土井正三
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 兵庫県神戸市 |
生年月日 | 1942年6月28日 |
没年月日 | 2009年9月25日(67歳没) |
身長 体重 |
172 cm 62 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年4月12日 |
最終出場 | 1978年10月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
経歴[編集]
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アマチュア時代[編集]
土井の父親は息子を政治家にしたかったため、「投票用紙に書きやすいように」という理由から、正三という名前が付けられた。育英高校では、遊撃手・3番打者として活躍。2年次の1959年の秋季近畿大会では決勝に進出し、海南高の木原義隆に延長13回の末に完封負けを喫する。3年次の1960年には春の選抜への出場を決めたが、2回戦(初戦)で北海高の佐藤進に抑えられて敗退[1]。同年の夏は県予選決勝に進出するが、明石高に敗れ甲子園には届かなかった。高校同期に井上勝巳がいる。
高校卒業後は立教大学に進学。当時の立大は有力選手の中退が相次ぎ、東京六大学野球リーグでは在学中に優勝はできなかったが、中心打者として活躍。リーグ通算84試合出場、274打数67安打、打率.245、0本塁打。3年次の1963年秋季の明大2回戦では、牽制球で二塁に帰塁する際に、明大の住友平二塁手のスパイクを受けて負傷退場。住友と浪商高校同期の前田周治(立大-立正佼成会-河合楽器)との乱闘事件の引き金となる。4年次の1964年春季では遊撃手としてベストナインに選ばれる。同季の慶大2回戦で渡辺泰輔がリーグ初の完全試合を記録したが、その試合の3番打者であった。同年10月11日には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場。大学同期(いずれも中退)に松本照夫、山口富士雄、森本潔がいた。同年11月20日に読売ジャイアンツと契約し、翌1965年に入団。
現役時代・読売ジャイアンツコーチ時代[編集]
1年目の同年は4月12日の中日戦(後楽園)に8番・遊撃手で初出場を果たし、5回裏に河村保彦から初安打を放つ。最初は広岡達朗の控え遊撃手であったが、途中から二塁を守り、新人ながら105試合に出場。同年の南海との日本シリーズは4試合に出場し、11月3日の第3戦(後楽園)では7回裏に代打2点適時打、11月5日の第5戦(後楽園)は9回裏に杉浦忠からサヨナラ適時打を放ち、2年ぶりの日本一に貢献。当時の巨人は前年の正二塁手であった船田和英が伸び悩み、開幕戦から須藤豊を先発に起用したものの長続きせず、瀧安治・塩原明も含めた定位置争いが続いていたが、これを制して2年目の翌1966年からは正二塁手に定着。初めて規定打席(22位、打率.245)にも達し、リーグ最多犠打39個を記録。
前年から始まった「V9」の主力選手の一人としてチームに貢献し、V9前半(1960年代後半)は主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治や長嶋茂雄へのつなぎ役であった。打撃面では追い込まれたカウントでもファウルで粘ったり、右翼方向を狙うなど、玄人好みの打撃が光った。長打力はなかったが、1967年は打率.289(10位)、1968年は.293(6位)と2年連続で打撃ベストテンに入った。また、犠打などの小技や走塁技術にも優れ、二塁手としても堅実で破綻が少ない守備を見せ、1968年と1969年の2年連続でベストナインのタイトルも獲得。
土井が名声を挙げたのは、1969年の阪急との日本シリーズでの本塁突入の走塁である。10月30日の第4戦(後楽園)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手・岡村浩二から二塁手・山口富士雄を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審の岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。試合後、川上哲治監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日に岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した写真が、各新聞の第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。
