住友平

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住友 平
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市阿倍野区
生年月日 (1943-08-17) 1943年8月17日(78歳)
身長
体重
171 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1965年 ドラフト3位
初出場 1966年4月9日
最終出場 1975年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

住友 平(すみとも たいら、1943年8月17日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

浪商高校では3度甲子園に出場。2年次の1960年には1年生エース尾崎行雄を擁し、五番打者、二塁手として夏の選手権に出場したが、2回戦で法政二高柴田勲に完封負けを喫した。3年次の1961年には三番打者として春夏連続出場を果たし、春の選抜では準々決勝でまたも法政二高に敗れるが、1回戦で大会第1号本塁打を記録している。夏の選手権では、準々決勝で中京商山中巽から本塁打を放つなど活躍し、順調に勝ち進む。準決勝で因縁の法政二高を延長11回2-4で破って決勝に進出し、桐蔭高を1-0で降して優勝[1]。高校同期に捕手大塚弥寿男三塁手大熊忠義、2学年下には大学でも後輩となる外野手高田繁がいた。卒業後は1962年明治大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、2年次の1963年春季リーグでベストナイン(二塁手)に選出される。同年秋季リーグの立教2回戦では、走者であった土井正三との接触プレーを巡り、高校同期の前田周治(立大-立正佼成会河合楽器)との乱闘事件を起こす。2年先輩の主将倉島今朝徳が責任を取って出場停止処分を受けるなど大きな不祥事となった。4年次の1965年春季リーグは法大と優勝を争うが惜しくも2位に終わった。大学同期にはエースの村井俊夫(日立製作所)、一塁手米沢武らがいた。

現役時代[編集]

同年のドラフト3位で阪急ブレーブスに入団し、1年目の1966年からレギュラー二塁手となる。チャンスメーカーとして活躍したが[1]、2年目の1967年から山口富士雄が二塁手に回り、激しいポジション争いが長年続く。同年7月30日東京戦(東京)では、2021年現在も日本プロ野球史上唯一の「無補殺三重殺(1人でのトリプルプレー)」を達成しているが、この時の打者は高校の同級生の大塚であった。1967年からのリーグ3連覇、1971年からのリーグ2連覇に貢献し、巨人との5度の日本シリーズに出場。1967年の日本シリーズでは直前に山口が故障したこともあり、全6戦に二塁手として先発したが、18打数2安打と活躍の場は無かった。1968年の日本シリーズは山口と併用され3試合に先発出場、1969年1971年のシリーズとも代打での2試合出場にとどまる。1972年の日本シリーズでは全5試合に先発出場して15打数4安打、10月21日の第1戦(後楽園)では堀内恒夫から先制ソロ本塁打を放つ。1973年には自己最多の127試合出場で初めて規定打席に到達(21位、打率.263)、初の2桁となる10本塁打も放ち、南海とのプレーオフでは敢闘賞を受賞。1974年には2年連続2桁で自己最多の12本塁打を放ったが、プレーオフでロッテに敗退して、課題であるセンターラインの強化として二塁手にボビー・マルカーノ、外野手にバーニー・ウイリアムスを獲得。住友はレギュラーを奪われ、長池徳士は指名打者に回された。阪急黄金時代を築いた名脇役であったが、1975年限りで現役を引退。同年オフの11月8日には「東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦[2]」メンバーに選出され、早大OBの荒川博監督率いる白軍の選手として出場。

指導者・解説者として[編集]

引退後は上田利治監督の名懐刀として、阪急→オリックスで二軍打撃コーチ(1976年 - 1982年[3]・一軍打撃コーチ(1983年 - 1988年[4]・二軍監督(1989年)・ヘッドコーチ(1990年)を務め、当時在籍していたブーマー・ウェルズは「住友さんという素晴らしい打撃コーチがいた。彼はピッチャーがどのように攻めてくるか研究して的確なアドバイスをくれた」と語っている[5]。オリックス退団後は近鉄で一軍打撃・守備走塁コーチ(1991年 - 1993年)、二軍監督(1994年)を務めた。1995年からは上田の監督就任に伴い日本ハムヘッドコーチに就任し、上田の休養に伴い1996年1999年と17試合指揮を執った[6]。1999年退任。日本ハム退団後はテレビ埼玉TVSヒットナイター」解説者(2000年 - 2006年)を経て、2007年にはオリックス・バファローズ二軍「サーパス」監督に就任。2008年5月22日にはテリー・コリンズ監督の退団に伴い、チーフコーチに異動し、2009年まで務めた。

2度目のオリックス退団後は2010年から2015年まで、関メディベースボール学院でコーチ・監督を務めていた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1966 阪急 89 313 280 34 60 10 3 6 94 24 13 5 4 2 22 0 5 58 3 .214 .283 .336 .619
1967 103 240 220 21 45 9 2 4 70 20 7 0 3 2 12 0 3 51 3 .205 .255 .318 .573
1968 79 199 187 28 50 8 3 6 82 17 8 2 1 0 10 0 1 33 2 .267 .308 .439 .747
1969 60 95 85 9 17 0 0 2 23 6 1 1 0 0 9 0 1 13 2 .200 .284 .271 .555
1970 68 167 153 28 45 9 0 6 72 29 18 1 2 2 8 0 2 23 0 .294 .337 .471 .808
1971 74 143 117 20 27 3 2 3 43 15 6 2 4 1 15 2 6 15 1 .231 .348 .368 .716
1972 76 153 138 25 46 9 1 4 69 18 6 4 3 1 11 0 0 18 2 .333 .383 .500 .883
1973 127 558 453 82 119 14 3 10 169 62 21 12 13 4 72 0 15 48 10 .263 .381 .373 .754
1974 121 396 348 37 83 17 3 12 142 37 13 6 2 2 37 1 7 32 8 .239 .324 .408 .732
1975 82 116 97 7 19 2 1 2 29 8 3 2 3 2 12 0 2 13 2 .196 .297 .299 .596
通算:10年 879 2380 2078 291 511 81 18 55 793 236 96 35 35 16 208 3 42 304 33 .246 .327 .382 .709

通算監督成績[編集]

  • 17試合 7勝9敗1分 勝率.438

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 28 (1966年 - 1971年)
  • 24 (1972年 - 1975年)
  • 65 (1976年 - 1990年)
  • 74 (1991年 - 1994年)
  • 82 (1995年 - 1999年)
  • 96 (2007年 - 2009年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P61
  2. ^ 昭和43年~|球場史|明治神宮野球場
  3. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p128-129
  4. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p129
  5. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p77
  6. ^ 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P103

関連項目[編集]

外部リンク[編集]