9度 ※プロ野球最多記録
 日付対戦球団球場打席相手投手打席相手投手
12002年5月5日近鉄7回戦グリーンスタジアム神戸3回小池秀郎6回門倉健
22002年5月6日ロッテ7回戦グリーンスタジアム神戸1回小野晋吾3回川井貴志
32002年7月26日近鉄16回戦大阪ドーム2回前川勝彦6回宮本大輔
42004年5月21日近鉄6回戦東京ドーム1回川尻哲郎3回高木康成
52004年6月29日ロッテ16回戦札幌ドーム2回内竜也4回高木晃次
62006年9月9日オリックス19回戦京セラドーム大阪1回中山慎也2回萩原淳
72007年6月19日広島3回戦広島市民球場3回、6回ジャレッド・フェルナンデス7回横山竜士
82008年8月30日ロッテ19回戦Kスタ宮城5回成瀬善久9回荻野忠寛
92009年8月18日日本ハム16回戦旭川スタルヒン2回八木智哉8回谷元圭介
  • 2試合連続左右打席本塁打:2002年5月5日・6日(上記参照) ※プロ野球史上初
  • 左右打席3打席連続本塁打:2007年6月19日(上記参照)。巨人ロイ・ホワイト1980年6月12日に達成して以来2人目。
  • スイッチヒッターのシーズン最多本塁打:44本塁打(2004年) ※従来記録は1990年西武オレステス・デストラーデの42本塁打
13球団からの本塁打に関する記録
2004年限りで消滅した近鉄を含む13球団からの本塁打は初

背番号

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  • 33 (1998年)
  • 19 (1999年 - 2001年)
  • 55 (2002年)
  • 48 (2003年)
  • 5 (2004年 - 2009年)
  • 59 (2010年)

登場曲

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脚注

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  1. 1 2 3 4 5 BWがエ軍セギノール獲得へ」『Sponichi Annexスポーツニッポン新聞社、2001年11月14日。オリジナルの2001年11月21日時点におけるアーカイブ。
  2. 1 2 3 読売新聞』2001年12月22日東京朝刊スポーツA面21頁「オリックスがエクスポズのセギノール内野手を獲得/プロ野球」
  3. 日本ハム ランドルフ投手獲得へ」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2004年11月15日。オリジナルの2004年11月17日時点におけるアーカイブ。
  4. 『読売新聞』2002年8月27日大阪朝刊スポーツA面25頁「オリックス・セギノールが不調のため二軍落ち/プロ野球」
  5. 『読売新聞』2002年9月22日大阪朝刊スポーツB面18頁「オリックス・セギノール内野手に戦力外通告/プロ野球」
  6. 1 2 3 4 『東京新聞』2004年2月6日朝刊第二運動スポーツ面20頁「日ハム セギノール獲得」
  7. 1 2 『読売新聞』2004年2月6日大阪朝刊スポーツA面27頁「日本ハムがセギノールを獲得/プロ野球」
  8. 『中日新聞』2003年12月11日朝刊第二運動スポーツ面22頁「セギノールを日ハム獲得へ」
  9. https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=seguig001fer
  10. フェルナンド・セギノール選手 獲得のお知らせ”. オリックス・バファローズ (2010年6月3日). 2011年12月22日閲覧。
  11. 元日本ハムのセギノール氏が国際スカウト就任”. 読売ジャイアンツ (2011年12月22日). 2011年12月22日閲覧。
  12. カブスは4人で大谷に熱視線 元ハム・セギノール氏「ダルのよう」”. スポニチ・アネックス (2016年2月10日). 2016年2月13日閲覧。
  13. 稲村亜美102キロ神投球!セギノール氏と真剣勝負 日刊スポーツ、2016年10月27日閲覧。
  14. フェルナンド・セギノール氏 当球団国際業務担当就任のお知らせ”. 埼玉西武ライオンズ (2021年11月2日). 2021年11月2日閲覧。
  15. ファイターズ on GAORA SPORTS”. 2024年8月12日閲覧。
  16. “【6月19日】2007年(平19) さすがセギノール 球界初の記録は“試供品”で決めた。”. スポーツニッポン. スポーツニッポン新聞社. 2008年6月14日. 2019年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2020年8月4日閲覧.
  17. “スギノール”の活躍で脚光 19人しか達成していない「両打席本塁打」”. ベースボールキング. フロムワン. 2019年5月25日. 2020年8月4日閲覧.
  18. 杉谷拳士 [@kenshi.02] (2024年8月20日). “【セギノールとスギノールの共演CM】”. Instagramより2024年9月9日閲覧.

関連項目

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外部リンク

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