V9時代後半(1970年代前半)は7番や8番など下位打者を務め、引き続き正二塁手としてチームを支えた。上田武司や富田勝とのポジション争いも制したが、1974年は遊撃手に河埜和正を抜擢したため、正遊撃手であった黒江透修と共に二塁で併用になる。1975年9月4日の大洋戦(後楽園)で9回裏に山下律夫から三塁内野安打を放ち、通算1000本安打を達成。コーチ兼任となった1976年はデービー・ジョンソンに定位置を譲るが、1977年から1978年にかけては正二塁手に返り咲く。特に1978年は大洋からジョン・シピンが加入するも、シピンは主に外野手として起用される。土井が打率.285、リーグ最多犠打27個を記録し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど活躍。土井自身はこの好成績に年俸アップを考えていたところ、長谷川実雄球団代表から現役引退・コーチ専任の打診を受ける。これは一軍守備・走塁コーチであった黒江透修を解任してその後継に土井を充てるという目的であった。土井は現役続行の意志があった上に、コーチ専任によって収入が半減することもあって抵抗するが、長谷川の説得に折れ、10月12日に現役を引退[2]。
引退後は1979年~1980年まで巨人の一軍守備・走塁コーチを務め、長嶋の監督解任に伴い10月24日退団。1981年~1985年まで日本テレビ野球解説者、1986年から1988年まで再び巨人の一軍守備コーチ、1989年~1990年まで日本テレビ・ラジオ日本野球解説者を務めた。1度目の巨人コーチ時代には、中畑清の代名詞「絶好調」の生みの親となった。
オリックス・ブルーウェーブ監督時代[編集]
1990年9月20日にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任。土井の前に長嶋茂雄に監督要請するが断られ、長嶋が土井を推薦し監督に就任するに至った[3]。山内一弘をヘッド兼打撃コーチ[4]、外木場義郎を二軍投手コーチで[5]招聘。前年のオリックスは「ブルーサンダー打線」と愛称がつけられた打高投低のチームで、ゲーム差なしで優勝を逃していた。阪急西宮球場から両翼が8m近くも広くなるグリーンスタジアム神戸への移転のため、当然本塁打の減少が予測され、打線に従来の破壊力は期待できない一方、投手には有利となる状況であった。監督1年目の1991年は、順位こそAクラスである3位(勝率.504)であったが、開幕直後から負けが込み優勝争いには絡めず、上位の西武や近鉄には大きく負け越した。
1992年にはシーズン前のキャンプで、当時ルーキーであった田口壮など若手の選手に内野守備を指導するため新品のグラブを用意した。田口を開幕スタメンに起用し、また非常に厳しい指導を施したが、結果としては田口は指導が合わず送球イップスにかかってしまい、土井退団後の1994年に外野手にコンバートされた。同年は勝率5割未満(勝率.492)ながらAクラスは維持。1992年オフに阪急時代からの主力松永浩美が阪神野田浩司とトレード。1993年は、移籍してきた野田が最多勝を獲得する活躍などで勝率は.556と上がったが、3年連続3位に終わり、10月7日退任が正式に決まった。
この3年間はすべて前半戦終了時Bクラスからの3位という形でシーズンを終えており、阪急以来のファンからは反感を買い続け、3年間受け入れられることはなかった。契約最終年の1993年はシーズン中、井箟重慶球団代表に「僕は来年も契約してもらえますか?」と聞き、その後は「あんた、オレをクビにするつもりだろう」と何度もカマをかけたが、井箟に最後の最後まで「まだ、決めていない」で通された[6]。
ペナントレース終盤、監督室で井箟に契約を更新をしないと通告され「あんたが決めて、監督を代えるようにオーナーに言ったんだろ!」と悪態をついたが、チーム方針ですでに決定事項だと説明すると、さすがに観念した様子で「わかりました」と言い、井箟によるとわだかまりやしこりは残らなかったという[7]。3度目の巨人コーチ時代には野村貴仁のトレードにも関わり、「長嶋監督が欲しいと言っているので」と井箟に交換トレードを打診して来たという[7]。
オリックス・ブルーウェーブ監督退任後[編集]
オリックスの監督退任後は1994年~1995年まで日本テレビ・ラジオ日本野球解説者を務め、1995年10月18日に古巣・巨人に一軍総合守備コーチとして復帰。
1996年には2年ぶりのリーグ優勝、日本シリーズではオリックスに敗れた。1998年からは一軍内野守備コーチを務めた。長嶋一茂との確執はあったものの、ルーキーの年にサードを守っていた仁志敏久が翌年にセカンドにコンバートした際に熱心な指導をして不動のセカンドに育て上げた[8]。攻撃時は三塁ベースコーチを務めた。10月3日に退団。その後は解説者の傍ら、プロ野球マスターズリーグ「札幌アンビシャス」監督(2006年)、東京スポーツ評論家を務めた[9]。2007年6月8日、巨人軍通算5000勝記念イベントの一環として行われた、V9ユニフォーム復刻シリーズ初日のV9戦士勢揃い始球式に、歩行もおぼつかない車椅子姿で参列した。同イベント終了後、本人が膵臓がんを患い3月に手術を受けたことを公表。入院加療していたが、7月27日に退院。
それ以後は2008年1月のプロ野球マスターズリーグ表彰式に姿を現した以外は自宅療養を続けていたが、2009年9月25日午後0時24分、東京都内の病院にて死去[10][11]。享年67歳。戒名は「専心院法巧日正居士」。 葬儀は9月29日に東京都大田区の池上本門寺で営まれ、約300人の球界関係者などが参列し、車椅子で川上が「君がいなければV9は無かった」と弔辞を約15分間読み上げた。この土井の葬儀が、川上が公の場に姿を表した最後となった[12]。
一般のファンも約300名が外で別れを惜しんだ。土井の闘病の様子は、2009年1月18日[13]に放送された『映像'09「二番・セカンド土井」』(毎日放送)、及び同年3月29日に放送された『報道特集NEXT』(TBSテレビ)にて紹介されており、『報道特集NEXT』における2009 ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦(日本対韓国)の模様を私邸のベッドから起き上がりながらテレビ観戦している映像が、事実上公の場での最後の姿となった。
指導者としての評価[編集]
監督としての特徴[編集]
オリックス監督時代の土井につきまとう評価は「イチローを見出せなかった」というイメージである[14]。もっとも、1993年は高卒2年目の鈴木一朗(当時)を開幕戦にスタメンで起用し、その後しばらく一軍で起用していた。その後、「一軍のベンチに置くくらいなら二軍で4打席を与えたかった」ため、代走で出した試合の牽制球アウトをきっかけに二軍へ落とした[15][16](開幕から二軍落ちまでの打撃成績は12打数1安打)。土井は1996年2月のインタビューで、「間違ったことをしたとは思わない。1993年は春から使ったが打率は1割7~8分そこそこ。順番を付けるとしたら5番目の外野手。僕は3年契約最後の年だったし、そういう選手を使う度量も余裕もなかった」と語っている[15]。また、パンチ佐藤は、イチローが野茂からプロ入り初本塁打を放った翌日に二軍落ちさせられたというエピソードを語っている[17]が、これは誤りであり、その後7試合連続で起用(うち6試合で先発出場)されたが、20打数4安打、打率.200・出塁率.238・長打率.250と結果を残せず二軍落ちというのが真相である。
また、イチローに「振り子打法」をやめるように指示したといわれている。当時の土井はマスコミに対しても「鈴木のあの打法はプロ野球では通用しない」と公言。監督退任後も「あの振り子はイチローにしか出来ない打法であって、本来プロでは通用しない打法である」という主張は曲げておらず、「たとえイチローが4割打とうとも私は彼の打法を認めない」と発言した[18]。なおイチローもメジャーリーグへ移籍後は振り子打法を封印している。一方でイチローが2年連続首位打者に輝いた後の1996年2月のインタビューでは、「入団した年に初めて見た時からイチローはいずれ首位打者をとると確信していたが、ひ弱に感じた。タイトル争いをするとのみ込まれちゃう。一回ガツンと下へ落とせばたくましくなるだろうと思った」「ところが、200本安打の大記録をイチローはあっさりやってのけた。この2年間、『オレのやり方は違っていたのか』と考えさせられたのも事実。今の若い子に精神力なんて関係ないのかな、プレッシャーのない人間もいるんだなと……。結局、僕の方が教えられたな」と語っている[15]。1992年春季キャンプでは、球団社長や宮内義彦オーナーに異例の二軍キャンプ視察を促し、川上哲治がオリックスのキャンプを視察に訪れた際には、土井は新人のイチローを「福本豊の後継者になれる」「15年間はチームのリードオフマンを張れる逸材かもしれない」と評価しつつも、「鈴木の性格には難がある(生意気である)為、その性格が直るまでは(一軍で)使わない」と川上に話していたという[19]。
イチロー入団時のオリックスの外野は高橋智、本西厚博、藤井康雄の主力に、タイゲイニー(1993年入団)、柴原実、山森雅文、佐藤和弘(現:パンチ佐藤)、DHは石嶺和彦という攻・走・守全ての面でメンバーで固められており、当時1・2年目のイチローが入る余地がなかったとも言える[20]。そのような中でも土井はイチローを高卒の新人選手としてはかなり優遇して使っており、1992年には7月以降9番打者や2番打者としてたびたびスタメン出場させたり、1993年の開幕戦にもスタメン出場させたりしている。また、イチローが全国区となった1994年は、石嶺がFAで退団、藤井、タイゲイニー、高橋智の出遅れが重なっていたという事情もあった。
ガンに倒れた後に自身が評論家を務める東京スポーツに、通算3000安打達成の際に寄せたコメントでは、イチローが土井の体調を心配した事について触れていた他、イチローを二軍に落としたのは、あの段階ではまだ充分に体力がついていなかった為とコメントし、後年の活躍でバッシングを受けた際、イチローの父・鈴木宣之から「あの経験があったから現在がある」と慰められた事を紹介した。イチローも「いつも気にかけてくれていた」と証言しており、そうしたイメージを否定している[14]。鈴木宣之は文藝春秋2018年2月号では「オリックスに入団して、一、二年目の監督だった土井正三さんにも感謝しなければなりません。あの二年間は、認めてもらえない悔しさがあり、プロで戦う体力を作っていく時間でもありました。エネルギーを溜めることができたからこそ、三年目で爆発できたのです。一つ一つの出会いが、大きな意味を持つことになりました。」と述べている[21]。
イチローは2003年の時点で土井について度々言及しており、ビートたけしとの対談では「感謝しているんですよ。世間ではふたりの仲は良くないって言われてますけど、そうではないんですよ。土井さんは次の年のために、しっかりと体を作れっていう指示を出してくれていたみたいなんですよ」「その年で土井さんは監督を辞められたわけですけど、もし仰木監督の就任がなかったら、土井さんは僕を使う予定だったらしいんです」と述べ[22]、ファン212人を前にした糸井重里との対談では、「土井監督と僕とは、みなさんが思っているような犬猿の仲じゃないんです」「お会いすればもちろんお話をしますし、本当に感謝しているんです。そこは、誤解しないでくださいね」と語っている[23]。振り子打法を考案した河村健一郎は、「イチローを二軍に落とすよう主張したのは、ダウンスイングに打法改造するよう指示した一軍打撃コーチであり、土井監督は打撃コーチの意見を尊重せざるを得なかったにすぎない」と述べている[24](ここで触れられている「(一軍)打撃コーチ」とは土井がオリックスで監督を務めた3年間、一貫してヘッド兼打撃コーチとして在籍した山内一弘のことである。山内は土井より10歳年上、しかし山内をコーチで呼んだのは土井自身[25])。イチロー自身も同様の証言をしており、実際にイチローの打法に対してしつこく干渉してきたのは、一軍打撃コーチだったという[26]。土井は2001年にピオリアを訪れ、シアトルの記者から「なぜ(イチローを)使わなかったんだ」と質問された際、「当時の打撃コーチが彼(イチロー)のフォームを好きじゃなかったから」と答えている[27]。
オリックスの投手であった星野伸之は、土井について「人柄はソフトで優しいが、野球のことになると、妥協を許さないところがあった」と評している。星野が1安打完封をした日、星野は監督室に呼ばれ、土井から「あのヒットだけどな、配球が違ってたな。ちゃんと投げとけば、ノーヒットノーランだったのに、もったいない」と30分程説教されたという[28]。
野田浩司は、オリックス移籍後2試合目の登板となった近鉄戦で、2回まで4失点で2回で降板と思っていた時、土井から呼び出され、「セ・リーグなら、こんなピッチングをしたら代打だが、パは投手に打席はない。俺は少々のことでは代えない。気持ちを入れ直して次の回からいってみろ。」と言われたという[29]。3回からはペース配分など考えず投げ、4回は得意のフォークボールも落ち、5回には石嶺の3ラン本塁打でチームが逆転し、当時自己最多の15奪三振で移籍後初勝利となった[29]。野田は土井の「俺は簡単に代えないよ」という言葉を意気に感じ、投げ続けたことが同年の最多勝につながったと語っている[29]。
8連敗、借金17、ダントツの最下位に低迷していた、1992年5月21日、本拠地グリーンスタジアム神戸で試合終了後「土井、やめてまえ!」、「おまえなんか、東京へ帰れ!」とオリックスファンの罵声を浴び、「西武に勝てないのは、競り弱いからだ。競り合いに勝つためには、コツコツやることも必要だ。」と言い、それ以外にも罰金制度を導入したり、ことあるごとにV9巨人の手法を持ち込んだ[30]。
土井に批判的な選手もおり、ブーマー・ウェルズは土井について「土井監督が来てからチームは落ちていった。土井監督とうまくやれた選手がいない」と厳しい評価をしている[31]。ブーマーは土井との確執で1991年限りでオリックスを退団した[32]。また、パンチ佐藤も自著「プロ野球・独断毒舌改造論」で土井を「D監督」とイニシャルで書いたり、引退時のインタビューで「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と土井の名を忌避したコメントで述べたりしている。佐藤義則は「選手としては日本シリーズで巨人を破って3連覇を果たしたという自負があるので、V9の野球がすべてと言われてもちょっと待てよと思ってしまう。自分がコーチになっていろんな球団を巡るようになってあの時の経験が生きた。オリックス、阪神、日本ハム、楽天と渡り歩いてきた中で僕は前のチームはこうだったという話はなるべくしないようにしている。自分がコーチになった時に意識したのは前にいたチームのよさを強調されると前からいる人間は面白くないし寂しさを感じる。いい所を見てスタートしなければならない。その意味では土井監督との3年間は無駄ではないと思っている。」と述べている[33]。
藤井康雄は「次の監督の土井正三さんもどんな人なのかわからんし…。期待と不安が入り交じっていました。球団は最初、長嶋茂雄さんにオファーしたんですよ。神戸に移ってスターが欲しかったんだろうと思います。それで長嶋さんが断って土井さんを推薦したんですよ。兵庫・育英出身で、巨人のV9戦士で野球をよく知っているしということで…。なんで巨人なの?って思いましたよ。上田さんの時ってミーティングもキャンプの初めに1回やるだけだったのに土井さんは練習後に毎晩(笑い)。ありえないことでした。中身も「巨人では…」っていう話ばかりで、なんかあったら「ジャイアンツではこうしてきた」。ベテランはもちろん、選手から総スカンでしたよ(笑い)。阪急で育っている選手は阪急のスタイルがあるから「ここはオリックスや!」って。土井さんの巨人話はシーズン中もずっと続いていて、ミーティングじゃなくてもベンチで小言で言ったり、個人的に誰かに言ったり…。コーチも監督が巨人の話ばかりするから大変だったと思いますよ。特に松永浩美さんと土井さんが話しているのなんか見たことない。福良淳一さんは同じ二塁手だったんで守備の話はしていたかもしれません。監督というより守備コーチという感じでしたね。でも…チームに新しいものを取り入れるのって難しいことなのかなって思いますよね。」と述べている [34]。
山沖之彦は「土井監督になってから若手扱いだったのにベテラン扱いにされ、秋季キャンプ呼ばれず、出場機会もなくなった。オリックスの方も阪急の色をなくしたかった。その典型が私です。嫁さん宝塚やし。」[35]と回顧している。
コーチとして[編集]
ウォーレン・クロマティは「ドイは口うるさいのが玉に傷だったが、好感を持っていた。ナイスガイだった」と記している[36]。また、仁志敏久はセカンドとしての守備のあり方を指し示してくれた恩人として、土井をコーチとして高く評価し、感謝の意を表している[8]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965 | 巨人 | 105 | 302 | 269 | 25 | 67 | 4 | 2 | 0 | 75 | 19 | 15 | 5 | 10 | 1 | 20 | 1 | 2 | 26 | 5 | .249 | .305 | .279 | .584 |
1966 | 129 | 480 | 420 | 67 | 103 | 10 | 1 | 5 | 130 | 39 | 14 | 12 | 25 | 2 | 29 | 0 | 4 | 32 | 1 | .245 | .299 | .310 | .609 | |
1967 | 131 | 517 | 454 | 71 | 131 | 18 | 5 | 9 | 186 | 34 | 19 | 8 | 22 | 1 | 39 | 0 | 1 | 43 | 4 | .289 | .345 | .410 | .755 | |
1968 | 124 | 516 | 464 | 68 | 136 | 18 | 5 | 3 | 173 | 47 | 21 | 4 | 14 | 6 | 29 | 0 | 3 | 43 | 10 | .293 | .334 | .373 | .707 | |
1969 | 129 | 490 | 429 | 66 | 116 | 12 | 3 | 6 | 152 | 42 | 10 | 7 | 19 | 2 | 33 | 0 | 7 | 45 | 6 | .270 | .331 | .354 | .685 | |
1970 | 113 | 418 | 375 | 50 | 94 | 11 | 1 | 5 | 122 | 19 | 10 | 3 | 15 | 4 | 24 | 2 | 0 | 39 | 3 | .251 | .293 | .325 | .618 | |
1971 | 108 | 300 | 252 | 21 | 56 | 9 | 5 | 3 | 84 | 21 | 14 | 6 | 18 | 1 | 27 | 0 | 2 | 13 | 8 | .222 | .301 | .333 | .634 | |
1972 | 123 | 456 | 393 | 50 | 106 | 10 | 2 | 8 | 144 | 37 | 9 | 6 | 19 | 1 | 37 | 1 | 6 | 24 | 14 | .270 | .341 | .366 | .707 | |
1973 | 105 | 355 | 305 | 34 | 80 | 13 | 0 | 5 | 108 | 31 | 1 | 5 | 17 | 1 | 29 | 1 | 3 | 36 | 8 | .262 | .331 | .354 | .685 | |
1974 | 94 | 162 | 145 | 13 | 27 | 6 | 0 | 0 | 33 | 12 | 4 | 0 | 7 | 1 | 8 | 0 | 1 | 11 | 4 | .186 | .232 | .228 | .460 | |
1975 | 111 | 442 | 406 | 37 | 107 | 9 | 2 | 7 | 141 | 27 | 4 | 4 | 24 | 0 | 11 | 0 | 1 | 25 | 12 | .264 | .285 | .347 | .632 | |
1976 | 89 | 255 | 231 | 25 | 58 | 9 | 4 | 2 | 81 | 20 | 4 | 1 | 8 | 3 | 10 | 0 | 3 | 22 | 5 | .251 | .287 | .351 | .638 | |
1977 | 115 | 374 | 334 | 34 | 87 | 19 | 1 | 8 | 132 | 49 | 6 | 1 | 17 | 5 | 17 | 1 | 1 | 16 | 3 | .260 | .286 | .395 | .681 | |
1978 | 110 | 435 | 376 | 46 | 107 | 11 | 1 | 4 | 132 | 28 | 4 | 3 | 27 | 2 | 27 | 2 | 3 | 18 | 7 | .285 | .336 | .351 | .687 | |
通算:14年 | 1586 | 5502 | 4853 | 607 | 1275 | 159 | 32 | 65 | 1693 | 425 | 135 | 65 | 242 | 30 | 340 | 8 | 37 | 393 | 90 | .263 | .314 | .349 | .663 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績[編集]
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | 平成3年 | オリックス | 3位 | 130 | 64 | 63 | 3 | .504 | 18.5 | 127 | .261 | 3.90 | 49歳 |
1992年 | 平成4年 | 3位 | 130 | 61 | 64 | 5 | .488 | 18.0 | 88 | .272 | 3.58 | 50歳 | |
1993年 | 平成5年 | 3位 | 130 | 70 | 56 | 4 | .556 | 3.5 | 125 | .253 | 3.24 | 51歳 | |
通算:3年 | 390 | 195 | 183 | 12 | .516 | Aクラス:3回 |
表彰[編集]
- ベストナイン:2回 (二塁手部門:1968年、1969年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (二塁手部門:1978年)
記録[編集]
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1965年4月12日、対中日ドラゴンズ3回戦(後楽園球場)、8番・遊撃手で先発出場
- 初安打:同上、5回裏に河村保彦から
- 初打点:同上、7回裏に水谷寿伸から左前適時打
- 初本塁打:1966年5月19日、対大洋ホエールズ8回戦(後楽園球場)、8回裏に新治伸治から左越ソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:1973年6月17日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、6回表に島野修の代打で出場 ※史上165人目
- 1000安打:1975年9月4日、対大洋ホエールズ22回戦(後楽園球場)、9回裏に山下律夫から三塁内野安打 ※史上93人目
- 1500試合出場:1978年5月12日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤ球場)、2番・二塁手で先発出場 ※史上56人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:4回 (1967年 - 1969年、1973年)
背番号[編集]
- 6 (1965年 - 1978年)
- 66 (1979年 - 1980年)
- 72 (1986年 - 1988年)
- 75 (1991年 - 1993年)
- 71 (1996年 - 1998年)
関連情報[編集]
出演番組[編集]
- Fun!BASEBALL!! - 出演していた、日本テレビのプロ野球中継の現行タイトル。
- ラジオ日本ジャイアンツナイター
CM[編集]
- カメラのドイ(現役引退後、評論家時代)
参考文献等[編集]
『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 - p.50 「高い走塁技術から"忍者"と呼ばれ、阪急と対戦した69年の日本シリーズ第4戦における本塁突入シーンなどが、ファンの記憶に残っている」と評している。
脚注[編集]
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 近藤唯之 『引退 そのドラマ』新潮社(新潮文庫)、1986年、122-124頁
- ^ 【パンチ佐藤】イチロー選手から仰木監督まで…裏話炸裂! 2015年03月21日
- ^ 「とにかく石頭だった」という山内一弘監督 週刊ベースボール、2015年6月13日(土) 8:00
- ^ 野村貴仁著、再生、角川書店、2016年、P74
- ^ 井箟重慶、オリックス元代表 球界への遺言、土井監督は何度もカマを、2017年6月21日、日刊ゲンダイ
- ^ a b 井箟重慶、オリックス元代表 球界への遺言、就任内諾の仰木彬監督が大慌てでNYに電話してきたワケ 2017年6月22日、日刊ゲンダイ
- ^ a b 仁志敏久著『プロフェッショナル』
- ^ ハダカの長嶋巨人(23) 2016年03月07日
- ^ “V9戦士 土井正三氏、巨人3連覇見届け死去”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年9月26日) 2009年9月26日閲覧。
- ^ “土井正三さん:死去67歳 巨人のV9支える”. 毎日新聞. (2009年9月25日) 2009年9月25日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 川上哲治氏死す 打撃の神様、巨人V9監督 大往生93歳 スポーツニッポン 2013年10月31日閲覧
- ^ 西村麻子アナウンサーのブログ「あさやんな毎日」2009年1月16日付記事より。
- ^ a b “才能見いだせなかった?イチロー「そうじゃないのにねえ…」”. 共同通信. スポーツニッポン. (2009年9月26日) 2016年4月1日閲覧。
“自分のこと気にしてくれた 土井氏の死去にイチロー”. 共同通信. デイリースポーツ. (2009年9月26日). オリジナルの2009年9月30日時点におけるアーカイブ。 2016年4月1日閲覧。 - ^ a b c 【じっくりとっくり】土井正三(巨人コーチ) イチローには教えられたかな 毎日新聞(1996年2月11日)
- ^ 元巨人・土井正三氏、死去 ~V9巨人の絆とイチロー秘話~
- ^ パンチ佐藤 変わり果てた元同僚・野村貴仁氏は「野球バカ」│NEWSポストセブン
- ^ 栗山英樹 監修『言葉の魔球 野球名言集』出版芸術社 95ページ
- ^ 2009年3月28日TBS報道特集内の川上による証言。
- ^ 前出のインタビュー記事(毎日新聞1996年2月11日付)では当時のイチローは「5番目の外野手」であったと評価している。
- ^ 文藝春秋2018年二月号、平成6年 イチロー「勝負の年」の二百本安打、鈴木宣之 イチローの父、251頁
- ^ 『イチロー 北野武 キャッチボール』(2003年)
- ^ 『イチローに糸井重里が聞く キャッチボール ICHIRO meets you』(2003年)
- ^ 東京スポーツ2010年11月2日「イチロー700日戦争」第12回 河村健一郎
- ^ 「とにかく石頭だった」という山内一弘監督 週刊ベースボール、2015年6月13日(土) 8:00
- ^ GYAO!のイチローインタビュー動画「イチローの第1歩」(2010年3月)
- ^ スポニチアネックス
- ^ 星野伸之『真っ向勝負のスローカーブ』新潮社
- ^ a b c 初めて明かす 僕とフォークと奪三振・野田浩司(元阪神・オリックス) - 日刊ゲンダイ2011年9月22日付
- ^ テリー伊藤著、お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝、P124-125,土井正三、V9ブランドに憑依された哀しみの「黒子」監督、光文社,2004年
- ^ 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
- ^ 『週刊プロ野球データファイル』2013年98号、ベースボール・マガジン社、2013年、P10
- ^ 永谷脩著、超一流の育て方 (中経の文庫)KADOKAWA/中経出版)、2013年、P198-P201
- ^ 【藤井康雄連載コラム】長嶋さんが新監督の話を断って土井さんに…東京スポーツ、2020年10月23日
- ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編] (週刊ベースボール別冊初冬号)ベースボール・マガジン社、2020年、67頁
- ^ ウォーレン・クロマティ著『さらばサムライ野球』
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
ウィキニュースに関連記事があります。訃報 土井正三氏 - 巨人軍9連覇時代の名二塁手
- 個人年度別成績 土井正三 - NPB.jp 日本野球機構
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